智は、右手の人差し指の爪を立て、左手の手首の内側の血管の浮き出ているところを、水平になぞった。皮膚には、軽い痛みと、血管を寸断するように一本の赤い筋が残された。そして、ナイフの入っているバックパックのポケットに目をやった。するとその時、ふとある光景を思い出した。この光景は、智が初めてLSDをやった時とまるで同じものだった。バックパックのポケットを眺める智の視線は、あの時と全く同じものだった。
――― 駄目だ、死んでしまう。そんなことをしたら、死んでしまう ―――
智は、今、自分のしようとしていることがとても恐ろしいことだということに気が付き、慌てて手を引っ込めた。しかししばらくすると視界は、再び、今まで出会ってきた様々な人達の顔によって占領されていく。何とかそれらを消してしまいたくて、智は、両の手の平で目蓋を強く押さえた。すると様々な色彩の光の束が、ある一点を中心に、智の方に向かって眩く輝き始めた。智は、しばらくの間その光の源を眺め続ける。すると、何かこの世のものではないような崇高な存在が、智に、何かとても平和で穏やかな言葉を語りかけて来るように感じた。智は、とても優しい気分で満たされて、まるで神の国にいるかのような平穏な感覚に包まれ始めた。そして光の中心の向こうには、更に明るく、清潔な世界が広がっているような気がして、どうしてもそれを確かめずにはいられないような気持ちに捕われ始めた。自分の今見ているこの世界に比べたら、人間のいる現実世界は、あらゆる有機物が腐敗して作り出すヘドロによって覆われながら、絶えず腐臭を放ち続ける、見るに耐えない地獄のような有り様だった。更には、有機物としての自分の肉体さえも、それと同様にどんどん腐敗していきつつある、とても不潔で不完全なものに思われた。智は、いっそのこと、この腐りゆく全身に爪を立て、皮膚を破り、肉を抉り、肉体全部を捨ててしまって、清浄な、精神だけの存在になってしまいたい、と、そう願った。
――― ああ、神様、俺はこの薄汚い肉体を捨て去って、あなたの所へ、あなたの所へ…… ―――
再び、バックパックのポケットに視線を移した。そしてファスナーを開け、複合型のナイフを取り出すと、その中から一番刃渡りの長いものを引き出した。そして、ゆっくりと右手に持ち替えると、左手の手首の動脈に刃の縁を当てた。冷やりとした金属の冷たい感触が、薄い皮膚の上に感じられる。
――― ああ、これで、あの光の向こうへ…… ―――
すると突然、頭の奥の暗い部分で、誰かの声がした。
――― サトシ、そいつは神様なんかじゃない、死神だぜ ―――
直規だった。それは以前、ジャイサルメールで直規が智に言った言葉だった。智は、素早く後ろを振り返ったが、もちろん直規の姿はそこにはなかった。ただ、直規の微笑んだ顔が、目の前一杯に広がった。
――― 死神だぜ 死神だぜ 死神だぜ 死神だぜ 死神だぜ 死神だぜ 死神だぜ 死神だぜ ―――