イランの憂鬱その1

パキスタンとイランの国境の街は荒野のなかにぽつんと存在していて、街と呼ぶにはあまりに小さく、人も少なかった。
そこで生活するというよりは、ただ国境があるから、そこを通る旅行者や商人が通過するだけの街というように映った。
私はどうやら街の外れでバスを降ろされたらしく、そこから人の道を聞き、国境まで30分ほど歩くはめになった。

道を聞くと言っても、視界を遮るような建物は何もないから、教えてもらったイミグレーションの建物を目指して歩くだけだ。
イミグレーションに着くと、近くの売店で、残りわずかのパキスタンルピーでたばこを買って、それを使い果たした。
そしてまずカスタムと書かれた建物に向かった。

小さな建物の前にテーブルとイスが置かれていて、3人の制服を着た男たちがチャーイを飲んでいた。
『ここがカスタムですか?』
と尋ねると、
『そうだ』
と3人のうち、一番年配で偉いと思われる男が答えた。
『じゃあ、荷物をチェックしてください』
と私が言うと、
『まずは座ってくれ、そして、チャーイを飲んでいけ』
とその男が言う。
そして、これはリプトンティーだからうまいと自慢気にチャーイを入れてくれ、さらにクッキーを出してくれた。
『どこから来た?』
『ジャパンです』
『これからイランか?その後は?』
『トルコです』
『その後、ジャーマンか?』
『いえギリシャから、アフリカに行きたいと思っています』
『いつジャーマンに帰る?』
とその男とそこまで会話をして、彼がジャーマンとジャパンを間違えていることに気づいた。
いったいどっからどうみれば、私をドイツ人だと思うのだろうか。

その後、彼は新聞を見て、記事のなかにアメリカのブッシュの写真を見つけると、
『ブッシュを知っているか?ブッシュは駄目だな。でもイラクはもっとだめだ』
と同意を求めるでもなく、話していた。
またパレスチナ解放機構のアラファト議長の写真を見ながら何か言っていたが、私の語学力では、その内容がわからなかった。
さらに、化粧品の広告で女性の写真が出ていると、
『どうだ、パキスタンの女性はかわいいだろう?』
と言って、全く本題に入ろうとしない。

私は勧められるまま、3杯のリプトンティーを飲み干した。
私はしびれを切らして
『カスタムチェックは?』
と聞くと、
『ジャパニーズ、何をそんなに急ぐのだ?』
と言われてしまった。
確かに急ぐ必要なんて私にとっても彼にとっても何もない。
そして、
『カスタムチェックはすでに終わっている。日本人よ、良い旅を』
と彼は言って、カスタムチェックは終わった。
要はノーチェックなわけだ。

その直後に彼の無線に連絡があった。
『これから要人が国境を通過するから、イミグレーションでは待たされるぞ』と言って、彼も要人を迎えるべく通りに消えて行った。
数メートル先のイミグレーションへ行くとやはり少し待てと言われた。
パキスタン人だか、イラン人だかわからない数十人の男たちもやはり待たされているのか、通りに出て要人を待っているので、私もそれに倣うことにした。
15分ほど待って、イラン側からスーツを着た40代の男が護衛の兵士と共に現れ、パキスタンの軍服を着た男たちと握手をして抱擁をしていた。
彼がどんな人なのか、パキスタンの要人なのか、イランの要人なのかは全くわからない。
そして、彼を出迎えた車はトヨタのランドクルーザーだった。
それを見て私は、
『日本とはたいした国だ』
などと思ってしまった。
こんな所で要人を迎える車として、トヨタが使われている。
日本という国はすごいものだとつくづく思った。
私はその国に生まれ、育った。
日本にいるときは自分が日本人だなんて考えることはない。
しかし、一歩海外へ足を踏み入れると、「お前は何人か」と問われ「日本人だ」と言う度に、自分は日本国籍だということを噛み締める。
その時の感覚というものは不思議なものだ。
日本では決して感じることはない。
私はその度に日本人に生まれたことを素直に喜び、「祖国」なんて古臭い言葉が頭をよぎる。

私は国境を越え、イランに入国した。
国境から乗合タクシーとバスを乗り継ぎ、その日のうちにバムという街まで行った。

アクバルゲストハウスという安宿に着くと、オーナーが、
『まずはチャーイを』
と言って、もてなしてくれた。
ここまでくるとチャーイはすでにミルクティーではない。
ブラックティーとともに、角砂糖を口のなかに放り込んで、口の中で溶かしながら飲む。
チャーイの味が変わり、国が変わったことを感じた。

次の日、私はゲストハウスから30分ほど歩いて、アルゲ・バムという遺跡に行った。
壮大な廃虚と表現されるそれは、十分に私を満足させてくれた。
土と草を混ぜて造った建物が続き、それは廃虚と呼ぶにふさわしい。
その奥には城が残っていた。
その歴史的な重要性というのは、同じくイランのぺルセポリスの方が上らしいが、世界史にうとい私にはそんなことは関係ない。
2002の最後の日に、このアルゲ・バムの遺跡を見ことができたことを嬉しく思った。

その夜、新たに着いた数人の日本人と一緒に、ゲストハウスで食事をした。
そして、ロビーでくつろいでいるとき、一人のイラン人の男性と話をした。
彼はもう50歳に手が届くくらいだろうか。
足が不自由らしく、いつもクラッチ(杖)をして歩いていた。
私は彼のクラッチが何故か気にかかっていた。
彼は英語がまったくできない。
彼は昨日もこの宿にいたので、挨拶くらいの会話はしていたが、意思の疎通がうまいようにいかないので、会話は長続きしなかった。
ただビジネスでパキスタンへ行き、エスファハンへ帰る途中であることだけはわかった。
しかし今日は失礼を重々承知で足のことを尋ねてみた。
やはり私の英語は通じなかったが、彼がわざわざ従業員に通訳を頼み私は改めて彼と話をした。
『その足はどうしたんですか?事故ですか?』
と聞くと、
『これはイラン・イラク戦争を戦ったときのものだ』
と予想もしていなかった答えが返ってきた。
その言い方は極めて静かで落ち着いていた。
『じゃあ、年金みたいなものを国からもらっているのですか?』
と私は言って、我ながらしょうもないことを聞いてしまったと後悔した。
しかし彼はまた落ち着いて答えてくれた。
『もちろんもらっている。私は国のために戦った』
『国のため』という彼の言葉が私には新鮮に聞こえた。
今の日本ではまず聞かない言葉だ。
私を含め、戦後の豊かな時代に生まれ育った人間は、まず口にしないだろう。
今の日本で『国のために』本気で何かをする人間が果たしてどれくらいいるだろうか。
しかしそれを誇らしく語る男がここにはいた。
『あなたはイランのヒーローですね』
と私が言うと彼はちょっとはにかんで、素直に喜んでいた。
彼は私を外に連れ出して、
『他の人には内緒だ』
と言って、自分のしている指輪を私にくれた。
それはシルバーリングにオレンジ色のでっかい石がはめ込まれたもので、石にはイスラム教の経典の一文が書かれているらしかった。
『私のことを忘れないように。そしてあなたにアッラーの祝福が訪れるように』と言ってそれを渡してくれた。
私は深く何度もお礼を言った。
今日はいい日だと思った。
2002年の最後の日にふさわしかった。
そして、イランのことを、イランの人を好きになった。
数十分して、2003年に年が変わった。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

「イランの憂鬱その1」への1件のフィードバック

  1. パキスタンへ行きたいと思っているのでとても勉強になりました!やはり日本は良い国なのですね!

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