ぼくはあんまり時事的なことをここに書くのは好きじゃないのだが、それは、出来事はひとつでも、人それぞれ色んな意見があって、それらの主張は結局お互い相容れず、平行線を辿って、いらないエネルギーばかりを浪費することになり、結局無意味に消耗するのが嫌だからだ。
そんなのは現実だけで精一杯だ。
熱い議論を誘うような題材はあんまり選びたくないのだ。
だが。
今回はどうしても言いたいことがある。
それを聞いたとき、怒りとか、悲しみよりもむしろ、ぐったりとした、とても不快な疲労感に打ちのめされた気分を味わったからだ。
やりきれない思いが胸の中に充満して爆発しそうだったからだ。
周知のように、アメリカとイラクは戦争をやった。
そしてアメリカはフセイン政権を打ちのめし、事実上勝利し、イラク国民を解放したという。
結果はそう伝えられている。
ぼくは戦争反対論者なので、もちろん両国の開戦の報を知ったときも嫌な気分になったのだが、最近のニュースでそのことを知ったときは、それよりも更に、本当にぐったりと、無意味に消耗した気分になった。
アメリカがシリアを攻撃するという。
アメリカに対して、非協力的だという理由で。
もう理由にもなんにもなっていない。
ただ戦争がやりたいだけなのだ。
人を殺したいだけなのだ。
ぼくは前から言っているように、イスラムの国はあまり好きではない。
しかし、シリアという国は別だった。
いや、別と言っても特に好きだというわけではなく、もっと、さらっとしたものなのだ。
政治のことはあまり詳しくは分からないが、あの国も、フセインに似たような独裁者だか何だかが、国の英雄として、至る所で崇められている。
そのおっさんをモチーフにした、ブロマイドみたいなものや、ステッカーまでもが売られていた。
そんな様子を目の当たりにしていると、この国の政治はあまり健康的ではないんだな、と思えてくるのだが、市場のおっさんや、街を歩いている人達、ホテルの従業員、どれをとってもそこから発生する政治的な暗さや陰湿さは全く感じられず、いい人ばかりだった。
もちろん数日間滞在しただけだし、その国にはびこる陰湿な面など分かるべくもないのだが、イランやパキスタンのような、固さ、みたいなものはみじんも感じられなかった。
居心地がいいのだ。
みんな明るくて。
ゆったりしてて。
町自体も、のんびりしているし。
大した観光資源もないので、そんなに観光化が進んでいるわけでもなく。
観光地特有の、日本語話すうっとうしいやつらもいないし。
長旅でくたびれた心身をほぐしてくれるような国だった。
そんなほのぼのとしたいい国が、わがままなガキ大将みたいなアメリカに、悪の枢軸、だかなんだか決めつけられて、論理にもならない小学生がいうような暴論で、制裁を加えなければならない、なんて、絶対に納得できない。
何かがおかしい。
誰かが嘘をついていて、誰かが何かをごまかしていて、そしてそれらを強引に正当化するために、全力で取り組んでいる。
今のアメリカの姿はそんな風に見える。
なんなんだろう?
アメリカ国内の、溜まりに溜まった歪んだうっぷんを、国内で爆発させる前に、その鉾先を、関係のない海外の小国に下手な理屈を付けて背負わせて、解消しようとしている。
正義もヘチマもあったもんじゃあない。
アメリカとは、そんな国だったのか。
ぼくは、昔、アメリカという国に強く憧れていた。
多分、それは、子供のときに見たアメリカの映画や、アニメ、スーパー・スター、それらの印象が強烈で、あまりにも面白かったし、かっこ良かったからだと思う。
たくさん夢を与えてくれた。
やさしかった。
そのとき見たものや、体験したことは今でもよく覚えているし、ぼくの中によく見えないけど、何か、あたたかく光り輝く大切なものをそっとプレゼントしてくれたように思う。
それが。
そんなに強く、やさしい、お父さんのような国だったはずのアメリカが。
平然と正義をかかげ平和の名のもとに、遠くの貧しく無抵抗な人々を爆撃し、虐殺している。
そんなんじゃなかった。
アメリカとは、そんな国ではなかったはずだ。
それとも、ぼくが最初から勘違いしていただけなのだろうか?
でもぼくはアメリカの生んだ大衆的な文化が大好きだし、その楽しみは、国境や、人種や、貧富の差を超えて万人に作用し、悦びを与えるものだと信じている。
そんな素晴らしいものをつくれる国なのだから、そういうエンターテイメント精神にあふれた人達なのだから、どうか、そんな愚かしく、恐ろしい破壊行為は一刻も早くやめて欲しい。
子供たちを殺すのではなく、かつてそうしていたように、夢を与えて喜ばせてあげて欲しい。
なんかテレビで、知識人と呼ばれる人達が分かったような顔をして、アメリカの攻撃は、独裁国家打倒の目的のため正当であり、それによって被る被害は致し方ないのです、安直なヒューマニズムでは、世界的な平和などむしろあり得ないのです、と言うようなことを言っていた。
ぼくはこういういわゆる、大人の意見、には、唾を吐きかけたくなる。
こういう人達は、大人になるということは、青臭い、ナイーヴで感情的で敏感な感性を捨て、もっと冷静で、客観的でクールな意見を持つことだ、と思っているのだ。
要するに、もっともでストレートな意見というのは、こそばゆくって、かっこわるくって口にする勇気が出ないのだ。
ぼくに言わせてみればそんな人達というのは、心がすり減って、鈍磨して、不感症になっているだけの人達だ。
ぼくは、きれいごとを信じる。夢や理想という言葉が大好きだ。
今の日本には、それらのえせインテリの言うような虚無至上主義が横行し、それをむしろ、若い人達の方が率先して信じていて、
夢だとか希望だとか言うと、どうせ、ありえねぇし、だとか、そんなわけないだろ、だとか、ふん、と鼻を鳴らして嫌な目つきでせせら笑う。
期待に裏切られ、自分が傷つくのが嫌だからだ。
考えるのを拒否して、見えないふりして素通りするのだ。
意識してかしないでか知らないけれど、自己防衛本能が働いているのだ。
痛い思いをするのが怖いから、怯えて逃げて逃げて逃げまくる。
そして知らない内に、そういうのがかっこいいことだと思われる世の中になった。
信頼は敵、なのだ。
人を信じていては生きていけない世の中なのだ。
ぼくは勇気のある人が好きだ。
自分の中にある恐れや疑いの心と闘えるだけの勇気を持っている人。
人を信じることのできる人。
そういう人に憧れる。
そういう人を見ると、ああ、自分も頑張って生きていかなくちゃな、と思う。
そんな風に常々思っているのだが、とにかくアメリカは、間違ってもシリアを攻撃するなんていう愚かなことはやめて欲しい。
あの、のんきにお茶を飲みながらドミノゲームに夢中になっていた平和的なおっさんたちが爆弾や銃弾で殺されてしまうなんて、本当にいたたまれない気持ちになる。
そんな悲しいことをする必要なんて、全くないはずだ。
もっと世界中のみんなが喜ぶことをして欲しい。
アメリカという国にはそれだけのことをする力があるはずだし、責任もあるはずだ。
世界で一番豊かで、強い国なんだから。