シーク教の歴史について全く無知だった智は、シーク教徒に対するそんな迫害があったことなど当然知らなかった。それで、写真に添えられていた英語表記の説明文を読んでみるとどうやらそれは、かつての宗主国であったイギリスが彼らに対する反対運動を起こしたシーク教徒達に行った武力弾圧だったらしい。無抵抗、非武装だった市民に対し、一斉機銃掃射を敢行したという。しかも直接手を下したのは英国人ではなく、同じくイギリスの支配下にあったネパール人だということだ。長年の植民地支配に長けたイギリスという国は、そういった虐殺を行うとき、被支配民の怒りの鉾先を自分達から逸らすため、彼らに敵対している民族や、或いは全く無関係の第三国の人間を直接的な執行者として利用する。
智は、その文章を読んでやり切れない気持ちになった。人間の心の深部に渦巻いている憎悪や怒り、また、この世のものとは思えない程の悪魔的な残虐性、一体なぜ、人間はそんな感情を持っているのだろう。いくら穏やかでにこやかな人間でも、必ずそれらの狂暴性はどこかに秘められており、ほんの少し心のある部分を刺激するだけでいとも簡単に表出してくる。憎悪が憎悪を呼び、怨念は留まる所を知らず、怒りの炎は決して燃え尽きない。全く地獄のような有り様だ。インドには、世界的に有名な様々な聖人がいた。近い時代では、マザーテレサやガンジーといった、インドの優れた精神性を基盤に人生を正しく歩んだ人達がいる。彼らの魂には、それらのネガティブな感情は存在しなかったのだろうか? 智は、彼らのことを考えるとき、いつもそれが不思議でならなかった。目の前の残酷な写真達が示している現実は、単純なリアリティを持って醜い人間の性を、これでもかこれでもか、と言わんばかりに証明している。智は、そのことは簡単に納得することができた。自分の中に蛇のように巣食っている、残忍で卑劣な心の闇を少し覗いてみればいいだけのことだ。しかし、聖人と呼ばれる彼らのような「非人間性」を、智は、どうしても信じることができなかったのだ。そう、智は、彼らのような清い精神を「非人間性」と解釈していたのだ。虐殺する、憎しみに満ちた英国人達の心境は理解できても、どんなに卑劣で残酷な暴力を被ろうと、決して反撃せず、しかも、それに屈しない、ガンジーのような人間の心境は、とても智の理解の及ぶ所ではなかった。そんな非人間的に強靭な精神を、一体どうすれば獲得することができるのだろう? 智は、目の前に立ちふさがる巨大な灰色の壁の様なものに直面し、真っ暗な絶望を覚えずにはいられなかった。
――― 俺は、一生、卑小な心のまま人生を終えていくに違いない。決して怒りや憎しみといった感情から解放されることはないだろう…… ―――
智の目には、涙が光っていた。シーク教徒の被ったこれらの残酷な歴史の示された写真の前で涙しているそんな自分に、周りにいる誰かがもし気が付いたなら、きっと何て心優しい青年なんだろう、と思われたことだろう、智は、そんな風に想像し自嘲気味に微笑みながらひっそりと涙を拭った。
いつも読ませていただいています。
最近更新が無いようですが休載でしょうか?
また続きを読める日を楽しみにしています!
てっきり終わったと思ってました。
楽しみにしてます。