この投稿は古代王朝「殷」に詳しくまとめました。
青銅器の龍シルバーリング発売にあたってテーマとなった古代の青銅器が作られた時代をまとめてみます。
空想上の王朝
紀元前1600年頃 – 紀元前1046年まで続いた中国最古の王朝「殷」。
19世紀以前まで殷は空想上の王朝とみなされていた。
その理由は1000年以上も後世に書かれた「史記」などの文字史料による記載だけで、実在の根拠となるものが何も発見されていなかったからです。
甲骨文字の歴史的発見
殷が実存するという証拠の発見はある偶然のきっかけでした。
1899年北京。金文(青銅器や石碑の銘文に刻まれた古代の漢字)を研究する学者であった王懿栄(オウイエイ)はマラリアに悩まされ、マラリアに効くという「竜骨」と呼ばれる漢方薬を服用していた。
竜の骨という名前がついているが実際には龍の骨ではない。
地中から出土する亀の甲羅や象、犀、牛など獣の骨の化石を中国人は龍の骨であると信じ、薬としていた。
当時、王懿栄の元に劉鉄雲(リュウテツウン)という人物が寄宿していた。
ある日、劉鉄雲は粉にする前の竜骨に目が留まった。竜骨に何か文字のようなものが刻まれていたからです。
「これは金文(青銅器や石碑の銘文に刻まれた古代の漢字)よりさらに古い文字なのではないか」と疑問を抱き、王懿栄に報告した。
もしかしたらこれは大変な価値を持つものかもしれないと判断した二人は北京中の漢方薬店で竜骨を買い漁って研究を進めた。
やがてこれらの竜骨の出所を辿っていくと河南省の安陽県の小屯村であることが判る。
ここはかつて「殷墟」と呼ばれた地であった。
驚くべき史記の正確性
劉鉄雲と交流のあった羅振玉(ラシンギョク)、そして王国維(オウコクイ)の2人は小屯村を発掘調査し、文字の刻まれた竜骨、青銅器、玉器などを発見する。
その後、辛亥革命(1911年)によって日本への亡命を余儀なくされた2人は日本の学者の協力などを得て、竜骨に刻まれた文字(甲骨文字)の研究と解読に努めた。
そしてある事実を発見する。小屯村は殷末期の都であること、文字から読める殷の王の系図と史記に記された殷の王の系図がほぼ一致することであった。
ここに空想上の王朝とされていた「殷」の実在が証明されたのです。
神権政治と世界観
刻まれていた甲骨文字の内容はそのほとんどが卜占(ボクセン/占い)の結果であった。
卜占は亀の甲羅、獣の肩甲骨に卜占の内容を刻み、裏側を火であぶり表面にできる亀裂によって吉兆や行動の指針を決めるものでした。
占われていた内容は、祭祀に関するものが多く、狩猟や戦争、天候の予知などありとあらゆるもので盛んに行われていた。
卜占とは神の言葉であり、人々の行動は神の卜占によって決定された。
卜占を通じて神の言葉を伝えるものは貞人(テイジン)と呼ばれ、指導者あるいは神の代弁者として人々を導いた。
有力な貞人のもとに人々は集まり部族が形成され、部族が集合して国となった。
部族連合の長、すなわち殷王も貞人の一族であり、祭祀王であった。
当時祀られていた神々は、山や河などの自然神や王家や部族の首長の祖先神などでした。
殷王家は太陽神の末裔を名乗り太陽崇拝を行っていた。代々の王の諡(オクリナ/死者に贈る称号)には当時信じられていた10個の太陽の名前、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸が付けられた。
殷の時代は、自然や神々への畏敬と信仰心は現代からでは理解しがたいほど大きく、自然現象から病気にいたるまですべてが神々の御業であり、神々に満ち満ちていた時代でした。
人間の行為の善悪が吉祥や災異を招くと信じられ、神の恩寵を受けたり、怒りを鎮めるために祭祀の供物として生贄が捧げられた。
生贄は犬、羊、馬、牛などの獣が使われ、時には人が捧げられた。
生贄にはチベット系遊牧民の羌族が多く、人狩りによって捕獲され、祭祀の時に神へ捧げられたと甲骨文字の記録は残している。