ネパール人との結婚

ネパールでは、日本人女性とネパール人男性のカップルが、年間100組ほど結婚するという。
さらに多い年は、200組を越えるという。

カトマンズのタメル、ジョッチェン辺りを歩いていると、良くその組み合わせを見る。  
たまにひとりで歩いている女性に、一緒に食事でもと声をかけると、ほとんどの女性に約束があるからと断られる。
約束の相手はもちろんネパール人男性だ。

ネパール人の友人と話しているとき、日本人女性とネパール人男性のカップルを見つけた。
友人が教えてくれる。
「彼らは結婚するのだって」
2人はとても幸せそうに見える。

実は私も、ネパール人の女性を嫁にどうかと言われたことがある。
ナムチェからルクラに向かう途中の小さな村でのこと。
私は、壁に温泉マークが描かれた宿に泊まることに決めた。
日本を離れてから一度も湯船につかってないからだ。
宿には、主人と奥さん、娘と息子がいた。
風呂に入ること以外することのない私はひまをつぶそうと、犬と遊んでみたり、ダイニングで本を読んだりしていた。
娘さんがダイニングに入ってきて、私に無料でチャーをごちそうしてくれた。
私は退屈しのぎに色々話しかけてみるのだが、英語のあまりできない彼女は簡単な質問しか理解できない。
解かったことは、彼女が15歳ということぐらいだった。

夕方、その様子を見ていたらしい主人が、本を読んでいた私に声をかけてきた。
彼も私に無料でチャーをごちそうしてくれる。
テーブルの向かい側に腰かけた主人は、おもむろに話しはじめる。
「日本にフィアンセはいるのか」
私は、いないとこたえる。
「日本人とネパール人は同じ仏教徒だ。思考や習慣も西洋人と違って似ている」
私はクリスチャンなのだが、だまって話を聞いている。
「どうだ、うちの娘と結婚しないか」
私は娘さんの歳を聞いて知っていた。
「日本の法律では15歳の女の子と結婚はできない」
主人は嘘をついてでも、日本人の婿がほしいらしい、こう言った。
「娘は16歳だから問題ない」
私は笑った。
確かに、主人が私に薦めるように、彼女は働き者だし、かわいい顔をしている。
顔は、安達祐美にそっくりだ。
しかし、歳が12も違う。
あなたの娘を嫁に欲しくなったら来年ここに来るから、と言って、その話を終わらせた。
夜、宿の家族が食事をしている。
彼らが食べているのは、茹でたジャガイモ、だけ。
それをおいしそうに食べる娘さんを見て、私は思う。
彼女が日本で暮らすのは、無理だよなあ。
彼女の生活と日本のそれは、言葉はもちろん、食生活、生活習慣などすべてが違いすぎる。

私は、日本人女性とネパール人男性の結婚後の話を直接ではないが、いくつか聞いた。
毎朝、水汲みから始まる生活にがまんできず、新婚家庭から逃げ出した女性。
男が金目当てだったことに気づいたが、離婚するために多額の金が必要だった女性。
自分が2人目の妻(一夫多妻)であることを知らずに結婚し、家族の生活費のためにネパールで働く女性などなど。
ちなみに、結婚から3年以内で離婚する確率は、90%を超えるという。

いとう某 22歳のとき初めて行った海外旅行で日本とは違う世界に衝撃を受ける。まだ見ぬ世界、自己の成長と可能性を求めて旅した国は、5年間で35ヶ国。思い出に残る旅はエヴェレストを見たヒマラヤトレッキング。

テヘランでのケンカばなし

人間っていうのは面白いと思う。何が面白いって、色んな人がいるから面白い。
自分の思いつかないこと言う人やする人がいるから面白い。
でも、大人になるにつれてだいたい似通ってくる。 パターンが限られてくる。
多分、仕事や学校や何やかやで、色んな常識を身につけなきやならなくなるからだと思う。

そんな型通りの人と話してても、全然面白くない。
なぜなら言ってることや、やってることが大体想像の範囲をこえないからだ。
つまり大人なのだ。

反対に子供っていうのは自由だ。 常識なんて関係ない。
無茶苦茶なことを言うし、する。 見てるとハラハラドキドキする。
ときにはぶん殴りたくなるくらいムカついたりもする。
こっちの感情を激しく揺さぶる。
刺激的だ。

思えば、いわゆる第三世界と呼ばれるところにすんでる人達は、みんな子供なのだ
おっちゃんも、おばちゃんも、子供も、みんな。
だからみてると、とてもおかしい。
アジアなんか旅行してる人はきっと、そんなのが楽しくてやめられないんじゃないのかな。
そのせいか、旅行者も似たような人が多い。 無邪気な人が多い。
だから社会性がないのかもしれんが。

ぼくがイランで会った人もそんな人だった。
ぼくはイスラムの国々が大っ嫌いなんだけど、その大きな原因はイランにある。
とにかくイジメられた。とても理不尽に。 特に、貧乏人の子供達や若者に。
多分、ストレスがたまってるんだと思う。
あの国のシステムや、周りの国との軋轢や何やかやで。
他の旅行者も結構そんな目に会ってて、その人もそうだった。
いつも怒ってた。   

ある日のこと、彼が顔を真っ赤にして怒っている。
どうしたのかと聞いてみると、Tシャツにドロっと何かついている。
パン屋でケンカになってパンの素をベチャっとつけられたらしい。
ぼくに話しているうちにだんだんおさまらなくなってきて、カメラの三脚片手に文句いいに行くと言うから、ぼくもついていった。
あんまり大事にならんように。 

パン屋に入るやいなや、彼は日本語ですごい勢いで怒鳴り付けた。
それにこっちには、途中で勝手についてきたイラン人が5、6人いたので、向こうもさすがにビビってすんなりと謝った。
おわびにイランのパンを3枚よこした。
彼は初め、こんなもんいるか、とか言っていたんだけど現金なもので怒りがさめて
くるや、ムシャムシャ食べはじめ、うまいなあこれ、なんて言っている。

さっきまでえらそうに言ってたのに。  あんなにプリプリ怒っていたのに。
いやあ、うまいもんはうまいでしょう、と明るく言ってのけた。  そんときの笑顔っていったら子供のようだった。 ピカピカ輝いてた。
もういい年なのに。
ぼくもさすがに呆れて一緒にパンを食べた。 実際おいしかったけどなあ。

こんな、さっぱりした無邪気さが好きだ。
弁償だ、とか、示談だ、とか、ねちねち陰湿なのはイヤだね、全く。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

シバ神をみた男

シバ神※をみた人を知っている。
インドで出会った人で、ヨガをしていた人だ。
40才の割にはとてもがっしりと、ピチピチとしていた。
そんな彼がぼくにいったのだ。

「僕は実は、シバをみたことがあるんだよ」と。

毎朝の瞑想中のことだった。
ふいに、発作的に駆けだして山をのぼりつづけた。
暗いうちから空が白んでくるまでのぼりつづけた。
そしてたどりついた山頂で、朝日とともに、全身青色の大男がヤリをもって立っているのをみたのだ。
破壊神らしく力強く、男性的に。
目がさめると、山の谷あいに大きな岩が挟まっていた。
どっしりと、ガツン、と。
どうやらそれのイメージが、もうろうとした頭の中で、シバを呼んだようだ。
要するに幻覚だ。
ただの。
でも僕はその話を信じる。
それがシバであったと断言する。
そしてシバをみた、と言えるその人が好きだ。
だってみえたんだもの。
他の人が見ることができなくたって見えたことには変わりない。
それが全てだ。神をみたのだ。
彼は知恵者ぶらず、聖人ぶらず、そういった。 
そしてそれがただの幻覚だ、ともいった、と同時に神をみた、といった。

矛盾だらけだ。矛盾だらけのおっさんだ。
でもこんな、現実が常識として写実的に規定されるのが当たり前の世の中で、矛盾を真実として堂々と言える感覚が好きだ。

矛盾しないものなんてこの世に存在しない。
そして矛盾しないものなんてぼくは信じない。

※シバ神/ヒンドゥー教でヴィシュヌ神と並び、もっともあがめられている神。破壊、踊りの神。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

インドで結婚した女の子

外人と結婚するということは、どういうことだろう? 
ぼくが旅で出会った女の子はインド人と結婚した。
突然結婚した。多分、衝動的に、だ。
しかもその相手の男は、インドでも最下層の部類に入る。 
想像できる?

階級というものは想像以上に厳格で、残酷なものだ。
壁は思ったよりも高く決してこえられない。
むしろ、初めっから乗り越えようという考えすらないのかもしれない。
生まれた途端に一生が決まってしまう。

そういう男と結婚した。
彼のなかに純真をみたという。
それで結婚した。
しかし、そんなのは夢の世界のお話だ。まるで現実感が伴っていない。
恋の話、といってもいい。
結婚なんていうのは思いっきり現実だ。夢や希望の話ではない。
現実に直面せねばならない。
国際結婚という現実や、カーストという現実や、インドという現実や、色々だ。

彼女はそれらを無視して、飛び越してしまった。
二人のあいだに何か形の見える結果だけを、急いで求め過ぎてしまった。
でも、分かる。
気持ちは分かる。    
旅とはそういうものだし、恋とはそういうものだ。
常に現実離れしている。
そのなかにいれば、つまらない現実なんて見なくてもすむ。
そう、現実とはいつもバカ正直でつまらないものなのだ。

でも、常に現実から離れつづけることなんてできない。
生きている以上、否が応でもちゃんと現実も直視しなくてはいけなくなってくる。

このへんが人生の大変なところだ。楽しいだけじゃ生きられない。
そうおもわない?

彼女は、旅という夢の中でさらに恋に落ち、結婚という現実によって引き戻された
これがいいのか悪いのかなんて分からない。
誰にもきめられない。彼女しだいだ。
ただぼくは、旅や恋といった夢の領域のもつ魔味がそうさせた、と思う。
そしてそれは彼女だけに限らず、旅や恋をする人全てにそっと寄り添っている。

その後、彼女はどうなったのか知らない。
どうしてるのかなあ、と、たまに気になってはいるのだけど。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

故郷

ぼくはあの人達が嫌いだった。
何だかうけつけなくってイヤだった。
話をしていても、どこか心の中では斜めにうがってみていた。
話も適当に聞いていた。

でも大分時間がたった今、思い返して後悔している。
もっと色んなことを話しておけばよかったな、と思っている。
きちんと正面から接しておけばよかったな、と思っている。

要するにぼくはあの人達が怖かったのだ。
あの頃はああいう人達の存在を信じていなかった。 信じまいとしていた。

アンコールワットのあるシェムリアップというカンボジアの小さな村で出会った。
奥さんと6才くらいの子供と3人だった。
奥さんはあまり話さない人で、だんなさんが主にみんなと付き合っていた。
物腰が柔らかくって誰とでも話をする。 40前後の人だ。
若者に混じってもちっとも違和感なんてない。やさしく穏やかな人だ。

そういうのが嫌だった。
そういう人間をぼくはにわかに信じない。必ずどこか裏の顔を探す。
嘘つけ、と思ってしまう。
だからずっと彼らと一緒のときのぼくは、とても嫌な奴だった。

国境なんかないぜ、世界はひとつなんだぜ”
みたいなことをいう彼に、吐き気がしていた。

ある日の夜、寝ていると、外から何やら議論しているのが聞こえる。
聞いていると、年輩のおっさんが熱く、西洋のアジア蔑視について非をといているのを彼が、「そんなことないんだぜ、みんな兄弟じゃないか」となだめていた。
でもけっきょく平行線だったみたいだ。
またそんなこと言ってやがる、と、ニヒルに苦笑しながらぼくは聞いていた。
そのままの心境で彼らとお別れした。嫌な奴のまんまで。

そのとき一緒にいた男と帰国後、再会した。
たびたび彼の話がでた。
そいつの話を聞いていると成程、そんな人だったのか、と思う。

「あの人はめっちゃ哀しい人やと思うわ」

という一言で彼の印象が変わった。
彼らは3人でネパールに住むらしい。
ポカラというヒマラヤを臨む小さな村の近くに。

そこ行けば、みんなオレのこと知ってるよ、聞いてごらんよ、いつでも遊びにおいでよ、といつも言っていた。

彼はいつでも人を受け入れていた。
ぼくと話しているときですら、嫌な顔なんかひとつもせずに同じように接していた
もちろん、ぼくの心は分かっていたと思う。
けど思うのだ。
なんでそんな柔軟な人がネパールに住むんだろう。住むことになったんだろう。
なんで日本では生活できなくなったんだろう。
多分、ずっといると言っていた。
もう帰らないってことだ。日本には。ずっと。

けっして日本が嫌いなんじゃないと思う。
むしろその辺の人よりも何倍も、何十倍も好きなんだ。愛してんだ。
だからこそ日本と真剣に向き合い過ぎてしまった。だめになってしまった。
そしてあくまでも肯定的な結論として自分に合った方を選んだ。
それがネパールだった。

こんな寂しいことはないと思う。
自分の生まれ育った故郷を捨て去るというのは一体どんな気持ちだろう。
もう帰らないと決心した心の中はどんなだったろう。

彼はいつでもみんなと一緒だった。
決して誰のことも、日本のことも悪くはいわなかった。
けど、彼の目はいつもどこか哀しげだったのを、ぼくは今さら気がついた。”

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

スペインの長い昼

踊りつづける
熱砂の中で
ひび割れた大地の上で
汗をたらしながら
踊りつづける
漂流の果てのアンダルシアで
カルメンは
欠けてしまった何かを
ギターの旋律や
カスタネットの音色をたよりに
がむしゃらに
求めつづける
ギラギラ照りつける太陽の下で
狂う
マタドールは
貴公子のように
息の根を止める
熱い砂漠の上で
華やかに舞ってみせる
貫かんとする猛牛を
おびきよせてはひらりとかわし
一撃を狙う
互いに間合いを計りつつ
ひたとした静寂を
マタドールが一気に破る
巨体が朽ちた
猛牛は 鼻息も 荒々しく 崩れ落ちる
ワッと歓声があがる
人々は白いハンカチをくるくるまわして喝采する
熱気のこもったスペインの長い昼は
人や土や空気や全部を冷ましながら
ゆっくりと暮れてゆく

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

パレスチナ4

Aさんは、私たちにひとりのタクシー運転手を紹介してくれた。
彼は、モスクでユダヤ人青年が銃を乱射したとき、その場にいたという。
腰のあたりを撃たれ、いまでも立つことはできないようだ。
ひとりではタクシーから乗り降りするのも難しいという。
彼は、撃たれた後の入院生活から、タクシーの運転手になるまでの話を聞かせてくれた。
Aさんが彼の話を英訳してくれる。
彼は数年かかってここまで回復したそうだ。
くじけずにがんばってきた話が涙をさそう。
Tさんはその話を聞いて泣きだし、通訳ができなくなった。
「何か彼に聞きたいことはあるか」
そう聞かれ、私は、事件のことを聞きたいと言った。
「それは聞けない」
とAさんは言う。
なぜかと聞くと、Aさんも彼からその話を聞いたことがないからだと言う。
よほどあの事件のことがショックだったようだ。
私は聞かないことにした。

Aさんの弟が車で迎えにきた。
私たちは、タクシー運転手の彼に話を聞かせてくれたお礼を言い、Aさんの車に移った。
これでヘブロンの案内は終わりだ、とAさんは言う。
「最後になるけど、質問はあるかな」
イスラム教を信じているか、コーランを読んでいるかなど、あたりさわりのない質問をした後、「アラファト議長をどう思う」
と聞いてみた。
「物足りなさは感じるが、彼が我々の代表であることは認めている」
とAさんは答えた後、彼が死んだ後が心配だと言った。
パレスチナはどうなるのだろうと。
Nくんが、ホロコースト(ユダヤ人虐殺)についてどう思うか尋ねてみた。
アンネ・フランクについてもどう思うか、と。
「悲しい出来事だと思う。しかし、彼らはナチスにされた行為を、いま私たちにしていることに気づいていない。それにアンネ・フランクは長い間ナチスから隠れ住んでいたようだが、私だって1?2年の逃亡生活をしていた」
アンネ・フランクだけが特別ではない、とAさんは言う。
平和的にこの問題が解決するのは難しい、と思う私は、Aさんにこう聞いてみた。
「もし、パレスチナ人に自由と主権を取り戻すため武器をとって戦うことが必要となったら、あなたは武器をとって戦うか」
Aさんは良い質問だと言ってから、こう答えた。
「戦う」
私たちはAさんたちと別れて、へブロンを後にした。

エルサレムの安宿には、多くのクリスチャンが泊まっていて、夜になっても聖書を読む人や、数人で集まり宗教談議を行う人たちが少なくない。
そして彼等の中には、ハルマゲドン(ヨハネの黙示録に出てくる最後の日。彼等は第三次世界大戦のことをそう呼んでいた)は、ここから始まると思っている人たちも数人いた。
私は彼等の言うことに賛同はしないが、笑いとばすこともできなかった。

最近、イスラエルのバラク首相とパレスチナのアラファト議長が、クリントン大統領の仲介で話しあいの場を持ったが不調に終わり、現在、イスラエルで起こった暴動をTVや新聞で毎日のように見ることができる。

余談だが、ユダヤ人、パレスチナ人の両者が首都にと望むエルサレムのヘブライ語の意味は、「二重の平和の所有」あるいは「二重の平和の土台」だという。

いとう某 22歳のとき初めて行った海外旅行で日本とは違う世界に衝撃を受ける。まだ見ぬ世界、自己の成長と可能性を求めて旅した国は、5年間で35ヶ国。思い出に残る旅はエヴェレストを見たヒマラヤトレッキング。

パレスチナ3

私たちはモスクの近くにある、市場に向かった。
狭い路地にある市場はどこも閉まっている。
もう長い間、商売はしていないようだ。
道端には石やゴミが散乱し、頭上に張られたネットには石が載っている。
聞くと、このネットは投石を防ぐためのものだという。
ユダヤ人に向かって石を投げるパレスチナ人しかTVで見たことのない私は、初めパレスチナ人が投石したのかと思った。
が、Aさんは違うと言う。
「パレスチナ人がパレスチナ人の市場に投石するはずがないだろう」
ここは、パレスチナ人の市場だったとのことだ。
Aさんは、市場の頭上に塔のようにそびえる建物を指さした。
あそこには、ユダヤ人の家族が住んでいる。
Aさんは、こうなった理由を説明してくれた。
彼等は、ある日突然、ここにこの建物をたてた。
その日から、この市場に来る買い物客の頭上に、石が降るようになったという。
若いパレスチナ人女性がひとりで歩いていた。
外出禁止令が出ているため、パレスチナ人たちは、イスラエル兵に見つからぬよう裏路地を歩いている。
廃墟のような市場の、一件の商店の閉じられた扉に、青いペンキでイスラエルの象徴であるダビデの星が描かれていた。

私たちは、インティファーダの現場に行くことにした。
途中、二人のイスラエル兵に話しかけられた。
Nくんが写真を撮っても良いかと聞いてみる。
二人のイスラエル兵の間に入ったNくんを、私は写真に撮る。
イスラエル兵が持つアメリカ製の自動小銃に装填された弾倉の横に、もうひとつ弾倉がくくられているのを私は見つけた。
カメラには笑顔を見せる彼等だが、戦闘準備は整っている。

インティファーダの現場についた。
イスラエル兵の後ろから、それを見る。
ここの大通りの頭上にも、ネットや幕が張られていた。
もちろん投石防止のためである。
イスラエル兵のはるか向こうから、50人以上はいると思われるパレスチナ人の集団が、かわるがわる石を投げてくる。
正面からだけではなく、横の路地からも石が飛んできた。
イスラエル兵のひとりが銃口を向ける。
私たちがこの区域に入ったとき出会った全力疾走する二人のパレスチナ人は、横の路地から石を投げたのかもしれない。
私たちは場所をかえ、今度はパレスチナ人側に周って、その現場を見る。
いきりたったパレスチナ人が、イスラエル兵に向かって罵詈雑言を浴びせている。
数人のパレスチナ人がこちらに詰め寄ってきた。
Aさんが何か責められている。
その場の雰囲気が悪かったが、投石をする彼等の写真を撮っても良いかと私は尋ねた。
それが火に油を注いでしまった。
彼等は何か怒鳴っている。
Tさんに聞くと、「おまえはユダヤのスパイだろう」
「その写真をユダヤに売るのだろう」
と彼等は言っているという。
Nくんはその場の雰囲気を察し、壊されないようにとカメラを隠していた。
Aさんは私のせいでさらに責められ、頭を抱え、座りこんでしまった。
私は観光気分で見物に来たことを、反省させられた。
後で聞いたのだが、写真を撮られたために,ぬれ衣を着せられ逮捕された運動家が何人かいるとのことだった。
私たちは、その場を離れることにした。
私がイスラエルを離れた後の話だが、イスラエル兵がパレスチナ人に銃を発砲するような騒ぎが起きたと、Tさんから聞いた。

いとう某 22歳のとき初めて行った海外旅行で日本とは違う世界に衝撃を受ける。まだ見ぬ世界、自己の成長と可能性を求めて旅した国は、5年間で35ヶ国。思い出に残る旅はエヴェレストを見たヒマラヤトレッキング。

パレスチナ2

「24時間の外出禁止令ですか」
聞くと、先日の爆弾テロで8人の死亡者が出たために出されたとのことだ。
私は二人のパレスチナ人の老夫婦がこちらに歩いてくるのを見つけた。
「外出しているじゃないですか」
24時間といっても、一日のうち買い物などに必要な1?2時間は許可が出ているという。
しかし、仕事などには行けないとのことだ。
「だから、ここを離れる人が多いわ」
それが、パレスチナ人を追い出す、ユダヤ人の常套手段だとのことだ。
ヘブロンの地は、ユダヤ人にとってもパレスチナ人にとっても聖地である。
ここには、アブラハムとその息子イサクの墓があるからだ。
イサクにはエサウとヤコブの二人の息子があり、パレスチナ人はこのエサウから出、ユダヤ人はイスラエルと名を変えるヤコブから出ている。
両者にとって聖地であるこの場所を、ユダヤ人はパレスチナ人から取り戻そうとし、パレスチナ人はユダヤ人から守ろうとしている。

道路のアスファルトが黒くこげている。
ここで、車に仕掛けられた爆弾が爆破したらしい。
死んだ8人のうちわけは、ユダヤ人4人にパレスチナ人4人。
どちらが仕掛けたかわからないが、おそらくどちらも相手が仕掛けたと思っているのだろう。
その爆弾テロの後の話を私は聞いた。
爆破が起こってすぐ、家の中からUZIを持ったユダヤ人が出てきて、発砲したという。
UZIは、イスラエル製の高性能で有名なサブマシンガンである。
その男は軍人なのかと尋ねると、違うという。
一般人だとのことだ。
軍人がそのようなことをすれば、問題になるという。
一般人がUZIを持っているのか。
私は、その場から早く離れたくなった。

Aさんはモスク(イスラム教徒の教会)に行こうと言う。
私たちはモスクに向かった。
モスクの入口には、大勢のイスラエル兵がいた。
中に入っても良いかと尋ねると、ダメだと断わられた。
断わられたためくぐらなかったが、入口には空港にあるような金属探知機が備えてあった。
Aさんが、モスクの入口に金属探知機がそなえられたわけを話してくれた。
「初め、このモスクのほとんどはパレスチナ人のもので、ユダヤ人の礼拝所はわずかなものだった。
ある日、ユダヤ人の医師がお祈りの時間にモスクに入り、銃を乱射した。医師はその場で取り押さえられ殺されたが、大勢のけが人や死者をだした」
それ以来、モスクの入口には金属探知機が備えられたという。
「しかし、なぜ私たちパレスチナ人の入口に備えるのだ。銃を乱射したのはユダヤ人なのに」
この事件の後、モスクはユダヤ人の礼拝所がほとんどを占め、パレスチナ人の礼拝所はわずかになったとのことだ。
その医師は、ユダヤ人のあいだでは英雄になっているという。

シナゴーグ(ユダヤ教徒の教会)となったモスクの周りを歩いていたら、Aさんは指こそささないが、あいつを見ろと私たちに言う。
ひとりの初老のユダヤ人が、兵士たちと楽しそうに何か話している。
「ユダヤ人たちにラビ(師)と呼ばれるあの男は、数年前、パレスチナ人を射殺した。裁判で有罪になったのだが、わずか数ヶ月間入獄しただけで出てきたのだ」
Aさんはくやしそうに言う。
「もし、パレスチナ人がユダヤ人を殺したら、数ヶ月の入獄ではすまないだろう」

いとう某 22歳のとき初めて行った海外旅行で日本とは違う世界に衝撃を受ける。まだ見ぬ世界、自己の成長と可能性を求めて旅した国は、5年間で35ヶ国。思い出に残る旅はエヴェレストを見たヒマラヤトレッキング。

パレスチナ1

確か、ミシュランの道路地図だったと思う。
イスラエル周辺国の人間に見られることを意識してか、中東地域のその地図には、イスラエルの国名は無く、パレスチナと書いてあった。
イスラエルはユダヤ人の言う国名、パレスチナはパレスチナ人、アラブ人が呼ぶ地域(国)名である。
この二つの名は同じ場所をさしている。
この両者の確執を説明しようとすれば、紀元前二千年までさかのぼらなくてはいけない。
ここではその歴史的説明を省くが、この地域では現在、ユダヤ人とパレスチナ人がその土地、主権などをめぐって争っている。

イスラエルに入国した私は、ナザレ、テルアビブとめぐり、エルサレムに着いた。
ここ、エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地であり、ダビデがヘブロンより首都を移して以来の歴史ある町である。
特にその旧市街はその歴史を感じさせる所が多く、私の好きな町のひとつでもある。
私はこの旧市街のアラブ人地区の安宿に滞在していた。
同じ宿にはひとりの日本人女性(Tさん)が滞在していた。
「世界を見てまわっています」
私はTさんに、そう自慢気に話した。
Tさんは言う。
「もし、君が世界を見てまわっていると言うのであれば、ここには宗教遺物以外にも見るべきものがあるわ」
私は、それが具体的に何であるかを尋ねた。
「パレスチナ問題よ」
私もこの国に政治的問題があることは知っていた。
が、それはTVや新聞で見た程度のもので、詳しくは知らない。
良かったら、ヨルダン川西岸にあるヘブロンを案内しようかとTさんは言う。
私はお願いすることにした。

翌日、Tさんはどこかに電話した後、今日はヘブロンに行くのを止めようと言う。
理由を尋ねると、昨日起きた爆弾テロのため暴動が起こり、危険なためと言う。
私たちは、ヘブロン行きを一日延ばすことにした。

その翌日、今日は大丈夫だということで、Tさんと私、同じ宿に泊まっていたNくんの三人で乗合タクシーに乗って、ヘブロンに向かった。
ヘブロンに着き、この町を案内してくれるパレスチナ人のAさんが来るのを待つ。
シリアの町のようだ、とNくんは言う。
この町はユダヤ人の町とは違い、アラブのような町並みである。
Aさんがやってきた。私たちは、Aさんとあいさつを交わす。
Aさんは、平和的なパレスチナ解放運動をしている運動家である。
私たちは昼食後、ヘブロンの町を案内してもらうことにした。
ある通りを境に、あれほど賑やかだった町から人気が無くなった。
建物の窓や戸はすべて閉じられ、道路には石や瓦礫がちらばっている。
このあたりには人は住んでいないらしい。
向こうから二人のパレスチナ人が全力疾走してきた。
必死の形相で腕をふり、足をあげて走るようすは、たたごとでないことを私に感じさせた。
彼らに話しかけるAさんに、彼らは何かひと言だけ言って走り去った。
何を言ったのかと聞いてが、解からないとのことだった。

「あれを見てくれ」
建物を囲む塀の上に、銃座が作られてあった。
まるでトーチカのようだ。
あれがユダヤ人の住む家だと言う。
しばらく歩くと、パレスチナ人の居住区に入った。
Tさんは耳を澄ましてみてと言う。
耳を澄ますと、建物の中から子どもの声が聞こえる。
人が住んでいるようだ。
「なぜ、誰も外に出ていないのですか」
と私は聞いてみた。
「24時間の外出禁止令が出ているからよ」
とTさんは言った。

いとう某 22歳のとき初めて行った海外旅行で日本とは違う世界に衝撃を受ける。まだ見ぬ世界、自己の成長と可能性を求めて旅した国は、5年間で35ヶ国。思い出に残る旅はエヴェレストを見たヒマラヤトレッキング。