吸引

智は、今、自分が一体どこをどう歩いているのか全く分からない。周囲の現実は最早智から分離し、留まるところを知らない妄想が、次から次へと智を襲う。

数時間後に辿り着いた自分の宿で、智は、従業員達のしつこく誘うキャメルサファリの話を全く無視して部屋に入ると勢いよく扉を閉めた。智は、しばらくの間放心してその場に立ちすくんだ。窓の外からは、通り過ぎてゆく人々のヒンドゥー語の会話が聞こえてくる。それは静寂の中に穏やかに響き渡った。

智は、突然素手で壁を殴り始めた。何発も殴った。壁の一部は剥げ落ちて、智の拳は傷ついた。血の滲んだ拳は智を余計惨めな気分にさせた。泣きたかった。でも、泣けなかった。どうしても涙が出てこなかった。泣くことのできない自分は、不幸だと思った。もやもやした胸の内は、対象となるはけ口を見つけることができないまま、智の体内で鬱屈していった。頭の中で理見と一希が裸で抱き合っている様子が、次から次へと浮かび上がって来る。

智は、バックパックの中からブラウンシュガーの紙包みを取り出すと、耳かきですくって鼻孔から一息に吸引した。鼻の粘膜に付着したそれは、毛細血管の壁を通り抜け、血球に溶け込み、脳細胞に到達した。頭のてっぺんから目頭を通り、重たい感覚の波が足先にまで下りていく。肉体は重力に反発せずに沈み込み、対照的に意識は冴え渡って、軽やかに浮遊する。智の心は、しだいに柔らかくほぐされて痛みを忘れてゆく。

――― 何だよ、結局あいつらやっちゃってたんじゃないかよ、ハハハ、俺は、一人で勝手に盛り上がってただけか、ハハハ、遊びに来てくれる、って言うから真に受けて馬鹿みたいに部屋の中で何時間も待っててさ、何を期待してたんだろう、一体? ハハハハハ―――   

智は、自分を嘲りながら退廃的な気分に身を任せていた。暗く、寂しい悦びが、智の心を薄らと支配する……。

薄暗い部屋の小さな窓から、微かに陽が差し込んでくる。智は、大きく息を吸い込んで目を閉じると、緩やかに吐き出した。肺が燃え、循環する血液によって全身が振動するのを感じた。

智は、今、自分と現実の世界との間の距離を意識し始めている。その距離は、見えない透明な膜のように智を包み込み、徐々に彼を世界から遊離させていった。

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