上海より帰国しました。
今回の上海訪問は昨年以上に多くの出会いと刺激に満ちたものとなりました。
移ろいゆく上海。アジアでいや世界で今もっとも活気のある街。
20世紀初頭、妖しい輝きに満ちた魔都として多くの人々を吸引した上海は、今再び夢や欲望を叶えてくれる街として人を引き寄せています。
私もそのうちの一人なのかもしれません。
今回の上海訪問の主要な目的として「雅体(みやびたい)」と呼ばれる中国古代の文字を研究する王超鷹さんにお会いするということがありました。
王さんは中国有数のデザイン事務所、PAOS上海の代表として多忙な地位にありながらも、ライフワークとしてこの雅体を研究されています。
昨年、長年の友人でもあるROUROUの社長とデザイナーのマキさんといっしょに上海を訪問したときに、まさに値遇ともいえる王さんとの出会いがありました。
王さんの「雅体」にかける情熱と「雅体」の物語に我々はすっかり引き込まれ、「雅体」の魅力にすっかりはまってしまいました。
あれから1年、ROUROUではこの「雅体」の魅力をもっと多くの人に伝えたいと、同じ想いを抱く多くの人を巻き込んで「雅体」プロジェクトを始動しました。
今回の上海訪問はそのプロジェクトの展開を話し合うためであり、私もその末席に参加させてもらった次第です。
「雅体」とは漢字がまだ漢字と呼ばれるよりもずっと以前の文字です。
時代にしておよそ2500年以上も前の春秋戦国時代の頃から秦の時代までに使われていた文字です。
この当時の中国には「俗体」「正体」「雅体」という3種類の漢字が存在していました。
「俗体」は日常生活で使われている文字。「正体」は現在でいえば活字にあたる文字。そして「雅体」は貴族や芸術家などだけが使っていた文字で美しさを表現するための文字でした。
また国が異なるごとに文字も異なっていた時代でした。
数百年にもおよぶ動乱の時代を終息させ、覇者となった秦王は“三皇五帝”(中国の伝説上の八人の帝王)を凌駕するという意味で始皇帝を名乗ります。
秦の武を重んじる風潮からは、美を愛でる貴族文化は退廃と映ったようで、焚書坑儒によって書物は焼かれ、文人たちは埋められてしまいました。
また各国で異なっていた文字の統一を行い、秦が使用していた「小篆」を標準書体として頒布させます。
これが現在、印鑑などに使われている篆書(てんしょ)です。
漢字の本流から外れた「雅体」は現在ほとんど残されておらず、土中から発掘される当時の青銅器などにわずかにその痕跡を残しているにすぎません。
王さんはこの「雅体」を収集し、表面的な解析にとどまらず、文字から伝わる当時の人々の雅(みやび)な心を感じ取ろうと心血を注いでいます。
次の写真は、長江流域にあった呉の国の王、夫差(ふさ)のものとされている青銅製の剣です。
剣には「雅体」がいくつか残されています。
我々が普段使っている明朝体よりも、象形文字に近く鳥の頭らしき図が判別できます。
鳥が多く見られるのは、呉が鳥を崇め祀った長江文明の系譜にあることを示唆しているのかもしれません。
呉王夫差の青銅製の剣
象形文字に近い鳥の頭らしき図