その言葉通り、何も問題はない、という風にババはゆっくりと首を左右に振った。それを見て智は呆れて肩をすくめた。インド人というものが智にとってますます不可解なものに思えてきた。果たして宗教とはそんなにいい加減でいいものなのだろうか?
岳志は、にやにや笑いながら二人のやりとりを見ていた。そしてババから吸い終わったチラムを受け取ると先端から灰を取り出し、細長い布をチラムの穴に通して掃除を始める。透明なクリスタルはヤニで茶色く染まっていた。それを布で擦って取り除くのだ。毎回その作業をしないと、すぐにヤニがこびり付いて取れなくなってしまうらしい。
チラムを回すのは日本でいう所の茶道のようなもので、客人に振る舞うのだからなるべくきれいな状態で渡すのが礼儀となっているようだ。礼儀正しいババになればなる程、その立ち居振る舞いは、凛然としたものとなり美しい。
岳志がチラムを掃除している間に、智は再びジョイントを巻き始める。ババは、さっきと同じように何もかも見透かすような半眼で智のその様子をじっと見つめていたが、智は、もうその眼に騙されはしなかった。しかし全く悪びれる様子のかけらもないババを見ていると、思わず笑いが込み上げてきた。ババのその表情に愛嬌すら感じられた。何故だか分からないが、智は、堪らなくババを愛おしく思った。
智は、ジョイントを巻き終えるとそれに火をつけて右手でババに手渡した。渡すときに、ババに敬意を表してそっと左手を添えた。ババは、うむ、と無言で頷いて、同じように右手に左手を添えながらそれを受け取った。これは、以前、ヴァシストの温泉で何人かのサドゥーと輪になってボンをしたときに智が覚えた作法だった。その時のババ達は、三本ぐらいのチラムを次から次へと自分の右側へきれいに左手を添えて回していた。チラムを回す時は、インドでいう不浄の左手は使わないのが礼儀だ。
ババは、再びジョイントの煙を大きく吸い込んだ。そして生やしている髭を掻き分けるぐらいの勢いで強く、煙を吐き出した。隣にいた岳志は、それを避けるように思わず身を反らせた。
そうやって何度もチラムやジョイントを回すうちにすっかり夜が更け、岳志と智はフラフラになりながら宿に帰った。夜空には満天の星がきらめき、暗闇には川の流れる音が、辺りの静けさには似つかわしくない程大きな音量で響いている。
「しかし、今日は長い一日でしたね」
橋を渡りながら智が言った。
「ああ、何だかな。変なババは現れるし、おかしな一日だったよ。全く」
「あのババ、明日もまた来ますかね?」
「来るだろうよ。だって、明日は酒を用意しといてくれってアナンに言ってたぜ」
「えっ、あのババ酒まで飲むんですか? シーク教徒って酒も煙草もだめな筈でしょう? 大体、インド人で酒を飲む人自体あんまりいないじゃないですか」
「何かね、この辺りで有名な”ウナ・ナンバーワン”っていうお酒があって、たまにアナンの店で出すんだよ。ウィスキーに色だけ似せた怪し気な酒なんだけど、結構人気なんだ。この辺の人はお酒もなかなか好きみたいだよ」
「そうなんだ……。マナリーに着いた時から思ってましたけど、何かこの辺りの町や人ってあんまりインドっぽくないですよね」
「インドっぽいって言っても色々あるだろうけど、まあ、いわゆるインドみたいな感じではないよね。チベット系の人も多いし。ババみたいに酒もチャラスもやる人もいるし。普通はババは酒なんて飲まないもんな」
そう言って岳志は呆れたように小声で笑った。