旅をし始めた当初から、智にとってこの旅はまるで刑罰のようなものだった。世界各国の安宿のこの部屋は、孤独な牢獄に他ならない。智はそれらに捕われた囚人だった。常に不安や焦りを感じつつ、不快な気候の中を黙々と重い荷物を背負って宿を探し、道に迷い、飯屋を求めてくたくたになる。愉快なことなど何もない。日本が恋しい。日本語や、日本の風景や、自分の育った町、全てが輝きとともに思い出される。母親の手料理が食べたい……。智は、家を出る直前の家族の顔を、特に母親の顔を思い出した。出発の直前に母親が作ってくれたお弁当。それを一人、空港で食べた時のことを思い、いたたまれない気持ちになった。飛行機が飛び立ち、小さくなっていく自分の街、自分の国のことを思い出した。あんな思いをするのはもう嫌だ、あんな辛い思いをするのはもうたくさんだ……。この町のそこかしこに亡霊のように漂っている直規と心路の面影、楽しかった小さな冒険の思い出、笑顔、それら全てが智を苦しめる。
――― もう嫌だ、この町にいるのは嫌だ、耐えられない、早くここから離れよう、早く、早く…… ―――
そう思った途端、智は荷物をまとめ始めた。幸い宿のチェックアウトの時間までは、まだ余裕があった。行き先はどこでもいい。懐かしさの余韻の漂うこの町から離れられさえすればどこでも良かった。智は、荷物をバックパックに詰め込むと、すぐさま宿をチェックアウトして足早にバスステーションに向かった。バスステーションで今から乗ることのできるバスの行き先を聞いていったら、ちょうど一時間後にジャイサルメール行きのバスがあるという。ジャイサルメールという町は、ここプシュカルから五、六時間ほどの距離で、ラジャスターン州の中でも有名な観光地だ。パキスタンとの国境に程近い砂漠の町である。どうせ智はそこへ行くつもりだったし、直規達の向かったジャイプルへ行って彼らとまた顔を会わすのも、何だか追いかけて来たみたいで気が引けたので、ちょうど良かった。
智は、チケットを買ってバスに乗った。バスに乗ると、ここから離れられるという思いと、新しい町に対する仄かな期待とで、沈んだ気分を少しだけ忘れることができた。特にバスの車窓から眺める移りゆく景色は何度見ても旅情を誘うものだったが、残念なのは、今、このバスから見える景色は、背の低い草と岩がまばらに散りばめられたつまらない土漠の連続だったということだ。その単調な風景を智はただぼんやりと眺めた。眺めながら次第に智の抱いていた砂丘のような美しい砂漠のイメージは、修正を余儀なくされていった。恐らくは、このような土漠のことを一般的に砂漠と呼ぶのだろう。智のような日本人の抱いている普遍的なイメージの美しい砂砂漠は、きっと世界でもかなり稀な物なのだ。
そして更に、ラジャスターン州に入れば見られると思っていた、ラクダで砂漠を旅する流浪の民には一向にお目にかかれないし、ただひたすらこんなつまらない景色の連続を見せつけられた智は、もうすっかり何もかも諦めることにした。何も期待しないことにした。
退屈な気分でそんな考えを巡らせていたら、いつの間にか眠ってしまっていた。