チョコレート2

翌朝、私はこの日も一番後に宿を出た。
レイケたちに追いつき追いこす。
後ろからレイケが何か叫んでいる。
振り向くと、レイケが違う道を指さしている。
どうやら道を間違えたようだ。
いま来た道をもどってゆく。
方向音痴な私は、よく道に迷う。
一度などは、目的地まで半日で行けるところを道に迷い、到着したのが翌日の昼だったこともあった。
「ありがとう」
私はレイケに感謝した。

カリコーラに先についた私は、適当な食堂に入り、簡単に食事をした。
ホットレモンも飲みおえ、そろそろ行こうかと思ったとき、レイケたちがやってきた。
すれ違いに出てゆくのは失礼だろうと思い、私は彼女らとおしゃべりをした。
その中で私は、「結婚についてどう思う」
と彼女らに聞いてみた。
このときレイケは私と同じ27歳、眼鏡の彼女は28歳だった。
彼女らは、私が、私と結婚しないかと聞いたかと思い、「私たちはクリスチャンとしか結婚はしない」
と婉曲に私を断ろうとした。
「違う、違う」
と私は言い、私は欧米人女性の結婚観を聞きたいのだ、と言った。
これがまずかった。
彼女らの感情に火をつけてしまった。
「多くの人たちが20歳くらいで安易に結婚してしまうけど、彼らの離婚率が高いのは事実だわ。それはもちろん幸せに結婚生活をおくっているカップルもいて、私も彼らみたいになりたいとは思うけど。結婚してすぐ離婚してしまうなんて、ナンセンスだわ。それだったら私は、良い人をじっくり探して幸せになれる結婚をしたい」
それを正論だと思った私は、彼女らにそれを話したが、彼女らの感情の高ぶりはそれぐらいでは収まらず、彼女らの感情が落ちつくまで、彼女らの言い分を聞くはめになった。
彼女らが、自分の言っていることが正論だと信じながらも、それを気にしているところもあるからなのだろう。
それに、レイケは感情が高ぶりやすい女性だということを忘れていた。昨晩も一昨日の夜もそうだったが、夕食時に自然と始まる旅の話のときはよく感情的になって話していた。
――つまらない質問など、するものじゃないな。
私は反省した。

途中、山道の疲れが残っているのか、眼鏡の彼女は休憩すると言った。
レイケと私も休憩しようとするが、「追いつくから先へ行っていて」と言われ、先に進むことにした。
「ハローペン、ハローペン」
これはトレッキング中、地元の子どもからよく受けるあいさつである。
その意味を日本語に直すと、「こんにちは、ペンをください」となる。
私はそう言われる度に、「俺はペンじゃない。某だ」
と答えていた。
このときもそう言った。
レイケもそれにつづく。
「私はペンじゃない。レイケよ」
笑われるかもしれないが、私はこのときレイケに相棒、同士のようなものを感じた。
レイケに子どもが何かを言い返した。
放っておけばよいのだが、レイケは彼らに何か言い返す。
その途端、子どもたちとレイケは、手や持っていた杖を銃に見立て、銃撃戦をはじめた。
手でピストルを作りバン、バンという子どもたちに対して、レイケの杖はマシンガンだ。
「ドゥドゥドゥドゥドゥドゥドゥ」
勝負はあっけなくついた。
気の利いた子どもたちがやられたふりをすると、レイケは銃口の煙に、ふうと息をかけ、「さあ、行きましょう」
と言った。

きついのぼり坂をのぼり、ブプサの村についた私は、茶店でララヌードルスープを頼んだ。
ララヌードルスープはネパールの定番インスタントラーメンである。
私がそれを食べおわるころ、レイケが坂をのぼってきた。
屋外のテーブルについていた私は、レイケに声をかけた。
彼女は、「ああ疲れた」と言いながら私の隣に座った。
「あなたがここに着いてから、私がここに来るまで何分経った?」
時計を見ていなかった私は、どれくらいだったかなと思いだそうとした。
「二十分くらい?」
「十五分くらいかな」
そう答えると、彼女は喜んで、何にしようかなとメニューを見はじめた。
「この店はコーヒーが安い」
どうやら他の店より安いらしい、「今日はついている」と言って彼女は無邪気に喜び、コーヒーを注文しにいった。
戻ってきた彼女は私の向かいに座り、バックパックからスニッカーズを取り出すと、「最後の一本だけど食べちゃおう」
と言って、おいしそうに食べはじめた。
スニッカーズ、ピーナッツをチョコレートで包んだもので、私は日本にいるときはTVのCMを見ても、それを食べたいなどと一度も思ったことがなかった。
が、トレッキングをはじめて十日目のいま、嗜好品に飢えていた私は、彼女がそれを食べているのを見て、「買ってくる」
と店に入った。
店の奥さんにスニッカーズの値段を聞くと、90ルピー(約180円)と言う。
ここは山奥だから仕方がないが、この値段はカトマンズで同じものの倍の値段で、ここではダルバートよりも高い。
貧乏旅行者である私は迷いに迷ったが、スニッカーズはあきらめ、15ルピー(約30円)ほどのビスケットを二つ買った。
テーブルに戻った私は、レイケに、「高かったから買わなかったよ」と言った。
「半分食べる?」
彼女は私に食べかけのスニッカーズを勧めてくれた。
「ありがとう、でもやめとくよ」
私はその理由を、「ナムチェのバザールへ行けばカトマンズと同じ値段で買えるから」と話した。
スニッカーズを勧めてくれたお礼にと、私はビスケットの袋をやぶいて彼女にそれを勧めた。
袋をやぶいたときに、テーブルの上に散らばってしまったビスケットをあつめていると、その手の中に半分に折られたスニッカーズが飛びこんできた。
私は咄嗟にレイケを見た。
「あなたのものよ」
彼女はそう言って、微笑んだ。
その瞬間、私は彼女をたまらなくかわいらしく感じ、そして、彼女に恋をした。
私はお礼を言った。
そして、ナムチェのバザールでスニッカーズを二本手に入れて、レイケにプレゼントすると約束した。
「絶対よ。約束だからね」
私は充分に休憩したのと、レイケに対して学生のころのような恋心を抱いたことが、なにやら気恥ずかしいのとで、先に進むことにした。
「僕は今日、チュトックまで行くよ」
と言うと、レイケは、「友達はここまで来るのが精一杯だろうから、たぶん今日はここに泊まるわ」と言った。
私たちは、「サヨナラ」を言って別れた。

道中、私はレイケのことばかりを考え、レイケに対する自分の気持ちに自問自答を繰り返した。
――おまえはスニッカーズをもらったから好きになったのだ。
――違う。ここ数日、毎日彼女とふれあって、徐々にそう思っていたのだ。スニッカーズは好きになる最後のきっかけに過ぎない。
――だったらなぜ、彼女から離れようとする。
――今日の目的地がチュトックだからだ。
25歳までの人生を女性に振り回されて過ごしてきた私は、女性のために自分の予定を変更することを嫌っていた。
チュトックに着き、宿を決め、夕食を済ますと、私はドミトリーのベッドに寝転がった。
宿の天井を眺めながら、私は、ここ数日、毎日レイケといっしょだったことを思い出し、なぜ今日はいっしょではないのかと思い、そのことにさみしさを感じた。
「また、彼女に会えるだろうか」
私はひとり、つぶやいてみた。

いとう某 22歳のとき初めて行った海外旅行で日本とは違う世界に衝撃を受ける。まだ見ぬ世界、自己の成長と可能性を求めて旅した国は、5年間で35ヶ国。思い出に残る旅はエヴェレストを見たヒマラヤトレッキング。

チョコレート1

初めて彼女に出会ったのは、ネパール、リングモの宿だった。
前日洗った洗濯物が乾かず、私はひとりきりのドミトリーに二泊することになった。
夕方、ドタドタと階段をのぼってくる足音が聞こえると、二人の欧米人の女性がバックパックを背負ったまま、ベッドに倒れこんだ。
「疲れたぁ」
「死ぬう」
――ずいぶんにぎやかなトレッカーだな。
寝袋にくるまって、ベッドに寝転んでいた私は、そのまま半身を起こした。
透明感のある金髪の女性が、倒れたまま顔をこちらに向け、「風邪で寝ているの」
と、起こしてしまったことを申しわけなさそうに聞いてきた。
「いや、することがないから寝ているのだよ」
私は、洗濯物が乾かないことや、暗くなってきて本が読めなくなったことを話した。
「そう」
彼女は、よかったという様子を表情にあらわした。
「どこから来たのだい」
と私は彼女らに尋ねた。
「デンマークよ」
と彼女は言うと、もう私のことなど忘れたように、二人ともそれぞれに宿の細いベッドを二つくっつけ、バックパックから取り出した荷物をその片方に広げると、寝袋にくるまって寝はじめた。
――うわさのデンマーク人女性コンビは、彼女らか。
私は彼女らのことを、話には聞いていた。
とても歩くのが遅く、すぐ疲れて休憩し、ちっとも前にすすまない、と。
私はトレッカーたちが話していたのを思い出し、声を出さずに笑った。
よほど疲れているのだろう、スースーと彼女らの寝息が聞こえてきた。
私は本を一冊持って、ダイニングへ向かった。

リングモは標高2700mの高地、日が暮れてくるとたまらなく寒くなる。
私は宿のダイニングで、ブリキ缶でつくられた火鉢にあたりながら、夕食ができあがるあいだ本を読んでいた。
私のほかにはイングランド人の夫婦が、やはり火鉢にあたりながら会話を交わしていた。
そこに彼女らが入ってきた。
彼女らも宿の主人に夕食を注文すると、火鉢にあたりはじめた。
夕食はすぐ出来た。
全員同じものを頼んだからであろう。
皆が頼んだものは、ネパールでは定番のダルバート(豆スープのかかったご飯)だ。
「いっしょに食べましょう」
と、ドミトリーで私と会話を交わしたデンマーク人女性が提案した。
私たちはテーブルを動かし、火鉢を囲んで食事をすることになった。
食事はひとりより大勢のほうが楽しい。
皆それぞれにトレッキング中の失敗談などを話し、笑いあった。
英語の苦手な私はあまり会話に参加できないが、イングランド人男性やデンマーク人女性が気をつかって話しかけてくれるので、さみしい思いはしない。
食事が終わっても、会話はつづく。
デンマーク人女性たちは、大学に合格した後、そのまま入学せず、カトマンズの施設で、孤児たちのお世話をするボランティアをしているとのことだった。
彼女は、その様子を熱く話しはじめた。
私には半分も理解できなかったが、イングランド人夫婦の表情を見ていると、それが涙をさそう話であることがわかる。
彼女は、孤児が発生する理不尽さのようなものと、そのような状況でありながら、素直で愛くるしい子どもたちのことを話しているようだ。
彼女のそのクールな容姿からは想像しにくい熱い心情が、彼女の口から出てくるのを聞き、私はなにか意外な感じがした。

翌朝、すすだらけになった洗濯物を見て、驚いた。
昨日、長袖のダンガリーシャツと綿パンが乾きそうになかったので、宿の主人に頼み、竃の近くに干させてもらったのだが、どうやら主人はその洗濯物を、竃の上で干していたようだ。
「だいじょうぶ」
と宿の主人は言う。
「カトマンズでも問題ないよ」
確かにカトマンズではいいかもしれないが、日本では着られないだろう、と思いながらも、今日も出発できないよりいいか、と思い直し、宿を後にした。
イングランド人夫婦もデンマーク人コンビも、すでに出発していた。
ちっとも前に進まないことで有名な、デンマーク人コンビには負けるものかと、私は足を速めた。
マナストリーで有名なタキシンドゥーで、彼女らに追いついた。
彼女らはマナストリーを見てきたようだ。
「どうだった」
と聞くと、「よかったよ」
と言う。
私も寄ってみることにした。
寺院に入り、お坊さんにマナストリーはどこかを尋ねると、あちらです、と教えてくれた。
「寄付は必要ですか」
と尋ねると、もちろん、と言われた。
完全に貧乏旅行モードに入っていた私は、そう言われて見るのをあきらめてしまった。
いま思えば、日本円にして数十円のお金をケチったのはバカだったと思うが、このときの私は、一日5ドル(約600円)で済ませようとお金をケチっていた。
山の宿は、街よりも宿泊代が安いのだが、食事代が高い。
マナストリーより飯だ、と思った私は先を急ぐことにする。
途中、彼女たちに追いついた。
次の村がすぐそこだったので、「いっしょに行こうか」と言うと、眼鏡をかけたほうのおとなしい彼女が、もじもじしている。
「どうしたの」
と尋ねると、金髪の彼女が代わりに答えた。
「トイレなの」
どうやら、人が来ないときを見計らってすませようとしているらしい。
私は急いでその場を離れた。
しばらくして、後ろから金髪の彼女が追いついてきた。
「ねえ」
と彼女は私を呼んだ。
「名前、何ていうの」
私が答えると、彼女は名前を教えてくれた。
「私はレイケ」
カタカナで書くとレイケなのだが、日本人の私にはむつかしい発音で、私は彼女に何度もやりなおしさせられた。
私はこのときはじめて、彼女の名前を知った。

いとう某 22歳のとき初めて行った海外旅行で日本とは違う世界に衝撃を受ける。まだ見ぬ世界、自己の成長と可能性を求めて旅した国は、5年間で35ヶ国。思い出に残る旅はエヴェレストを見たヒマラヤトレッキング。

エベレストのオン・ザ・ロック2

チベット越えのルートは、中国南東部、雲南省というところからスタートする。
まず、そこの山深い道なき道を警察の目を盗みつつ、一路チベットの聖都ラサを目指す。
そしてラサからカトマンズへと、小さな町や村を経由しながら南下していく。
すると果てしなく広がる茶色い大地と、コバルト色の澄み切った大空を切り裂くように、敢然とヒマラヤ山脈が銀色に貫く。
そこには誰もが知るところの世界最高峰、エベレストがそびえたっている。
彼はそこを目指す。
エベレストベースキャンプという登山隊の基地があって、そこまでなら何とか車で行くことができるのだ。
そして彼がそこを目指したのには、あるロマンチックな目的があった。
とても詩的で美しく、男らしい目的が。

どんなことかというとそれは、エベレストという氷山からしたたる氷のつららをポキンと折って、それでウィスキーのオンザロックをつくり標高5000Mの極限の自然の中で、一杯やろうというものだった。

そしてそのために彼は、ベースキャンプから一人でずんずんずんずん山奥へと向かう。
理想の氷と環境を求め、やみくもに突き進んでいるそのとき、ふと足を滑らせて、4、5Mほど転落してしまった。
はっと気がつき体をとりあえず見回すが、幸いケガはなかったようだ。
しかし、今来た道のりははるか頭上でとても登れそうにない。
厳冬の冬山に一人きり。ここは世界の頂上エベレスト。
さすがに危機感を感じるが、とりあえずあたふたするのをやめて、適当な氷をさがすと、用意してきたグラスに入れてウィスキーを注ぎはじめる。

グラスの中で、カラコロとエベレストのかけらは揺れる。

そして程よく溶けかかった頃合を見計らって、ツツツっとすする。
天空の氷山で、厳格な大自然に囲まれながらすする世界最高峰のかけらは、一体どんな味がしただろう。
調子にのって何杯も何杯も飲んでいると辺りはすっかり薄暗く、おまけに風も強くなってきた。
エベレストの山中でただ一人。薄暗く、今来た道もわからない。
状況はいよいよどうにもならなくなり始めている。
考えても本当にどうにもなりそうにもないので、とうとう彼は諦めて、もうええわ、死んだれ、と雪の上に寝っ転がった。

しかし、しばらくすると本格的に体は冷えてきて、あたりはますます暗くなる。
あかん、このままやったらホンマに死んでまう、と思い直し、彼は滑り落ちてきた崖を這い上がる方法を必死にさがし始める。
そうして彼がベースキャンプに戻ったときは、もうすっかり夜だったという。
彼は、あんときはさすがに死ぬかと思ったわ、ハッハッハと笑いながらぼくに言うのだった。

ぼくは、ただただ感心してその話を聞いた。
大の大人がただ、山の氷を拾ってきてお酒を飲むと言う、言ってみれば
どうだっていいことに命を張っている。
ある意味ものすごく滑稽だ。ユーモラスだ。
それで本当に死んだら笑い話にもならんだろう。

でもぼくはその人の感性が大好きだ。
世界で一番高い氷山のかけらをグラスに浮かべる。
きっとそのかけらはウィスキーによってほどよく溶かされ、グラスの中で滑らかな輝きを放っていたことだろう。
そしてそれを標高5000Mの鋭い大気の中でゆっくりと味わうのだ。

こんな贅沢なことは決してだれもができることではない。
たとえ何億円積んだってできやしない。
いや、実際に何億も積めば簡単にできるかもしれないけど、そのときの彼の味わった氷の味は、決してお金で買えるものじゃない。
彼だけが知る特別な味わいなのだ。 お金でできることには確実に限度がある。

こういう美しい感覚を、ぼくは心から愛する。
そしてそんなことをする人が本当にいると言うことに、大いに感動してしまう。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

エベレストのオン・ザ・ロック1

詩的な感性がぼくは好きだ。
頭の中で広がっていくイメージは、決して物質的な制約に縛られることなく自由な世界をつくり出す。
そういう世界にぼくは憧れるし、そういう世界をもっている人が好きだ。
ロマンチックな人。

ある、素敵な物語を聞かせてくれた人がいた。すっごく夢があって男らしい話。
とてもロマンチックで男らしい彼なんだけど、その実はちょっと違う。
いわゆるロマンチックな人ではない。
もっとずる賢くって抜け目なくしたたかなタイプ。
あんまり詳しく生い立ちを聞いたわけではないんだけど、何かそういう匂いがする。
おそらく今までたくさんの人を利用したり、傷つけたりしてきたんだろうなあ。
自分が生きていくためには、手段を選んでこなかったような非情さを持っていたことを感じさせる。

ぼくが彼にあったのはネパールの首都、カトマンズだった。
カトマンズというところは周辺の国々とくらべると、びっくりするくらい何でも揃っていて、旅行者にとってはとても便利で居心地もよく、そのため長居する人も多い。

彼もそんなうちの一人だったがちょっと特別で、ぼくと会ったときにはもう3ヶ月も滞在していた。
いくら居心地がいいといっても、同じ場所に3ヶ月もいられるものではないので、一体何をしてるんですか、と聞いてみると、カジノで2,000ドル程負けていてふんぎりがつかず、出るに出られないそうなのだ。
このカジノにもけっこうハマッてる人は多いんだけど、普通そんなに負けない。
そこまでやらない。

でも、そんなこんなでダラダラしているのにも一応まっとうな理由はあるらしく、彼はヒッチハイクで中国からチベットに入りヒマラヤを越え、ようやくここカトマンズに辿り着いたのだった。
そのルートはとても過酷で、普通、外国人は通ることのできないエリアも網羅しており、一歩間違うと警察に捕まるぐらいならまだよくて、最悪命を落としかねない。
しかも標高4000M、5000Mの富士山より高い高地をヒッチハイクして
トラックの荷台にのって移動する。

食べる物もろくなものがなく、チベットの代表的食べ物の、バター茶とツァンパぐらい。
これがまたとてもまずく、バター茶とはヤクとよばれる
チベット牛のミルクからつくる、お茶とは名ばかりの茶色い液体で、ツァンパはそのお茶で粉を溶かして練っただけの粘土みたいな食べ物。
そんなものを食べながら何日も何週間もかけて、過酷な道なき道を行くのだ。
カトマンズに着いたとき、きっとそこは天国に見えたことだろう。
それで彼は、3ヶ月もカトマンズの甘い誘惑に溺れてしまっているのだ。

成る程なあ、と思いつつ、彼がそんなハードな旅人だったとは
ちょっと意外だったので、そのときの話を色々聞いてみることにした。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

東京での話

これはぼくが東京に遊びに行ったときの話だ。
旅先で出会った友だちが帰国後東京に住み始めた、というので会いに行ったのだ。
そんなある日の電車の中でのこと。

僕らは適当にぶらぶら出かけた帰りに、二人で電車に乗っていた。
東京はやっぱりすごいなあ、とかなんとか他愛もない話をしていると、ふと目の前の女の人がハンカチを落とした。
あっ、と思うのも束の間、彼女は気付かずにスタスタスタと行ってしまう。
反射的にまわりを見回すと目の前の男の人は、明らかに知らんぷりをして吊り広告を眺めだし、そのまわりにいた人もみんな新聞に顔を伏せたり、外の景色を眺めたりし始めた。
ハンカチはそのまま悲しく置き去りにされようとしたその瞬間、となりに座っていたぼくの友だちがスッと立ち上がり、ハンカチを拾い上げ、すいません、これ落としてますよ、と彼女を呼び止めたのだ。
電車をおりかけていた彼女は呼び止められて少し驚いた様子だったが、ハンカチを受け取ると、ありがとうございます、と何度もお礼を言って去っていった。

その一連を知っている車内の空気が一瞬沈黙した。
吊り広告のグラビアのおっぱいを眺めている人も、新聞を読んでるふりをしている人も、遠い夕焼け空をうつろに眺めている人も、その短い時間、頭の中は彼のことでいっぱいだったはずだ。
隣に座っていたかわいらしい二人の女の子にいたっては放心状態で、いけない、おりなきゃ、と言って慌てておりていった。

彼のとった行動はみんなの中に疑問符を投げかけた。
そしてその投げかけられた疑問符は、みんなのまわりのみんなに波及していくだろう。
例えばあの女の子達が晩ごはんのときに、今日、こんな人がいたんだよ、とお母さんに話すみたいに。
あるいは、いい子振りやがって、かっこつけんじゃねえよ、と思うひねくれものもいたかもしれない。
でも何にせよ、彼は何らかのメッセージを世の中に向かって投げかけた。
そして投げかけられたそのメッセージは、世界を少しだけいい方向に前進さすだろう。
そういった、少しの勇気と行動力は百万語の善言に匹敵する。

無関心が売りの世の中にあえて刃向かっていくそんな奴が、ぼくにはとてもカッコよく見えたのだ。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

心に残ることば

心に残ることばというのは、ちょっと意外なものが多くないですか。
あんまりいかめしい格言めいたものでなく、もっとこう簡単な一行ぐらいのもの。
最近よく思い出すのは、

「わたし、人間が好きなんです」

という一言。
何か心に引っかかっててたまに突然、フッと思い出す。
まるでぼくの心が勝手につかまえて大事にとっておいたみたいに、何年かたった今、じわじわじわと効いてきた。

彼女は弟と一緒にネパールからインドへ旅をしていた。
スポーツが得意そうな、ソフトボールでもしてそうなタイプで、いつも明るく元気だった。
反対に弟はというと、日本によくいるちょっと内気で反抗的な若者、といった感じ。
目つきが鋭く他人に対していつもどこか緊張したところがある。
でもきっと旅をしてるのが楽しいんだろう、姉さんのいうことを、何だよとか、うるせえなあ、とか言いながらもちゃんと素直に聞いている。
きっと旅に出るときも姉さんが、いいからあんたも来なさいっ、て引っ張ってきたんだろうなあ。
そんな様子は日本で閉塞している若者が活力を取り戻していくのを見るようで、とてもほほえましかった。

日本にゴマンといる、無気力なやるせない若者も、彼女みたいな姉さんがいれば幸せなのにね。
そういう意味で彼はとてもラッキーだったのかもしれない。
きっと彼の中で何かが生まれたことだろう。
これから先がきっと違ったものになると思う。

そんなふうに、無気力な不良の弟をかえてしまうぐらいの姉さんだから、やっぱりみててもとてもエネルギッシュだ。
話してるとこっちもなんだか元気が湧いてでてくるようだ。
そんな彼女が、自分のこれまでしてきた旅の話の途中でふと、「わたし、人間が好きなんです」

と、こう言った。
普通に、さらりとそう言った。 
単純な説得力がそこにはあった。
当たり前のようで当たり前でない言葉。
簡単なようで実はなかなか言えない言葉。
素敵な言葉だな、と思う。
そんなふうにすがすがしく言える彼女を、ちょっとうらやましく思った。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

ローマで出会った2人組

あの2人組に会ったとき、ぼくはもうずい分長く旅をしていた。
そしていささか疲れていた。
非日常なはずの旅の毎日は、いつのまにかすっかり日常的な景色になってしまい、何をみても、何が起っても、無感動に処理する術を身につけてしまっていた。
一言でいえば、旅に対して”スレていた”のだ。

どんなことに関しても、”スレる”ということは起こりうると思うんだけど、旅というのも決して例外ではない。
初めのように一日に3回ぐらい人生観が変わるような感覚は、知らん間にどっか行ってしまっている。
どんな話を聞いても、ああ、あれね、だとか、それならまだマシなほうだよ、だとか、知ったような口しかきけなくなってくる。
悲しいことに。

そんなときにローマで出会ったあの2人は、思いっきりフレッシュだった。
もちろん初めての海外旅行だし、英語も全然はなせない。
おまけに、持ってきたガイドブックは何の役にもたたず、自力でユースホステルまで辿りついたらしい。
そして、その小さな成功に大いに感動している。
欧米の旅行者をつかまえては単語帳片手に、英語の練習。
自分達が英語で会話していることにものすごく興奮している。

もうぼくは、英語で会話する喜びなんてとうの昔に忘れてしまっていたし、そんなにしゃべれるわけでもないので、自然と、外人旅行者は遠ざけていた。
まあ、コンプレックスみたいなものだ。
すると向こうもやっぱり遠慮するし、近寄ってこなくなり、変なギクシャクした関係が出来あがる。
こんな風に日本人は世界各地でコミュニティをつくっていく。

でも、彼ら2人はそんなのちっともおかまいなしだ。
英語が話せない自分達を恥じていない。全力でぶつかっていく。
すると向こうも、ぼくには決してみせたことのないような笑顔で彼らに接する。 
両者の間の壁なんてのは消えてなくなる。

ぼくは、ほほう、と感心してしまうのだ。そして思い出す。
ああ、自分も昔はああだったなあ、と。
これがいけない。
初心を忘れて知ったような顔してると、ろくなことになりやしない。
本当は楽しいはずのことでも、楽しくなくなってしまう。
例えば、欧米人旅行者と付き合うのだって楽しいに決まってるのだ。
それをいじけて、どうせ英語話せんし、だとか、あいつらとは考え方会わねぇし、だとかいって、スネて部屋のすみっこで固まっている。 
全くろくなもんじゃない。
分かりあえない壁なんてのは何のことはない、勝手に自分でつくっているのだ。

そのときの彼らは、しらけて湿気ていたぼくの心に、爽やかな風を吹き込んでくれた。
初心に返る大切さを教えてくれた。
おかげでその後の旅のスタイルも少しは変えることができたと思う。
そして何よりも、教訓としていい勉強をさせてもらった。
全くもって2人のおかげだ。 ありがとね。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

年令にまつわる話

もし仮に自分の年令を今まで知らなかったとして、そんな生活が成り立ち得ただろうか。
絶対ムリだろう。
学校へ入るときだって何するときだって、年令とはとても重要なものになってくる。
日本では、ね。

でもインドみたいな国ではそうでもないようだ。
以前書いた、インドで結婚した女の子、のだんなさんは思いっきり知らんかった。
お母さんも知らんかった。
誰も知らんかった。
ただ彼が生まれたのはマンゴーのおいしい季節だった、とだけ知られていた。
そのかすかな情報と、心もとない推量とによって彼の年令はきめられた。
そして国際結婚に臨んだのだ。
要するに、その日まで年令を知る必要が全くなかったのだ。
彼の生活において。
まあ、よっぽど田舎だし、貧しい育ちだからかもしれんけどね。
でもその辺りではけっこう普通みたいだ。
だから150才のじいさんばあさんがいても、当てにならない。

こんなのを聞くと驚きとともに、ちょっと不思議な感じがする。
べつに年令なんて知らんでも生きていけるんだなあ、と新鮮な感覚にとらわれる。
体が軽くなるような自由さを感じる。
かなりいい加減な社会だな、と思う。

でももともと年令なんて、生きていく上でそんな重要なものじゃなかったのかもしれない。
ただ文明が進んで社会が複雑になって、それとともに色々ややこしい制度ができて、細かくなってその結果だろう。
そう考えるといわゆる今の文明国の現状には他にもたくさんの
そうたいして重要じゃない重要なこと、が色々あるような気がしてくる。
ぼくらが気にしている様々なことは、実はそれほど大したことではないのかもしれない。

こういった無秩序なエピソードや社会を見せられるとそう思う。
笑かしてくれるわ。まったく。
人間や人生なんてずっとシンプルでストレートなものなんだろうな、きっと。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

偶然と必然

偶然の必然性について昔から考えていた。
旅をしていて、もっと考えるようになった。
きっとぼく以外の人も、旅をすればそう考えるようになると思う。
偶然は必ずしも偶然ではなく、必然は必ずしも必然ではないということ。

例えばぼくが旅をしたての頃、タイのバンコクである女の子を病院につれていった
右も左も分からんときで、無事彼女を送り届けたときには、ひとまわり大きくなれた気がしたもんだ。
そんなふうに、ぼくを成長させてくれた彼女なんだけど、それっきりで、とくに名乗り会うでもなく、知ってるのは名前ぐらいだった。
そんな彼女と、何と、1年後にインドの山奥で再会したのだ。
本当に山奥で、だよ。何も待ち合わせなんてしとらんのに、だよ。
バスで乗り合わせたのだ。
彼女は座席に座ってた。
乗り込んでいったぼくと目が会って、あ、日本人の女の子だな、と3秒後ぐらいに、ああ、ひょっとしてあのときの、となったのだ。

再会してからその後しばらく一緒にいたけど、劇的な再会を果たした割には特にぼくにとって特別な存在だったわけでもなく、恋に落ちるでもなく、そのままサラサラとお別れした。
かえって、会わん方が良かったかな、と思ったりもした。

まあ、それだけのことだけど、ただ、あんなとこで偶然に会うとはな、とさっきのあれを考えた。
運命が変わったとは思わないけど、あのバスで、何の約束もなく乗り合わせるタイミングは、軽く見のがすわけにはいかない。
約束してたってムリだ。あんなことは。
日本のバスならまだしも、インドのバスには不測の事態が多すぎる。
しかも、あんな山奥の小さな村で、だ。
ここまでくると、奇跡だ、もう。
そうやって考えると、その出会いになんらかの意味を求めてしまう、が、やっぱり何もなさそうだ。
まるで、神様がヒマつぶしに遊んでるみたいだ。

でもちょっと思うのは、類は友を呼ぶ、っていうのはこういうことかな、と。
多分彼女とぼくの中には何か似たとこがあって、その似たとこが共通の興味や趣味になったりして、だから同じところへ行ってみたいな、と思ったりして、その結果出会って、また出会って、これは必然といえば必然だし、偶然といえば偶然だし、どう、そう思わない?

だから偶然出会うっていうのは、高度に綿密で科学的なわけで、必然ということもできるし。
反対に、接点がまるでない人とはまるっきり出会わない。
言い換えると、出会いというのはどれも出会うべくして出会ってる、ということだ。
こう考えると、人と人との出会いがすごくエキサイティングなものになると思うんだけど、どうだろう?

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

偶然と必然

偶然の必然性について昔から考えていた。
旅をしていて、もっと考えるようになった。
きっとぼく以外の人も、旅をすればそう考えるようになると思う。
偶然は必ずしも偶然ではなく、必然は必ずしも必然ではないということ。

例えばぼくが旅をしたての頃、タイのバンコクである女の子を病院につれていった
右も左も分からんときで、無事彼女を送り届けたときには、ひとまわり大きくなれた気がしたもんだ。
そんなふうに、ぼくを成長させてくれた彼女なんだけど、それっきりで、とくに名乗り会うでもなく、知ってるのは名前ぐらいだった。
そんな彼女と、何と、1年後にインドの山奥で再会したのだ。
本当に山奥で、だよ。何も待ち合わせなんてしとらんのに、だよ。
バスで乗り合わせたのだ。
彼女は座席に座ってた。
乗り込んでいったぼくと目が会って、あ、日本人の女の子だな、と3秒後ぐらいに、ああ、ひょっとしてあのときの、となったのだ。

再会してからその後しばらく一緒にいたけど、劇的な再会を果たした割には特にぼくにとって特別な存在だったわけでもなく、恋に落ちるでもなく、そのままサラサラとお別れした。
かえって、会わん方が良かったかな、と思ったりもした。

まあ、それだけのことだけど、ただ、あんなとこで偶然に会うとはな、とさっきのあれを考えた。
運命が変わったとは思わないけど、あのバスで、何の約束もなく乗り合わせるタイミングは、軽く見のがすわけにはいかない。
約束してたってムリだ。あんなことは。
日本のバスならまだしも、インドのバスには不測の事態が多すぎる。
しかも、あんな山奥の小さな村で、だ。
ここまでくると、奇跡だ、もう。
そうやって考えると、その出会いになんらかの意味を求めてしまう、が、やっぱり何もなさそうだ。
まるで、神様がヒマつぶしに遊んでるみたいだ。

でもちょっと思うのは、類は友を呼ぶ、っていうのはこういうことかな、と。
多分彼女とぼくの中には何か似たとこがあって、その似たとこが共通の興味や趣味になったりして、だから同じところへ行ってみたいな、と思ったりして、その結果出会って、また出会って、これは必然といえば必然だし、偶然といえば偶然だし、どう、そう思わない?

だから偶然出会うっていうのは、高度に綿密で科学的なわけで、必然ということもできるし。
反対に、接点がまるでない人とはまるっきり出会わない。
言い換えると、出会いというのはどれも出会うべくして出会ってる、ということだ。
こう考えると、人と人との出会いがすごくエキサイティングなものになると思うんだけど、どうだろう?