「建さんでもあんな風に怒ることがあるんですね」
智がそう言うと、建はちょっと不思議そうに智の方に目を向けた。
「ああ、俺、インド人嫌いだからな。ああいうことされると本当に腹が立つんだよ。多いだろ? あんな奴」
「でも建さん、インド長いでしょ? 何回も来てるんだし。もう三回目ぐらいだって言ってたじゃないですか。そんなに長くいても駄目なんですか? 最初の内はああいうことに腹が立ったりしても、その内慣れてくるものなんじゃないんですか?」
大袈裟に首を振りながら少し興奮して建は言った。
「ちっとも慣れないね。あんまり優しい顔してると、奴ら、つけ上がってどんどんエスカレートしていくからビシッと言ってやった方がいいんだよ、ああいうことされた時は」
「そんなもんですか……」
智は、その内慣れてしまうだろうと思っていたインド人達のああいった幼稚な態度が、いつまで経っても腹の立つものだということを知らされて、軽い絶望を覚えた。そして建が意外にも怒りっぽいということを知り、見かけによらない人間の多面性について学んだような気がするのだった。
現代美術館の中にはインドの近代美術家達の作品が多く展示されていた。それらはあからさまにヨーロッパ美術の影響を受けており、例えば油絵で描かれた抽象的なヒンドゥーの神々など、今まで智が見てきたインド世界とはちょっと異質のものだった。それは何というか泥臭さの抜けた清潔で洗練されたもので、そこに描かれている神々からは、あの、雑踏の埃にまみれた粘っこい大気の中、憤怒の表情でこちらを睨みつけてくる道端に祀られた神々の何とも言い様のない迫力のようなものが感じられなかった。そのせいか智は、今自分がインドにいるというよりは日本の美術館でそういったアジア的な絵画を眺めているような、そんな錯覚に陥っていた。
「サトシ、こっちだよ」
建が、二階へと通ずる階段を上りながら智を促した。ボーッと絵を見ていた智はその声に我に返り、健の後を追った。
二階へ上がると、通路の両側の壁に、額に入れられた写楽の浮き世絵が等感覚で並べられていた。身なりの整ったインド人紳士と、何人かの日本人の婦人がそれらを見ていた。その光景を見て智は、ますます自分が今インドにいるという事実が信じられなくなってきた。その婦人達は、あまりにも普通に日本で見かけるようなおばさん達だったからだ。智が混乱したような不思議な気持ちでその光景を眺めていると、建が声をかけてきた。
「やっぱり見に来てるのは日本人ばかりだな」
健の方に向き直って智は言った。
「そうですね。今僕もそう思ってた所です。何だかこうやって日本の絵があって日本のおばちゃん達が絵を見てて、そうしたら、その風景だけを見ていたら、もうとてもここがインドだなんて思えなくなってきて……。何だか訳が分からなくなってたんです。でも美術館を一歩外に出てしまえば、また確実に暑くて埃っぽいあのインドの雑踏が待ち構えている訳で……。そんなのが何だかとても信じられないんです。一体”認識”というのはどれだけ確かなものなのかなって思い始めたら、混乱してしまって……」