粘ついた汗

部屋の中は、蒸し暑く、しいんと静まり返っている。気まずい沈黙がしばらく続いた。
凍ったペットボトルの表面の水滴が、ゆっくりとプラスチックの曲面をなぞりながら垂れていく。灰色のコンクリートの床に染みを作っていく。湿った黒い染みは、徐々に大きくなっていく。

「直規……」

智がそう言いかけると、それを制するように直規は言った。

「いいからお前、もう帰れよ」
「直規君……」

心路がそう言いかけると、直規は心路を睨みつけた。心路は、何も言うことができずに下を向いた。智は呆然と直規を見つめた。

「帰れって」

直規は、じっと自分を見つめている智に向かってそう言った。智は、視線を逸らすと、ああ、と静かに言ってゆっくりと立ち上がった。心路は、俯いたまま上目遣いに智を見ている。智は、覚束ない足取りでジーンズについた砂を払うと、扉の方へ近寄った。そして扉を開けようとノブに手を伸ばしたとき、ちょっと振り返って、ありがとう、と言った。
自分でもどうしてそんなことを言ったのか良く分からなかったが、そう言いながら外に出た。扉を閉めた後、智は、ひょっとしたら二人の内のどちらかが自分を呼び止めてくれるのではないか、と期待して少し立ち止まっていたけれど、結局何の物音もしなかった。誰も呼び止めてはくれなかった……。

傾きかけてはいるものの、砂漠の日差しはいまだ強く照りつけている。朦朧とした智の頭に追い討ちをかけるように、容赦なく照りつける。智は、手の平で額の汗を拭うと、よろよろと歩き始めた。奥歯の奥の方から苦い物が口の中全体に拡がる。胃液の込み上げてくるような感覚。ねばねばした汗が全身から吹き出し、智の着ているTシャツやジーンズを湿らせた。サリーを着たインド人女性が何人か、池の畔の沐浴場に腰を下ろして雑談をしている。そのヒンドゥー語が、嫌でも智の耳に飛び込んできて頭の中で反響する。智は、その声音を振り払おうとするのだが、そうすればする程、それは増幅され頭の中に響き渡る。

智は、たまらずそのインド人女性達に目を向けた。すると偶然その中の一人と目が合った。彼女は笑っているようだった。他の何人かも智の方を振り返った。みんな笑っているようだった。

驚いて智は視線を逸らすと、早足で歩き始めた。鉛のように重たいものが、下腹部に沈澱している。重く苦しかった。黄色く照りつける太陽は、粘ついた汗を大量に吹き出させる。嫌な匂いのする汗だ。腰が重い。歩きたくない。

フッと、湿った草の匂いを嗅いだその瞬間、猛烈な吐き気が智を襲った。智は、考える間もなく目の前に嘔吐した。吐き出すものは体内に何もなく、薄いオレンジ色のドロドロした物が、喉の奥から溢れ出てきた。声にならない呻き声を上げながら、道の真ん中で嘔吐を繰り返す。苦しさで涙が溢れ、視界を曇らせる。ぼやけた視界の端の方で、サリーを着た女性達が近寄って来るのが見えた。智は、慌てて、ノー・プロブレム、ノー・プロブレム、と手を振って、急いでその場から立ち去った。

そこから先、どこをどうやって帰ったのか、智は全く覚えていなかった。混乱した意識と共に、ずっと宿のベッドにうずくまっていた。帰ってからも黄色い胃液のような物を二三回吐いた。そして汗や鼻水や、あらゆる体液でぐちゃぐちゃになった顔で再びベッドに潜り込んだ。そうやってただ時間が過ぎていくことだけを祈りながら、そのまま何時間もそうしていた。

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