翌朝、急に谷部と君子はデリーを発った。別れ際に谷部は、例のイタリアン・チラムを智に手渡した。智に譲ったのだ。智が遠慮して断っても、いいから、やるよ、の一点張りで、智は、大人しくそれを貰っておくしか選択肢がなかった。もちろん、前からそれを欲しがっていた建は谷部に猛抗議したが、谷部は、いいだろ、建はさんざんチラム使ってきたんだから、と、良く分からない理由で全く取り合ってもらえなかった。建は、渋々それを了解したものの、恨めしそうに智に何回も、ちょっと見せてくれよ、を繰り返した。もういよいよ建が鬱陶しくなって来たので、建さんにあげて下さいよ、と智が谷部に頼むと、谷部は、いい加減にしろよ、ケン、大人気ないぞ、と建を叱責した。建は、ちぇっ、と舌打ちしてようやく引き下がった。智は何度も谷部に礼を言った。谷部は、いいんだよ、その代わり大事に使ってくれよな、と笑いながら智に言った。とても大事にしていた物をすんなりと自分にくれた谷部のその気持ちを、智は素直に嬉しく思った。”ババ・ゲストハウスの人”ということで穿った見方をしていた自分を恥ずかしく思った。そうやっていつも自分でありもしない壁をわざわざ作っていたのだ、と今までの自分を顧みた。今の自分だったら、あの時、清志と一緒にババ・ゲストハウスへ遊びに行くことだってできていたかも知れない。
谷部は、バラナシに行くことにしたそうだ。君子と二人でしばらく滞在するという。またババ・ゲストハウスに泊まるのだろう。君子は、相変わらずニコニコしている。昨晩の笑顔も、必ずしもチャラスのせいばかりではなかったようだ。結局この女の表情は笑顔以外見ることがなかった。
智は、昨日の建の話が彼らをバラナシに赴かせた要因となっているのだな、と思ったが、それは言わないでおいた。大きなバックパックを背負った二人の旅人を、智と建は手を振りながら見送った。二人は、昨晩屋上に届いて来たのとは全く別物の、正真正銘の騒音の鳴り響くメインバザールの雑踏の中へと消えていった……。
「飯でも喰いに行くか」
建が言った。二人は、メインバザールの燃えるような暑気の中を全身から汗を吹き出しながら歩いていた。
「しかし、突然行っちまったよな」
「旅してる人なんて、みんなそんなもんじゃないですか」
智は、自分の足下を眺めながら歩いている。
「まあ、そうなんだけどさ……。智はどうすんだ? どれぐらいここにいるつもりなの?」
建のその問いに、俯きながら智は答えた。
「まだ当分いると思います。フィルムが溜まってるんでそれらを現像したり、日本に色々荷物を送ったりだとか、後、パキスタンのビザも取らなくちゃならないんで……。最低一週間ぐらいはここにいることになるでしょう。建さんは? どうするんです?」
「俺は、そうだな。明日か…明後日だな。明後日にしよう。明後日出るよ」
「ほら、建さんだって」
「何だよ?」
「すぐに出ちゃうじゃないですか」
「だって俺は、もう散々デリーにはいるんだよ。本当に飽き飽きしてるんだよ、この街には」
「言ってみただけですよ」