「メインバザール」

そのようなことがラジャスタン州では立て続けに続き、砂漠地帯の過酷な気候と相まって智は心身共に疲れ果てていた。ラジャスタンには、もう、うんざりしていた。旅を先に進めるために、智はデリーへ向かうことにした。何気なく日にちを調べてみると、それは何の因果か智が日本を出てちょうど一年後のことだった。一年前の四月一日、初めてタイの首都バンコクに降り立ち、旅が始まった。奇しくもそれと同じ日の四月一日の今日、智はインドの首都デリーの地に立とうとしている。その綿密に計画されたような偶然の合致は、智に旅のひと区切りをつけさせると同時に、当初の予定であった一年でヨーロッパの西端まで辿り着くという計画の半分も実行できていないことを思い知らしめ、智を愕然とさせるのであった。智は、ちっとも前に進むことのできない自分自身に苛立ちを感じ、焦燥感の入り交じったどんよりとした疲労を感じるのであった……。

四月のデリーは、街全体が燃えるような暑さだった。大量の車の群れに、絶えることなく響き渡るクラクション、もうもうと吐き出される排気ガスと砂埃は、大気を茶色く染めていた。真昼の強烈な日差しが照りつけているにもかかわらず、景色は、どこか暗澹として異様な活気に満ちている。アスファルトから立ち上る蒸れた空気は、風景を歪め、そこかしこに捨てられたあらゆる有機物を腐敗させ、それらは強烈な腐臭を撒き散らしている。

駅を下りるとターバンを巻いた髭面のインド人達が智の周りに何人も集まってくる。智は、脂汗を垂らしながらそれらを無視して「メインバザール」へと向かった。メインバザールとは、智のような旅行者達が世界中から集まってくる安宿街で、旅行者のためのレストランや旅行代理店、土産物屋まで何でも揃っている。デリーを訪れる旅人であれば誰もが知っている場所である。

智は、メインバザールの表通りから少し裏道に入ったところにあるゲストハウスにチェックインした。そこは色々な旅行者から話を聞いていたところで、既にそこへ行くことを智は決めていた。実際噂通り、ゲストハウスはたくさんの旅人達で溢れ返っていた。壁には、様々な言語で記された張り紙や置き手紙などが乱雑に貼り付けられている。

中央のロビーでは、大きなバックパックを抱えた欧米人旅行者達が何人か集まって、バスの時間でも待っているのか、何やら他愛もない無駄話をしながら時間を潰している。皆かなり長い間インドを回ってきたことを思わせる風貌で、髪は無造作に伸ばされ、着ているものはくたびれて、首や手首にはカラフルなアクセサリーがたくさん巻き付けられている。アジア圏の国々を長く旅している人間特有の、独特の雰囲気を醸し出している。それらの旅行者達の間を擦り抜けながら建物の中へと智は入っていった。

その外観からは良く分からなかったが、建物は、四階建てになっており真中が吹き抜けでかなり大きい。各階ごとにロの字型に部屋が並んでいる。智は、ぐるっと上の方まで建物を見回した。午前中なので洗濯物を干したり歯を磨いたりしている者達がちらほらと見受けられる。どこにでもある、朝の安宿の風景だ。この中は、外の喧噪とは何故か無縁でひっそりとしており、しかも、そんなに暑くない。智は、この場所をひと目見て気に入った。何故だか分からないが、気持ちが落ち着く感じがしたのだ。

智の部屋は三階にあった。ロの字型の側面に二部屋、その対面に二部屋、階段の両脇に一部屋ずつ二部屋、更にその対面にも二部屋あって、この階には全部で計八部屋あることになる。智の部屋は階段の両脇にある部屋の内のひとつだった。

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