宿に帰ると、パキスタンから渡って来た一人の日本人旅行者がチェックインしていた。
国境を越えて、初めて訪れるインドに入国したばかりなので、彼は少々興奮しているようだった。智の発するどんな言葉にも常に過剰な反応を示していた。
「そうなんっすよ! 国境ではかなり入念に荷物チェックを受けて、入国までに随分時間がかかったっす!」
安岡というその青年は、流れる汗をタオルで拭き拭き興奮気味にそう言った。
「そっかあ。そんなに厳しいのかあ、パキスタンの国境は……。何か持ってたらヤバイかな?」
「えっ、何かって……。ひょっとして一ノ瀬さん、ドラッグとか持ってるっすか?」
智は、安岡には「一ノ瀬」と名字で自己紹介していた。サトシ、と名前を言わなかったのに他意はなく、ただ、安岡が、安岡です、と先に名字で自己紹介してきたからに過ぎない。
「いや、持ってるって言っても、チャラスぐらいだよ」
智は安岡に嘘をついた。もしヘロインだとか、LSDだとか、安岡にそんなことを言おうものなら、途端に収拾が付かなくなりそうだったからだ。
「チャラスって、何すか?」
智は、安岡のその単純な問いかけに、飲んでいたチャイを思わず吹き出しそうになった。しかし、考えてみればそれが普通なのだ。殆どの一般の人達は、「チャラス」などという特殊な単語とは関わり合いを持たずに一生を終える。むしろ知っている人達の方が断然少ないのだ。智は、気を取り直して安岡のその問いに答えた。
「チャラスっていうのは、言ってみたら…ううん、あっハッシッシみたいなものだよ。もっと簡単に言えば、マリファナね」
「ええっ! 一ノ瀬さん、マリファナ持ってるっすか!」
安岡のその驚きように、智の方が驚かされた。仮にもヨーロッパからインドまでユーラシア大陸を横断して来た、いっぱしの旅人である安岡が、まさかマリファナごときでこれ程驚こうとは思っても見なかったからだ。
「ひょっとして、安岡君、マリファナも吸ったことないの?」
「ないっすよ! でも俺、ずっとやってみたいって思ってたっす! 一ノ瀬さん、俺に是非マリファナをやらせて下さい!」
安岡は、目を爛々と輝かせながら、汗まみれの顔を智の目の前に突き出して来た。
「分かった、分かったから、ちょっと落ち着きなよ」
安岡のその勢いにたじろぎながら、興奮し過ぎて鼻息がヒューヒュー言っている安岡を智は何とかなだめようとした。
「じゃあ、じゃあ、いいっすか、いいっすか!?」
安岡は、そう呟きながら智に抱きつかんばかりの勢いで近づいてくるので、智は、いいよ、いいよ、やらせてあげるから、お願いだから落ち着いて!、と、とうとう叫び声を上げてしまった。