建が無責任に大きな声で笑うのを聞いて、智は腑に落ちない気持ちでいっぱいだった。
「ちょっと建さん、笑ってる場合じゃないですよ。そこで認めちゃったら全然説得力が無いじゃないですか」
「ハハハ、ごめん、ごめん。俺も頭では分かっちゃいるんだけどな、なかなか上手く実行に移せないよ、ハハハハハ」
建は笑いながら歩き続けた。智は、小声で文句を言いながらそんな建の後を追った。
食事の後、二人はニューデリー地区にある美術館へと向かった。そこでは、江戸時代の浮世絵師の中でも最も有名な、東洲斎写楽、の展覧会が行なわれているらしいのだ。もともと建は今日それを見に行く予定だったようで、智も、インドと浮世絵という不思議な組み合わせと、嫌でも日本を感じさせ智の郷愁を煽る浮世絵の持つその雰囲気も手伝って、是非ともそれを見に行ってみたくなったのだ。
美術館近辺のニューデリー地区と、智達の滞在しているオールドデリー地区とでは、全く別の国に見える程の差があった。大使館や省庁、たくさんのオフィスビルの立ち並ぶニューデリー地区は、メインバザールの喧噪を知る智にとって、同じ街の中の同じインド世界だとはとても思われなかった。それらは、別の国、別の世界の話である。薄汚れた露店のチャイ屋などはどこにも見当たらず、洗練されたコンクリートの街並がひたすら広がっているだけだった。
智は、改めてインドの多面性を目の当たりにしたような気持ちになった。バスに乗ってわずか数十分の道のりで全く別の風景が広がっている。そこにいる人間も違う。服装や身に付けているものだけでなく、歩き方から表情、話し方に至るまでの全てが異なっている。本当に別の国に来てしまったように感じる。
「建さん、この辺りは凄いですね。僕らのいる所とは全然違うじゃないですか」
吊り革に掴まりながら窓の外を眺めていた建は、視線を智の方に戻して言った。
「ああ、そうだな。俺はもう何回もこっちの方には来てるから慣れちゃってるけど、初めての頃はそんな風に感じていたかもな」
建はまた窓の外に視線を戻した。
「あ、サトシ、次で降りるぞ。多分この辺りだったと思う」
二人は混み合っている車内を掻き分けて、バスの乗降口まで進んで行った。そしてしばらくすると、バスが止まり、扉が開いた。建と智はそこから降りようとしたが、彼らが降りる前にたくさん人が乗り込んできたため、なかなか降りることができなかった。そうこうしているとその時、一人のインド人少年が、突然、健をからかうような感じで通せんぼの格好をとった。すぐに扉が閉まりそうになったので彼を押し退けて建は降りようとするのだが、少年は建の前に立ちはだかり、挙げ句、建の肩を掴んで嘲るように笑いかけた、その瞬間、建の表情が一瞬にして硬直し、次の瞬間には、少年は、胸ぐらを掴まれて閉まりかけていた扉に向かって強く押し付けられていた。少年の体は、今や半分程宙に吊り上げられている。少年は、途端に怯えた表情になって泣き出さんばかりに建に許しを乞うた。建は、しばらくの間怒りに満ち満ちた物凄い形相で少年を睨みつけ、そして少年がいよいよ泣き出しそうになると乱暴に突き放してバスを降りた。その一連をずっと眺めていた智は、普段穏やかな建からは想像もつかないその行動に、ポカンと口を開けたまま何も言葉を発することができなかった。歩きながら智は言った。