草原のホーミー

そこまでの道のりは、文字どおり険しかった。
ウランバートルからのバスは10人乗りのワゴン車で、そこに13人くらいを押し込み走り出す。
老人などは助手席でゆったりと座れるが、私を含めそれ以外の人は、狭い座席に肩と肩、膝と膝を寄せ合って、身体を斜めにしないとシートに座れないくらいのスペースしかない。
おまけに、その膝の上を子どもらが遊びまわる。
子どもらにとっても日本人は珍しいのか、やたらちょっかいを出してきた。
途中、車は釘を踏んでしまいパンクしたが、そこに適当なネジをはめ込み、自転車用の空気入れで空気を入れのりきった。
そして8時間かかり遺跡の街カラコルムに到着した。

カラコルムで遺跡を見学し、そこには2泊した。
そしてツェツェルレグという街に向かった。
ツェツェルレグまでのバスもワゴン車で、フロントガラスに無数のヒビが入っているものだった。
ツェツェルレグまでは私以外に行く人がいなかった。
モンゴルのバスは、ある程度人数が集まらないと、出してくれない。
仕方なく、バスをチャーターするはめになり料金も高かった。
乗客は私1人なのに、ドライバーの他、3人の男が乗り込んできた。
最初その理由が分からなかったが、この車は押しがけしないと、エンジンがかからなかった。
他の男たちは、そのためにいるらしい。
ここでも2回パンクした。
そのときは、タイヤのチューブを器用に取り出して、穴の空いている部分に補修用のテープを貼り、修理した。
タイヤ交換とういうのは、最後の最後の手段らしい。
そしてツェツェルレグまで6時間を要し、そこからさらにジープをチャーターしてここまで辿り着いた。

その場所はウランバートルの西、約500キロ、ツェンケル・ジグールという温泉のあるツーリストキャンプである。
周りに見えるのは丘と草原、それに草を食べている馬、羊、牛、ヤクたちだけだ。
もともとここへ来たのは、北京以来浴びていないシャワーを浴びたかったからだ。
そしてここに温泉があると聞き、ジープをチャーターしてやってきた。

ここへ着くと、日本人らしき男性3人が日光浴をしていた。
こんなところにも日本人が来るのかと驚いて話し掛けてみた。
3人ともその格好からいってバックパッカーと思ったが、彼らは仕事で来ていた。
それもTVの取材だという。
3人うち1人が役者で、あとの2人はスタッフだ。
その役者のHさんが、モンゴルを旅して、現地の人たちと触れあうところを、あとの2人がビデオに収めるそうだ。
Hさんには、ガイドが1人いた。
Hさんのガイドのモンゴル女性は、まだ若かったが、英語もうまく頭もいい。
日本語も堪能であったが、TVの中では彼女は日本語はできないことになっていて、
彼女と話すときは英語を使うとのことだった。

ここは温泉が有名なので、もちろん温泉のシーンも収録する。
私は収録の邪魔をしては悪いと思い、すぐに温泉につかることにした。
収録が夜の7時からと聞いていたので、その前に済ましてしまおうと思ったのだ。
お湯を浴びるのは10日ぶりくらいだろうか。
お湯に浸かるのは日本以来なので、1ヶ月ぶりである。
温泉のつくりは、日本のそれを真似たもので、露天風呂は大きな石で囲ってある。
遥か彼方には地平線が見え、草原では馬が草を食べていた。
こんなにゆったりした気分になったのは久しぶりだった。
まさかモンゴルで温泉につかれるとは思っていなかったので、それが余計に私の気分を解放していたのかもしれない。

私が十分に温泉を堪能して出てくると、例の3人がちょうどやってきた。
これから収録するという。
『鉄郎さんも一緒にどうですか?』
という言葉に私は戸惑った。
別にTVに顔が出て困るわけでもないが、そんな体験をしたこもなく、かといってしたいと思ったこともなかった。
しかし、旅番組がどうやって作られるかという事には興味があり、安易に引き受けてしまった。
最初、役者のHさんが、
『今日、ここで会った鉄郎さんです』
と簡単にビデオカメラに向かって紹介してくれて、そのまま温泉に行った。
温泉にはすでにツーリスト・キャンプの女性従業員が3人入っていて、そこにHさんと私がお邪魔した。
要するに混浴である。
彼女らは肌が白く、みんな若い。
バスタオルで体をすっぽり隠してはいたが、やはり目のやり場に困り緊張する。
私は初めての混浴と、初めてのTV出演ですっかり舞い上がってしまった。
旅のドキュメンタリー番組なので、台本などもない。
ただ「楽しくやりましょう」と言われただけで、私は何を喋ったらいいのか困ってしまった。
彼女らとのコミュニケーションは英語だが、もともと得意でない英語は、さらに輪をかけて出てこなくなり、私の喉でつまって、何を喋っていたのか、あまり憶えていない。
ただHさんが、旅の事など質問してきて、それに答えるのがやっとだった。

その後も食事のシーンが続き、私もHさんたちと一緒に食べた。
モンゴル料理がゲルのレストランに並び、これもカメラを回しながら食事をする。
ここでも、「楽しい食事にしましょう」と言われただけで、特に指示はない。
料理は、ボーズという揚げ餃子の親分みたいなものや牛肉のステーキなど、肉料理のみであった。
Hさんは何故か日本から醤油をもってきていて、それをビデオカメラにアピールしながらステーキにかけていた。
「モンゴル料理は味が薄いので、醤油があると便利だ」ということらしい。
理由を聞くと、それがスポンサーである旅行会社からの要望らしい。
何故旅行会社と醤油が関係するかは分からない。
食品会社も一枚かんでいるのであろうか。
私も醤油をもらってかけてみた。
ステーキには、十分味がついていたが、さらに醤油の味が重なり微妙な味であった。

まずくはないが、醤油をかける必要もないような気がした。
もちろんHさんは美味そうに食べていた。
やはり現場というのは、どこの業界でも大変そうである。

その頃になると、もうカメラも気にならなくなり、Hさんや、Hさんのガイドともいろいろと話ができた。
沈黙が少し続くと、スタッフがカメラを止め、Hさんに
『次、この話題ふってみようか』
なんて言って撮影は続いた。
そしてHさんのガイドが
『この後、外でコンサートがあります。みなさん一緒に見ましょう。』
という一声で食事のシーンは終わり、撮影は一時終わった。

その間に馬頭琴の奏者がやってきて、スタンバイしている。
馬頭琴とは、モンゴルの民族楽器で、中国の胡弓と良く似ている。
弦の付け根の部分に、木彫り馬頭がついている。
その演奏は夜の9時過ぎから始まった。
ここは日が長い。
10時くらいにやっと暗くなるのだ。
キャンプの前の草原に民族衣装を来たモンゴル人が3人いた。
そのうちの1人の女性が歌い手で、もう1人の女性がモンゴル式の琴を操る。
そして、男性が馬頭琴の奏者だ。
そのコンサートを聞いているのは、ツーリストキャンプの従業員数名と、Hさんたちと、私だけである。
ほとんどプライベートコンサートである。

最初に馬頭琴とモンゴル式の琴に合せて歌が始まった。
夕暮れの光のなか、甲高い声が流れていく。
それはモンゴルの伝統的な歌らしい。
民謡のようなものであろう。
そしてモンゴル式の琴と馬頭琴の協奏。
そのメロディは自然のことを唄っているそうだ。
それはモンゴルの山であり草原であり、ヤクや羊たちのことであろうか。
最初は優しく始まり、徐々に力強く、そしてまたゆったりと消えるように終わり、最後にホーミーと続いた。

ホーミーとは喉を震わせて、低い声を出すものだ。
それは歌というよりは楽器といったほうがいいかもしれない。
同時に彼は馬頭琴を弾いた。
そのメロディはもちろん聞いたこもない。
しかしそれはどこか懐かしい郷愁を伴って、私の身体に入ってくる。
そしてその調べは草原へと吸い込まれる。
私は何の脈絡もなく、日本の事を思い出していた。
友人のこと、香港で別れた恋人のこと。
そして3月までやっていた仕事のこと。
私はある知的障害者の施設職員として働いていた。
養護学校を卒業した彼らのほとんどは、どこかの施設に通所あるいは入所して、大して変化のない生活を、何年間も送らざるを得ないケースが多い。
彼らのその姿は、人間らしく生きるとことはどういうことかを、いつも私に問い掛けているようだった。
その問いに私は今でも答えられないでいる。
いろいろな思いが私の思いも駆け巡り、もう何を考えているの分からなくなり、最後には真っ白になった。

モンゴルでは、何も見ていないという思いがあった。
確かに草原の美しく私を惹き付けたが、それ以上のものはなかった。
しかし草原でのホーミーは、その思いを消してくれた。
『これでやっと次に進める』
そんな思いが湧き起こる。
その夜は、満天の星空が私を迎えてくれた。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

ウランバートルの眠れない夜

北京からモンゴルのウランバートルまでは、実に33時間かかった。
列車での長時間の移動は、それほどつらくはないが、33時間というのは初めての経験だった。 朝の7時に定刻どおり北京を出た列車はひたすら北へ向かった。
途中、夜の11時に国境に着き、まず出国審査で起こされた。
出国審査は列車に乗ったままやってくれるので、乗客のとってはありがたい。
出国審査の後、中国のレールとモンゴルのレールの幅が違うので、車輪の交換を行なう。
まず、車両を一両ずつ切り離し、ばかでかいジャッキで車両の四隅を持ち上げ、下の車輪をモンゴル式のものに取り替える。
この作業を全て終えるのに3時間はかかった。
そしてモンゴル側の街に着くと、入国審査のためまた係員にたたき起こされる。
多分午前3時くらいだったと思う。
半分寝ていて、パスポートを渡しただけだからあまり憶えていない。
そして夜が明けて、夕方の4時にやっとウランバートルに到着した。

ウランバートルの駅は、一国の首都の駅にしては、あまりにも閑散としていた。
間違って、どこか田舎の駅で降りてしまったのかと思うほどだった。
駅自体の建物はロシア風で、しっかりしたものだったが、駅を出ても小さな広場があるだけだった。
人もまばらで、商店も少なく、タクシーが何台かあるだけで、あとはなにもない。
安宿の客引きを探したが、それらしき人も見あたらず、私は歩き出した。
しかし5分も歩かないうちに、20代前半のモンゴル人の男性が話し掛けてきた。
他のモンゴル人と同じく肌の色は日焼けで黒いが、モンゴル男性にしては痩せていて、頼りなさそうな印象を受けた。
彼は日本語で話し掛けてきた。
それも、彼の話した日本語は、『こんにちは、私の名前はカラです』だけで、その後は英語が続いた。
いかにも胡散臭そうではあったが、少し話を聞いてみた。
彼の英語は独特の発音で、分かりづらかったが、彼はゲストハウスのオーナーで、最近新しいゲストハウスをオープンしたので、良かったら泊まらないかということだった。
また、彼は英語のガイドもやっていて、安いツアーも扱っているとのことだった。
少し迷ったが、新しいゲストハウスで清潔であることが期待できたのと、料金が1泊3ドルと安いので、とにかく行って見てみることにした。
それに何よりこれ以上重いバックパックを背負って、知らない街をさまようが嫌だった。

彼のゲストハウスまではタクシーで行った。
ウランバートルの中心街はこじんまりとはいているが、予想していたよりは発展していた。
小さいがデパートがあり、レストランも多く、車の往来も激しい。
そしてマンションも立ち並び、高級ホテルもある。
そのタクシーは街外れまで行きそこで降りた。
その周辺には定住用のゲル(モンゴル式のテント)が並んでいて、私たちはそこを抜けていった。
ゲルとゲルの間は、木でできた塀で囲ってあり、どうやら家族ごとに仕切ってあるようだ。
しばらく歩くと木を組んで造った、簡単な門があり鍵がかかるようになっていた。

ウランバートルにはゲルを利用したゲストハウスがあると聞いていたので、私はそこのゲルがゲストハウスなのかもしれないと思った。
『ここがゲストハウスです』と言いながら、カラさんは門をくぐった。
ゲルの中には若いモンゴル女性が二人いて、二つのベッドと、小さなテーブル、タンス、スーツケース、冷蔵庫、ラジカセなどがあり、生活感が漂っていて、どう見てもゲストハウスではなかった。
そしてよくよく話を聞くと、そこは彼のゲルで、そこのベッドを1泊3ドルで貸すということだった。
私は、長時間の列車の移動で疲れていたので、今日ぐらいはシングルルームに泊りたいと思っていたが、それよりもまた荷物を担いで街を歩く事の方が面倒になり、2ドルに負けてもらいそこに泊まることにした。
ゲルにいた女性の一人はカラさんの奥さんで20歳だそうだ。
そしてもう一人は奥さんの妹で19歳。
二人とも色が白く、シャワーなどめったに浴びない生活なのに、小奇麗にしていた。

顔立ちは日本人によく似ていて、可愛らしかった。
トイレは外に掘っ建て小屋があり、そこに深さ2メートルくらいの穴が掘ってあって、そこで用を足す。
シャワーはもちろんない。

そこでモンゴル式の麺をごちそうになった後、私はインターネットをやりに行った。

カラさんと奥さんが、ネットカフェの場所が分かりづらいからと言って、そこまで案内してくれた。
しかし最初のネットカフェが、日本語の入力ができなくて、彼らは何軒もネットカフェを聞いて廻ってくれた。
しかし1軒も見つからず結局あきらめ、一緒に夕食を取ることにした。
カラさんが選んだレストランはいかにも外国人向けのもので、料金もそれなりのものだった。
すると、どうやらそこのレストランにネットカフェが入っていて、日本語も大丈夫だという。
私は食事を済ませると、彼らに待ってもらって、そこでしばらくインターネットをやることにした。
1時間ほどやっただろうか。
一人で会計を済ませる段となって、びっくりした。
3人分の食事と飲み物、インターネット代、全て合わせて、日本円にして約2700円もしたのだ。
モンゴルの数日分の滞在費に相当する。
インターネット代も食事代も安いものではなかった。
しかも彼らは待っている間、1杯100円もするアップルジュースを、二人で6杯も飲んでいたのだ。
とりあえずと思い、会計を済ませて、カラさんにレシートを見せたが何の反応もない。
自分で食べたものを払ってくれと言っても、お茶を濁している感じである。
いつもの私であれば、そこで周りも気にせず、怒鳴りちらすところであるが、今回はそれができなかった。
というのも、明日モンゴルの草原へ連れて行ってもらう約束をしていて、そこまでのタクシー代をすでにカラさんに払っていたのだった。
ここで関係を悪くしても、そのお金も戻ってくるか怪しいものだし、喧嘩したまま草原へ行くのも嫌だった。
私もなんとなく、後で払ってくれるかもしれないという淡い期待を抱きながら、彼の家に戻った。

その日ななんとなく、嫌な気分でベッドに入ったが、体は疲れているはずなのに、なかなか眠れなかった。
私はもちろん一つのベッドをもらったが、カラさんと奥さんは、床に一つの布団をしいて寝ていたし、もう一つのベッドは、夜になって妹の旦那らしき人もきて、妹と二人で一つのベッドで寝ている。
彼らは、遅くまで何やらひそひそと話していて、それが気になってしまった。
まして若い男女二組が、それぞれ一つの布団で寝ているを目の前にしては、気にならないわけがない。
しかも彼らは布団に入ると、下着のみを身につけ、あとは脱いでしまっている。
奥さんと、その妹もそうだ。
妹の白い肩が、暗闇のなかでぼんやりと浮き上がり、綺麗だった。
その夜は、雷雨になった。

次の日の朝、カラさんは私のためにパンとコーヒーの食事を用意してくれた。
それを食べて、タクシーで草原へと出かけていった。
草原の景色は確かに綺麗だった。
しかし、昨日のレストランの一件が気になり、あまり楽しめなかった。
それに彼の奥さんも一緒で、二人で手を繋いだりしてデート気分でいたのも、その理由の一つかもしれない。

それにしても、なぜカラさんはお金を払ってくれなかったのだろうか。
どうしても、ボラれたとは思えなかった。
もしボラれたとすれば、わざわざ何軒もネットカフェを廻ってくれたり、パンとコーヒーの食事を用意してくれたりしたのは何だったのだろうか。
それが、彼らのこちらを信用させる手口だとはどうしても思えなかった。
まして、彼はゲルの合鍵まで渡してくれたのだ。
その優しさと、私を信用しきった態度はなんだったのだろうか。
もしかしたら、彼もその料金の高さに驚き、払えなかったのではないだろうか。
モンゴルで何人かに1ヶ月の収入を聞いたが、誰一人、1万円を越えている人はいなかった。
しかし誰もが、それで充分だとも言っていた。

私は複雑な思いに駆られながら、翌日ウランバートルを後にしたのだった。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

ボーダーライン

彼と会ったのは、彼の職場でもある北京の国子監というところで、科挙の試験場の跡地である。
一般に開放され、観光地にもなっているそこの警備が彼の仕事である。
彼はもともとの顔が穏やかなのか、笑顔で私を迎えてくれて、握手を求めてきた。
彼の身長は180センチ以上あり、筋肉質で、その手も厚みがあり、力強かった。
その時間は仕事の休憩中ということで、制服は着ていなくて、GパンにTシャツというラフな格好だった。
身長とその体つきのわりに、ほとんど威圧的なものを感じないのは、その終始絶えることのなかった笑顔のせいなのではないだろうか。
その彼は私の友人、Kさんの交際相手である。

私が北京を訪れたのは、一つはモンゴルまでの中継地という理由の他に、北京に留学している、Kさんに会うために立ち寄ったとも言える。
Kさんは私と同じ大学の短期大学部を卒業して、数年の社会人生活の後、去年の8月から北京に留学している。
正確に言うと、私とKさんと知り合ったのは大学を卒業して数年もたった後で、私の後輩が紹介してくれて、一緒に飲んだのがきっかけだった。
それ以来、メールや手紙のやりなどをしてきた。

最初、Kさんの留学先である北京外語大学で、Kさんと会った。
久しぶりの日本語を喋れる相手、それも数年来の友人との再会である。
大学の食堂で、私は今までの旅の出来事を、恐らくはたからみれば、かなり楽しそうに喋っていただろうと思う。
一通り旅の話が終わると、話は自然と彼の話になった。
彼とはKさんの交際相手のことである。
Kさんと彼が付き合うようになって3ヶ月くらいが経つらしい。
最初のきっかけは、Kさんが彼の勤める国子監を訪れて、言葉を交わしたのが始まりだったそうだ。
その後何回か会い、次第に、そして自然に距離を縮めていった。
そして交際が始まったというわけだ。
しかし、Kさんの中国人の友人には、彼と付き合うのを反対、あるいは心配する声もあったらしい。
それはKさんがバオワン(警備員)という職業からかもしれない。

日本人留学生と中国人大学生との恋愛となると、これはよくある話で、それほど珍しくはない。
しかし、相手がバオワンとなると話は別だ。
バオワンは威圧的な制服で、寺院などの警備をしていて、道なんかを尋ねても、つっけんどんな返事しか返してこないことも多い。
そのせいか、中国ではあまり認められてない職業であるらしい。
そして何より、一般的な日本人とは、生活の全てにおいて違いがありすぎる。
文化的な生活習慣の違いなら、お互いに努力して理解し合えるかもしれない。
しかし経済的な、生活レベルの差というのは、容赦なく二人の間にのしかかる。
彼の給料は一月700元前後だそうだ。
日本円に直すと1万円と少しである。
中国では確かにそのお金だけでも食べてはいける。
しかしぎりぎりの生活で、月末には食べるものに困ることもあるらしい。
私もそうだが、彼女も日本の一般的な家庭に育ち、食べるものがなくて困るという経験はしたことがない。
まして、働いてからはお金も貯めることができ、こうして海外に来ることもできる。

二人の間のお金の価値、それは日本円と中国元との価値ともいえるかもしれないが、その違いというのはどうにもならない。

彼と国子監で会った時、その敷地内にある、彼の宿舎でお茶をごちそうになった。
私が椅子に座ると、彼はタバコをすすめてくれた。
それが中国の習慣だ。
彼の部屋は8畳くらいのスペースに2段ベッドと、机が2つあり、そこに同僚と暮らしている。
部屋はコンクリート剥き出しだったが、きれいに片付いていて、テレビなどはなく必要なものしか置いてないという感じだった。
彼と私は、Kさんに通訳してもってしか、コミュニケーションがとれなかったが、彼には素っ気無い態度などは微塵もなく、いつも笑顔でいた。
お茶をごちそうになった後、彼の職場である国子監を案内してもらった。
そこは元から清の時代までの科挙の試験場で、現在は観光地というだけではなく、子供向けの塾や首都図書館もその敷地内にある。
隣には孔子廟もあった。
国子監のなかに石碑があり、そこにかつて科挙に合格した人の名前が彫られてあった。
私がそれに興味を示すと、『なかなか見られるものではないから、ゆっくり見ていって欲しい』と声をかけてくれた。
一つの石碑には30人ほどの名前が刻まれていただろうか。
その石碑が何十個もあった。
その名前を一つ一つ読んでみたが、やはり読めない漢字ばかりですぐに諦めてやめてしまった。
そしてぼんやりと、石碑の前を歩いてみた。
科挙制度とは、かつての役人の試験制度である。
そこに合格すれば将来の出世は約束されたようなもので、そこに名前を連ねている人は、今でいうエリートである。
そのエリートの石碑を、エリートではない彼らが守っている。
人の巡り合わせというには皮肉なものだと思った。

これから仕事だという彼と別れ、私はKさんと帰った。
その途中デパートの洋服屋の前を通った。
その店は何とかというブランドの店で、デザインも斬新で、当然値段もそれなりのものを扱っている店のようだった。
その時Kさんは、『彼と結婚して中国で生活すれば、もうこんな服きれないんだろうな』と言った。
その言葉は、彼とKさんの今まで育った環境の距離を、物語っていた。

彼は今、Kさんとの結婚を強く意識しているらしい。
しかしKさんはそれに、ただ好きだという理由だけでは結婚に踏み込めないでいる。

結婚したら何処に住むのか、仕事はどうするのか、どうやって生活するのかという現実が、Kさんを踏みとどまらせている。
『彼は私と一緒になるならどんなことでもするって言ってくれる。
でもそこには将来自分がどうしたかっていうのがないの』とKさんは言っていた。
しかし、今食べるだけで精一杯の彼には、どうなるかわからない将来より、今目の前にいるKさんが、唯一つの希望なのではないだろうかと思った。
その希望のためなら、なんだってやるという彼の気持ちは、私にはよく理解できた。

わたしもかつて学生だった頃、将来やりたい仕事もなく、漠然とした不安を抱えながら、そんなふうに人を好きになったことがあった。

Kさんは、経済的なことだけを考えれば、二人で日本で暮らすことのほうがいいのかも知れないとも言っていた。
たとえ彼に仕事が見つからなくても、Kさんが働いて生活もできる。
しかし全くの異国で生活するということが、彼にとって負担になるのではとも心配していた。
それに彼のプライドもある。
また北京で留学後も生活するのはKさんにとってはやはりつらいことらしい。
気候が合わないとも言っていたし、留学という期限付きではなく、無期限で異国で生活するということには、やはり躊躇するだろう。

北京にいる間、何回かKさんに会ったが、会うたびに彼の話になった。
それは、彼との結婚について、私に何かアドバイスのようなものを求めているようにも思えた。
もしかしたら、Kさんは私に背中をぽんと押して欲しかったのかもしれない。
でも、そのことについては、私はほとんど何も言わなかった。
というより言えなかった。
結婚が、それも外国人との結婚が容易ではないことは、想像がついた。
仮に結婚はできるかもしれない。
しかしその後に続く何十年もの結婚生活は平坦な道のりではないだろう。
それはもちろんKさんもわかっていて、私は無責任に何かを言うことはできなかった。

世界地図を見るたびに、国境線なんかなければ、どこまででも行けるのに、などと夢みたいなことを今でも考えることがある。
しかし、ボーダーラインは、単に地図の上、あるいは国同士の制度だけでなく、人と人との間にも確実にあるのだなと思った。
私がいくつもの国境を越えるより、彼女がボーダーラインを越えることのほうがはるかに難しいし、勇気もいるだろう。

でも、もしかしたら、私がポンとスタンプを押してもらって国境を越えるように、彼女も、えいっと彼女のボーダーラインを越える日が、いつか来るかもしれない。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

北京の出会い

北京の故宮博物院といえば、北京に行く旅行者の誰もが訪れる場所だろう。
映画ラストエンペラーの紫禁城と言った方がわかりやすいかもしれない。
ご多分に漏れず、私もそこに行った。
いかにも観光地という感じで、正直あまり興味はなかったが、
やはり行くことにした。

入り口の天安門には、毛沢東のでっかい肖像画が飾れられていた。
中国人はその目の前で記念撮影している。
平日だというのに、たくさんの中国人が訪れていた。
もちろん外国人も多い。
毛沢東の肖像画に興ざめしながら、天安門をくぐり中を見学した。
中は確かに綺麗だった。
内部の建物は朱色で、それが鮮やかだった。
皇帝が儀式をした建物のつくりとかも、建築としては美しかったが、
それだけだった。
中国の歴史や、建築に興味のある人なら違う感じ方なのだろうけど、
残念ながら私にとっては、特にそこから何かを汲み取ることはできなかった。
以前見た、カンボジアのアンコールワットや、ミャンマーのパガンと違い、
それを見ても、何も伝わってこなかった。

故宮博物院の敷地は広い。
興味のある人が見れば、何時間もかかるだろう。
私も1時間以上はかかって、外に出たと思う。
気温は30度を越しており、外に出たときにはかなり疲れていた。
ありがたいことに出口にベンチがあり、そこでみんな休憩している。
わたしもそこに座ってると、いつの間にか眠ってしまった。
どれくらい眠っていただろうか。
気がついた時にはベンチに横になったいた。
起き上がると、となりに東洋人の女の子が座っていた。
私のことをじって見ているようだが、
気にせずたばこを吸っていた。
しばらくして、彼女が意を決したように英語で話かけてきた。

彼女は韓国人だった。
韓国の大学を中退して、西安の大学に留学して2年になるという。
年齢は25歳。
若く見えて、20歳に見えるというと、子どものように喜んでいた。
目は細くて、色は白い。
青く色の入った眼鏡をかけているが、眼鏡をとった笑顔が可愛かった。
お互いの英語力はさほどではないが、そのおかげで気を遣わずにすんだ。
彼女はこれから2年間旅をするという。
これからモンゴル、ロシアを抜け、ヨーロッパで資金をつくり、
再びアジアにもどり、インド、ネパールなどに行く予定だが、
詳しいことはなにも決まっていないそうだ。
私も、アジアを抜け、南アフリカまで陸路で行くつもりだと言ったが、
たいして驚いた様子もなかった。
ただ友人が南アフリカで、3日間で3回強盗にあったから気をつけてと言っていた。

彼女は私が旅に出た理由を知りたがったが、
私の英語力ではそれはできなかった。
しかも、私が失恋して旅に出たと決め込んでいた。
彼女が旅をする理由もまたわからなかったが、
しきりに何も決まっていないと言っていた。

そこで1時間くらい話しただろうか。
どちらかともなく、何か食べに行こうということになった。
彼女は北京語がうまく、地元の人に聞きながらバスを探し、
ワンフーチンという所に連れていってくれた。
後でわかったが、そこは日本でいえば、銀座のような繁華街だ。
まずは水餃子を食べ、その後繁華街を歩いた。
メインストリートには屋台がずらりとならんでいる。
屋台といっても、いわゆるアジアのそれとは違い、
どこも小奇麗で清潔そうだった。
そこでは普通の食べ物もあるがその他に、
なんの動物かわからない内臓から、スズメの丸焼き、
イナゴ、イモムシ、蚕、セミの幼虫、
しまいにはサソリまで、売っていた。
そのほとんどが、油で丸ごと揚げたもので、かたちがそのまま残っていて、
それを頭からがぶりと食べるわけた。
サソリなんか食べたら、針がひっかかって痛そうである。
そんなことを考えていた。

まさかとは思っていたが彼女は
「なにか食べよう」
と言い出した。
今までいろいろな所に行ったが、食への興味はあまりない。
腹にたまって安ければそれでいいと思っている。
いつも地元の人が食べる店で食べているので、
自然とその土地の特産とかを食べることはあっても、
ガイドブックで店を探し、名物を食べるなんてことはない。
まして、いわゆる下手物の類は食べたいと思ったこともない。

私は
「食べたいんなら食べたら」
と少しつっけんどんに言ったが、彼女は気にする様子もなく、
何にチャレンジするか、真剣に悩んでいるようだった。
そして彼女が選んだのは蚕。
しかもご丁寧に、私の分まで買ってくれた。
一本の串に5匹ずつ綺麗にささっている。
わたしはもう後にひけずに、彼女が買ってくれたそれを受けっとてしまった。
最初彼女は、
「お先にどうぞ」
と言ったが、
私も私で
「レディファーストだよ」
などど卑怯なことを言っていた。
しかし彼女は
「男なんだから」
とまで言うので、蚕の頭の先っぽをかじってみる。
しかし、以外に硬く、かじれなかった。
私はええぃとばかり、1匹まるごと口に入れた。
まわりに塩がかかっているようで、味は塩味だった。
しかしその感触は紛れもなく、虫であった。
ゴキブリも食べたらこんな感触なのだろうか、
などど余計なことを考えてしまったら、鳥肌がたってきた。
中の部分は特に味がしない。
私は何とか1匹食べることができたが、
うまいとか、まずいとかではなく、
脳みそがそれを拒否しているようであった。

彼女も1匹食べ、嫌になったようだった。
そこで彼女は何故だかじゃんけんをやる仕草を見せた。
じゃんけんで負けた方が、残りを1匹ずつ食べようということらしい。
まず1回目、私の負け。
1匹食べる。
2回目も私の負け。
3回目も、4回目も負けた。
結局、自分の分と彼女の分とほとんど食べてしまった。
もちろん、うまくなどない。
いやいや食べた。

しかしそんなやりとりは、とても楽しかった。
そのあとも街は歩いて他愛もない会話をした。
彼女は妙に馴れ馴れしく、私もそれが嫌ではなかった。
もう、何年も前から友人のような接し方だった。
お互いの英語はたどたどしかったが、
英語でこんなに楽しい会話をしたのは初めてだった。

いつの間にか、日はとっぷりと暮れていた。
別れの時である。
彼女とはメールアドレスの交換をした。
異国で出会った、しかも異国の人との別れが、
こんなにも名残惜しいのは初めてだった。
また会いたいなと思う。
できれば、インドあたりがいい。
その時にはいつの間にか私の英語も上達していて、
自分の旅のことなど語りたい。
自分の旅の理由やその体験、将来の夢など語れたら楽しいだろう。
そして彼女のことももっと聞けたらいい、
なんてことを考えながら、その日は眠りについた。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

黄山風景

私は待っていた。
霧が晴れるのをである。
もう1時間以上はなにもせず、ベンチに座って待っている。
疲労はもうとっくに限界を超え、そのだるさが心地よくさえ感じている。
ここは黄山の光明頂というところである。
山の上なので何もやることもない。
ただぼんやりと周りを見ているが、霧に中にいて何も見えない。
ここが標高1800メートルとは思えない。
見えるのは、ツアーの中国人登山客のみだ。
大勢の人たちがここに来ていたが、
やはり雲海が見えなくて残念そうである。

黄山は雲海と御来光が美しいことで有名である。
そしてその名所が私のいる、光明頂というところだ。
地図で見ると黄山は上海の左下あたりにある。
香港から北京に行く途中ここに訪れた。
雲海と御来光、そしてガイドブックの「水墨画のような風景」
という文句に惹かれてしまったのだ。
ここは世界遺産にも登録されている。
中国人は誰もが一度は訪れたいと思っている、
有名な山らしい。

香港から国際列車に乗り杭州まで来て、
そこからさらにバスに揺られ黄山の麓に来た。
麓には小さな温泉街がありそこに1泊した。
翌日、ほとんどの荷物を宿に預け、
カメラと洗面用具のみを持って山を登った。
黄山は山頂でも1800メートルと少ししかなく、
しかも山の麓から中腹までロープウエイがあり、
日帰りでも登山も可能な山だった。
しかしあえて私はロープウエイを使わなかった。
山という自然を相手にするのに、わたしも自分の力で登りたい、
などどいう気は全くなかった。
単にロープウエイがあまりに混んでいて、
乗るまでに1時間以上かかると言われたからだ。
地図を見ると、ロープウエイの降車口まで約7.5キロと書いてある。
2時間ほどで着くと思った。
1時間ロープウエイを待つよりは、2時間かけて登った方がいい。
しかし、念の為、他の中国人が持っているものと同じ杖を買い、
登りはじめた。

最初は良かった。
木々の間を軽やかな足取りで登って行く。
「登山は楽しいなぁ」
などど独り言えたのはここまでだった。
しかしものの15分で息がきれてきた。
汗がTシャツを濡らし、それが体温を奪う。
しかし体はまた汗をかく。
気温が低いので、その日はTシャツに長袖シャツを1枚着ていたが、
暑いのか寒いのかわからなくなってきた。

登山道のほとんどが石段でできていたが、
その勾配があまりに急で、まるで筋肉トレーニングだった。
やはり杖を買っておいて良かった。
それでもはじめの1時間はまだ頑張れた。
次の1時間は休んでは進み、また休むということを繰り返してきた。
その次になると、もう足も上がらず、
10歩進んで、息を整えるありさまだった。
しまいには頼りの杖もあまりに負担を掛けすぎ折れてしまった。
そしてやっとの思いで、ロープウエイの降車口に着いたのは、
上りはじめてから、もう3時間半以上たっていた。
ロープウエイでわずか10分のことろを3時間半かけて登ったわけだ。

しかしそこは、山の中腹に過ぎない。
そこから私は光明頂という場所まで行かなければならなかった。
しかし、その後の苦しさはよく覚えていない。
ほとんどやけくそだった。
全てがどうでもよくなってきた。
ただ早く目的地に着きたかった。

ここに来た目的は雲海と御来光を見ることだったが、
高度があがってもいっこうに霧が晴れない。
晴れないどころか、ほとんど霧の中を歩いているといっていい。
こんなんで本当に雲海など見れるのだろうかと、それが不安だった。
ロープウエイの降車口からまた3時間休み休み歩いて、
目的の光明頂に着いた。
そこにはやはり雲海などはなく、霧の中だった。
私は途方に暮れてながら、そこに一つしかないホテルにチェックインした。

光明頂にはベンチや売店があり、休憩できるようになっている。
私はなにもせず、そこに座っていた。
やることといえば、カメラの作動をチェックするくらいで、
他には何もやることがない。
もってきた本も、すべて麓のホテルに預けてきていた。
ただ雲海の写真を撮りたくて、霧が晴れるのを待っていたのだ。
霧が晴れる様子は全くなかったが、ここまで苦労して登って、
なにも見れないんじゃあきらめ切れないと思った。
しかし日も暮れようとしたときだった。
まずは太陽が顔を出した。
すると、辺りを覆っていた霧は、見る見る蒸発し、
風が吹き、視界が開けてくる。
まるで何かが始まるような予感がした。
そして実際それ始まった。
山並みが徐々にその姿を現し始めた。
太陽は辺りを照らしながら、わずか15分余りその姿を見せた。
辺りを覆っていた霧は、雲海へと変わり、
太陽は山の寺院をシルエットに映し出した。
うるさかったツアー客も、とっくにあきらめ下山し、
辺りに人は少なかった。
私は眼前の風景を見続けた。
そして静かにシャッターを切った。
その雲海はガイドブックの写真にあるような完璧なものではなかった。
しかしそれは私を捕らえて放さなかった。

太陽はまた霧の中へと沈んでいった。
まるで気まぐれにその姿を見せに来たようだった。
その時私の体は極限に疲れていたが、
黄山に登って良かったと、その時初めて思えた。

黄山のもう一つのハイライトが御来光である。
しかし翌日の御来光は見えなかった。
太陽が私に微笑まなかったのではない。
中国人が私に微笑まなかったのだ。
御来光の撮影ポイントは、昨日のうちにチェックしていた。
方位磁石で、太陽の登る方角を確かめおいたから、
ぬかりはなかったはずだった。
日の出が午前5時くらいと聞いていたので、
4時40分にはそこに向かった。
しかしそこにはすでに先客がいた。
それも一人や二人ではない。
百人、二百人である。
いやもしかしたら五百人はいたかもしれない。
いや千人はいたかも。
とにかく押し合い圧し合いで良い場所を求め、人の群れが移動している。
そこには譲り合いの精神も、秩序もない。
立ち入り禁止のフェンスを乗り越え、
岩に登り、ひたすら御来光が初めに当たる場所を求めている。
光明頂に泊まった人も多いようだが、
麓から、御来光に合わせて登ってきたツアー客も多いらしい。
とにかくそんななかで、私が三脚を立てたところで何も写るわけではない。
中国人しか写らないだろう。
もちろん中国人の人込みをかきわけて、最前列に行くほどのパワーはなかった。
そうやっていた中国人もいたにはいたが、私にはできなかった。
なんとなく
「負けたなぁ」
と思ってしまった。
中国人にである。
御来光自体は多分綺麗だったのだろう。
日の出の瞬間、拍手が沸き起こっていた。
私は雲海からではなく、中国人の背中から登る御来光を拝むしかなかった。

中国の自然に触れるはずの、黄山登山であるが、
中国人の本質を垣間見たような登山になってしまった。
しかしこれが中国なのかもしれないと、妙に納得してしまった。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

始動

空港からのバスから見る香港の街は、
手塚治虫の描く未来都市のようだった。
巨大な高層ビルが、その高さを競うように乱立している。
その合間を縫ってバスは進んでいった。

旅の始まりは香港からだった。
香港を選んだのに、大した理由はない。
ここに大学時代の友人が仕事で赴任しているからだ。
私たちは香港の滞在中、彼のマンションでお世話になる。
私たちと書いたのは、私の彼女も香港に付いて来たからである。
彼女は3日間の滞在の後、帰国する予定だ。

香港での生活は、快適そのものだった。
友人のマンションは2LDKと一人暮らしにしては広く、
私たちがいても狭くは感じなかったし、
香港では何を食べても美味しかった。
買い物をするにも、片言の英語が通じた。
顔立ちは香港人とそう変わらないので、
好奇の目でみられることもなく、怪しい客引きもいない。
まして、彼女と一緒にいればその楽しさはなおさらだ。
昼間は彼女と街を歩き、夜には友人も交え一緒に食事をした。
また友人の仕事が休みの日には、香港を案内してもらった。

楽しい日々は、すぐに過ぎる。
彼女の帰国の日は容赦なくやってきた。
空港まで彼女を送るバスのなかで、学生の時の半年の旅を思い出していた。
あの時も彼女を残して旅に出たが、
帰国すると彼女は別の男の彼女になっていた。
旅をしているほうは、毎日が刺激に満ちた日々であっても、
待つほうはそうではない。
日常の中で待たなければならない。
行くほうと、待つほうでは大きな差がある。
だから別に彼女を恨みはしなかった。
ただ幸せになって欲しいと思った。

昨日の夜、
『いろんなことを覚悟したんでしょ』
と彼女は言った。
なんだか、謎解きのようなその言葉は私の胸の刺さった。
長い旅に出るということは、日本での生活から外れるのだから、
好むと好まざるとにかかわらず、多くの覚悟を背負うことになると思う。
人間関係や仕事、その後の人生において、
出発前とまるで同じというわけにはいかない。
旅はプラスにもマイナスにもなり得る。
時にそれが自分を助け、時にそれに縛られ身動きが取れなくなる。
自分でそのことを理解しているつもりであっても、
それを彼女から改めて指摘されると、
いろんな不安で押しつぶされそうになる。
人間は弱い。
いや私が弱い人間なのだ。

空港での別れの言葉はあまりに少なかった。
『じゃあ元気で』
『頑張ってね』
もっといろいろなの言葉をかけかたっかはずなのに、
他には何も浮かんでこなかった。
少ない言葉に多くの想いを託した。
それは彼女も同じだろう。
別れは不思議なくらいあっけなかった。
それはお互いに信頼し合っているからなのだろうか。
それとも彼女もまた、何かを覚悟したのだろうか。
それは私にはわからなかった。
とにかく自分で決めたことなのだと自分にいいきかせた。
自分で多くの荷物を背負い込んで決めた旅なのだ。

次の日から、一人で街を歩いてみた。
しかし昨日までの印象と全く違うことに驚いた。
初めての夜、未来都市に映った街並みも、
ただのコンクリートジャングルに見えてきた。
有名な2階建ての路面電車や、スターフェリーに一人で乗っても、
それはただの移動手段でしかなくなってしまった。
旅とは、そこに一緒にいた人によって、
こんなにも違うものに映ってしまうものなのだろうか。
別れの寂しさというのは、
一人になって何気ない瞬間にこみ上げてくることを私は知った。

しかし香港に滞在する上での快適さは変わらなかった。
食事は美味しく、ベッドは清潔だ。
これから先の長く厳しい旅を考えると、
いつまでもここで、
ぬるま湯につかったような日々を送るわけにはいかない。
早く次へと進まなければ。
焦りにも似た感情がこみ上げてくる。

アフリカの喜望峰への旅は香港から始まった。
日本での今までの人生を途中下車(STOP?OVER)したのだった。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

出発前夜

その頃、仕事は忙しかったが充実していた。
その仕事に何の不満もなかったわけではないが、
給料も人並みに貰え、生きがいとまではいかなくても、やりがいはあった。
お盆や正月には、10日ほどの休みもあり、その度にアジアへと出かけていった。
タイ、カンボジア、ベトナム、沖縄へも行った。
その短い旅は楽しいものだった。
しかし、短い旅はただ楽しいだけの思い出としかならなかった。
やがてそれだけでは物足りなくなってきた。
もっと長く旅に出たい。
そう思い始めたのは2年前だったと思う。

その後は、こつこつと資金を貯め、旅の準備を進めてきた。
周囲に旅に出ることを告げたのは1年ほど前からだった。
『1年かけてアジアを横断し、アフリカの喜望峰を目指します』
そう言うときまって、
『なんでそんなに長く旅をするんだ?』
と質問される。
その度に答えに困り、適当な答えを取り繕ってしまう。
自分自身いくらその答えを考えても、正確に旅の理由をみつけることはできなかった。
ただ一つ理由を挙げるとすれば、それは衝動である。
自分の内面から湧き上がる欲求だった。

初めて長い旅に出たのは、大学4年の時である。
それが初めての一人旅で、初めての海外だった。
全てが新鮮で驚きの連続だった。
半年間の旅で台湾、タイ、マレーシア、インドネシア、フィリピン、
ミャンマー、ネパール、インドをまわった。
その時も
『就職の前に、もう一度自分自身と向き合うために旅に出る』
などど適当なことを言っていたような気がする。
それはあくまで周囲を納得させる建前のつもりだったが、
あのときは大真面目に自分自身と向き合おうとしていたのかもしれない。
しかし旅を終えてわかったことは、
旅に出て、仮に自分自身と向き合えたとしても、
それだけで自分自身が変わるわけではないということだった。
人が変わるのはもっと多くの積み重ねが必要だと思う。
旅はそのきっかけにすぎない。

今回の旅も何かを求めることはしない。
またその必要もないと思っている。
旅の目的などなくていい。
ただ純粋に、自分の目で異国の人たちの生活を見て、
肌で空気に触れ、感じることができれば、それでいい。

旅をしたからといって、それが話のネタにはなっても、飯が食えるわけでもない。
まして、帰国してからの働き口に苦労するのは目に見えている。
これからの将来を考えれば、プラス面よりも、マイナス面が多いかもしれない。
しかしそれでも行きたいと思う。
だから衝動なのだ。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

ドゥ・ユー・ハブ・エニィ・チェンジ?

ドゥー・ユー・ハブ・エニィ・チェンジ?
海外へ行くとよくこう聞かれる。
高額紙幣だとお釣りがなくって使えないのだ。
それはアジアの国に限らず欧米諸国でもそうだ。
100ドル札なんかだと何するにしても結構嫌がられる。
何でだよ、って思う。 そんぐらい用意しとけよって。

日本ではまずこんなことはない。
たまにコンビニなどで、
千円札が不足してますっていうのは見かけるが、
断られたことなんてぼくが記憶する限り一度もない。
何故だろう?
それはコンビニの店員さんが頻繁に両替に行くからだ。
日本人はまじめなのだ。

インドみたいに両替えするのに何時間も待たされるような国は論外としても、ヨーロッパやアメリカだったら問題なくできるだろう?
何でやらないの? 
答えは簡単だ。 面倒くさいからだ。 絶対そうだ。
まぁ、なくなったらしょうがないか、
ぐらいにしか思っていないのだ。

こういう傾向はそういった些末な部分だけではおさまらず、
広くその国の経済状況、商品づくりにも顕著にあらわれる。
例えばボールペン。
何で買ったばかりなのに書けないのか。
理不尽にもほどがある。
あと、乾電池が新品のはずなのにいきなり切れたりだとか、
ノートの紙質が見たこともないぐらい悪かったりだとか、
数えはじめたらきりがない。

もう一度言っておくけど、これはアジアの話ではない。
歴とした先進国といわれている国々での話だ。

それに比べたら日本製品というのは本当にすばらしい。
どうして世界で日本製品がもてはやされるのかがよく分かった。
それは実際に比べものにならないぐらいいいからだ。
優秀だからだ。
外国製品には繊細さがない。
日本のものにはボールペンひとつとってみても、
歯ブラシひとつとってみても、繊細さがうかがえる。
滑らかな書き味、
デリケートな歯ぐきを優しく守ってくれる柔らかなブラシ。
あんな、インクがかすれてるペンだとか、
磨いたら傷だらけになるような歯ブラシだとかは問題外だ。
繊細さのかけらもない。
そういう面においては日本という国は本当に感心する。
いらないストレスを感じなくてすむ。

ゆとりある生活というものが見直されてき始めている昨今、
海外でぼくが一番感じるのはその”ゆとり”だ。
しかし、ゆとりある生活というのは反面、
ボールペンが書けなくなったり、
一万円札が使えなくなったり、
という不便さも生じさせるだろう。

世界一テクノロジーの発達した、
便利な国に住んでいる日本人が、果たして、
そういった不便さに順応することができるだろうか?
ゆとりを持つってことは、
生活のスピードを緩めるということだ。
そうすれば物質的な面での豊かさは
大分レベルが落ちるだろう。
どっちだろう。
日本って国は、これからどっちに向かっていくんだろう。

どうかな。
例えばぼくは、
コンビニで一万円札が使えなくなったとしても、
平気なんだけど。多分。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

アット・ニューヨークカフェ

サービスについてよく考える。
日本のサービスっていうのは
何であんなに機械的なんだろう。                 
代わりにロボット立たせときゃいいのにってたまに思う。
どうせ同じことしか言わないんだから、
人間である必要なんてない。
いつも同じ笑顔なんだから、
笑った顔のロボットにやらせればそれですむ話だ。
感情のこもっていない笑顔なんて記号と同じなんだから、
笑ってますよ、と言う記号を貼りつけたロボットでいいじゃんか。
どうせ自分の頭では何も考えられないんだから、
決まった一定のプログラムを打ち込まれたロボットが、
同じリズムで同じことを
繰り返しやってりゃあいいじゃんか。

何で腹が立つんだろう?
何でこんな不愉快な気分になるんだろう?

ニューヨークに初めて行ったとき、
立ち寄ったカフェで働いているお姉さんに衝撃を受けた。
10年ぐらい前のことになるんだけれど、
今だに鮮明にそれを覚えている。

そのお姉さんはお客に紙ナプキンをくれと頼まれて、
あろうことか人さし指をぺろりとなめて
ナプキンを一枚取り出した。
とてもびっくりした。
もしぼくが同じことをお願いして
そうやって差し出されたりしたら、
ちょっと困ってしまうだろう。
お姉さんは忙しそうに働きながら難しそうな顔をして
ぺろっとそれをつかんでお客に手渡した。
でも、渡されたお客も別に気にする風もなく、
そのナプキンでふつうに口を拭いていた。

ああ、この広い世界にはそんなサービスもあるのか、
とそのときはしみじみ思ったものだった。
しかしその後、色んな国へ行ってみると、そういうような
光景はザラにお目にかかるということに気が付いた。
特にアジアの国なんかだと、虫が入っていたり
グラスが汚れていたりなんてしょっちゅうだし、
中には料理が出てくるまでに一時間ぐらい待たされる国だってある。
でもみんな別に怒ったりしないし、
席を立ったりということもない。
ぼくもつられて、まあいいか、と思ってしまう。
お互いかなりいいかげんなのだが、
まぁ気楽にいこうぜって感じでそれはそれで悪くない。

だけど不思議なことに、
同じようなことを日本でやられると腹が立つのだ。
何でだろう?
まあ、一時間待たされたりだとか、
虫が入っていたりだとかいうのは論外としても、
ぺろっとナプキンをなめるぐらいのことは
許せたっていいではないか。

ひとつ思ったことがある。
それはその人達が楽しんで仕事をやっているかどうか、ということだ。
楽しんで仕事をしている人達のサービスには
心がこもっている。
嫌々やってる人達や、適当にやってる人達には決して真似できないことだ。

ニューヨークのカフェのお姉さんの指先をぺろりとなめる
その行為は、見ていたぼくを圧倒した。
でも嫌悪感を感じなかったのは、
彼女が楽しんで仕事をしていたからだ。
そう、彼女はとても楽しそうに仕事をしていた。
楽しんで何かをしている人というのは、
周りの人間の心も明るくする。
ぼくはだから、こだわらなければいけないのは
形式ではなくって、気持ちの持ち方なんだと思うのだ。

いつから日本の社会には心が無くなってしまったんだろう。
魂が消えてしまったんだろう。
ぼくは本物が欲しい。 本当のことが知りたい。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

ぼくはいかにして旅に出たか – 全ての旅立ちたい人のために

日本という国が大っ嫌いで旅に出た。
世界を旅するようになった直接の動機はそれだ。
日本の社会構造、人の気質、文化、習慣、全てが嫌だった。

常に自分は周りから疎外され、
社会全体からノーと言われているような気がしていた。
日本という国を憎んでいた。
だから世界にはもっと自分にあった、住み心地の良い、
いい国がたくさんあると思っていたし、自分は日本を出て
そういう国に住むしかないのだ、と思っていた。

始めはアメリカに憧れた。 強烈に憧れた。
アメリカ的なファッション、映画、音楽、
全てが日本のものよりも魅力的に思え、
反対に日本のものは全てがそれらを真似た
まがい物のようでとても安っぽく思えた。
日本には文化などないのだ、
と大学ぐらいまで本気でそう思っていた。

とにかく何か漠然とした大きなものに
とても腹をたてていた。
それがなんなのかは明確に分からなかったため、
その怒りをどこに持っていっていいか分からず
毎日を悶々とすごしていた。 
                          
そして初めて旅に出た。 でもそれは旅というよりも、
2週間ぐらいのパッケージツアーで
いわゆる海外旅行といったものだった。
友だちと二人でニューヨークへ行ったのだ。
そのときは毎日が興奮の連続で、
映画でよく見るタイムズスクェアや、
セントラルパークに自ら立ったとき、
今まで実体性の薄いメディアの情報でしかなかったものが、
目の前に敢然と実体性をともなって存在したため、
自分が世界とつながったような気がしてドキドキしたのを
鮮明に覚えている。

 ”ああ、やっぱりオレの居場所はここなのだ、
   ここしかないのだ、オレは絶対ここに住んでやる”

と堅く誓ったのだった。 
そんな思いを抱きながら帰国した。
その後、自分がニューヨークで生活しているさまを
毎日頭に描きながら、
そのための資金をこつこつと貯めていった。

しかし、ひとつどうしても心に引っ掛かることがあった。
それはニューヨークに住む具体的な目的が
何もなかったということだ。
ただ漠然とニューヨークに住みたいと思っているだけで、
何がしたいっていうのは何もなかった。
ただ生活がしたかったのだから。
要するにアメリカ人になってしまいたかったのだ。
それであまりの無計画さに不安を感じ、
ある程度たまったお金で、一度、偵察がてらに
アメリカを旅してみることにした。
それが初めての一人旅となった。
そして実際に目的もなく2週間程滞在してみて得た結論は
ニューヨークには住めないということだった。
ああ、これは無理だなと思った。
決してそれは2回目に行ったニューヨークに
失望したわけではなく、やはり当初から危惧を感じていた
目的の不在が原因だった。
                          
そのときは観光気分だし、他の旅行者にも出会えるし、
とても楽しくすごすことができたのだが、
果たしてこれが生活となるとどうだろう。
よくよく考えてみると
とても無理だということがよく分かった。仕事や学校など
やらなきゃいけないことがあるのならまだしも、
ただ無目的に暮らすなんていうのは明らかに不可能だった。
それにその後、アメリカの色々な都市をまわってみたが
慣れてくると、大都市なんていうのは
みんな似たようなもので、旅の終わり頃には
あまり刺激を感じなくなってしまっていた。
アメリカという国の印象が、
自分の中で大きく変化していることに気がついた。
何だか慣れてしまえば日本とそんなに変わんないじゃん。
そんな風に思い始めていた。
アメリカ人やアメリカ生活なんて、
自分が思ってた程カッコよくなかった。

そして数年後、
ぼくの目の前にはアジア大陸が広がっていた。
想像もつかないアジアの国々が、でん、と待ち構えていた。
アジア人としてのぼくが、
アジア人としての自分自身を再認識するための鍵が
そこに眠っているように思えた。

ああ、そこ行けば何か見つかるんじゃないか、
いや、そこ行かなくちゃこの先
何にも見つけることができないんじゃないか、
そんな風に思ってぼくは2回目の旅に出るのだった。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。