山での彼女達の過酷な生活を智は想像した。今の時期は涼しくてとても過ごしやすい気候だが、この短い夏が終わればすぐに冬が来て、それこそ命がけのような日常が始まるのだろう。自分のようななまくらな人間が、このような厳しい環境での暮らしのいい所だけを金に物を言わせて楽しんでいくのが、智には随分卑怯なことのように感じられた。しかし、よくよく考えてみるとそれは、智だけに限ったことではなく、全ての旅人達に対して言い得ることかも知れなかった。もし仮にそうだとしたら、旅というのは一体何なのだろう? まるで、動物園で檻の外の安全な場所から色々な動物を眺めているようなもので、決してその人達の抱える根源的な不幸や、その他の色々な諸問題には触れることはできない。それらを理解することなど不可能なのだ。あくまでも旅人は、旅人でしかないのだ。現地の人達と旅人達との間には、絶対に超えることのできない壁がある。本質的な部分にまでは決して踏み込むことができず、いくら世界各国を巡り、色んな所へ行った気になっていたとしても、そこに住む人達のことを本当に理解することなど、絶対にできることではないのだ。もし仮に理解した気になっていたとしても、そんなのはまやかしに過ぎない。果たしてそんな旅に何か意味があるのだろうか? これから先、まだまだ続くであろう智の長い旅には、何か有意義なことの一つでも存在するのだろうか? 智は、途端に分からなくなってしまった……。
しかし、智のそんな憂鬱な思いは、プレマの弾けるような明るい笑顔によって瞬く間に吹き飛ばされてしまった。彼女はとてもエネルギッシュな人だった。見ているこっちの気分まで明るくしてしまう。そんなパワーに満ちていた。
「プレマ、アナンは?」
辺りを見回しながら岳志はプレマにそう尋ねた。
「もう帰ってくる頃だよ。タケー、上がってチャイでも飲んで待っててよ」
岳志は、ふうん、と言って頷くと、じゃあそうしよっか、と智を促して小屋の中へと入って行った。智は、どうしても、タケー、というその発音がおかしくってしょうがなかったが、吹き出しそうになるのを何とかこらえながら岳志の後に従った。
大きなテーブルが一つと、長椅子が一つだけの、小じんまりとした店内の一番奥の席に、岳志と智は向い合せで腰を下ろした。プレマは、二人を追って中に入るとそそくさと湯を沸かし、チャイを入れる準備をし始めた。
薄いグリーンに塗られた店内には大きくメニューが貼ってあり、そこには、定番の各種カレーから、ハンバーガーやサンドウィッチといった軽食に至るまで、様々なメニューが掲載されている。それを見ながら、果たしてこの中のいくつが本当に注文できるものなのだろう、と、智は疑問に思った。ひょっとしたら”各種カレー”だけではないのだろうか。チキンバーガーやベジタブルサンドウィッチといったものは、微妙に英語の綴りが間違っており、信憑性に欠けていた。果たしてそのことを一生懸命チャイを作っているプレマに尋ねてみると、案の定、それらはまだ開発中とのことだった。智は、心の中で、やっぱりな、と思うと同時に、いかにもインドらしいそのいい加減さをとても微笑ましく思った。
「アー・ユー・ハングリー?」
チャイを運んできたプレマが智にそう尋ねた。智は、首を振って、ノー、ノー、ちょっと聞いてみたかっただけなんだ、とそれを否定した。プレマは、OK、とにっこり微笑みながら、岳志の隣に腰を下ろした。