「どうしたんですか、智さん、大丈夫ですか?」
幸恵は、慌てて智にそう声をかけると、大声で店員を呼んで、濡れタオルを持って来て下さい、と叫んだ。智は、幸恵の大きな声に驚いて、いや、大丈夫、大丈夫、とそれを制するように言った。幸恵は、しばらく心配そうに智を見ていたが、鞄の中からハンドタオルを取り出すと、コップの水で湿らせてそれを智に手渡した。
「智さん、これ、使って下さい。あんまり冷たくないけれど、当てていればちょっとは楽になるかも……」
「ああ、ありがとう」
智は、幸恵の気遣いを嬉しく思った。
「どうしたんですか? 体調悪いんですか?」
「ああ、ちょっとね。何だか風邪を引いたみたいなんだ。でも、そんなに大したことないから大丈夫だよ。心配かけてごめん」
「そうですか。それならいいんですけど……」
「今は急に痛みが走ったんでちょっと驚いただけで……。もう、大丈夫だよ」
幸恵は心配そうに智を見ている。先程の幸恵のとっさの対応のおかげで、店内にいる日本人旅行者達は皆智の方を注目していたが、騒ぎが収まったと分かると自然と元の会話や食事に戻っていった。智は、自分に注がれていた視線が外されたのを確認して、幸恵に、何の話をしていたんだっけ、と尋ねた。幸恵は、えっと……、そうだ、ポルトガルの話ですよ、と言った。ああ、そうだそうだ、と智がそれに納得していると、幸恵は続けた。
「どうしてロカ岬に行こうと思ったんですか? あ、やっぱり”深夜特急”ですか?」
瞳を輝かせながら幸恵はそう言った。
「いや、そうじゃないんだ。実は俺の友達が、俺よりも先にアジアからヨーロッパへと旅してて、そいつが最後に辿り着いたのがロカ岬だったんだ。それでそいつが帰って来て色んな話を聞かされてたら、俺も負けてられないな、と変な対抗意識が芽生えてしまって……。ユーラシア大陸最西端っていうのも何だか魅力的な響きでしょ。だから、とりあえずそこを目指してみるか、と、漠然とそう思ったんだ。別に”深夜特急”に影響された訳ではないんだ。実は俺、あの本は途中までしか読んでいないし……」
幸恵は、再びステーキを口に運びながら、真剣に智の話を聞いている。
「そうだったんですか……。でもやっぱり、智さんのような人にはお友達にも凄い人がいらっしゃるんですね。私の周りにはそんな友達全然いなくって、私は、ひたすら旅に関するそういう本ばかり読んでたんです。もちろん沢木耕太郎の”深夜特急”も全部読んでますよ。だからひょっとしたら智さんもそうなのかな、と思って」
「いや、全く読んでない訳じゃなくって、途中までなら読んでるんだ。でも、旅に出てからなんだけど。香港にいた時にね、そこで出会った日本人がやっぱり”深夜特急”が好きで、ちょうど香港編を持って来てたんだ。俺はそれを借りて読んだんだけど、現地で読んでる訳だから物凄くリアルでね。主人公にすんなりと感情移入してしまったよ。面白かったなあ。そして読み終わったその晩に、それを貸してくれた奴らとマカオのカジノへ行ってさ。本当に香港編そのままだったよ。考えてみればそれって、凄く贅沢なことだよね。ああ、あの時は本当に楽しかったな」