アン・オールド・ソルジャー 2

彼はそう言うと、自分の左腕をまくってみせた。
そこには、米海兵隊のいずれかの部隊の紋章であろう、カミナリのような入れ墨が、しわしわの肌にぼやけて彫り込まれていた。

 「どうだ、これを10ドルで売らないか?」

そもそもこのライターは、日本では当時、一万円前後で取り引きされていたような代物だったため、彼の唐突で、法外な要請には少なからず面喰らった。
それに、友だちがくれた大切なものだったため、もとより売る気はなかった。
その旨を伝えると彼は、20ドル出そう、とかすかな抵抗を試みたが、やがてあきらめ、名残り惜しそうに何度も眺めてはバスに乗り込んでいった。

ぼくのライターは彼に何を思い出させたのか。
彼のベトナムとは、一体どんなものだったのだろうか。

ぼくは、かつての米軍兵士に思いを馳せた。
彼の過去、そして現在。
戦場におもむき敵を倒し、来る日も来る日も死の恐怖と格闘しながら、幸運にも生き残ることができた彼は、一体、今、何を思い、どんな世界をみているのだろう。
きっとぼくの住んでいる世界からは、大分遠いところにいるのだと思う。

ベンチで座っていたあの日、短い時間、ぼくと彼の距離は触れあう程に近かった、が、その心の奥底の距離は、計り知れないぐらい、遠く隔たっていたことだろう。
ぼくは戦争を知らない。
爆撃や狙撃の恐怖を知らない。
人の死んでいくのを知らない。
かろうじて知っているのは、戦争のもたらした残骸だけだ。
ぼんやりとしたイメージだけだ。

過ぎ去りし日の海兵隊員は、ベトナムライターの向こうにどんな光景を思い描いていたことだろう。
そのとき、彼の心には、一体何が映っていたのだろうか。

みすぼらしく痩せて老けこんだ彼に、かつてのアメリカ海軍兵士の面影はまるでなかった。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

アン・オールド・ソルジャー 1

ベトナム戦争。 ぼくは、何故か、ずっと、ベトナム戦争に取り憑かれている。
このぼくと、何が関係している訳でもないのだが、
ベトナム戦争には強く惹き付けられるものがある。

何年かの後、とうとう、ベトナムへ行った。 米軍が焼いた、はげ山を見た。
化学兵器によってもたらされた、不幸な畸型児のホルマリン漬けを見た。
戦闘機をみた。 戦車をみた。 戦争の話をきいた—–

ぼくが初めてベトナムに行くよりも何年も前、ある友人が、ベトナムをひとりで旅した。 
当時、ベトナムへ旅行する人などというのは皆無に近く、今現在程、一般的ではとてもなかった。
ぼくにとってベトナムとは、辺境の、恐ろしい未開国ぐらいの印象しかなかった。
そんな国へ、友だちは果敢にも単独で旅行し、ぼくを驚かせた。
今まで聞いたこともないような旅の体験談は、そのときのぼくをとても興奮させたものだった。
そして、話の終わりに、これ、お前にやるよ、とあるものをぼくにくれた。
ライターだった。
それはベトナム戦争当時、アメリカ軍の海兵隊員によって使われたものであり、個々の兵隊の様々なメッセージが、それには刻み込まれている。
友人がくれたライターには、こう記されていた。

If I had a farm in vietnam, a home in hell,
I would sell my farm and go home.””

もし仮にベトナムに農場を持っていたとしても、私はそれを売り払って、地獄にある我が家へ帰ることだろう。ベトナムにいるよりは、その方がましだ。
簡単にいえば、ベトナムは地獄よりも辛い、ということだ。
これを持っていたアメリカ兵は、こんな思いを抱きながらベトナムで戦っていた。

過酷な条件下で何年もの間使われてきたそのライターは、メッキがはげ、泥を吸い込み、あちこち壊れかけていた。
しかし使い込まれた金属が、使い手の手の型に順応したその独特の曲線は、ぼくに戦場の緊迫したイメージを喚起させ、それを使う度に、さも、自分がその場に居合わせた兵隊であるかのような気分に浸らせてくれるのだった。

そんなライターをずっと使っていた。
それを持ってアメリカを旅していた。
ロサンゼルス、ハリウッドの目抜き通りでバスを待っていて、いつものようにタバコに火をつけた。
ぼくの隣には、痩せて、肌にしわの多い、おそらくみかけよりはずっと若いであろう、中年男性が座っていた。
彼はぼくのタバコを吸うのを目にとめると、しわがれた声で、火をかしてくれないか、と言った。
ぼくは、ああいいよ、とライターを渡すと、彼はタバコをくわえたなり、しばらくしげしげとライターを眺め、ぼくに向ってこう言った。

 「オー、ゴッド、お前、これを一体どこで手に入れたんだ?」

ぼくはどうして彼がそんな質問をするのか少し不思議に思ったが、自慢のライターに感心を持ってくれたことをちょっと得意に感じ、

 「ぼくの友だちがベトナムで買ってきてくれたんだ」

と、自慢げにこう言った。
彼はゆっくりとうなずきながら、ライターを何度も手のひらの中で転がした。
丹念に、丹念に、傷のひとつひとつを確かめるかのように眺めまわしたあげく、溜め息交じりにこう言った。

 「ボーイ、オレはベトナムへ行っていたんだよ」”

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

ブラックファミリー・イン・アムトラック

ファミリー。 ファミリー。
今、改めてこの言葉の印象を考えると、
ぼくがアメリカを旅しているときに出会った黒人ファミリーが、一番、
イメージ的にピッタリ来る。
“家族”というんでなくて、”ファミリー”。

アムトラックというのは、アメリカ全土をくまなく走る大陸鉄道のことで、
ぼくは主にそれを使って、アメリカを旅していた。
サンフランシスコからシカゴまでは、そのアムトラックで2泊3日かかる。
寝台なんて高いから、もちろん普通のシート座席だ。
といってもアジア諸国のものに較べたら大分上等で、
リクライニングぐらいはスムーズにできる。
リクライニングぐらいはできるけど、2泊3日となるとやっぱり辛い。
3日目ぐらいには乗客達がやつれていくのが目に見えて分かる。
でも、寝台となると値段が倍以上も高くなってしまうので、ツラくても、
一般大衆は大体座席でがまんして移動する。
そんな彼らにまじってぼくもその列車にのっていた。 その中でのこと。

ぼくは初めての一人旅で、しかも、
その当時はまだ旅を初めて一週間かそこらの頃だった。
経験も浅く、旅の現実というものをまだあまり分かっていなかったため、
こういう長距離の移動に際しては、常に甘い期待を抱いていた。
そう、恋の予感だ。
ぼくの隣の座席に女の子が座るのだ。 金髪碧眼の美しいアメリカ人女性。
そんな彼女が、”エクスキューズ・ミー”といって、
チケットと座席番号をチェックしながら、ぼくの隣に座ってくれるのだ・・・

そんなふうに2泊3日のラブ・トリップを夢見て、
ぼくはどきどきしながら自分の座るべき席を探したのだ、が、
ぼくの席だと思われるその席には、果たして既に女の子が座っていた。
そう、確かに女の子だ、3才ぐらいの、小さな、黒人の・・・

その子はまん丸の目玉で、ぼくの顔をしばらくじっとみつめていた。
ぼくは苦笑いしながら、ハローといって荷物を棚にのせて席についた。
本当は、その子の座っている窓際の席がぼくの席なんだけど、
何だかその子はどいてくれる気配すら見せないので、
仕方なくそのままそこへ座った。
そして、そのまわりにはその女の子の姉妹を含め、
ファミリー達がどっさり座っていたのだった。
何故だか皆女性で、お母さんとおぼしき人から親類のおばさんから何から、ぼくのまわりをぐるっと取り囲んでいた。                   

いかにも黒人のおばさんで、太ってて、顔をくしゃくしゃにして笑う。
最初の内は、緊張しているせいか口数も少ないが、
2日も3日も一緒にいたらいやでも親近感が湧いてくる。
その日の夜が来るまでには、ぼくはその小さなエミリーちゃんと、
すっかり仲良くなっていた。

ぼくが英語の拙いことが分かると、あなたは一体、何語を話せるの?
と聞いてきて、日本語だよ、と答えると、
お母さんに向って、ジャパニーズだって、と、ひそひそ声でいちいち報告する。 
しばらくして退屈しだすと、おもむろに自分の鞄からぬり絵とクレヨンを取り出して、色を塗りはじめる。
そしてぼくにも塗れ、といって強引に手伝わせる。
するとその様子を後ろで見ていた姉さんが、ヤァ、彼、
今、猫の尻尾を塗っているわ、ハハハハハ、と皆に言って大笑いになる。
さらにぼくが何か食べようとすると、
お母さんがぼくの食べているものをいちいち検分して、
隣のおばさんと何やら論じ合い、大声で笑っている。
そしてぼくに向って、テレビ番組だか映画だかに、
あんたみたいな男が列車にのって旅するっていう話をあたしは知っているよ、みたいなことを言ってまた笑う。
いい暇つぶしの材料になっていたみたいだ。
そんなふうに車内の時間は過ぎていった。

しかし、次の日になってみんなが去っていってしまったとき、何だか、
心のどこかにぽっかり穴が空いたように、急に寂しくなってしまった。
隣のエミリーちゃんの席が妙に寒々しく思え、次にそこの席に乗り込んできた人が、変に他人に見えたのを印象的におぼえている。

独特の暖かさみたいなものが、ぼくの胸に残った。
それはぼくが知っている種類のものとは少し違ったものだった。
今思うとそれは、後々ぼくがアジアの国々をまわることになってから覚えた、アジア人達の暖かさと似ていると言ってもいいかも知れない。

大きくって、暖かくって、大地のようにどっしりとした安心感。
どっしり太ってて、大声で笑うお母さん。
黒人ファミリー達は、異国の地でたった一人旅するぼくを、
とても暖かく包んでくれた。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

スニーカーガールズ

ぼくは昔、アメリカに憧れていた。 とても憧れていた。
その憧れ方というのはおそらく、人より激しいものだったんではないかと思う。
自分の頭に、金髪が生えてきてくれないか、と思うぐらいに憧れていた。

そんなに憧れていたぐらいだから当然、アメリカへ行ってみたいと思ったし、また、住んでみたいとも思った。
そして実際、初めて行った外国はアメリカになった。

アメリカ、ニューヨーク。

もっと知りたいと思い、今度は2ヶ月ぐらいかけてぐるっと一周した。
そのときに行った、シカゴという大都市でのことを、ふと思い出す。

ぼくは、日本という国は堅苦しいところの多い国だと思う。
へんに生真面目、というか。
フランクにこなれていないために、無性に肩がこったり、
気疲れしたりすることがよくある。
特に仕事など、そういう面において。
おそらく日本のそういう部分は、ぼくの目を海外に向けさせる要因のひとつになっていったのではないだろうか。
そういう意味でアメリカという国は、かなりユーモアの効いた国なのだろう。
堅苦しい場面においてもユーモアを忘れない。
いや、むしろそういう場面だからこそ、そうなのかも知れない。

シカゴというのは、大都市である。
超高層ビルの立ち並ぶその様は、ニューヨークのそれにひけをとらない。
大商業都市だ。
スーツをパリッと着込んだビジネスマンやOL達が、
さっそうと風を切って行き交い、
お昼どきにそんな街をぶらぶらしていると、何だか、
自分も世界の経済を動かしている人達の中に混じっているような気がして、ちょっと緊張したりもする。
何かそういう緊迫した空気が張りつめている。

ただあてもなく、ぶらぶら歩いているぼくまでも、
何だかいそいそとした気分にさせられるのだが、ふと、
OLさん達の足下をみてみると、何と、スニーカーをはいていた。
スーツを着ながら、だ。 しかも、一人だけでなくってけっこうな割り合いで、スーツにスニーカーをはいている。
これにはちょっと驚いた。 
ジャケットとスカートとスニーカー、というようなそんなスタイルは、今まで見たことはなかったし、考えもしなかった。
もちろん、とても違和感があるのだが、それにはむしろ、ユーモアに近いものを感じたし、あ、何かカッコイイな、と新しいファッションのように捉えることができた。
多分、ビジネス街に働く忙しいOLさん達は、歩きにくいハイヒールより、
歩きやすいスニーカーを選んだのであろう。
至極、合理的な思考法によって。
とても分かりやすいんだけれどもそれは、ぼくにとっては何だか、
緊迫した空気の中で、ほっと一息つける安らぎのようなものとなった。
とても小さなことなんだけど。

アメリカ的なセンスだなぁ、と思った。
ビジネスという固い雰囲気の中にユーモアを取り込むセンス。ポップなセンス。
OLさん達は活き活きしていた。
ピンッと背筋をのばして、
さっそうとスニーカーで弾むようにアスファルトを蹴っていた。
その表情には微笑みすら浮かんでいたのではないか、とも思う。
楽しんで仕事をしているような感じだった。
何だかかわいくって、とても魅力的だった。
そういうのって、パワーだと思う。
堅っ苦しい、いにしえのものの考え方や、陰湿な悪しき慣習、体質。
そういうものを吹き飛ばしてしまうパワー。
じめじめした暗いところに、
さっ、と明るい光を差し込むOLさん達の笑顔、スニーカー。
ぼくはそういう人達を応援したいと思う。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

ベイルートで

ぼくは映画が好きで映画館にもよく行くし、ビデオなどもよく見たりする。
アクション映画からフランス映画まで、分けへだてなく何でも見る。
何か、興奮したり、泣きたくなったり、考えさせられたりするような作品が好きだ。
一言でいえば、感動する作品ってことなんだろうけど。

黒澤明という映画監督がいる。そう、世界的に有名な、かの「世界のクロサワ」だ。
ぼくは、そんなに多く彼の撮った作品を見た訳ではないんだけれど、一本、ぼくが今まで見てきた映画の中でも3本の指に入るような作品がある。
それは多分、誰でも一度は聞いたことがあると思うのだが、「七人の侍」という作品である。 これは本当にすごい作品である。
本物と呼ばれる様々なものは、時間や空間を超越する。
いつの時代になっても、どこの国においても、真新しさやその魅力が色あせることはない。 普遍性をもっている。
そういうものである。

ぼくはこの作品を見たときにそれを感じた。また、彼を彼たらしめたのも、この「七人の侍」という映画であろう。
世界中のたくさんの人達がこの映画をみて感動した。 心を動かされた。
ぼくはそのことが、ただ日本で大げさに吹聴されているのでなく、ああ、本当だったんだな、というのをレバノンの首都、ベイルートというところで実感した。 
ひとりのレバノン人老紳士によって、実感させられた。
ぼくは長い長い旅の果て、中近東まで来てしまっていた。
シリアだとかヨルダンだとか、入国する直前に名前を知ったような、訳の分からない国々の並ぶ地域、中近東。
そのイメージは、日本赤軍だとか、無差別テロだとか、内戦だとか、キナ臭く、血なまぐさいものばかりが思い浮かぶ。
レバノンという国は、それらのイメージが全部凝縮されているような国だった。
特にベイルートは戦火の跡も生々しく、無数の銃弾や砲撃の跡が残されており、倒壊寸前の建物がたくさん立ち並んでいる。
しかも驚いたことに、そこに人が住んでいる。
銃弾で穴だらけのベランダに洗濯物が干されたりしているのは、何だか不思議な光景だ。 この街での戦闘が、どれだけ激しく熾烈なものであったかというのは想像に難くない。
たくさんの人が死んだことだろう。

しかし今となっては旅行者が自由に入国できる程に落ち着いており、復興も物凄い勢いで進んでいる。 実際街のあちこちで工事をしているし、話によると数年前にくらべたら、比較にならないぐらい整備されているということだ。
もともとフランスの植民地であったレバノンは、その名残りが今でも残されており、街の中心地には中近東には珍しい小洒落たバーや、レストランがあって、洋食などもおいしく食べられる。
特に、中年男性にはどこかあか抜けた感じの人もちらほら見受けられ、スーツの着こなしなども粋である。 格好いいな、と思った。
そしてテレビもフランス語で放送されていたりする。 
レバノンという国はそんな国だ。

宿で、そのフランス語放送のテレビを訳も分からず見ていたときに、ふいに黒澤監督のニュースが流れた。
あっ、と思って隣で一緒にそれを見ていたレバノン人の老紳士に聞いてみると、彼は、亡くなったのだ、という。
少し茫然としたが、そのときは彼の作品を見たことは一度もなかったし、ただ有名な映画監督としてしか認識していなかったため、それほど大きな驚きではなかった。
それよりそんなぼくよりも、その老紳士のほうがよっぽど悲しそうな顔をしているではないか。
彼は言った。

「惜しいことをした、とても残念なことだ、まるで大切な友を失ったかのようだ」
そう言った。
そのことのほうがぼくには驚きだった。
こんなさい果ての国の名もない(であろう)ひとりの老人に、”大切な友”まで言わしめる黒澤明という人間は、一体どんな人なのだろう?
彼の撮ってきた映画とは一体どんなものだったのだろう? そう思った。
いっぺんに興味が湧いた。
そうして帰ってくるなり、彼の代表作である「七人の侍」を見るに及んだのだ。

彼の作品は国境を超えた。 文化、習慣、考え方のまるで違う人達に感銘を与えた。
人種や国籍や言語といったものを飛び越えてしまった。
すごいことだと思う。
それはきっと、人間全部が共通してもっている根っこのような感覚、または感情を捕まえることができたからなのだろう。
だからこそ、その老紳士は彼の死によって心を痛めているのだ。
行ったこともない日本という、はるか彼方の国の、ひとりの日本人の死に。
それは何だかすごくロマンチックなことのようにも、神秘的なことのようにも思えた。

よい作品というのはそんな力をもっている。
全く面識のない、人と人との心をつなぐ力を秘めている。
ぼくもそんな作品をつくりたい、と言いたいところなんだけど、でるのはため息ばかりだね。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

私が見たアフガニスタン3

祖国
「中国人か?」
黒いターバンを巻き険しい顔をした男が近づいてきて私に英語で尋ねました。
真っ黒のターバンはタリバンの証しと聞いていたので、いきなり緊張しました。
「いや、日本人だ」
と私は冷静さを装いながら応えました。
鋭い目をし、濃い髭に顔中覆われた男はイメージしていたムジャヒディン・ゲリラ※の姿に近いものでした。

男は私の前に座ると、次々と質問をしてきます。
「どこから来たんだ?」「なぜここに来たんだ?」「・・・」
男の質問にひとつひとつ答え、一段落ついたところでこちらからも尋ねてみました。

「あなたは何をやっている人ですか?」
「私はパキスタン人で、国連の仕事に携わっている」
それを聞いてようやく緊張の糸を緩めることができました。

しばらく話しこんでいると、前で茶を飲んでいる5、6人の若者たちがこちらを気にしながらちらちらと我々を見ています。
そのうちひとりが私の前の男に話しかけてきました。
男はわたしにはわからない言葉で若者に話していましたが、どうやら私の素性を彼らに説明しているようです。

若者が納得し終えたような顔つきで彼らの席にもどったところで男に尋ねました。
「何だって?」
「彼らはクエッタ(パキスタン)から来ていて、お前が中国人かどうか気にしていた」
「なるほど。で、彼らは何でクエッタからカンダハルに来ているんだ?」

男は振り返って彼らに言葉を投げかけ、二言三言言葉を交わすと、顔を戻してサラッと答えました。
「ファイティング」
「え?」
別に珍しいことでもない当たり前のことを答えたかのように、その返答があまりもさりげなかったので思わず私は聞き返しました。
「戦いだ」
男は英語が通じなかったかと思った様子で言葉を替えて私に説明しました。

若者たちはニコニコしながらこちらを見ています。
髭もようやく生え始めたばかりのようで、産毛の延長みたいなまばらな髭をあごとほおに生やしています。
私は男に頼んで彼らにいくつか質問をしてもらいました。

「なぜクエッタ(パキスタン)から来たんだ?」

「両親は昔アフガ二スタンからクエッタにやってきた。今はクエッタで服屋をやっている。しかしここがオレの祖国だ。」

「戦いは怖くないのか?」

「ここは我々の国だ。祖国を守るために我々は戦う。」
私の質問に「何をバカなことを聞いているんだ」というような顔つきで苦笑しながら立ち上がって彼は答えました。

クエッタにいれば平和で安全な生活を送れるのに、自分が暮らしたこともない「祖国」を憂い戦いに飛び込んでいく若者たち。
彼らの強い眼差しを見て、日本の状況とは大きく異なる現実に深く考えさせられました。

当時(98年)はタリバンの影響下にある地域は国土の約7割で、北部の要所マザリシャリフもまだその範疇にありませんでした。

※ イスラム聖戦士。ソビエトの侵攻に頑強に抵抗し戦ったアフガニスタン兵士はムジャヒディンと呼ばれた。

にわの軌跡
にわ 21歳のときに五木寛之氏の「青年は荒野を目指す」に影響を受け旅に出る。25歳の時、勤めていた会社を辞め、上海行きの船に乗船、世界一周の旅へ。2年後帰国。訪れた国は約80カ国。現クロマニヨン代表。

私が見たアフガニスタン2

日没
「ここがカンダハル・・・か」
太陽はすでに西に傾き、日没の時間が刻々と迫っている頃、国境で乗り換えた乗合ワゴンの窓から民家や人の姿がちらほら見えるようになりました。

ワゴンが停車し、屋根に積んであったバックパックを受け取ると町の中心らしき方向へ歩き出しました。
西に伸びた大通りの先は太陽が地平線へと近づつつきあり、砂埃のせいで光は拡散され、すべてがオレンジ色ににじんで見えました

道行く人は異国人である私に気を止める様子はまったくありません。
黒の長いターバンとグレーのシャルワールカミース※1。
彼らとまったく同じいでたちに疑う人はいませんでした。
変装の効果は想像以上でした。

自分の影が後ろにどんどん長くなっていくにつれて、早く今夜の宿を見つけねばと不安が増し始めました。
頼りになるのはパキスタン、ペシャワールで手に入れた1枚のコピー。
1年程前にアフガニスタンを通過した旅人が書き残した手書きの地図でした。
自分の現在位置もわからずただただ西へ歩き続け、時折立ち止まって地図に目をやり、宿らしきものはないかと見回していました。

急速に光を失いつつある街の様子は内戦の傷跡の陰影を強く映し出していました。
通りに面する商店や民家の2階部分はほぼ破壊され、柱や崩れかけた壁を剥き出しにしていました。
1階部分も恐らく同じように破壊されたはずですが、住んだり、店を営むために修復したのだと思われます。
1階のどこでも見られる日常的光景と2階の廃墟の対比がとても印象的でした。

地図
カンダハルには電気も水道も来ていないと聞いていました。
内戦でインフラは破壊されたようです。
カンダハルに向う途中で見た、町に向って連なる送電塔は線をズタズタに切断され、まるで屍のようでした。

刻一刻と迫る日没に街はゆっくりと影を増し、藍色に包まれ始めました。
人通りもわずかになり、焦る気持ちを抑えながら、空に残るわずかな光を頼りに手書きの地図を何度も広げ確かめました。
そしてようやく地図に宿の印がついている前まで辿りつきました。

外からは壁しか見えない建物はとても宿らしく見えません。
入り口はせまく、入り口に書かれたアラビア文字は当然読めるわけありません。
しばらく悩んだすえ、ためらいながらも建物の中に入ってみました。

中は大きな中庭があり、ターバンを巻いた髭面の男達が3?40人ほど座り込んだり寝そべったりしていました。
あたりを見渡し、受付らしき一画に座っていた男を見つけると、「ここは宿か?泊めてもらいたいんだが・・・。」と身振り手振りで、一生懸命伝えました。
意思が正確に伝わったのか伝わらないのかわからぬまま、男は「まあちょっと待て」と私を制すと外に出て行きました。

突然、アザーン※2が拡声器から街中に響き渡り、中庭の男たちはいっせいに同じ方向を向いて立ち上がり、祈りの言葉を唱えながら立ったりしゃがんだりを繰り返しました。
祈りの仕方を知らない私は、目立たないように隅で小さくなっていました。

祈りが終ると建物に明かりが灯り始めました。
先ほどまでは残骸のように見えた街灯にも黄色の光が点灯しています。
どうやらこの街では発電機で決められた時間だけ電気を流しているようでした。

建物の2階は茶屋になっており、茶を頼むと給仕していた男に先ほどと同じ質問を繰り返しました。
間違いなく宿のようです。ほっと胸をなで下ろしました。

しばらくひとりで茶を飲んでいると、男が強いなまりのある英語で話しかけてきました・・・。

※1 パキスタン、アフガニスタン男性の服装。
※2 祈りの時間を知らせるために謡われる祈りの言葉。拡声器、ラジオなどを通じて流される。

にわの軌跡
にわ 21歳のときに五木寛之氏の「青年は荒野を目指す」に影響を受け旅に出る。25歳の時、勤めていた会社を辞め、上海行きの船に乗船、世界一周の旅へ。2年後帰国。訪れた国は約80カ国。現クロマニヨン代表。

私が見たアフガニスタン

衝撃
カンダハル。かつてアレキサンダー大王の遠征でアレキサンドリアと名づけられた街。現在はタリバンの本拠地として最近メディアに登場 しているのをよく見かけます。

98年7月。空と大地以外何もない土漠を砂煙をあげながら私を乗せたワゴン車は地平線の向こうにあるこの街を目指していました。
道も標識もなく、太陽がなければ方向感覚さえ失う土獏の中、大地につけられた無数のわだちが街に通じる道しるべでした。
アフガン人でいっぱいの乗合ワゴンの中は、40度近い外気の熱とむせかえるような人の熱気で息苦しくなるほどでした。

途中、巨大な送電塔が街の方向に向っていくつも連なっているのを見かけました。
しかしそれらを結ぶ送電線はズタズタに切断され、垂れ下がりその機能をまったく果たしていないようでした。
内戦の続くアフガニスタンの現実がそこにありました。
数時間前に入国したばかりの私にはいきなり緊張が高まった衝撃的な光景でした。
「生きて無事に出国できるだろうか・・・」最悪の事態を覚悟して入国を決意したつもりでしたが、現実を目の当たりにして早くも恐怖と不安が心の中に入り込んできました。

言葉
「これは何と発音するんだ?」
アフガニスタン入国1週間前、国境から列車で4時間ほどの距離にあるパキスタンの街クエッタの宿でパシュトゥン人※1を見つけては何度もこの質問を繰り返しました。
何が起こるかわからないアフガニスタンで身の安全を確保するためには言葉は不可欠だと考えたからです。
よく使う言葉や単語を英語で彼らに尋ね、耳で聞いた音をカタカナに直し、何度も発音して覚え、通じるか確認する。
これを幾度も繰り返して語彙数を増やしていきました。

「ソ連軍が侵攻してきたとき、ムジャヒディン(イスラム戦士)に捕らえられたソ連兵は『コーラン※2を唱えてみろ』と要求され、唱えることができたものは捕虜に、できなかったものはその場で銃殺されたらしい」
途中で出会った日本人旅行者はアフガンに行くと言った自分にこう語りました。
真偽のほどは定かではありません。しかし私がコーランの一節を暗記しようと思い至るには十分すぎるほどの内容でした。
「アッラーフアクバル・・・」
祈りの時間に町中に1?2分ほど響き渡るこの祈りの言葉を書きとめ、何遍も復唱しました。命にかかわるかもしれないという恐れがあったので必死でした。
発音が正しいか何人にも聞いてもらって直しながら、数日後にはよどみなく唱えられるようになっていました。

アフガ二スタン入国3日前、マーケットで米ドルをアフガニスタンの通貨アフガニにチェンジし、シャルワールカミース※3をオーダーしてターバンを買い求めました。
タリバンはヒゲとターバンの着用を自国民に義務づけており、またなるべく目立たないように行動するためアフガン人になりすまして入国するつもりでした。

遺書
入国前夜、遺書を書きました。
最悪の事態が起きたことを考え、友人あてに封書を送り1ヶ月経っても無事の連絡がなければ実家に転送するよう依頼するつもりでした。
しかし当日になって思いを変え、書いたものに切手を貼ることなく荷物の中にしまいこみました。
理由を言葉に換えることはむずかしいのですが、最悪の事態を心のほんのわずかな部分でも認めることは、それを招きよせるように思えてきたからです。

早朝、アフガニスタンで目立たないようにと用意したアフガン人の服装を身にまとい宿を後にしました。
後から知ったのですが、奇しくも私が泊まっていた宿は、半年ほど前にアフガニスタンで消息を断った日本人旅行者がパキスタンで最後に泊まった宿でした。

通りを歩き始めて駅へと向う途中いつもと様子が違うのに驚きました。これまで遠慮容赦なく浴びせられた現地人の好奇心の視線がほとんど感じられなくなったからです。
ただ身にまとうものを変えただけなのに不思議なものです。

クエッタから国境の町チャマンまでは列車で約3?4時間。
窓から黄土色の土漠の先を目で追いながら心の中で「本当にこれでいいのだろうか?」と何度も何度も自分に問いかけました。
乗客が少しづつ減っていく中、不安は増すばかりです。

太陽が頭上に来た頃、列車は終着駅チャマンに到着しました。
同じ列車がしばらくすると進行方向を反転しクエッタ行きになります。このまま乗りつづけていれば昨夜までと同じようにベッドの上で安らかに眠りが保障され、降りればこれから先どうなるかわからないアフガニスタンが待ち受けています。
私はホームに降り立ち、少しの間ためらった後、「行くしかない」と決意を固め歩き出しました。

国境行きの乗合トラック乗り場は難なく見つかりました。
1時間ほどで荷台が人でいっぱいになるとトラックは動き始めました。
途中で検問がありましたが、係員は車を止め荷台に一瞥くれただけですぐに行けと指示を出しました。
ゲートが見え、国境かと思われましたが、運転手は係員に挨拶しただけで停車することもなく通り過ぎてしまいました。
国境では通常パスポートチェックがあるので、まだまだ先なのだろうと思っていました。
しばらく走ってからワゴン車が何台も集まっているところでトラックはエンジンを止めました。
「国境は?」運転手に尋ねると今来た方向を指差しました。
思いがけない返答に驚きました。
恐らく国境付近の住民は同じ民族でありアフガン難民も多いため自由に行き来をしているようです。
意図せず不法入国となり、アフガニスタン第1日目が始まりました。

※1 アフガニスタンの主要民族。タリバンもパシュトゥン人
※2 イスラム教の教典。イスラム教徒なら誰でも唱えることができる
※3 パキスタン、アフガニスタン男性の服装。

にわの軌跡
にわ 21歳のときに五木寛之氏の「青年は荒野を目指す」に影響を受け旅に出る。25歳の時、勤めていた会社を辞め、上海行きの船に乗船、世界一周の旅へ。2年後帰国。訪れた国は約80カ国。現クロマニヨン代表。

蚊帳と螢

季節外れで申し訳ないのだが、螢の話。 
蚊帳と螢。

先日ある一枚の日本画をみた。
明治生まれの女流作家によるもので、和服姿の女の人が蚊帳を吊っている。
彼女は蚊帳を吊りながら足下のほうに視線を落とし、その視線の先には一匹の螢が淡く光りながら舞っていた。
涼し気に着崩した和服姿の女性と蚊帳の質感は、うっすらと暑気の抜けた夏の夕暮れを思い起こさせるとともに、ある光景がぼくの脳裏に鮮烈に思い出された。

ぼくはまさにこんな光景を目にしていたのだった。
プリーという、インドのカルカッタから南へ電車で半日程の距離にある
小さな漁村でのことだった。
その村は本当に小さな村で、海沿いに漁師の集落がぽつぽつと点在し、古びた木製の漁船が浜辺のそこいらに放置されているような閑散としたところだ。
だが、南インドののんびりした雰囲気が味わえるためか、旅行者もよく訪れるし長居する人も多い。
実際それこそ時間が止まっているかのように毎日に変化というものが乏しく、あるのは南国の太陽と、ヤシの木と、灰色のさびれた砂浜だけだ。
おそらく何十年昔も大して変わりはなかっただろうし、この先の何十年も多分このままなんだろう。
ずっといたら頭がふやけてしまいそうだ。 本当の田舎がここにある。

でもそんな田舎の安宿にはそれなりに趣があって、木造二階建てで日光をさえぎった室内からは
さらさらと風になびくヤシの葉音が涼し気に聞こえ、それらは太陽光線によってキラキラと緑色に輝く。
そしてベッドには蚊帳が吊られている。
夜になるとその蚊帳を下ろして、遠くさざ波を静かに聞きながら眠りにつくのだ。
蚊帳の中というのは個人的な、自分だけの特別な空間のような、何だか贅沢な、ちょっと不思議な感覚がある。

そんな自分だけの城でいつものように眠ろうかと思ってふと気がつくと、暗闇の中に螢がとんでいた。
あっ、と思ってまわりを見回すと、3,4匹空中に舞っている。
するとそのうちの一匹が、ぼくの城の片隅に停泊した。
淡く緑にゆっくりと螢光している。
窓からさらさらと吹き込む涼しい夜風にかすかに吹かれながら、うっすらと聞こえてくるさざ波を耳に、自分だけの特別な空間で、宙を舞う淡い緑の明滅を、夢か幻のような心持ちでうっとりと眺めている。

そんなのは初めてだった。 初めての経験だった。
テクノロジーの発達した、現代、と呼ばれる近代社会で育ったぼくは、そんなの知らなかった。
アスファルトやコンクリートは利便性やスピードといったものと引き換えに、当たり前のようにそこらに転がっていた、風流なできごとを失った。
ただそれらのできごとは、昔話として心象風景に成り変わって、ぼくの心に何となく残ってはいたのだが・・・

だからその光景を目にしたとき、ぼくは、何だか懐かしくて切ない気持ちになったし、自分の子供のころのことを考えた。
そして美術館でみた一枚の絵によってこれを書くに至った。
きっと、あの女の人はぼくの体験したような風流なできごとを、それこそ毎日、当たり前のように目にし、体験していたんだろうな、と思うと、なんて優雅な世界に生きているんだろう、と思わずにはいられない。
驚きすらおぼえる。 

テクノロジーにそういった風流は生みだせない。
忘れちゃいけないな、と思う。
たとえ近代社会の中で、それらのできごとは淘汰されていく宿命にあったとしても、昔の人が持っていたような感性や風景は、何らかの形で残していかないといけないと思う。
もしそれらが失われてしまったら、味気のない、カスカスした、面白味の何もない人間が、大量に生産されていくだけだろう。
重要なのは、いわゆる人間味というやつだ。

人間にとって、夜、遠くから聞こえるさざ波や、蚊帳の中から見る螢の飛翔する風景は、宝物なんだと思うけど、どうだろう。
そしてぼくが一枚の絵を見てこんなふうに感じたように、それらを知らない誰かに伝えることこそが、芸術の役割なのではなかろうか。
そんな風に思う。
蚊帳と螢から、とりとめもなく考えた色々なこと。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

お葬式

人が死ぬ。 葬式をあげる。
お別れのとき。 悲しみが込み上げる。

でも、本当に近しい人が死んだとき、悲しさというものはすぐには襲ってこないんではないか。
反対に、目の前でその人が死んでいるという現実のほうを疑ってしまう。
実感なんて湧いてこない。
そういうものだと思う。

だからもちろん悲しい人は思いっきり悲しめばいいんだけど、どうしても実感のわいてこない人は、無理に涙を流さなくたって、リラックスしていればいいと思う。 笑ったりしたっていいと思う。
心配しなくても悲しみはしばらくしたら、突如、猛烈な勢いで襲ってくる。

もしぼくが死んで、ぼくの葬式が行われるとしたら、派手に盛大に楽しく宴会してほしいものだ。 しんみりめそめそしたのは嫌だ。
ぼくの思い出話しで盛り上がって、そういえばあいつはアホなことばっか言っとったよなあ、だとか、でも、たまにはいいところもあったよなあ、だとか、大いに笑っていただきたい。
みんな酒でも飲んで酔っぱらってはしゃいでほしい。
そんなお葬式がいい。

インドのバラナシという町でそんなお葬式を見た。
ヒンドゥー教において最も重要な聖地であるバラナシには、ガンガーという聖なる河が流れている。

全てのものを流し清めるガンガーで人々は沐浴をしたり、顔を洗ったり、歯を磨いたり、体を洗ったり、洗濯したり何でもやる。
そんな光景がいっぺんに見られる。
ちょっと日本の聖なるイメージとは遠いものなのかもしれない。
実際、ガンガーの水は全然きれいでも何でもなく、茶色く濁っている。
きっと予備知識の何もない日本人が、聖なる河なんですよ、と聞かされて行ったとすれば、びっくりするに違いない。
その聖なる河は、人の死体までも流し清めてしまうのだ。
ヒンドゥー教徒は、ガンガーに流されることによって、来世への希望とともに成仏していく。 
だからすぐ流せるように、合理的に河のほとりで死体を焼いている。
お金のある人は灰になるまでちゃんと焼いてもらえるが、お金のない人は薪が買えないため、生焼けぐらいで流す。
あと、赤ん坊はそのまま流される。
完全に灰になれば流されても分らないけど、生焼けの死体や、赤ん坊の死体までもがプカプカ流れているのだ。
かなりびっくりするだろう。

でも、ぼくがここで言いたいのはプカプカ浮いた死体の話じゃなくって、お葬式の話。
インドのお葬式を詳しく知っている訳ではないけれど、多分、火葬場に遺体を運ぶときというのは、お葬式のクライマックスにあたるんではなかろうか。
ぼくはバラナシの町でその行列に遭遇したのだ。

お祭りかと思った。 よくみたらお葬式のようだった。
人々が二列になって担架のようなものに、白い布でくるまれた遺体をのせ、肩の高さに持ち上げて運んでいく。
まわりの人達は何やらジャンジャン鳴りものを打ち鳴らし、その担架にはきらびやかな装飾が施されている。 
とても派手だった。

それを見たときに、あ、これはお葬式なんだ、と単純に新鮮だった。
そして何だかうれしく思った。
ああ、オレも死んだらこんなのがいいな、とそのとき思ったのだ。
何も泣いてばかりがお葬式なんじゃない、明るく賑やかなのがあったっていいじゃないか。

ぼくの葬式の席では小さな子供達が坊さんのはげ頭や、読み上げるお経をまねしたりして、ケタケタ騒いで走り回り、それをおばあちゃんがあわてて追いかけまわしたりなんかしてくれたら、きっと微笑みながら天国へ行けるんじゃないかなって思ったりもするんだ。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。