おみやげ屋2

ロシャンの家の家族構成は、父、母、ロシャン、奥さん、子どもの5人である。
奥さんは若い。というより幼い。
歳を尋ねると16だという。
聞くと、彼女が13歳のとき、ロシャンと結婚したという。
13歳で結婚。私は驚いた。

ネパールの法律にも、結婚をするには年齢制限があり、奥さんの結婚当時の歳は当然ひっかかるのだが、世間ではそんなことお構いなしに結婚してしまうらしい。
それに、彼の結婚した理由がおもしろい。
ロシャンがいうには、彼は若いころ女の子にもてたと言う。
そのころ、つきあっている女の子がいて、その子のことが大好きだった。
ある日、いまの奥さんに、好きですと言われ、それにロシャンは、嫌いだとこたえた。
そしたら奥さんはビービー泣きだした、ロシャンはそれで奥さんとつきあうことにし、結婚したという。
男が結婚する理由なんて、そんなものかもしれない。

家には部屋が二部屋あった。
一部屋は、台所、食堂、居間、父母の寝室を兼ねた14畳ほどの大きな部屋。
もうひとつは6畳ほどの、ロシャン、奥さん、子どもの寝室。
さっそく、私は食事をごちそうになる。
この日の夕食はダルバート。
ごはんに豆のスープをかけて食べる、ネパールのオーソドックスな食事である。
日本でいえば、ごはんにみそ汁を少しかけて食べるのに似ている。
私が来るからと、山羊の肉がダルバートに入っている。
これが恐ろしく硬い。
どんなに噛んでも噛み切れない。
仕方がないから、飲み込むことにした。
ロシャンは私にチャンをすすめる。
チャンとは、米からつくった酒である。
日本酒とは違い、簡単につくれるらしく、味もうすい。
ロシャンはこれをライスビールだと言って、私にすすめる。
この日は、ロシャンとその友人、私の3人で遅くまで飲んだ。

ある日、ロシャンの店へチェスをしに出かけると、チェスがない。
先ほど売れたという。
良かったじゃないか、幾らで売れたの、と聞くと、450ルピーという。
ロシャンと一緒に仕入れに行ったことのある私は、その仕入れ値を知っている。 「あれは400ルピーしたじゃないか、せめて600ルピーで売れよ」
ロシャンを責めた私に、彼はめずらしく反発する。
「50ルピーでも、僕にとっては大きなもうけなのだ」

カトマンズを離れる前、私はなにかロシャンの家族にお返しがしたかった。
私は彼の家で、ダルバートを10食以上はごちそうになっている。
「なにが良い」
ロシャンに尋ねるが、彼は遠慮しているのか何も言わない。
考えてみる、という。
店にロシャンの姉の子が遊びに来ていたので、彼に聞くと、小さな声で果物という。  
果物も良いな。
だが一応、ロシャンに両親にも聞いてみてくれ、と言っておく。

翌日、私はロシャンの店に行く。
「なにが良いと言っていた」
ロシャンは言いにくそうに、こう言った。
「お米」
彼の家は決して裕福ではない。
私は、その裕福ではない家で、何度もごちそうになった。
申しわけなく思う。
私は、彼と彼の家族に感謝して、お米を一俵プレゼントした。

いとう某 22歳のとき初めて行った海外旅行で日本とは違う世界に衝撃を受ける。まだ見ぬ世界、自己の成長と可能性を求めて旅した国は、5年間で35ヶ国。思い出に残る旅はエヴェレストを見たヒマラヤトレッキング。

おみやげ屋1

ネパール、カトマンズ。
クマリ館の東隣にある大広場には、たくさんのおみやげ屋が店を開いている。クマリ館の東隣にある大広場店を開いている。
おみやげ屋といっても店舗を持っているわけではなく、広場に板をひき、その上に色々なおみやげを並べて売っている。
店の数は30を下らない。
それだけ店があると、ひまな店が出てくる。
いや、一日のほとんどを彼らはひましている。
だからであろう、彼らは毎日チェスをしている。
彼ら以上にひまな私は、観光もせず、チェスを眺めている。
ときどきやらせてもらうが、なかなか順番は回ってこない。
「チェスがやりたいのか」
後ろから若い男が声をかけてきた。
「やりたい」
私は彼の店先でチェスをやることにした。
彼の名前はロシャンという。
ロシャンは店の商品であるチェスを取りだし、駒を並べはじめた。
「売り物なのに良いのか」
と聞くと、良いという。
そのチェスの駒は、金属の駒で、怪獣のような形をしている。
駒の怪獣は、ネパールの何か意味のあるものらしい、説明をしてくれるが良くわからない。
というより、あまり真剣に聞いてない。
ゴジラに似ている、などと私は思っていた。
このときは完敗した。
また明日やろうと、ロシャンと別れた。

次の日、私はまたロシャンとチェスをうつ。
ロシャンが嫌な一手をうってきた。
おもわず、待ったをかけたくなる。
う?んと、うなりながら考えていると、人のけはいを感じた。
ふと見ると、欧米人がカメラを構え、シャッターチャンスを待っている。
その欧米人は私に、カメラを見ず次の一手をうて、と手振りでせかす。
ここは勝負どこだ、えいと次の一手をうつ。
シャッターがパシャパシャと切られる。
私の敗北は決まった。
カメラのせいだと私は思う。
それにしてもこの欧米人は解かっているのだろうか、私が日本人であることを。
毎日チェスをするうちに、私はロシャンと仲良くなった。
ロシャンがいう。
「一度、うちにめし食べにおいで」
私は行くことにした。
日が暮れ、私はロシャンと彼の友人と、店の片付けを手伝う。
驚いたことがひとつ、片付けた商品などを運ぶ仕事があり、かなり重いと思われる荷物をその職の人がひとりで運ぶ。
人間じゃない。
片付けおわった私たちは、彼の家にむかう。
ここだと言われた、ロシャンのアパートはいまにも崩れそうな建物だった。

いとう某 22歳のとき初めて行った海外旅行で日本とは違う世界に衝撃を受ける。まだ見ぬ世界、自己の成長と可能性を求めて旅した国は、5年間で35ヶ国。思い出に残る旅はエヴェレストを見たヒマラヤトレッキング。

森の宿2

「カトマンズは車が多く、空気が汚れている。そのため私は健康を害した」
と主人は思い出すように話す。
「私は毎日のように病院に通い、薬を飲んでいた」
スイス人女性と私は聞き入っている。
「ある日、私は大学を辞めた」
「収入は良かったのでしょう」
とスイス人女性が聞く。
「確かに良かった。しかし、収入より身体が大切だと思った」
隣村のジュンベシは奥さんの故郷だという。
それでここに住んでいるのか。
「ここに住むようになってから、私は病院も医者も薬も必要なくなった」
病気は治り、身体が良くなったという。
主人はいった。
「自然のなかで生活するということは、すばらしいことだ」

翌朝、朝食にアンクルティを食べた私は、主人に針と糸を貸してくれないかとお願いする。
理由を尋ねる主人に、破れたバックパックを直すため、とこたえる。
「私が縫ってやろう」
主人は太くて大きな針と、紫色の太い糸でバックパックを直し始めた。
私はその間、子どもたちと遊ぶことにする。
ノートで折り紙を折ってあげた。
カメラとだまし船。
子どもたちは喜んでくれた。折り紙を持って宿のなかを走り回っている。
男の子ような顔をした妹が、テーブルの上にのった私の帽子を、人差し指でつついてみる。
「かぶってごらん」
彼女の頭に帽子をのせる。あたりまえだが、ブカブカだ。
そのまま母親のところへ走ってゆく。
似合うかどうか、聞きにいったのだろう。
戻ってきて父親に見せる。
「私にもかぶらせてくれ」
主人は帽子をかぶる。
私は似合いますよ、とほめる。
「良い帽子だ。私の帽子と交換しないか」
と主人。
理由は、主人の持っている毛糸の帽子では頭がむれ、髪に良くないからだという。
「私はハゲだから」
主人は頭をなでている。
娘がわあわあと、何か言っている。
主人に聞くと、お父さんはハゲだから帽子をあげてと言っている、という。
英語が解からないはずの娘が、私たちの会話を理解している。
申しわけないが、と私はことわる。
バックパックが直った。
私はお礼を言い、修繕費を払おうとする。
主人はいらないよ、と言ってくれた。

ジュンベシに向かう道中、後ろから主人に声をかけられた。
奥さんの実家に行くという。
主人は、失礼とばかりに、軽やかに私を追いぬいてゆく。
あれが昔、病人だったっていうのだからなあ。
自然の治癒力はすばらしい。
しかし、と私は思う。
病気は治っても、ハゲは治らないらしい。

いとう某 22歳のとき初めて行った海外旅行で日本とは違う世界に衝撃を受ける。まだ見ぬ世界、自己の成長と可能性を求めて旅した国は、5年間で35ヶ国。思い出に残る旅はエヴェレストを見たヒマラヤトレッキング。

森の宿1

ネパール。
交通手段が、徒歩以外は馬、牛、ロバしかないところ。
その宿は、森の中に一件だけ、ポツンと建っていた。
「この宿に泊まるのか」
夕暮れ時、ほったて小屋のような宿を前に、私はこの森の中で知りあったポーターと、合わせた両手を頬のあて、ゼスチャーで会話する。
彼は英語ができない。私にそうだ、とゼスチャーで返す。
「君はどうするのだ」
とゼスチャーで尋ねると、次の村、ジュンベシに行くらしい。
「私もジュンベシに行く」
とやはりゼスチャーでいうと、この宿で泊まったほうが良いと言っているらしい。  
ほったて小屋の中から、小さな子どもが出てきた。
ポーターの彼が何か言うと、子どもはほったて小屋から父親を呼んできた。
髪の薄い父親が、この宿の主人だという。
「ジュンベシの宿は高いから、ここに泊まってゆくと良い、と言っている」
彼が通訳してくれる。彼の流暢な英語に、私は少しうさんくささを感じた。
主人はそれを察したのか、強いて宿泊をすすめない。
値段を聞くと1泊15ルピー(約30円)という。私は泊まることにした。

ほったて小屋の中は、意外に広い。
ダイニングにキッチン、ドミトリーだが寝室もある。
ヒマラヤトレッキングのロッジには、ベッドのないところもある。
このほったて小屋を見たときは、ダイニングの長椅子で寝るのかと思ったが、ベッドがあるので安心した。
ほったて小屋というのは失礼かもしれない。

キッチンには先客がいた。
30半ばのスイス人女性だ。
ここの子どもたちと共に、かまどの火にあたっている。
寒い。私も火にあたらせてもらうことにした。
夕食を食べるかと聞かれ、ダルバートとホットレモンを注文する。
ダルバートは、豆スープをごはんにぶっかけたネパールの代表的な食事である。
足元に猫がいる。
私の膝の上で丸くなる。
主人の奥さんが料理の手を休め、ホットレモンをつくってくれた。
私は、ホットレモンをすする。
子どもたちの食事ができた。
ふたりの娘がテーブルにつく。
パンケーキのようなものを食べている。
おいしそうだね、これは何、と主人に尋ねると、アンクルティという。
アンクルティとは、ポテトパンケーキのことだ。
「このアンクルティをおいしくつくるのはとても難しいのだが、家内は上手につくる」 と主人はのろける。
奥さんが照れながら、微笑んでいる。
スイス人女性が、主人の英語を上手だとほめる。
どうでも良いが、私の英語はほめない。
「ありがとう」
主人はお礼を言い、その理由を話す。
「私は以前、カトマンズの大学で英語を教えていた」
しかし、いまは辞めて、ここで暮らしているという。
「なぜ、ここに」
スイス人女性は尋ねた。

いとう某 22歳のとき初めて行った海外旅行で日本とは違う世界に衝撃を受ける。まだ見ぬ世界、自己の成長と可能性を求めて旅した国は、5年間で35ヶ国。思い出に残る旅はエヴェレストを見たヒマラヤトレッキング。

ホットレモンを飲みながら

リングモ村のとあるロッジ。
私は、ホットレモンを飲みながら、ロッジのダイニングで、バンソンの旅の話を聞いている。
バンソンはフランス人、彼は、アフリカのニジェールに行ったことがあるという。
「へえ」
私は感心する。
彼は首都のニアメーに降りた後、ガイドをひとり雇い、彼にお金を預けて、市でラクダを買わせたと言う。
「僕が直接ラクダを買ったら、ラクダ商人にぼられるからね」
その後、彼はガイドと共に1ヶ月間、ニジェールのサハラを旅したという。
「ガイドの案内で村々を周るのだけど、その村々には一家族ずつしか住んでいないのだよ」
彼は、その一家族ずつしかいない村々を、ラクダの背の上で揺られながら旅をしたのだ。
うらやましい。
旅した国の数でいえば、私は彼の倍以上の国を旅しているのだが、そのすべてを足しても彼のそのひとつの旅にかなわないような気さえしてくる。
彼は、良い旅をしている。
できるものなら、私もそんな旅をしてみたい。
「だけどラクダで1ヶ月間旅しただろ。ぢ、になっちゃった」
それはうらやましくない。
最後にラクダは、ガイドにプレゼントしたという。

次々とロッジにトレッカーたちが入ってくる。
ここリングモ村は、村の入口に薄紫色の小さな花が咲く、ジリ?ルクラ間の村である。
ノルウェー人、アメリカ人、道中どこかで会った顔が次々と入ってくる。
「途中、デンマーク人女性がふたり、疲れて動けないってさ」
「あいつら今日中に、ここまで来ることできないよ」
そのふたりは、ここにいるトレッカーのなかでは有名らしい。
ハッハッハと皆が笑う。
食事どきのロッジは、トレッカーたちの集会場となる。

夕方になった。
ロッジに、50歳位のイギリス人男性が入ってきた。  彼は席につくなり、大声でホットレモンを注文する。
このロッジでは、それが一番安い。
そして注文しおわった彼は、途中おこったアクシデントをやはり大声で話しはじめた。
耳が遠いのだろうか。
皆に聞いてもらいたいのだろうか。
話を聞くと、どうやら彼は橋から川に落ちたらしい。
皆、それを聞いて失笑している。
私もつられて笑う。
「君は日本人か」
運ばれてきたホットレモンを一口飲んだ彼は、私に声をかけてきた。
「そうです」
と私はこたえる。
「ワタシハ、スコシ、ニホンゴ、ハナセマス」
上手ですね、と私はほめる。
彼は以前、北海道の高校で英語を教えていたという。
確か、函館で教えていたと聞いたと思うが、忘れてしまった。
その老先生は私に、私の大学は世界ですと英語で言ってみなさい、という。
先生だったためか、口調が命令しているようだ。
私はこたえる。
「The world is my university」
老先生は、うむとうなずくと復唱した。
[The world is my university]
忘れるなよ、青年。
そんなことをいいたげな眼で、老先生は私を見る。
老先生はホットレモンを飲み干すと、私は今日中にヌンタラまで行かなければならない、と大声で言って、やはり大きな声で軍歌のような歌をうたいながら、ロッジを出ていった。
皆、また笑う。

老先生はあの歳になっても、学ぶことを忘れないでいる。
私も見習いたいと思った。

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その国のイメージ

私にとってキプロスのそれは、最悪だった。
ギリシャ、ロードス島からキプロスに船で入国しようとすると、出港前に船のなかで入国審査を行うことになっている。
私は2番目に並びながら、結局いちばん最後にまわされた。
キプロスの警察官は、私のパスポートを手にしながら、名前、生年月日、所持金、なぜ色々な国に行っているのかなどを聞いてくる。
サインも何度か書かされた。
私は、所持金を2ヶ所以上に分けて持っていることまで、説明しなければならなかった。
その警官は、パスポートの写真と私の顔が違うとまで言う。
彼は、私を入国前の不法就労者とでも思っているのだろうか。
どうにか入国は許されたが、私は非常に気分を害した。

その後も、ガイドブックではあるはずのレバノンへの船がじつは無かったとか、日本領事館を半日探したら無くなっていたとか、ひとりのためタベルナでメッゼが注文できなかったりして、私のキプロスのイメージはさらに悪くなった。

私は、リマソールの街でイスラエル行きの船のチケットを買った。
出発は明日の夕方。
せめて最後においしいものでも食べようと、私は良さそうなタベルナを探した。
ギリシャ、キプロスでは低価格の料金で食べられるレストランを、タベルナという。
街中歩きまわり、良さそうなタベルナをみつけた。
夜、さっそく行ってみることにする。

そのタベルナを選んだ理由はふたつ。
こじんまりして綺麗な店であることと、おもての黒板に今日のおすすめとして、本日の魚料理と書いてあったこと。
私は席について、メニューをもらう。
この店は、かっぷくの良い親父が、ひとりで切り盛りしているらしい。
すべてひとりでやっている。
私は、メニューを見て、もうひとつ気になるメニューをみつけた。
キプロスソーセージ。
私はまず、本日の魚料理を親父に聞く。
親父は、スナッパーだという。  
スナッパーがどんな魚か知らない私に、親父は、 「ちょっと待っていろ」
と皿に魚を載せて持ってきた。
小さい黒鯛のような魚だ。
どうやって料理するかをたずねると、親父は一生懸命に説明してくれた。
「開いてグリルして、レモンをかけて食べるのだ」
親父は、決しておしゃべり上手ではない。
私は、キプロスソーセージも聞いてみた。
これはキプロスの料理で、スパイシーなソーセージだという。
「それにしよう」
親父はちょっとがっかりしたようだ。
本日の魚料理のほうがおすすめだったらしい。

しかし、キプロスソーセージもなかなかの味だった。
うまかったよ、と料理をほめ、明日も来るけどおすすめはあるかい、と尋ねる。
「ムサカがおすすめだ」
と親父は言って、ムサカの説明をはじめた。
ムサカは、グラタンのようなキプロス料理だ。
私は、明日の昼はそれをたのむと、店をでた。

「ハローフレンド」
親父はご機嫌だ。
ムサカを注文する私に、合点だとばかりに親父は厨房へむかう。
大きな器のムサカが出てきた。
シンプルな味つけでうまい。
ロードスの裏路地でみつけたタベルナのムサカよりもうまかった。
私は、舌とお腹を満足させた。
うまかっ料理の説明を始めた。
「夕方の船でイスラエルに行くよ」
私はそう言った。
そうか、親父はさびしそうにうなずいてくれた。
「良い旅を」

店をでる私に、親たよ、と料理をほめ代金を支払う私に、親父は、今晩はこれを食べてくれと父がうしろから声をかけてきた。
「多分、また会えるだろう」
「ああ、会えるさ」
今度来たときは、すべての料理を食べてやる。
いつのまにか、私のキプロスのイメージは変わっていた。

いとう某 22歳のとき初めて行った海外旅行で日本とは違う世界に衝撃を受ける。まだ見ぬ世界、自己の成長と可能性を求めて旅した国は、5年間で35ヶ国。思い出に残る旅はエヴェレストを見たヒマラヤトレッキング。

商売熱心なアフガニスタン人

2年前の話。 私は、ある町の安宿のロビーで、ここの息子と話をしていた。
彼は、へそだしホットパンツ姿の日本人女性を見たと言う。
私は驚いた。
かなりのチャレンジャーだ。
ここP国では男女関係なく犯されると、日本人男性バックパッカーでさえ襲われることを恐れ、髭をはやす人が多いというのに、(ちなみに、私はこのとき2ヶ月髭を生やしたまま、旅をしていた)その女性はいくら暑いとはいえ、犯されてもおかしくない格好をして旅をしているという。
「日本では、女はみんな、ああなのか」  
と彼は聞いてくる。
「夏はね」
私の返事を、彼はうらやましそうに聞いている。
彼は、アフガニスタン人である。
国が内戦のため、家族で避難してきたらしい。
「酒は欲しくないか」  
アフガニスタン人は商売熱心である。
私は、P国のバスの通らないところでもアフガニスタンの商人に会っている。
この国では好ましくないと思われている酒も、彼らはどこからか、なんでも仕入れてくる。
ビールもウイスキーも銘柄指定で、仕入れてくると言う。
「いらないよ」  
私はことわった。
「じゃあ」  
と彼は言う。
「P国の男を買わないか」
もちろん、一晩という意味である。
「買わないよ」
と私はことわった。
「おまえ、わかってないな」
彼は、ひとさし指を左右にふる。
「なにが」
私は聞いてみる。
「いいか」
よく聞けよ、と彼は商談を始めた。
目が商売人の目になっている。
「男というものは」
と彼は言う。
「初めは白人の女よ」
ふむふむ、と私は聞いている。
「白人の女は綺麗だし、みんな初めはあこがれをもっている」
なるほど。
私は聞いている。
「次は黒人の女だ」
彼の目は、私に話を聞かせる。
「白人の女にあきたら、次は黒人だ」
「なぜだ」
私は尋ねる。
「黒人の女は性欲がつよい」
なるほど、そんなものか。
私は感心している。
「最後にいきつくのがP国の男よ」
どうだ、と言わんばかりに彼は言う。
そこが解からない。
「なぜだ」
と私は聞いてみた。
彼は、私にP国の男を買わせる自信があるらしい。
彼自身P国の男を買っているのだろう。
こう言った。
「テクニックが違う!」
彼は思いだすように、腰を動かす。
しかし、私は買わなかった。

彼は、私を相手にしても商売にならないと思ったのか、次の日から話しかけてこなくなった。

いとう某 22歳のとき初めて行った海外旅行で日本とは違う世界に衝撃を受ける。まだ見ぬ世界、自己の成長と可能性を求めて旅した国は、5年間で35ヶ国。思い出に残る旅はエヴェレストを見たヒマラヤトレッキング。

ポスター

ポスター。  壁にはる、あれである。

パキスタン、ヤスィーンの村。
絵葉書を書いた私は、泊めてもらっている家のムハンマドに郵便局に連れていってもらった。
ポツポツとしか家のない村である。
郵便局などあるのだろうかと、付いてゆくと、一件の民家に連れられていった。
ムハンマドが家のおじいさんに声をかけると、大きな錠のかかった物置を開けてくれた。
これが郵便局だという。
たまにしか客がこないから、いつもは閉めているらしい。
私は切手を買って、絵葉書にはった。
ヨボヨボのおじいさんに絵葉書を渡す。
届くのだろうかと疑問に思う。
おじいさんが、お茶を飲んでいけと言う。
私はごちそうになろうとしたが、ムハンマドが何故うちで飲まないのかと言うので、その場はことわった。
ことわると、おじいさんが泣きそうな顔になったので、ムハンマドには内緒で後から行くことにした。

後から行くと、おじいさんの息子が迎えてくれた。
彼が主人らしい。歳は40くらい。
チャイにパンケーキ、揚げたニジマスまでごちそうになった。
主人は、私に写真やポスターを見せてくれた。
写真は、主人のものや、シャンドール峠で行われるポロの試合を見に来た欧米人を撮ったものだった。
外国人はめずらしいらしい。
だから私をお茶にさそったのだろう。
部屋にはポスターがはってあった。
タイ、シンガポール、中国、スイスなど色々な国の風景写真である。
主人が聞いてきた。
「これは何ですか」
オーストラリアのオペラハウスのポスターだった。
どうやって説明しようかと考えていると、主人は、「私は船だと思う」
と言う。
たしかに、バックには海がうつっていて、船らしく見える。
私は主人に、これはオペラハウスといって、歌をうたい、踊りをおどるところだと教えた。
オペラなんていっても解からないだろうから。
次に主人は、アメリカのポスターを指さす。
「とても綺麗です。アメリカの家はみなこのようなのですか」
ポスターには、ディズニーランドの白雪姫のお城がうつっている。
なんて説明しようか。
私は、これは家ではなく城だと教えた。
ディズニーランドといっても解からないだろう。
主人は、私の説明に納得していなさそうだったが、お客をもてなすことを第一と考えているのか、私の英語が下手なためか、それ以上尋ねてはこなかった。

私はあらためてポスターを見なおした。
ポスター一枚が、これだけ人の想像力をかきたてるものだとは知らなかった。

いとう某 22歳のとき初めて行った海外旅行で日本とは違う世界に衝撃を受ける。まだ見ぬ世界、自己の成長と可能性を求めて旅した国は、5年間で35ヶ国。思い出に残る旅はエヴェレストを見たヒマラヤトレッキング。

中国式トイレの悪夢2

生きている便
中国雲南省から外国人未開放地域を中国人に変装してヒッチハイクしていたときのことです。
夜、どうしてもトイレに行きたくなって、懐中電灯を持って外に出ました。
このあたりでは電気は夜の限られた時間しか発電していません。
だから夜中になると電灯はすべて消えてしまうので懐中電灯は必需品です。

外のトイレは高床式の小屋で、階段をのぼり、足を踏み外さないように懐中電灯を照らしながら、慎重に穴場を確認してよいしょっとまたがりました。
用を済ませ何気なく穴場を照らしたところ、ナ、何と穴場の下で光に照らされた部分が波打っているではありませんか。
「生きている?!」そんなバカなと思い、目を見開いて顔を近づけてみると・・・・うじうじうじだらけ。
正体は”うじ”の大群が懸命に泳いでいる姿でした。
まるでホラームービーの世界のようでした。

中国の奥地は下水などというものはありません。
貯めておいて後から肥やしにというのが基本のようです。

こんもり
これもヒッチハイクをしているときの話です。
バスが山あいにある街道沿いの村で停まりました。
トイレ休憩のようです。
バスは次いつ停まるかわからないので用は行けるときに済ませる、これは一度下痢で痛い目にあった自分の鉄則です。
トイレに向かう乗客の後について自分も外に出ました。

ところが公衆便所に入ってみてビックリ!
便座の中に、ナ、何とあれがこんもり積まれているではないですか。
しかも2、3人の分量ではありません。
隣にしよう、と隣に移ると、さらにそれ以上の山が・・・
覚悟を決め、勇気を出してその上にまたがりました。
ふつうにしゃがんではおしりについてしまいます。そこで、かかとを持ち上げ、やや中腰の体勢で腰を固定しました。
当然すぐに足はプルプル震えだし、ふくらはぎはパンパン。
しかし耐えるしかありませんでした。

バスに戻って、ふくらはぎを一生懸命マッサージしている私を隣の中国人は不思議そうに見ていました。

にわの軌跡
にわ 21歳のときに五木寛之氏の「青年は荒野を目指す」に影響を受け旅に出る。25歳の時、勤めていた会社を辞め、上海行きの船に乗船、世界一周の旅へ。2年後帰国。訪れた国は約80カ国。現クロマニヨン代表。

中国式トイレの悪夢

「世界でいちばん汚いトイレは?」 と尋ねられる機会があったら(そんなのないか)、「中国!」と私は答えます。
その理由について今日はちょっと書きたいと思います。

世界には大雑把にわけると2種類のトイレ文化圏があります。
ひとつは紙でおしりを拭く紙式文化圏と、左手にすくった水で洗い流す水式文化圏です。
もちろんご存知のとおり日本は紙式文化圏です。
お隣韓国、そして中国もそうです。
実は意外なことに、東の紙式文化圏はここでおしまいです。
ここから西へはずっとギリシャに入るまで水式文化圏になります。
中国から南下するアジア諸国もほぼすべてが水式文化圏です。
なぜかキリスト教国家になると紙式に変ります。

ということは、ユーラシア大陸においては水式文化圏のほうが一般的なのです。
アフリカもイスラム教国ならまずまちがいなく水式でしょう。
ところが中南米はすべて紙式で、水式にお目にかかることはありません。

日本で水式のことを話すと「ヤダ―、キタナーイ」と言われることが多いのですが、決してそんなことはありません。
この話を始めると水式擁護論者の私は話が長くなってしまうのでまた別の機会に触れようと思います。

話を元に戻します。
まず結論から言ってしまうと、トイレ環境自体は水式文化圏のほうが絶対にきれいです。
理由は簡単、水で流してしまうからです。
紙式文化圏の代表である中国、さらにその地方は悲劇です。
これから私の体験談をまじえながらいくつか紹介していきます。

にわの軌跡
にわ 21歳のときに五木寛之氏の「青年は荒野を目指す」に影響を受け旅に出る。25歳の時、勤めていた会社を辞め、上海行きの船に乗船、世界一周の旅へ。2年後帰国。訪れた国は約80カ国。現クロマニヨン代表。