数時間後、夜が明けた。小鳥のさえずる声と、カーテンの隙間から洩れてくるかすかな日光が、智に朝の到来を告げていた。智は、もう怖くはなかった。すっくと立ち上がると、勢い良くカーテンを開けた。
冷え切った窓ガラスの向こうには、未だ完全に明けやらぬ夜のとばりがここそこに残され、弱々しい朝の光が、か細く辺りを照していた。しかし、しばらく見ていると、みるみるうちに景色が金色に輝き始めた。夜露に濡れた木々の葉や、白く塗られたテラスの柱、高くそびえる針葉樹林の隙間から覗く民家の屋根々々、尖った仏塔の立ち並ぶヒンドゥー寺院、それらが眩い輝きを放ち始めたのだ。
智は思わず目を細めた。光が目の中に飛び込んでくる様子が、ありありと感じられたからだ。手を翳してその光を避けるように遠くの方に目をやると、敢然とそびえ立つヒマラヤの山々の裂け目から、まっ白く燃えた太陽がゆっくりとゆっくりと、まさに姿を現しつつあるところだった。太陽は、最上級の輝きを放ちながら、夜の闇をどんどんどんどん急速に景色の彼方へ追いやっていった。そして数分後には、そこから見える全ての景色が静かな朝の輝きの下に照らしだされ、鳥達はその時を待っていたかのように、一層声高にさえずり始める。朝もやは、繊細な日光をその体の一粒一粒に反射させながらゆっくりと景色の中へ溶け込んでいく。
智は慌てて窓を開けた。朝の冷たい空気と細かな霧の粒子とが、サッと、智の体を撫でていく。その感覚を目を閉じてゆっくりと味わうと、新鮮な空気を智は胸一杯に吸い込んだ。凝り固まった頭の中が解きほぐされ、どんどん真っ白になっていく。その空気をもっと味わおうと、智は、外へ出てテラスにある椅子に腰掛けた。
目の前には朝日に輝いた森林の景色が広がっている。ヒマラヤ山脈は、すっかり昇り切った太陽によってその頂きを銀色に輝かせ、背の高い木々達は心地良い朝風にその体をゆっくりと揺らしている。テラスの近くに突き出した枝に生える数枚の若葉が、露に濡れながらキラキラと輝いていた。智はそっとそれを引き寄せる。輝くような黄緑色の葉に、水晶玉のように光り輝く水滴が乗っている。それは朝日を屈折させ、周りの景色を明るく輝かせていた。その明るさに智は思わず目を覆った。そしてそれと同時に、若葉の緑の純粋で清い美しさに心を打たれた。それは、生命の美しさであった。混じりけのない、シンプルな、ほんとう真実の美しさ。智は、そっと唇を近づけて葉に乗った露を吸った。
それらの若葉は、智に向かって語りかけてくるようだった。智は、おや?、と不思議な気分になった。
風にそよめく木々の枝々はまるで何かを表現しようとしているようで、智には何故だかそれが分かるような気がした。智も心の中で木々に向かって言葉を返す。すると木々達は、再びサワサワサワ、と体を揺らしてそれに答えた。智は、まるで木と会話しているようだった。自分が目の前の木と同化したような感じで、たくさんの木々達の中で会話を交わしていた。植物というものは活発に動くことがないため、普通に見ているだけでは生きているということをあまり実感させない。それが今、まるで自由に動き回れる自分と近しい生き物のように感じられる。智は、そのことをとても不思議に思ったが、何となくそれが当たり前のことのようにすんなりと受け入れることもできた。恐らく智は、目の前のその木を理解しつつあったのだ。
そう感じ始めるとそれは、木々達だけに留まらず、飛び交う小鳥達、道端の小石から、そびえ立つ山々、空から大地に至るまで、この世の森羅万象全ての物に及んでいった。それらに対して限りない共感を智は覚え始めるのだった。