沈没の味

約一ヶ月ぶりに戻ってきたイスタンブールの街は、以前に増して寒さがこたえた。
毎日雪が降っていた。
といっても降っては止んで、それをを繰り返し、すぐに雨に変わる。
その雪は水分が多く、2、3センチしか積もらず、翌朝には凍っている。
そして昼間には溶け出して、地面はいつもぬかるんでいた。
街を歩けば、靴の中に水が染み込み、この上なく不快感を感じた。
別に、雪景色のイスタンブールというほどの、ロマンチックなものではなかった。

ギリシャのテッサロニキから約12間かけて、イスタンブールに着いても、別に懐かしさなんてものはなかった。
そこに私がいたのは、ほんの一ヶ月前だ。
しかし、一ヶ月前の自分と、今の自分はまるで別人だった。
少なくとも自分の未来というのは、全く違うものになった。
ただ、懐かしさを感じたとすれば、イスタンブールという街にはではなく、一ヶ月前の自分にであった。

以前泊まっていたコンヤペンションへと向かいチェックインをした。
しかしドミトリーが一杯で、廊下の一角にベッドを置き、カーテンで仕切っただけのベッドしかなかった。
ドミトリーが5ドルのところを、その廊下のベッドを4ドルで泊まらせてくれたはいいが、やはり夜は寒さがこたえた。
ドミトリーが一杯なのは、卒業旅行シーズンだからであった。
多くの学生がイスタンブールからカイロまでの旅行を楽しむ。
あるいはイスタンブールだけを目的に来る学生も多い。
夜になると団欒室は足の踏み場もないほど、人口密度が高くなる。

別にそういう学生と話すのは嫌いではなかった。
むしろ新鮮な事を聞けることも多い。
でも、今の私は、そういう知らない誰かと会話をすること自体、億劫になっていた。

そんな理由もあって私はすぐにコンヤペンションから宿を移った。
街を歩いているときに、客引きに連れられ、朝食付きで6ドルというホテルを見つけたからだ。

私はその6ドルのホテルに移ってから、10日ほどそこに滞在した。
すぐに次の目的地であるシリアのビザを取りに行ったが、それが済んでしまった後は、もう何もしていない。
このときに私は今までの旅で、初めて沈没したと感じた。

この沈没というのは、ほとんどバックパッカーの世界のみに共通する用語だろう。
正確な定義なんてものは多分ないと思うが、一般的には、一つの場所に滞在し続けて、次の場所に移動できなくなることを言う。
その沈没と言うに値する期間というのが、どれだけの長さかというと、人によってさまざまで、1週間で沈没だという人もいれば、一ヶ月だと言う人もいる。

そういった期間だけを考えて、自分の旅を思い起こすと、私の場合、チベットのラサ、ネパールのカトマンズ、インドのバラナシにそれぞれ、3週間ほど滞在していた。
しかしあの時は、沈没しているなんて考えたことはなかった。
毎日が充実していた。
私は、それらの街で飽きることなく、写真を撮り続けていた。
だから自分が沈没しているなんて思ったことはなかった。

私はその期間をもって、沈没しているかどうかとは言えないような気がする。
要は、ただ何をするでもなく、いたずらに一つの場所にとどまることを沈没と言うのではないかと思っている。

ちなみにアジアで沈没地として人気のカトマンズやポカラ、あるいはバラナシなどでは、決まって簡単にガンジャが手に入る。
ガンジャに身を浸しながら、ただやみくもに時間を過ごす人は少なくない。

今の私は、ガンジャに身を浸すわけもないが、無意味に時間だけを消費しているという意味では、彼らと何も変わらない。

だいたい10時過ぎにのこのこと起き出して、ベッドの上でフランスパンをかじる。

その後、特に用事はないがスーパーへと出かけて、お菓子かなんかを買ってくる。
しかし、寒さのためにすぐにホテルにもどり、ネットなんかで時間をつぶす。
かといって、1日はあまりに長く、持て余してしまうので、意を決して外出する。
意を決して外出しなけば出かけられないほど寒い。
いや、東京のそれと大して変わらないとは思うが、ここにはダウンジャケットなんてあったかいものはない。
たいてい、バスに乗って、新市街へ行き、歩いて帰ってくる。
あるいは20分ほどかけて、ガラタ橋という所までふらふらと歩くくらいだ。

そして私はカメラさえ持ち歩かなくなった。
今まではちょっとした外出でも、ほとんどカメラを持ち歩いていた。
シャッターチャンスがどこにあるかわからないからだ。
それが、カメラさえ持たなくなってしまった。

そしてただあてもなく、2時間ばから街を歩き、宿にもどり、夜を待つ。
夜になればなったで、夕食を食べに行くでもなく、ホテルのキッチンで夕食をつくり、あとは寝るだけである。

あまりの寒さと、雪と雨が降り続いて、スーパー以外に外出しない日さえあった。
これではもう、旅をしているとはいえないような気さえした。

ほとんどそんなふうにして、毎日を、時間を持て余すかのように過ごしていた。

だったら早いところシリアへ向かえばいいのだが、それもできない。
全てが面倒で億劫で、そして無気力だった。
なにもかもがどうでもよく、まるで他人事だった。
こんな状態なら帰国したほうが、まだましだとも考えたが、もうそれさえも面倒に思えた。

長く旅を続ければ、いつかはそうなるとは思っていた。
しかしそれに個人的な理由も重なって、それは案外早く来た。
私は前に進めずに、そこに留まるしかなかった。

何かを変えなければと思った。
そうでなければ、自分が落ちるところまで落ちていくと思った。

私はふとあることを思いついた。
占いである。
トラム沿いの道に珍しい占いを以前見たのを思い出した。
それは小さいテーブルの上に、何十枚ものカードがおいてあり、さらにその上にウサギが横たわっているのだ。
そして、占い師にはとうてい見えない、おやじの合図で、そのウサギが一枚カードを
引くというものだ。
私は、それをやってみようと思い立ったのだ。

もともと日本にいても占いなんか関心はない。
初詣のときおみくじをやるくらいだ。

いくら私が無気力だとはいえ、占いに頼るなんてことはしない。
それにどう考えても、そのウサギの占いは、品のよさそうなものでもないし、当たる気もしない。
ただ、私はそのウサギの引くカードに、よさそうなことが書いてあれば、それを「罪のない嘘」くらいに信じてみることによって、新しい風を引き寄せることができるかもしれない思ったのだった。

無論、よくないことが書いてあれば、よいことの書いてあるカードが出るまで何度もやるつもりだた。
私にとって占いはそんな程度のことである。

軽い気分転換のつもりで、それを探した。
しかし、かつてトラム沿いにあった、その占いは見つからなかった。
その日は雪が強かったからかもしれない。
そう思って、その次の日も探してみた。
しかしやはり見つからない。
もしかしたら、冬のために店をたたんでしまったのかもしれない。

私はウサギにさえ、見放されたのと思うと、悲しいというよりは、なんだかおかしくなって、笑ってしまった。

そんなふうに、イスタンブールに着いて、何日かたった時だった。
東京で言えば大雪と呼べる雪が降っていた。
あっという間に10センチ以上は積もっていた。

そして雪が小降りになったのは見計らって、私は出かけることにした。
その時に、久しぶりにカメラを持った。
いやカメラを持って出かけたことはあったが、撮ったことはない。
恐らく、イタリア以来だろう。
雪のかかったブルーモスクを撮ろうと思ったのだ。

ところがブルーモスクはドーム型のため雪が積もらず、すべり落ちて、少し拍子抜けした。
しかし、辺りは雪に覆われていて、その中にあるブルーモスクはいつもより存在感を増していたように思えた。
そしてその周りの広場には、子どもたちが雪合戦をして遊んでいる。
雪の為に学校が休みなったらしい。
私は、そんな風景にカメラを向けシャッターを切った。
ときおり子どもたちからの、雪の玉が飛んでくるのを避けながら写真を撮った。

その感覚は何だか懐かしかった。

私には、まだ撮りたいものがあるはずだ。
そう思った。
それは、自然とそう思ったというよりは、もしかしたら、ある種の自己防衛なのかもしれない。
自分の悩が自分を守るために、そう考えたのかもしれない。
とにかく、私はカメラを持つ事によって、ようやく、その旅とは到底言えないような、無意味な生活から脱出できるかもしれないと思った。

私はその気持ちが萎えないうちに、その足でバスチケットを買いに行った。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

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