伝説のゲストハウス

ダハブからの乗合ワゴンは、カイロ市内の地下鉄の前で停まり、私はそこで降ろされた。
朝方だったので、通勤や通学の人たちで地下鉄は込み合っている。
そこが一体カイロのどのあたりなのかよくわからなかったが、私は地下鉄に乗り、人に尋ねながら、ナセル駅へまでたどりついた。

目的の通称サファリビルは駅からすぐだと聞いていた。
そこのなかに私の目指すゲストハウスがある。
しかし、人に聞いても誰もわからず、地図と照らし合わせて歩いても、それらしいものは見当たらない。
ようやくそれは市場の前にあると教えられ、そこを歩いたが、やはりそれらしいものは見当たらない。
その通りを歩きながら、サファリビルはどこなんだろうかと思いながらうろついていると、ヘチマを売っている老人がこっちを見ている。
そして『お前の探しているのはここだ』
と目で合図してくれた。
なるほど、老人の座っている奥には、通路が続いている。
そしていかにも年代ものの、ビルが建っている。
そこがサファリビルの入り口である。

その老人は、通称「ヘチマ屋」と呼ばれている人だとすぐに気がついた。
彼のことは他の旅行者から聞いていた。
老人の見かけの商売は、彼の目の前に置かれたヘチマを売ることである。
しかし、彼の本当の商売は闇両替である。
老人の耳元で、
『チェンジマネー、プリーズ』
とささやくと、黙ってビルの奥につれていかれ、ドルのキャッシュをエジプトポンドにしてくれる。
レートは銀行よりはるかにいい。
100ドル両替すれば、銀行でやるより6ドルほどの得をすることになる。
このサファリビルの名物的な老人である。

そしてそのサファリビルに足を踏み入れると、ここが本当にゲストハウスなのとかと思う。
まず、階段が薄暗い。
そして壊れたエレベーターが1階のところで止まっている。
もう何年も動いていないうようだ。
そのまわりにはゴミが散乱して悪臭が漂っている。
そして猫が住み着いている様子で、誰かがエサをやっているようだった。

そのサファリビルには、2階にスルタンホテル、4階にベニスホテル、6階にサファリホテルとスルタン?がある。
どれも安宿であり、値段もそうは変わらなくて、140円前後だ。

そして、その6階にあるサファリホテルは、世界一濃いバックパッカーが集まる所として有名だった。
聞いたところでは、そこに4年間住んでいる日本人を筆頭に、1年以上の長期滞在者が数人いるということだった。
はたして、そこで彼らは何をやっているのかといえば、それぞれに事情があるのかもしれないが、はたから見ると何もやっていないに等しい。
いわゆる沈没である。
それにしても長すぎる沈没だ。
彼らが1階まで降り、外へ行くことを、「下界へ行く」と言うらしいが、それだけでも宿にこもっていることがわかる。

私はその手の日本人と、溜まり場的な宿が好きではなかった。
もちろん全ての人がそうだとは言わないが、その人たちの発する、どこか人を寄せ付けないような、それでいて長期滞在、あるいは長期旅行をどこかで誇っているような、そういう臭いが嫌いだった。
彼ら一人一人に個別に会えば、普通の人だったりするが、それが集団になってしまうと、なんとなく中に入りづらい。
しかし一方で、一度溶け込んでしまえば、居心地がよく、抜け出せなくなるのも確かだ。

私は一人で旅をしている。
誰かと行動を共にすることも多いが、基本は一人だ。
人と接するのは好きだし、誰かといることで、いろんな話が聞けたり、情報をもらえ
たりということはよくあることだけど、あえてわざわざ集団に入ることはしないこと
にしている。
日本で働くことになれば、多かれ少なかれ集団の中に入り、誰かに気を使うことにな
る。
だから旅の間だけは、そういう余計な労力を使いたくなかった。
だから今回もそのサファリホテルは避ける予定だった。

しかし、その世界一濃いバックパッカーが集まる宿には、世界一使える情報ノートが置いてあるはずだった。
そこには、これから行くアフリカの情報が大量にある。
広いアフリカに対して、一冊のガイドブックしかもっていない私は、その情報ノートを見なくては、とてもアフリカ縦断などできないと思っていた。
しかし、それは宿泊客しか見ることができないと聞いていたので、最初にそこで2、3泊して情報ノートをチェックし、それから別のホテルに移ろうと思っていた。

ところがそのサファリホテルは、私がヨルダンにいる時に、崩壊したと聞いた。
かといって本当に建物が崩れたわけではない。
ましてホテルがつぶれたわけでもなく、崩壊なのだ。

そこに4年間住んでいた日本人がいた。
その彼は、そこではボス的な存在であったらしい。
ボスというのは、どういうものかわからないが、ゲストハウスのルールなどを説明するのは、従業員ではなくその彼だったという話だ。
あとは、宿泊客で手分けして、自炊をすることが多いが、それを仕切ったりしていたらしい。
その彼が今年の3月に帰国し、それを機にオーナーは、他の長期滞在者も追い出しにかかった。
サファリホテルの長期滞在者たちは、毎晩マージャンとガンジャで時間をつぶす。
その雰囲気の悪さから、日本人以外の旅行者が来ないのと、日本人でも彼らについていけない旅行者は他に行ってしまうというのが理由らしい。
そしてサファリホテルから長期滞在者は消え、情報ノートはどういうわけだか、ヒルトンホテルの旅行大理店に預けられ、しかもそこへ行っても見ることはできない。
さらには宿の料金が上がった。

とにかく私がサファリホテルに行く理由もなくなり、4階のベニスホテルに宿をとったのだ。

ベニスホテルに泊まっているとき、同じビルにあるので、サファリホテルの宿泊客と知り合いになり、彼らが自炊するというので、一度そこに招かれたことがある。
ドミトリーは狭い部屋の中に、ベッドがいくつもおしこまれ、洗濯ものが室内の至るところにぶらさがっている。
ガンジャをやっている人もいた。
それくらいなら、どこのゲストハウスも同じである。
しかし以前のように、沈没する人はいなくなり、旅行者は次々と他の目的地へ行き、滞在者の入れ替わりも多い。
サファリホテルが溜まり場的な宿だという印象は受けなかった。
そして、宿泊客も減っていた。
値上げしたため、サファリビルのなかでは料金は一番高くなり、なおかつ最上階にあるので、そこまで階段で上がるよりは、2階のスルタンホテルや4階のベニスホテルに客は流れるのは当然だし、ベニスホテルなどのほうが清潔だった。

そして何より、情報ノートがないために、日本人は来なくなった。
かといって外国人の利用が増えたかといえば、そういうわけでもない。

私もその情報ノートをあきらめるしかなかった。
そしてカイロの街で、エッセイの原稿を書いたり、街を歩いたりした。
しかし、カイロの街並みは大して興味を持てなかった。
どことなくデリーに似ていて、発展はしているが、高層ビルが連なるというほどでもなく、ダウンタウンにしても悪くはないが、シリアのダマスカスや、イスラエルのエルサレムに比べると、どうしても色あせてしまう。
私はそこで、ピラミッドや国立博物館などの観光を一通り済ませ、アルジェリアとの国境近くにあるシーワ・オアシスという泥の街まで足を延ばしたりした。
そして、スーダンやエチオピアのビザと取ったりして、南下の準備を整えた。

ゲストハウスというものは、世界中に存在するが、そのなかにも日本人の溜まり場となり、名を馳せているものがいくつかある。
インド、バラナシの久美子ハウスであったり、トルコ、イスタンブールのコンヤペンションであったりする。
もちろんカイロのサファリホテルもそうだった。
それぞれのゲストハウスが、特有の匂いみたいなものを発していて、なかなか面白い。
旅行者も自分と同じような匂いを発する所を求めるのか、宿泊客もどことなく似たような長期旅行者が集まり、そして沈没していく。
サファリホテルには、そういう匂いはなくなってしまい、したがって、そういう匂いを発する宿泊客も、そこに溜まるということもこれからはなくなるのだろう。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

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