やっとの思いで部屋に辿り着くと智は、世界が自分を追って外から迫って来るのを何とか部屋の壁や扉で遮断しようと、扉という扉や窓という窓を閉め切り、片っ端から鍵をかけ始めた。そしてカーテンを引いて、完全に外から部屋の中が見えないようにすると、ベッドの上に倒れ込み体を丸めてひたすら目を閉じた。すると様々な風景が、まるでスライドフィルムを映していくように目蓋の裏側に次々と浮かび上がってくる。それらは、子供の頃一人で公園で遊んでいるところだったり、何もないチベットの荒野をバスに乗って走っているところだったり、学生時代、友達と一緒に遊んでいるところだったり、場所も時間も全く無関係の脈絡の無い物だった。それらの映像が、次々に浮かび上がっては消えていく。
智は、次から次へと溢れだしていく自分の記憶を止める手立てを知らなかった。このまま頭の中の記憶が全部流れ出し、空っぽになってしまうのではないか、という気さえした程だ。そう考えると、それは随分恐ろしいことのように感じられた。
ふいにヤスとゲンの顔が浮かんだ。その瞬間、智はパッと目を見開いた。しかしそこには、映るはずの部屋の中の風景は何も映らず、ヤスとゲンの二人の顔だけが、視界に停滞し続けた。慌ててもう一度目を閉じてみたが、結果は同じことだった。要するに目を閉じていても開いていても、智の目の前には、ヤスとゲンの二人の顔しか映らないのだ。それらをいくら振り払おうとしても、二人のにやけた表情が消えることはなかった。
あの時のことがまざまざと甦ってくる。デリーの路地裏。背中に感じたざらついた壁の感触。腐臭を放つ地面を舐めさせられた、屈辱的な記憶。踏みにじられた母親の愛情。体を押さえ付けられ身動きが取れないまま、貴重品袋から金を抜き取っていく時の、恍惚としたヤスのその表情。顔中に憎悪を湛えながら智の顔面を殴りつけるゲンのその表情。思い出したくもないそれらの出来事が、心の奥底からまるで枯れることのない泉のように
次々と溢れだしてくる。
頭を抱えて智は身悶えした。谷部の顔、幸恵の顔、建や、奈々の顔、そして、ジャイサルメールで出会った理見の顔。智の視界は、たくさんの顔によって埋め尽くされていった。
「ああ、もう、助けてくれ、お願いだから、消えてくれ……」
智はベッドの上で激しく体を捩った。ヤスとゲンに殴られていた時の感覚が、体に甦ってくる。ないがしろにしてしまった奈々のことや、欲望の対象としか見ていなかった幸恵のこと、ナイフを出して心路を脅している直規のこと、それらが、罪悪感や嫌悪感の入り交じった複雑な感情となって、智の胸に渦巻いている。
「どうして何もかも、こんなに、欲望や憎しみという感情で彩られているのだろう? 何で人間の世界というのはこんなにも汚れ切っているのだろう……。神は何故、人間の世界をそんな風に創造したのだろう……」
智は死のうと思った。今なら簡単に死んでしまえそうな気がした。
――― ナイフで切り裂く手首の痛み? そんなものあの光の向こうに行けるのなら、気にもならないことだろう。そうだ。俺は死ねるのだ。ここをナイフで切り裂いてしまいさえすれば…… ―――