注文は、と聞かれ、何があるの、と尋ねる。
「マルゲリータとマリナーラ」
Mには、この2種類しかない。
よほど味に自信があるのだろう。
私は、マルゲリータを注文する。
私の目の前で、店員さんがピッツァの生地をくるくる回す。
生地が出来ると、刻んだトマトをのせる。
チーズをぱらぱらと振り、バジルをのせる。
オリーブ油をかけたら、あとは釜で焼くだけ。
簡単だ。見ていてそう思う。
マルゲリータが出てきた。
ひとくち食べてみる。
「うまい」
私は幸せを感じる。
このMという店は何故か、日によって味が違う。
私はナポリ滞在中、4度Mでピッツァを食べたのだが、2度はおいしく、2度はふつうだった。
おいしかった2度のうちの1度は、私の人生で最高のピッツァだった。
その最高のピッツァを食べた日。
夢中になってピッツァを平らげた私に、店員が声をかけてきた。
「ボーノか」
「最高にボーノだ」
興奮した私はこたえる。
「良かったら、チップを払っていってくれないか」
何、と貧乏旅行者の私は、その言葉に反応してしまった。
いま思い出しても赤面してしまう言葉を、私は店内に響き渡る声で怒鳴る。
「俺は何度かこの店に来たが、そんなことを言われたのは初めてだ」
私は、誰もいないレジカウンターに、食べた分だけのお金をたたきつけて店をでた。
しかも、厚顔な私は、翌日もMにピッツァを食べにいき、またもチップを無視して店をでている。
数日後、アッシジのユースで、ローマでも宿が一緒だった女性に会った。
聞くと、私にすすめられたMにピッツァを食べにいったという。
レシートを見せてもらうと、私が行ったときには無かったサービス料が含まれている。
ああ、多分私のせいだ。
Mのピッツァはとても良心的な値段だと思う。
マルゲリータもマリナーラも5000リラ(約400円)と安い。
結構従業員のいるMは、その収入をチップに頼るところもあったのだろう。
初めのうちは、チップを払わない私に、店のピッツァが気に入らなかったのかと思って何も言わなかったのだろうが、何度か店に足を運ぶので、チップを忘れていると思ったのだろう。
店員に悪意はなかったと思う。
悪いことをした。
Mのような店の場合、高い満足度と安い料金の差を埋めるためのチップという習慣は、ステキな習慣だと思う。
もし、またMに行く機会があったら、今度はサービス料とは別にチップも払おうと思っている。
ステキな習慣をつぶしてしまった、せめてものおわびと、最高のピッツァを食べさせてくれたお礼に。