人は旅で変われるか

人は旅で変われるのか。
旅に出て、何かを掴んだつもりで、あるいは自分は変わったつもりで、日本に帰ったはいいが、その後の生活がうまくいかないバックパッカーは多い。
結局好きでもない仕事を続け、再び次の旅を考える。
そして日本での旅の資金を作る仕事と、海外への旅とを繰り返し、年齢だけを重ねて行く人も少なくない。
そうなふうに旅にはまって抜け出せない人がいる。

それがいいとか悪いとか言う気はない。
ただ『人は旅で変われるか』と聞かれたら、私の答えは『NO』だ。
ガイドブックがほとんどの外国を網羅し、ネットで情報があふれ、決して冒険とはいえなくなってしまった現代の旅で、そんな簡単に人は変われないだろう。
いや正確にいえば、『旅だけでは人は変われない』と答えるかもしれない。

これから書く文章は旅とその結果としての変化を、自分自身の体験から考えたものであり、他のエッセイについてもいえることだが、これを読んだ人に同じ考えを持ってほしいというつもりは全くない。
10人いれば10通りの考えがあって当然と思っているので、批判があって当然だと思う。
ただ、一人のバックパッカーのつぶやきくらいに思って読んでもらえるとありがたい。

私は元々人生の中の大きな変化に弱い。
その度に、その先にあるものに期待するよりは、不安のほうが大きくなってしまう方だ。
小、中学校のクラス替えだって、高校の進学だって友達だできるか不安だったし、大学だってまだ社会に出て働く自信がなくて進学したともいえる。
どちらかといえば消極的だといえる。
旅にしてもそうだった。
日本国内だって、たくさん旅行したわけではなかったし、まして海外の一人旅なんて考えたこともなかった。
その時までは。

初めて海外に、しかも一人で旅に出たのは大学を休学した22歳のときだった。
当時付き合って、1年ほどたつ彼女がいて、一人暮らしだった彼女の部屋に入り浸り、授業はどれも出席日数ぎりぎりで、何故だか入部してしまった空手道部の練習だけは精を出し、夜はバイトに励む毎日だった。
空手道部だったことを除けば、どこにでもいるごくありふれた普通の学生だった。
そしてこれもありふれた話だが、もう紅葉が散り始めた大学3年の秋、突然彼女にふられてしまった。
人並みに落ち込んだのを覚えている。
そしてその後の私の行動はありふれているものではなかった。

私は彼女との結婚を考えていて、就職も仕事のやりがい云々よりは、結婚生活のための手段くらいにしか考えていなかった。
もう大学3年の秋ともなると、ちらほら学内での就職セミナーなどが開かれていたが、失恋を期にその一切に出なくなった。
結婚ができないのなら、就職も私にとって意味がなくなってしまったからだ。

そして、それまでの学生生活はそれなりに充実したものと感じていたが、『何か』をやってみたいと思いはじめた。
私の所属する学部は国際学部だったので、ホームスティや留学は、なんだかみんなやっていてありふれていたし、もっと他と違う何かがよかった。
それで頭に浮かんだのが海外の旅だった。
何故それが旅だったのかは、今をもってわからない。
とにかく、ぬるま湯みたいな日本の生活かれ離れたかった。
旅に出ることで、過去の自分と決別できるかもしれないと思った。
もしかしたら空手道部の二つ上の先輩が、休学してヨーロッパを旅していたのに影響されたのかもしれない。
しかし私の行き先は迷わずアジアだった。

旅を決意してからは真面目に授業に出て、なるべく多くの単位を取った。
そして大学3年が終わり空手道部も引退し、1年間の休学届けを出した。
一人暮らしで旅の資金などまるでなかった私は、その後の半年間、ガラス工場の50℃以上の気温の中、文字通り汗水流して働いて旅の資金を貯めた。

当時バックパッカーという言葉も、今ほど市民権を得てなく、両親も私の行動を不思議に思っただろうけど、反対も賛成もせず何も言わなかったことに今でも感謝している。
私自身、トラベラーズチェックの意味もわからなかったし、国によってビザが必要だということも初めて知った。
とにかくわけのわからないまま、沖縄から台湾行のフェリーに乗ったのは、旅を決めてからすでに1年がたっていた。
その後半年でアジア8ヶ国をまわり、今思えば忙しい旅だった。
そのときもインドのバラナシに来た。
初めて見るインド。
そしてバラナシは衝撃そのものだった。
人がガンガー沐浴し、そのすぐ横で火葬が行われている。
その光景は感動とも畏怖とも違った、その二つが混ざり合ったような感覚が自分につきささった。

そのとき一緒にいた友人が
『ここへ来て、この光景を見て、人生観が変わらない人なんていないよ』
と言ったのを覚えている。
その時私もそう思った。
アジアへ来て、インドに来て、自分は変わったと。
言葉にはできないけど、何かを掴めたのではないかと。
じゃあどう変わったのか説明しろ言われても無理だったが、私は自分の変化に期待した。

でも実際は帰国してみて、私はちっとも変わってなかったことに気づかされた。
あの時の私は具体的な知識や経験もないまま、ただ漠然と大きなことがしたい、社会を動かすこうやことがしたいと思っていた。
旅で掴んだ何かが、そこで生かされると思っていた。
今思うと、ただの若気の至りだが本気だった。
そしてマスコミを中心に就職活動したが、まさに木っ端微塵に砕かれた。
何かを掴んだ気になってもそんなのは、あくまで自分のなかでの話だった。
第三者から見れば、やはりありふれた大学生だったことに変わりはなかった。
就職活動をしたって、旅の経験なんて役に立つはずもないし、逆に半年間遊んでいたくらいにしか取られなかった。
たまに熱心に旅の経験を聞いてくれる面接官はいても、それと採用とは関係なかった。
変わったことといえば、それはそれで大切だとは思うが、どこでも生きていける自信がついたくらいだった。

旅は、自分のなかでいろいろな変化が生まれるかもしれない。
しかし他者からの評価となるとまるで変わらない。
留学などと違って、目に見える能力がつくわけではない。
『私は旅で変わった』なんて口では誰でも言えることで、それだけなら誰でもできる。
人は内面が変わったとしても、自分の生活を変えるのは難しい。
変わった自分に基づいて行動し、努力を積み重ね、初めて変わったと言えるのでないかと感じた。
人が変わるのは一朝一夕ではいかない。

その後就職も決まらないまま卒業して、しばらくは写真屋でバイトしていたが、運良く幼いときからの夢だった新聞社に就職することができた。
小さい教育関係の業界紙だったが、
『いつか社会に何かを問い掛ける仕事をしてやる。まずは技術と経験を身につけなければ。』
と大真面目に思っていた。
しかし発行部数500部を20万部と偽って、新聞広告を集める営業は8ヶ月しかもたなかった。
多少記事を書かせてもらったり、写真を撮ったり、プレスカードを持って、文部省や環境庁に出入りするのも、新鮮な経験だったが、休みもろくに取れず、徹夜も多く、給料も少なく、私は挫折した。

そしていくつかの偶然が重なり障害者福祉の仕事に就いて、4年間情熱を燃やした。

こんな風に書くと仕事人間と思うかもしれないが、実際そうだったと思う。
どんなに忙しくても苦にならなかったと言えば嘘になるが、やりがいがあった。
そして旅で培った死生観はこの仕事で役たったし、自分の原動力にもなった。
慣れない仕事で失敗も多かったが、いろいろな人の協力もあり充実した4年間だった。
しかし私は再び生活に変化を求めてしまった。

『あの旅の続きがしたい』
今回の旅の理由を誰に聞かれたって、それ以上は答えられない。
それが正直な気持ちだった。

初めてバラナシに来てから7年の月日が流れていた。
ガンガーに立つと、この街は変わっていない。
物売りのしつこさも、妙な日本語を話すインド人も、チャイの甘さも、沐浴の美しさも、ガンガーの汚さも・・・・

ただ私は変わった。
変わったと実感できた。
以前の旅で生まれた私の中の変化があり、自問自答し試行錯誤して、いくつかの仕事を経験し、日本での生活があって、やっと本当に変われたのかもしれないと思うことができた。
とはいってもじゃあどう変わったのか説明しろと言われれば、やっぱりうまく説明できない。
人の変化なんてそんなものかもしれない。
あやふやで曖昧で、形なんてない。
だから、変わるのは難しくても、変わったつもりになるのは簡単なのだろう。

旅で人が変わることはパズルみたいなもんだと思う。
いろんな場所に行き、いろんなものを見て、いろんな経験し、時に今までの価値観を覆され、新しい価値観を発見し、死生観を問われ、人生観を試されながら、パズルのパーツを集めていく。
それがたくさん集まって、あーでもないこーでもないと組み立てて、やっと一つの絵が完成する。
一つの絵ができるまでのきっと何年もかかるだろう。

私は旅で何も求めないことにしている。
人が変わるのが容易でないことを思い知らされたからだ。
ただ、パズルのパーツだけは、やっぱり持ち帰りたい。
そのパズルが完成するのは、さらに何年も後のことだろうけども・・・・

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください