季節外れで申し訳ないのだが、螢の話。
蚊帳と螢。
先日ある一枚の日本画をみた。
明治生まれの女流作家によるもので、和服姿の女の人が蚊帳を吊っている。
彼女は蚊帳を吊りながら足下のほうに視線を落とし、その視線の先には一匹の螢が淡く光りながら舞っていた。
涼し気に着崩した和服姿の女性と蚊帳の質感は、うっすらと暑気の抜けた夏の夕暮れを思い起こさせるとともに、ある光景がぼくの脳裏に鮮烈に思い出された。
ぼくはまさにこんな光景を目にしていたのだった。
プリーという、インドのカルカッタから南へ電車で半日程の距離にある
小さな漁村でのことだった。
その村は本当に小さな村で、海沿いに漁師の集落がぽつぽつと点在し、古びた木製の漁船が浜辺のそこいらに放置されているような閑散としたところだ。
だが、南インドののんびりした雰囲気が味わえるためか、旅行者もよく訪れるし長居する人も多い。
実際それこそ時間が止まっているかのように毎日に変化というものが乏しく、あるのは南国の太陽と、ヤシの木と、灰色のさびれた砂浜だけだ。
おそらく何十年昔も大して変わりはなかっただろうし、この先の何十年も多分このままなんだろう。
ずっといたら頭がふやけてしまいそうだ。 本当の田舎がここにある。
でもそんな田舎の安宿にはそれなりに趣があって、木造二階建てで日光をさえぎった室内からは
さらさらと風になびくヤシの葉音が涼し気に聞こえ、それらは太陽光線によってキラキラと緑色に輝く。
そしてベッドには蚊帳が吊られている。
夜になるとその蚊帳を下ろして、遠くさざ波を静かに聞きながら眠りにつくのだ。
蚊帳の中というのは個人的な、自分だけの特別な空間のような、何だか贅沢な、ちょっと不思議な感覚がある。
そんな自分だけの城でいつものように眠ろうかと思ってふと気がつくと、暗闇の中に螢がとんでいた。
あっ、と思ってまわりを見回すと、3,4匹空中に舞っている。
するとそのうちの一匹が、ぼくの城の片隅に停泊した。
淡く緑にゆっくりと螢光している。
窓からさらさらと吹き込む涼しい夜風にかすかに吹かれながら、うっすらと聞こえてくるさざ波を耳に、自分だけの特別な空間で、宙を舞う淡い緑の明滅を、夢か幻のような心持ちでうっとりと眺めている。
そんなのは初めてだった。 初めての経験だった。
テクノロジーの発達した、現代、と呼ばれる近代社会で育ったぼくは、そんなの知らなかった。
アスファルトやコンクリートは利便性やスピードといったものと引き換えに、当たり前のようにそこらに転がっていた、風流なできごとを失った。
ただそれらのできごとは、昔話として心象風景に成り変わって、ぼくの心に何となく残ってはいたのだが・・・
だからその光景を目にしたとき、ぼくは、何だか懐かしくて切ない気持ちになったし、自分の子供のころのことを考えた。
そして美術館でみた一枚の絵によってこれを書くに至った。
きっと、あの女の人はぼくの体験したような風流なできごとを、それこそ毎日、当たり前のように目にし、体験していたんだろうな、と思うと、なんて優雅な世界に生きているんだろう、と思わずにはいられない。
驚きすらおぼえる。
テクノロジーにそういった風流は生みだせない。
忘れちゃいけないな、と思う。
たとえ近代社会の中で、それらのできごとは淘汰されていく宿命にあったとしても、昔の人が持っていたような感性や風景は、何らかの形で残していかないといけないと思う。
もしそれらが失われてしまったら、味気のない、カスカスした、面白味の何もない人間が、大量に生産されていくだけだろう。
重要なのは、いわゆる人間味というやつだ。
人間にとって、夜、遠くから聞こえるさざ波や、蚊帳の中から見る螢の飛翔する風景は、宝物なんだと思うけど、どうだろう。
そしてぼくが一枚の絵を見てこんなふうに感じたように、それらを知らない誰かに伝えることこそが、芸術の役割なのではなかろうか。
そんな風に思う。
蚊帳と螢から、とりとめもなく考えた色々なこと。