智は、扉のノブの上にかかっている南京錠に、レセプションで渡された鍵を差し込んでそれを外した。どうやらこのゲストハウスの部屋の鍵は全て南京錠になっているようだ。
部屋に入ってみると、そこには、ベッドが一つ設置されていてそれにもう一つ同じベッドが置けるぐらいの空間が横にあり、更にベッドの足先にはトイレとシャワー、その上には小さな窓が一つあった。少し奥まった角部屋で部屋の側面にも窓があった。智は、この部屋の形状も気に入ることができた。そしてここでの生活に胸の高鳴りのようなものを感じるのだった。それは、予感めいていて、旅の途中、気に入った部屋を見つけるといつも感じる昂揚感と同じ性質のものだった。きっといいことが起りそうな気がした。
ふと開けた扉の裏側に目をやると、そこにはびっしりと落書きがされていた。その殆どは英語で書かれているのだが、中には日本語で書かれているものもちらほらあった。しばらくそれらを何となく目で追っていると下の方に荒々しい字体で殴り書きされた日本語が智の目を引いた。それはこう書かれていた。
――― 人間は、犬に喰われる程自由だ、メメントモリ、死を想え ―――
メメントモリ、メメントモリ、智には何のことだか良く分からなかったが、その前の一節に頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。
人間は、犬に喰われる程、自由だ、
バラナシを流れる聖なる河ガンジスの泥流と、河辺に漂着した人の屍肉を喰らう毛の抜け落ちた野良犬の凶暴な表情が、一瞬にして智の脳裏を過った。背筋に冷たい戦慄を覚えた。
忘れられた思い出、過ぎ去っていった思い出、悲しい時間、孤独な時間、それら報われぬ魂の屍を、泥流に呑み込まれ朽ち果てた末の彼岸で、あの醜悪な犬が、脇目も振らずに貪り喰っている。犬の赤い瞳がぎらりと輝く。
――― 何の違いもない、違いなどない、この肉、お前の肉、何の違いもないお前自身の肉体 ―――
腐肉は、野良犬の黄色い牙によって粘ついた音を立てながら引き裂かれていく……。自由、自由、自由、肉体の自由、魂の自由、現象に過ぎない、肉体とは現象に過ぎない、幻に過ぎない、精神の自由、借りものの肉体、お前の肉体はお前のものではない、神から借りた魂の乗り物、存在を証明するために借りた、魂の乗り物、借りものの肉体、神、神、神、神、神……、肉体に意味は無い、現象に意味など無い……。
「犬に、喰われる程、自由……」
智は、それを声に出して呟いてみた。部屋の中は、薄暗く、しんとしている。
ようやくバックパックを置いて横になってみると、様々な思い出が頭を過っていった。それは、旅のことであったり何の脈絡もない学生時代のことであったりした……。昔のことを智は思い出していた。子供の頃からの思い出を辿っていくと、今、自分がインドの名もない安宿でただ一人寝転がっていることがとても不思議なことのように思われた。それら過去の思い出の全てが、今現在ここにいる自分という存在に収斂され、そしてそんな自分をつくり出すためだけに機能してきた……、智はそんな風に想像してみた。それはとても奇妙なことだった。