「一ノ瀬さん、あの、自分、もう一つ思うことがあるんすけど……」
「えっ、何?」
智がそう聞き返すと、安岡はためらいがちにこう答えた。
「それは、欠けたものはもう戻らない、ってことなんすよ……」
安岡のその言葉を聞いたとき、智は少し胸騒ぎがするのを感じた。
「欠けたものは、戻らない……?」
「ええ。例えば、自分や智さんは大切な友達を失った訳じゃないですか。それっていうのは、心のどこかが欠けている状態だと思うんっすよ。胸の中にぽっかりと穴が開いているというか……。そういう人達って自分も含めてみんななんすけど、無意識の内にその穴を埋めようとしてると思うんっすよね」
智は、自分でも気が付かない内に身を乗り出しながらその話を聞いていた。
「でも自分は、いくらそれを埋めようとしたってその欠けたものって言うのは、決して埋まらないと思うんっす。多分、死ぬまでそのままなんじゃないかと……」
智は、何故だか良く分からないが、安岡のその言葉に今まで味わったことのないような感動を受けた。それは、智の知らない、静かで穏やかな衝撃だった。その言葉は、まさに智の心の核を突いたのだ。突かれたそのものは、ずっと智の胸の中で言葉に変わることなく沈澱し続けていた鉛のような思いだった。それを安岡は、容易く言葉に変換し、智の深い心の底から明るい表の世界へと引っ張りだしてくれたのだ。
――― そうだ、もう戻らないのだ。欠けてしまったものは、永遠に戻りはしないのだ ―――
欠落した智の心は、安岡の言うように、何とかしてその穴を埋めようと必死にあがき続けてきた。しかし、それは決して元の形には戻らない。それを智は、自分に力が足りないせいだとして無意識の内に自分で自分を責め続けてきたのだ。そのことを、今、安岡の言葉によって智は強烈に理解した。そして「戻らない」という一見、救いのないようなその一言が、他の何万語にも勝る救いの言葉として、智の胸に染み渡った。
――― 一度欠けたものは、もう、元の形に戻ることはない……。間違っていない、俺は間違ってはいない。戻らなくたっていいのだ。必死に元に戻そうとしてもどうしても戻らずに、俺は焦ってばかりいたが、焦る必要などないのだ。俺は間違ってはいない。元に戻す必要など無いんだ。その欠落を、欠落として、受け入れることこそが重要なんだ ―――
放心したように智は安岡の顔を見つめていた。安岡は、智の機嫌を損ねてしまったのだろうか、と、心配そうに智を見返した。しかし智は、安岡のそんな思いとは裏腹に、安岡の方に近づいていって両手でそっと彼の手を握りしめた。
「ありがとう、安岡君。その言葉こそ俺がずっと探し続けていた言葉なのかも知れない。
何だか胸のつかえがスッと取れたような気がするよ。安岡君のおかげだ。ありがとう」智にそう言われた安岡は、ホッとしたように表情が和らいだ。智は、インドを出る直前に安岡のような男に出会えたことをとても嬉しく思った。そして明日、インドを出発しようと思った。何となく今晩の安岡の話が、インドを出発しようとしている自分へのはなむけのように感じられたからだ。
インド最後のこの夜に、智達は、チラムを使ってチャラスを回した。智は、谷部に貰ったこのチラムをどうしても安岡に渡したくて、最後に一緒にキメたかったのだ。そして二人とも、かなりの量をチラムで吸ってそのまま眠ってしまった。