つい最近読んだのが、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」という本。
その中で、”夜の暗さ”のことについて述べられていた。
ちょっと抜き書きしてみる。
けだし近代の都会人は本当の夜というものを知らない。いや,都会人でなくとも,この頃はかなり辺鄙な田舎の町にも鈴蘭燈が飾られる世の中だから,次第に闇の領分は駆逐せられて,人々は皆夜の暗黒というものを忘れてしまっている。
私はそのとき北京の闇を歩きながら,これがほんとうの夜だったのだ,自分は長らく夜の暗さを忘れていたのだと,そう思った。そして自分が幼いおり,覚束ない行燈の明かりの下で眠った頃の夜と云うものが,いかに凄まじく,わびしく、むくつけく,あじきないものであったかを想い起こして、不思議ななつかしさを感じたのであった。
これを読んでいてふと思い出したことがある。
それはパキスタンのフンザでのことだ。
フンザというのは、パキスタン北部のヒマラヤの山々に囲まれた小さな村。
景色がとてもきれいで,春になれば杏の花の咲き乱れるその光景は桃源郷と称されるほどに美しい。
実際人々も穏やかで長生きの人が多く、世界的にも長寿の村として知られている。まさに桃源郷である。
でもやっぱり、桃源郷だから桃源郷らしく、テクノロジーはあまり発達しておらず、その恩恵からはちょっと縁遠い。
ぼくが行ったときは何と村全体が停電していた。
そのとき既にもう一週間ぐらいその状態で、聞くところによると復旧までさらに何週間もかかるという。
要するに,街灯も何もない状態でしかも山奥のさらに奥にあるような小さな村なので、その暗さと言ったら尋常ではない。
まさに真っ暗やみだった。
谷崎の文章を読んでいて,ああ,彼の言っているのは,オレが体験した,フンザでの夜のようなことなのではないのかな、と、そう思った。
ぼくの泊まったその宿は,たまたまそのとき他に宿泊客が誰もおらず,ぼく一人だけだった。
昼過ぎ頃到着して、そこの従業員とぺちゃくちゃ談笑し、夕方になって日が暮れて,いよいよ夜になって真っ暗な闇がしっとりと訪れた。
ランプに火をともして食事をし,自分の部屋と食堂とを行ったり来たりした。
しばらくしてさらに夜も更けて,従業員達は明日朝早いからもう寝るよ,と自分たちの部屋に帰っていってしまった。
ぼくはといえば,その日着いたばかりなので興奮してしまってすっかり目が冴えてしまい、ちっとも眠くならないため、とりあえずその食堂で眠たくなるまで時間を潰すことにした。
そういう安宿によくある情報ノートというのがそこにもあって、何気なくそれを読んでいた。
日本人もよく滞在するようで日本語で書かれているものも多い。
すると,トレッキングなどの情報に混じって、ちょっと不思議なことが書いてある。
その宿の9号室に幽霊が出るというのだ。
よくよく読んでみると、複数の人達がその意見に賛同している。
ベッドの上にジャージのようなものを着て,正座して窓の外を眺めているおじさんがいるというのだ。しかも日本人の。
そうそう,私も同じものを見ました!
そうです,おじさんが座ってるんです!
ジャージきてますよね!
日本人ですよね!
そうしてそれは10年ほど前ある著名なアルピニストがウルタル峰というフンザから程近い雪山で命を落としており、彼の幽霊であるという結論で締めくくられている。
成る程、事故で亡くなった彼のその話はガイドブックにも書いてある。納得だ、けど、納得したくねぇよ、そんなこと。
こんな停電の真っ暗闇でランプの乏しい明かりの揺れる中、たった一人、深夜,そんな話を聞かされるものの身にもなってくれよ。
ぼくの背筋には一気に冷たいものが走りまくって、背筋だけではおさまらず,体全体が総毛立った。
だめなのだ。
ぼくは幽霊というものが大変苦手なのだ。
そして,ぼくの部屋は11号室だった。
すぐ近くじゃん!
ランプを片手に恐る恐る部屋に帰った。
帰る途中,月光に照らされ9号室が妖しく霞んでいる。
ぼくはなるべくそこを見ないように見ないように通り過ぎた。
するとおあつらえ向きに、部屋にはいったその途端ランプの燃料がぷつりと切れた。
まさに漆黒の暗闇だ。虫のなく声すら聞こえない。
もうぼくは怖くなって、いち早くふとんに飛び込んだ。そうして頭までふとんをかぶって眠ってしまおうとひたすら努力するのだが,どうしても眠ることができない。
暗闇と静けさはこのぼくを,この世に生きている唯一の生物と思わしめる。まるでどこか宇宙の見知らぬ星にたった一人でいるかのようだ。
背中が寒くて寒くて,足ががたがた震えて止まらない。
闇の向こうに得体の知れないものがじっと潜んでいるようで,そんな妄想が止まらない。
いたたまれなくなってろうそくに火をつけた。
するとどこからか,一匹の蠅がその炎につられて飛んで来た。ぼくはそんな精神状態だったから、蠅のような普段であれば見向きもしない、むしろ忌み嫌うはずの存在に物凄く親近感を覚えてしまい、何だか、小さな仲間を見つけたようでほっとした。
くだらない、ただの蠅なのに………
思ったね。
一人というのがどんなに心細いのか。そしてどんなに無力なものなのか。
命というものがその姿形に関わらずどれだけ温かく、大切なものなのか。
ぼくは思わず微笑みながらその蠅を眺めてしまったよ。小声でぼそぼそ何ごとかを語りかけながらね。
凄く心強かった、のだが、その蠅は蠅らしく,文字通り,飛んで火にいる夏の虫,とばかりにろうそくの炎に飛び込んで、ジュッという音とともにあえなく焼け死んでしまった。
たった一人の大切な友達を失ってしまったぼくは,もうだめだ,と思い無理でも何でもふとんにもぐって眠ってしまおう,と心に決めて、ろうそくの炎をフッと吹き消したその瞬間、外で、バタン、というとても大きな音がして、思わず、うわぁ、と大声で叫んでしまった。
もういよいよ震えが止まらなくなり、どうしようもないので来るなら来てみろとばかりに、やけくそで叫びながらドアを、がぁっと開けてやったのはいいが、そこには部屋の中と変わらぬ闇と静けさが広がっているだけだった………
結局その音は何だったのか、最後まで分からずじまい。
そんなこんなで暗闇と格闘して一夜を明かしてみると、次の日の朝、実はすぐとなりの部屋で従業員の一人が眠っていたらしく、お前、昨日夜遅く何だか大きな声を出していたみたいだけど、一体どうしたっていうんだ、と、あくびをしながら尋ねて来た。
すっかり客室には自分一人と思っていたので、そうと分かっていればもっと安心して眠ることができたのに………
少々、拍子抜けした気分だった。
まあ、そんなオチもついた一晩の体験だったのだが、その後も結局幽霊さんには出会わず、ほっとした次第であった。
まあ、そんな経験をしたぼくだから、夜の闇が、谷崎の言う、
”凄まじく、侘びしく、むくつけく、あじきないもの”
である、と言うのは何となく分かるような気がするんだ。
もう、今の日本では、ああいう暗さというのはよっぽどのところへ行かないと味わえないからね。どこ行ったって街灯ぐらいは光ってるでしょう。
ぼくもあんなの初めてだったもんなぁ………、いやまてよ、その前にもうひとつあったぞ、確かラオスを旅してたときに。
この話は今、関係ないのでまた今度詳しく話します。
日本という国だけに限らず、先進国と呼ばれる国々のほとんどは、生活から闇を追い払っているように思える。
夜を無くしてしまおうとしているかのように思える。
それは見えないものや、判別できないものに対する恐怖から逃れるためなのだろうか?
未知なるものへの恐れの気持ち。
そんな不安から、周りを明るく照らしだそうとする。
闇を追いやって全てを判別可能にして安心感を得ようとする。
でも、ぼくは、そういう闇も必要なんではないのかな、と思うんだ。
すべてを理解し尽くすことなんてできるわけがない。
曖昧なところは曖昧なままでいいと思うし、夜の闇の怖さもある程度は必要なんじゃないだろうか。
恐怖心、というのは人間にとってけっこう大事なものなんだと思うのだ。
見えないものや、得体の知れないものに対する畏れの気持ち。
自分以上の存在というものを体で感じて覚えておくこと。
眠らない街をいくつもつくって、夜を征服した気になって、傲慢になってしまい、歪んだ万能感に浸っていては、これから訪れる人間の未来にとって良くないもんね。
夜の暗さや、分からないことというものもある程度必要で、また、そこから生まれてくる人間の想像力こそが人を戒め、成長させるのだ、と思うのです。
だから、何ごともあんまりはっきりしちゃあ面白くない。
昔の人が見えないものや分からないことから、想像力を働かせて様々な神話や物語りをつくり出したみたいに、今の世の中もみんながそういう自由な発想を持てればいいのにね。
そうすれば、想像力豊かな楽しい社会になると思うんだ。
文化というのは案外そういうところから出発していくものなのかもしれない。
幽霊には会いたくないけどね。