ラブ・モリソン

ぼくはロックンロールが大好きで、
はかなく散っていったロックンローラーたちは、
こんなぼくをいつも慰めてくれた。

“ハニー、ベイビー、涙を拭いて、あなたは間違っちゃいないわ”

酒や、ドラッグでぼろぼろの嗄れ声で、
落ち込んだこのぼくをいつも慰めてくれた。
ロックがなかったら、ぼくは生きてこれなかったかもしれない。

ジム・モリソン、っていうのは、
ドアーズというバンドのカリスマ的なボーカリスト。
六十年代後半にカリフォルニアで生まれたバンドだ。
当時のヒッピームーブメントに乗っかって、数々のヒッピー達や反体制的な若者たちに愛された。
しかし、バンド自体の命は短命で、ヒッピームーブメントの終演
とともに三年かそこらで消えていった。

ジム・モリソンはドラッグに溺れて、パリで死んだ。
孤独という死に神に取り憑かれて死んだ。
ブルースという青い悪魔に見入られて逃れられず、
夢の世界に溺れて死んだ。溺死、だ。

ぼくはパリにある彼のお墓にお参りに行った。
ちょっとだけ彼と二人きりになれたような気がして、
ドキドキした。

“BREAK ON THROUGH TO THE OTHERSIDE”

彼は向こうの世界に行けたのだろうか?
その壁を突き抜けて?
何の束縛もない自由な世界に?
色とりどりの花々の咲き乱れる、キラキラした世界に?
極彩色の蝶々みたいに散っていった。
あらゆる快楽に溺れ、スピードに乗って人生を消化した。
カッコイイ生き方? 寂しい死に方?

彼は不幸だったと思う。
決して満たされてはいなかったと思う。
ひょっとしたら、満たされている、という感覚を一生理解できずに死んだのかもしれない。
とても不幸な死に方だ。
全ての自殺者達に共通する、最も不幸な死に方だ。

彼らは音楽に情熱を傾けた。自分の欠落した感情を、
胸の奥から絞り出されるような魂の叫びをぶつけるために、
ぶちまけるために、歌を歌った。演奏した。
震えるようなその叫びは、ぼくの胸を揺さぶった。
ぼくの魂をわしづかみにした。
知らない世界を見せてくれた。
見えない世界のあることを教えてくれた。
向こう側の世界、のことについて教えてくれた。

ぼくは彼を愛している。
彼の叫びを愛している。彼の言葉を愛している。

?知覚の扉を開くとき、万物はあなたに語りかける。
 無限に広がる永遠性のあることに、
 あなたは気が付くことだろう。
 向こうの世界へ突き抜けよう、向こうの世界へ突き抜けよう、
 目の前の壁を打ち壊し、向こうの世界へ突き抜けよう?

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

世界の果て

世界の果てに来た。
私は目の前の風景に圧倒されながらそう感じてした。

もちろん日本が真中に描かれている世界地図を引っ張り出してきて、その端っこ来たわけではない。
まして地球は丸いからそんな場所は世界中を探したってあるわけがない。
しかし私は本当にここが世界のはてなのではないかと本気で思った。
そう思わせる風景だった。

目の前の景色は完璧なまでに乾いていた。
山が、いや土の塊と言ったほうが正確かもしれない。
それがごつごつと並んでその褐色を剥き出しにしていて、その合間を、雨が何万年だかかかっていくつもの縦の筋をつくっている。
雨でできたその縦のくぼみが太陽にさらされ、いくつもの影を浮き出している。
視界には1本の木もない。
とげとげした草が生えている所がわずかにあるだけだ。
褐色の世界が果てしなく続く。

音が全くない。
鳥のさえずりも、川せせらぎも、人のささやきも、車のクラクションも、街の雑踏の音も何もない。
ときたまあるのは、風が山の間を走り抜ける低い音だけだ。
そして生物の気配というものが全くない。

そんな荒涼とした風景の中で、私の心は不思議と満ち足りてくる。
物に囲まれ、人に囲まれ、お金させあればなんの不自由もしない、日本の生活からは想像もできない、限りなく無に近いこの場所に立つと、生きるために必要なものなんてそう多くはないのかもしれないという気になってくる。
でも私は気付いていた。
そんなことは旅の間の妄想で、自分だって日本に帰ればお金も求め、物を求め、必要以上に快適な暮らしを、ひたすら追求してしまうことも目に見えていた。
この感覚を日本に持ち込んだとき、そのギャップに自分自身が苦しめられるのもわかっていた。
しかし、せめてこの世界の果てに立っている今だけでも、その呪縛から放たれたいと思った。

『我、足るを知る』
学生のときゼミの先生が教えてくれた言葉が自然と記憶の底から蘇ってきた。
そのゼミは環境問題のゼミで、先生は新聞社の論舌委員と掛け持ちで、大学の講義を持っていた。
人の、便利な暮らし、快適な暮らしに対する欲求は果てしない。
しかし『もうこれ位で十分だろう』とどこかで線を引かないと、その影響が地球環境にかける負担もまた果てしなく増え、しまいには地球そのものがバンクしてしまう。

環境汚染、温暖化、砂漠化、人口爆発、食料不足、資源枯渇・・・・・挙げればきりがない。
そんな話をしながら『我、足るを知る』という言葉を教えてくれた。
確かそれは仏教の考え方の一つで、今ある暮らしに満足し、感謝せよという意味だったと思う。

数百年前、この荒涼とした土地が一つの国の中心だったことに思いをはせる。
彼らはきっとシンプルな生活を送っていたに違いない。
ここから丸1日歩いた場所に小さな村があった。
その村には100くらいの村人がいて、家畜を飼い、少しの野菜を作っていた。
まるで村そのもので自給自足が成り立っているようだった。
数百年間とそれほど変わった生活を送っているとは思えない。
彼らはきっと『足る』を知っている。

生きるために必要なものなんてそう多くはない。
私は『足る』を知っただろうか・・・

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

今まで食った中で、一番うまかったもの

今まで食べてきたものの中で、
一番おいしかったものって何ですか?
それってすぐに浮かんできますか?
聞いといて悪いんだけどぼくは、特に浮かんで来ません。
でも色々思い出してみて思うのは、
パキスタンで食べたオクラ御飯。

オクラってぼくは、その語感もそうだし見た目もそれっぽいので
てっきり日本のものだと思っていた。
それが意外にも、実は向こうから伝わってきたものらしい。
原産はアフリカで、アラブを経由してこちらの方に来たそうだ。
オクラって名前も、もともと向こうの言葉だそうだ。

パキスタンに入ったとき初めて食べたものがオクラだった。
ぼくは何でこんなところにオクラがあるのか不思議に思ったし、
それを運んできた食堂の店員もそれのことを、
オクラ、と呼んでいたような気がしてちょっと驚いた。
でも、それ以来どんな食堂へ入ってもオクラ料理は必ずあるので
薄々、こっちの方のものなのかなあ、と思ってはいたんだけど。

で、そのオクラなんだけど、ぼくはまあ、
どっちかというと好きかな、というぐらいで、
それまで特においしいとは思っていなかった。
それが。
旅行中で食べたものの中で一番おいしかったものがこれなのだ。
ひょっとしたら、今まで生きてきて、一番かもしれない。

人間の感覚というのは不思議なもので、
同じものを常に同じように感じるとは限らない。
その場の環境や、気分、体調なんかにもかなり影響される。
例えば、物凄く好きな食べ物を、風邪を引いてるときに食べてみ
てもちっともおいしく感じられないみたいにね。
こちらの状態によっては、
全然違うものに変わってしまったりするのだ。

ぼくはそのオクラ御飯を、砂漠を走る長距離バスに乗っていると
き、深夜のバスストップで食べたのだ。
日中は気温が五十度以上にも上がり、男ばかりのバスの中は、
もう地獄のような状態である。
夜は夜で道が悪くてバスがゴンゴン跳ねるのでちっとも寝られや
しない。
寝られやしないんだけどバスストップではきっちり起こされる。
どやどやと男たちがバスを降りていくので、
ようやくうつらうつらし始めたというのに、
起きざるを得ないのだ。
仕方なくバスを降りていくとそこには、
さすがに砂漠のど真ん中だけあって、
ただゴザの敷いてある簡単な休憩所のあるだけだった。
裸電球がいくつも吊るされている、とても侘びしい風景だ。

小さな小屋みたいな建物が二三あって、
どうやら食事をとれるらしい。
見ていると乗客たちが何やら器を片手に、
ゴザの上に座り込み始める。
ぼくは昼間の猛暑で食欲もなく、
ほぼ丸一日何も食べていなかったのでとてもお腹がすいていた。
何を食べているのかよく分からないけど、とにかく腹が減ってい
たのでみんなと一緒にその小屋の前に並んだ。
そしてしばらく待って出されたものは、
ただの、オクラ御飯、だった。
ひとつの器に、オクラ。もう一方の器にはごはん。
ごはんと言っても、
日本で食べるようなふっくらとしたツヤツヤのものでは全然なく
もっとパサパサで味気のないもので、
カレーなどをかけて食べるのならまだしも、
それ単体で食べるのはちょっと酷なものである。
出てきたもののあまりの質素さにぼくは少なからず驚かされたが
何せ腹が減って腹が減ってしょうがないものだから、
たとえそれがただのオクラ御飯であろうとも、
とにかくうまそうに見えた。
そして再びみんなと一緒にゴザの上に座り込んでそれを食べ始め
る、と、それは、えも言われぬ程のおいしさであった。
ぼくはあっという間にそれらをぺろりと平らげた。

今思い出しても不思議に思う。
何であんなものがあんなにうまかったのであろう。
そしてあんなものが人生の中で一番うまかったものだ、
と公言しているぼく。何か嫌だなあ。
もっとこう、フォアグラだの、キャビアだの、言いたい。

そしてまた人間の感覚について考える。
果たして人間にとって一番おいしいものって何だろう?
それはもちろん、人それぞれだろうが、そのものの、
食べるものの値段だとか、手間だとかって、
それにどこまで係ってくるんだろう。
ぼくには分からない。
確かに値段の張るいいものを食べればそれなりにおいしいし、
びっくりするような味だったりする。
でも、後々あんまり覚えていなかったりもする。
パキスタンのオクラ御飯はとても印象的だった。
あの味はこれからも一生忘れることはないだろう。
あんなただのオクラとごはんが。

人間の感覚、って何なんだろうね。
そのときのぼくにとって対象の本質的な価値というものは、
まるっきり無意味になっていた。
だって仮に今それを食べたって、
決しておいしいとは思わないだろう。
それがぼくはすごく不思議だ。いったい、何が本当で、
何が嘘なんだろう。

たまに考える。
オクラ御飯を食べたあのときみたいな気持ちで何でも食べられた
ら、それはすごく幸せなことなんじゃないかと。
のみならず、そんな気持ちで何ごとにも取り組めたら、
毎日がとても楽しくなるんじゃないのかと。

でもなあ、ここクーラー効いてて涼しいしなあ、
食いもんなんて何だってあるしなあ、
とてもあんなオクラ御飯なんて食べる気おきないんだよなあ……

追伸: 
ちなみにこれまでで一番うまかった飲み物は、
部活やってた高校のときに飲んだ、練習の後の水道水です。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

ティラミス

一昔前に流行ったティラミスというケーキ。
オレはそんなに好きではなかった。
食ってみても、ふーんって感じ。
でも。
イタリア行って食ったとき、
こんなにうまいものだったのか、と思って感心した。

調べてみると、マスカルポーネチーズなるクリームチーズと、
卵を泡立てて作るらしい。
それをコーヒーやラム酒で仕上げるのだそうな。
なるほど、そんな味がしていたような気がする。

 ”ティラミス” というのはイタリア語で、
“わたしをハイにして” という意味だそう。 
何とも意味深な、エロティックなネーミングではないか。
この辺からしてイタリアで食ったティラミスは、
果たして名前通りであった。
実際、ハイ、になった。それはとろけて天国へ行ってしまいそうなぐらいの官能性を秘めた味であった。
蓮っ葉な姉さんに流し目で誘惑されているような感じ。

日本で食ったティラミスは、
何というかもっとお上品な味だった。おとなしいというか。
清潔で、安全な味。優等生的で、抑揚の少ない味。
そう、イタリアで食ったティラミスは、不良、であった。
こっちから味わうのではなく、向こうが主張してくるものを味わわされてるみたいな感じ。過激で刺激的な味をしていた。
こちらから制御しきれない危険な味。
日本のティラミスと比べると、そこが違っていた。

オレは不良が好きだから、
やっぱりイタリアの方が断然うまく思えたね。
皿への盛り付け方も、ウェイターが、
トレイに乗った大きなティラミスを適当に切り分けて、
そのまま皿の上へどさっとのせる。
オレは、ああ、こんなもんなのか、ってびっくりしたよ。
でも皿の上でワイルドに形の崩れたティラミスは、
やっぱカッコ良かったね。不良っぽくって。

 「食ってみる?」って感じで挑発的で。

思えばイタリア人、ってみんな不良なんだよな。
遊んでばっかだし。派手好みだし。
作るものにもその国民性がよく出てる。
料理でも、車でも、あんまり真面目っぽくないよね。
何だかみんな色っぽい。色気がある。
そのティラミスはまさにそんな味をしてたんだ。
とろけるように甘くって、それと同時に、苦みもあって、
舌を刺すようなアルコールがじっとりと染み込んでて。

いいな、って思った。人生楽しんでる感じで。
そういうのって憧れる。かっこいい。
素敵に人生を楽しんでる人って光ってる。
オレもそういうかっこいい不良になれたらな、って思うんだ。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

ジョカン巡り

ゲストハウスから歩いて5分のところに寺がある。
ジョカン寺というチベタンの信仰を集めている寺で、私はその寺に何回も通った。
通ったといっても、寺の内部に入ったのは1回のみで、私が通ったのはその寺の周りである。

ラサに着いたのは、もう深夜の1時をまわったくらいで、意外にもメインの通りには街灯が立ち並び、タクシーが何台も走り、街のつくりも他の中国のそれと大して変わっていないように思えた。
この時は「やっぱりな」という思いがした。
ラサに来るまでに、いろんな人にラサの事を聞いたが、概して評判が良くない。
よくみんな言っていたのが「漢人に染まった街」という言い方だった。
本当のチベットを見たかったら、東チベットがいいともよく言われた。
しかし私はラサを見た事がない。
もちろん他のバックパッカーの話を信じないわけではなかったが、やはりチベットに行くのにラサははずせなかった。
自分の目でそれを確認したかった。

到着の夜はホテルを探して歩き回った。
ガイドブックに載ってる有名なゲストハウスはどこも満室だった。
初めての街で地理もよくわからないが、ちょっと通りを入ってみて探してみると、料金的に折り合いのつく部屋が空いていて、そのにチェック・インした。
フロントの従業員はもう寝ていたらしいが嫌な顔もせず、対応してくれた。
顔の色が黒くて、明らかに中国人とは異なる顔立ちだったが、中国語がよく通じる。

中国語が通じるのは便利ではあるが、やはり漢人の街・・・・その時まではそう思っていた。

しかし朝を迎えたその街は、まるで生命が吹き込まれたように活動し始めた。

ジョカン寺の正面の所は五体投地をしている人で溢れている。
小さな子どもから、老婆までみんな熱心でだ。
まずはそれを眺めるのが私の日課だ。
私がカメラを向けても、そんなことはお構いなしにそれを続けている。
立った状態で頭の上で手を合わせ、顔の前で合わせ、胸の前で合わせ、そして伏せて手を合わせる。
日本の仏教から見れば、やりすぎとも思えるその祈りのスタイルも、ここでは周りの風景に溶け込んでいる。
祈る姿は美しい。
どんな宗教でも美しいと思う。

それを飽きるほど眺めた後、寺の周りを一周する。
寺の周りには屋台がずらりと並んでいる。
マニ車や数珠、仏像などの仏教関係のものから、ネックレスや指輪などのアクセサリー、雑貨までなんでも売っている。
そこを歩く人たちは必ず時計周りで回っている。
それがコルラだ。
コルラすることで徳を積む事ができる。
その通りはいつも大勢のチベタンで溢れていて、時には五体投地でコルラしている人もいる。
服装はチベット特有の民族衣装だ。
特に女性のそれが綺羅で目をひく。
派手なアクセサリーを首や手にこれでもかというくらいつけていて、髪の毛に貝殻をつけている人も少なくない。
手にはマニ車を持っている。
中にはお経が入っていて、それをまわすとそのお経を1回読んだことになるらしい。

面白いことに、見つけることはできなかったが、今では電池式のマニ車が出回っているらしい。
私も彼らと同じように時計周りでそこをまわる。
彼らと同じように何回も・・・

独特の文化もその地域が発展するにつれ、似通ってしまう。
建物はコンクリートになって上に伸びていき、そこに暮らす人たちの服装だって、民族衣装から、お決まりのシャツとズボンというスタイルが主流を占めていく。
それが残って欲しいと願うのは、豊かな国で暮らす旅人のわがままだということは十分解っているが、やはり寂しい。
ラサの街も確実にそうなりつつある。
しかしここだけは違った。
ラサのなかでもこのジョカンだけはまるで時代が違うような気がした。
まるで映画の世界に迷い込んだような・・・

私は予定通り、デプン寺の大タンカのご開帳も見れたし、ナクチュというところでホースレースの祭りも見れた。
でも私を捕らえたのは、このジョカンの日常の風景だった。
私の住む世界と、この場所の風景のギャップ。
それを感じることが心地よい。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

終わらない旅 – 全ての旅立ちたい人のために Part2

終着点。全てのものには終わりがある。
旅だってそうだし、人生だってそうだ。 

永遠って何だろう?
永遠、って概念が、永遠、って言葉を生んだのだと思うし、
それは分かりにくくとも、確かに存在するものなのかもしれない。

でも人生には必ず終わりがある。
命あるものはいつか死を迎える。避けられない。
永遠ではあり得ない。
旅だってそうだ。
いつかどこかで、どこかへ帰る日がやってくる。

でも。
終わらない旅、っていうのがあるとしたら?        

旅先で出会ったある人が、
終わらない旅の話をぼくにしてくれた。
その話はぼくに、永遠、ってことを考えさせた。
それはとても心地の良い感じだった。
色んな束縛から自由に解放されるような感覚だった。

彼は言った。

 ”もし、旅行することに終わりを定めているとしたら、
 どこにいても、どれだけビザに余裕があっても、必ず時間に、
 何かに縛られることになる。
 それと同じで一生の中に、死、というものを終着とするならば
 それもまた、時間や他の色々な何かに縛られることになる。”

死、はある。必ずある。避けられない。

でも、それをひとつの通過点だとするならば?
そう思えることができるとするならば、それは終わりだろうか?

例えば旅の終わりが、日本に帰る、ということだとしたら、
その旅はそこで、死、を迎える。旅が終わる。
人生が終わるように旅も終わる。
しかし、もしそれを、ひとつの通過点だとするならば?
通過点に過ぎない、と捉えることができるのならば?
旅は決して終わらない。
たとえ、ずっと日本にいたとしても、
それから一生どこへも行かなかったとしても、
その旅は終わることはないだろう。
本質的な意味での旅は決して終わりを迎えない。

要するに終わりのことばかりに囚われていたら、
結局その行為とは、
終わりに向かうためだけに進行していくということだ。
束縛から自由になれない。
反対に、もっと先を見ていたら、
終着地点より先を見ていられたら、
もっと伸び伸びと色んなことができる。
様々なことに刺激を感じられる。

彼は言っていた。
 
 ”オレの旅に終わりはないよ。
 たとえ日本に帰ってきたとしても、
 またどうせすぐ出てくるだろうしね、ハハハ。
 でもたとえそうじゃなくっても、
 今ここにいて感じているこの気持ちは消えることはない。
 それはきっと日本にずっといたとしてもそうだと思うんだ。
 だったら、それは今いる場所の違いだけであって、
 本質的な自分ってものは何にも変わらないだろ?
 だから、人生は、旅、なんだと思うんだ。
 終わることのない、ね。たとえ死んじまったって、
 オレのやってきたことっていうのは否定できないし、
 どっかにそれはずっと残っていく。
 確かにオレは存在したんだから。
 そうやって考えると、人生って楽しいな、って思えるし、
 もっと楽しむことができる。それって最高だろ?”

ぼくは終わりのことばかり考えて旅をしていた。
後何日であそこまで行かなきゃならない、
もうあそこには行けないかもしれないから行っとかなきゃ、
お金が後いくらしかないからそろそろ移動しよう、
絶対にあの国まで行ってから帰るんだ……
色んな思いが絶えずぼくを締め付けていた。
一見自由気ままに旅をしているようで、
実のところは自由でも何でもなかった。
常に様々な制約に縛られ続けていた。

実際あの人が言っていたように、
日本に帰ってもぼくの旅は終わらなかった。
未だにあの長い旅から抜け出せないでいる、
と言ってもいいかもしれない。
それは決して彼の言うような永遠性を伴った自由な感覚ではなく
不安定で自分を確立しきれない辛いものであったりする。
でもぼくは、あの旅の日々を忘れることはないだろうし、
あのとき感じた、体が軽くなるような自由な世界があることは、
心のどこかで憶えている。
ぼくにとってそれは生きていく上で最も重要な、
希望的な出来事につながっているのかもしれない。
一度開いた感覚は、信じる、という行為に成り変わって
ずっと存続していく。
今のぼくは確かに何かを信じている。

人生とは旅である、なんて使い古された臭い言葉を
大真面目に主張しているぼくなのだ。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

ラサへ・・・

旅でこんなにも急いだことはない。
昆明からラサまでの陸路を、わずか1週間かけて急いだ。
その間、宿に泊まったのはわずか2泊である。
あとは、夜中も移動を続けた。
急いだ理由は、8月8日にラサのデプン寺というところで、大タンカ(仏画)の御開帳があると聞いたからである。
せっかくラサに行くのなら、1年に1回のそれを見てみたいと思った。

そして、ラサまでの道中には、Hさんが一緒にいた。
Hさんが昆明に戻ってきたことは、昆明の手前の街、大理のネットカフェで知った。

Hさんは香港で盗難に遭い、てっきり日本に帰国したか、タイあたりに飛んだと思っていたが、陸路でラオスからタイに入るため、昆明まで戻って来ていた。
そして、私も中旬から成都のルートを、雨のため諦め、一旦昆明に戻って来ていたのだった。
本当なら西寧で会うはずだったが、盗難と雨という偶然で昆明で再び会うことになった。

香港でのHさんの盗難は、シングルルームのなかで、真夜中に起きたらしい。
香港はビルが密集している。
日本では考えられないほど、ビルとビルが並んで建っていて、配管などを利用すれば、簡単に隣のビルに渡れるのだ。
Hさんのゲストハウスのビルも、隣のビルと1Mほどしか離れていなかったらしい。

そして真夜中、窓から8階のシングルルームに忍び込まれ、テーブルの上に置いてあった貴重品を盗まれてしまった。
TCも領収書ごと盗まれ、再発行もきかなかったらしい。
もちろん、いつもなら貴重品を机の上に出すことなどない彼だが、昆明から香港まで一気に移動した疲れで、貴重品をそのままに、寝てしまったらしい。
まさか窓から忍び込まれるとも思わず、鍵もかけていなかったようだ。

彼のその話を聞いて、私は返す言葉がなかったが、彼は思いのほかあっけらかんとしていた。
起こってしまったものはしょうがない、という感じだった。
盗難のため、手持ちのお金がだいぶ心細くなり、チベットを諦めた彼だったが、やはりチベット、そしてカイラスは諦め切れないようだった。
そして結局、カイラスを目指し、行けるとことまで行くということになった。

昆明からラサを目指す場合、一般的にはゴルムドという街まで列車で行き、そこからバスに乗り換えることになる。
私たちはまず、昆明を13時に出て列車で成都に向かった。
成都には翌日の8時に着いたが、そのまま14時の列車に乗り換え、蘭州まで行った。
蘭州についたのはさらに翌日の15時で、その日の17時の列車で西寧まで強行した。
西寧に着いたのは21時くらいだった。
まるまる2泊3日の列車の旅である。

列車の移動は全て硬座だった。
硬座とは中国の列車の中で1番安く、いわば3等である。
この中国の硬座は、旅行者にえらく評判が悪い。
私も移動はいつも、硬臥という2等のベッド付きだったので、硬座にはある意味興味があった。
実際の硬座に乗ってみると、なるほど、なぜ評判が悪いのかが良く分かった。
乗客たちは絶えず何かを食べていて、そして床や窓の外にごみを捨てる。
中国人たちが良く食べるのはひまわり種で、その殻が床に散乱していた。
2時間に1回くらい掃除係りの乗務員が、ほうきでごみを集めるが、その度に車両全体に埃が舞う。
トイレもすぐに水が出なくなり、便器には人糞が積み重なっていく。
とても快適とは言えないが、硬座がひどいということは、あらかじめ人から聞いていたし、慣れてしまえば別にどうということもなかった。
それよりも、座席がほぼ直角のシートで、2泊3日の移動で、ほとんど眠れないことの方が体にこたえた。

疲れ切って、西寧の宿にチェックインすると、そこにMさんという一人の日本人がいた。
ゴルムドからラサの正規のバスは、入域許可書が必要で約3万円と飛行機並に高い。

だからバックパッカーは正規ではなく、違法で中国人が利用するバスに乗せてもらったり、タクシーでラサへ行く。
もし違法で行って、検問所などで公安(警察)に捕まった場合、罰金をはらい、さらに正規のバスチケットを買わされることになる。
私たちは、違法でタクシーを利用するつもりでいたので、最低でもあと一人タクシーをシェアする人を探していた。
しかも、西洋人だと顔立ちですぐにばれる可能性が高いので、日本人がよかった。
彼もラサまでどうやって行くか迷っているところで、一緒に行くことになった。
さらに驚いたことに、彼もまたカイラスを目指しているという。
彼の「長い付き合いになりそうですね」という言葉通り、Hさん、Mさん共にカイラスを目指すことになった。

西寧からゴルムドまで1泊列車に揺られ、ゴルムドの駅前で、ラサまで行ってくれるタクシーを探した。
しかしこちらの言い値が高かったのか、なかなか見つからなかった。
タクシーを諦めかけたとき、ラサまで800元(約1万2千円)で行けるという男が現れた。
片言の英語ができるその男と交渉し、1人500元まで負けさせて、交渉はまとまった。
その男が言うには、昼間は検問があるので、明日の早朝に出発するのがいいという。

その男の言われるままホテルにチェックインして、翌日をまった。
しかし翌日の6時になっても彼は現れなかった。
7時になってもこない。
騙されたとも思ったが、まだお金を1円も払ってないのでそれもおかしい。
8時になって、やっと彼が現れた。
『検問はスルーできる、今調べてきた』
という彼の言葉は信用できなかったが、もうここまできたら、彼に全てを託すしかなかった。

ホテルに横付けされていた車はフォルクスワーゲンのセダンで、運転手は色黒の痩せた男だった。
彼がおもむろに見せた身分証明書には確かに公安と書かれてあり、一瞬はめられたと思ったが、交渉役の男が言うには、公安が小遣い稼ぎのために、ラサまでのドライバーをやっているとのことだった。
チベットに入るパーミットを法外な値段に設定し、それをかいくぐってチベットに入る旅行者を捕まえる公安がいて、さらにその旅行者を闇でラサまで連れて行き、小遣いを稼ぐ公安がいる。
中国とは全くわけがわからない。

法律を犯しているというこちらの緊張感とは裏腹に、ドライバーは悠長に朝食を取り、サングラスを買ったり、奥さんを子どものいる幼稚園まで送ったりして、さらに中国人の旅行者を1人乗せ、やっと11時にゴルムドを出発した。

そこからラサまでは最初20時間と言っていたが、38時間かかった。
最初は景色を楽しむ余裕もあったが、日も暮れた頃になると、とにかく早く着いて欲しいと思うだけだった。
途中、検問は無事に通過したが、工事で何時間も待たさせたり、中国人が高山病にかかり頭が痛いと言って安宿で仮眠したり、パンクやエンジントラブルもあり、とにかく長く疲労も限界だった。
ラサに到着したのは、ゴルムドを出た翌日の深夜1時。
闇のなかのラサの街並みは、あまりに他の中国の都市と変わりがなかったが、そんなことを考える余裕もなく、泥のように眠った。

とくかくラサに着いた。
それだけで十分だった。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

ウォーク・オン・ザ・ワイルドサイド

街を歩いていてふと思った。 日本は清潔な国だと。
光がすみずみまで満ち満ちている。

ぼくはロサンゼルスのダウンタウンを
歩いているときのことを思い出した。
華やかな表通りを歩いていて道に迷い、
ほんの一本路地の裏手に回ったら、そこはまるで別世界だった。
閑散としていて、何もなかった。
しかし、よく見てみると、建物の影に人陰がうごめいている。
ぼろぼろのアル中が、
ペーパーバッグに入ったウイスキーを片手にうずくまっている。
目つきの鋭い若者たちが、何人かでたむろっている。
自分はエイズ患者である、とアピールした看板を掲げた物乞いが
小銭をもらえるのを待っている。 それら、全てが黒人だった。

ぼくはその光景に戦慄を憶えた。
ここから百メートルと離れていない表通りの喧噪との格差に愕然
とした。
表通りと裏通り。 光と影。 
眩いばかりのショッピングモールの立ち並ぶ表通りとは対照的に
そこはまさに光の差さない裏通りであった。 
まるで中近東の砂漠の町のように荒涼としていた。
ぼくは怖じ気づいて、すぐさまもと来た道を慌てて帰った。
そして表通りの明るい喧噪に安堵した。

そのような、街の決定的な二面性は、
多かれ少なかれどんな街にもあった。
東南アジアにも、ヨーロッパにも。
バンコクの街ではお祭り騒ぎのようなカオサン通りの裏道で、
五、六歳の少年がひたすらシンナーを吸っていた。
悲惨だな、と思った。
海外ではどこの街でも、自分のすぐ目の前に、
ギリギリのラインでかろうじて生きている人達が転がっていた。

日本の街を歩いていて思った。 全てが表通りだな、と。
そんなにシリアスな人達にはなかなかお目にかからない。
ワイルドサイドを歩けない、
日本にもきっといるはずのそういう悲惨な人達は、
一体どこで暮らしているのだろう?
ある意味、外国の彼らは幸福なのかもしれない。
ワイルドサイドにはワイルドサイドの住人がいる。
ワイルドサイドを見つけることのできない、
日本のワイルドサイドの住人達は、
さぞかし不幸なことだろうなあ、辛いんだろうなあ。

そんなことを考えながら街を歩いた。
街は今日も昨日と同じ顔をして、光に満ち溢れていた。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

雲南の雨

上海では時折しか降らなかった雨も、陽朔、昆明と南下するにつれ、本格的な雨季を感じさせるものになってきた。
もともと雨季は嫌いではなかった。
東南アジアの雨季は通り雨のようなスコールのあと、ぎらっとした日差しが降り注ぎ、それが木々に溜まった水滴に反射する光景が好きだった。
しかし昆明の雨季は違った。
一日中雲が出ていて、雨が降ったり止んだりする。
Hさんと会ったのは、そんな雲南省昆明のゲストハウスだった。

彼とはドミトリーの同じ部屋で、自然と言葉を交わすようになった。
専門学校を卒業し、数年間アルバイトをした後旅に出たそうだ。
彼は、22歳と私より一回り若かったが、不思議と気が合いよく話をした。
話題は必然的に、今まで行ったところで何処が良かったか、これから何処へ行くかなど、旅の話が多かった。
彼はインドシナを一通り廻った後、大理、麗江、中旬へと行き昆明に戻ってきたところだった。
これから再びラオスに入り、バンコクに出た後、ミャンマー、インドへと行くという。
一方私は、彼の通った、大理、麗江、中旬へと行き、理塘をまわり成都に出てから、陸路でラサに入る予定だった。
そしてラサの後、西チベットのカイラスという聖山を目指す。
そこは、高い金を出してツアーを組む以外、一般の旅行者が簡単に行けるところではなく、行方不明者も出る場所で、一人では絶対行くなと、いろいろな人から言われていた。
今回、そこへ行く事が私の旅の目的の一つでもあり、そのためにテント、寝袋、コンロなどを日本から持ってきていた。
私がカイラスの話をする度に彼の気持ちが、カイラスに傾いていることがよくわかった。
そしていつの間にか、一緒に行こうということになった。
カイラスへ一緒に行くということは、1ヶ月以上行動を共にすることになり、誰でもいいというわけではなかった。
その点彼となら、お互い気を遣わずやっていけそうで、パートナーとしては、申し分なかった。

そして、チベットの入口である西寧で落ち合う約束をして、彼は中国ビザを取り直しに香港へ向かい、私は大理、麗江、中旬を通り理塘から成都に抜けるルートを目指した。

そのルートは私にとってある思い入れのあるものだった。
この旅に出るときに友人が餞別としてくれた旅行記に、大理、麗江がいわば中国のオアシスのように書かれていたからである。
それに理塘については知り合いの撮った写真を見て、必ず訪れてみたいと思っていた場所だった。
旅行者の間でも理塘は「ラサよりもチベットらしい」と評判だった。
昆明の雨の中、私は淡い期待を抱きながら、まずは大理へと向かった。

大理に入ると雨はいよいよ降り続くようになった。
しかし、その合間を縫って自転車で古い街並みを見に行ったり、白族の草木染めの屋台を冷やかしたりして、居心地は悪くはなかったが、オアシスと呼ぶほどでもなかった。
さらに麗江に入ると雨は一日中降り続いた。
時期が良ければここから玉龍雪山という山が見えるはずだが、雨の中ではここが山に囲まれている気配さえ感じることができなかった。
さらに、ここは麗江古城という古い街並みが世界遺産にもなっているが、その街並みそのものが土産物街になっていて、情緒のかけらもなかった。
おまけに中国人観光客が、写真を撮れば必ず写ってしまうほど多く、そのガイドには少数民族の衣装を着たガイドが、旗とメガホンを持っている光景には苦笑せざるを得なかった。
なまじっか旅行記を読んで予備知識があったために、そこから自分で勝手にイメージしていた街並みと、実際の街並みがかけ離れていたことに落胆していた。
しかし誰を責めてもしょうがない。
中国は急速に変化しているのだ。

さらに駒を進めるように中旬へと来た。
麗江から中旬までの道は、山を切り開き、川に沿って走っていた。
川は連日の雨で増水して、濁流となっていた。
さらに土砂崩れも何個所かで起きていて、交互通行になっていて、そのために到着が予定より遅れた。
その光景はここからさらに標高の上がる理塘への道が、いっそう悪くなっていることを予想させた。
中旬の標高は3200M。
理塘は3900Mを越える。
中旬は小さな街だった。
有名な松賛林寺に行っただけで、あとは特にこれといって何をしたわけでもない。
ただ毎日雨のなか、バスターミナルへ行って、ここから先の道の状況を聞いた。
中旬から理塘まで道で一個所通行止めになっていて、いつ通れるかわわからないとのことで、仮に通れたとしても、そこから成都まで何日かかるか分からないとのことだった。
それではHさんとの約束の日に間に合わない。
私は毎日同じ質問をして、返ってくる答えも毎日同じだった。

そんな無意味な毎日を送っているなか、Hさんからメールは入った。
『香港で盗難に合い、20万円相当を盗まれました。チベットは絶望的です。』
そのメールを読み、自分でも驚くほど落ち込んだ。
ただ旅先で会った人なんだから、カイラス行きのパートナーはまた探せばいいとは割り切れなかった。
これで、Hさんと西寧で落ち合う約束も無効になり、急ぐ必要もなくなった。
しかし私には、雨の中、何日かかるか分からないルートをこれ以上進む気力がなかった。
もうほとんど投げやりな気持ちで、昆明へと引き返すことにした。

なんだか、旅がからからと乾いた音をたてて、空回りしているように思えた。
自分でも情けないほど弱気になっている。
それは、雨のせいだろうか。
それとも、また、独りになってしまったからだろうか・・・

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

浦江飯店

ウランバートルから北京へと引き返した私は、天津から神戸行きのフェリーに乗った。
友人の結婚式に出席するためである。
最初、結婚式に出席するかどうか迷ったが、今のところやはり日本が帰るべき場所なので、日本にいる友人を大切にしたかったのだ。
帰国に船を使ったことには大した理由はない。
単に、飛行機が苦手というのもあるが、「香港から南アフリカの喜望峰まで、陸路と海路で行く」という自分で決めたルールを守りたかっただけである。
そのため日本という国を通り道ととらえ、少し客観的に日本を見れるかもしれないと思ったが、やはりそれは無理だった。
日本語で話しができ、日本の友人に囲まれることが、心地よく感じられた。
やはり私は日本人なのだなと思う帰国だった。
一週間の帰国は、あっという間に過ぎ、再び大阪から上海行きのフェリーにのり、中国へと戻ってきた。

上海には有名な安宿がある。
浦江飯店というところで、プージャンホテルと呼ばれている。
そこには日本人のバックパッカーをはじめ、欧米人や中国人も多い。
ドミトリーだけでなく、シングルやダブルの部屋もあるようで、貧乏旅行者以外の人もよく利用するようだ。
私も他に安宿を知らないので、やはりそこに泊まることにした。
ホテルの外観は100年前に建てられたような、それでいて格式が感じられる造りで、中に入るとおよそ安宿とは思えないような、小奇麗なレセプションがあった。
エレベーターはレバー式の手動で、係員がいなければエレベーターが動かないといった旧式のつくりも、私には新鮮に感じられた。
エレベーターを降りてから、部屋までの廊下は、まるで幽霊でも出そうな洋館といった感じだった。
赤い壁に黄色い電球が反射して、怪しげな雰囲気を醸し出していた。
ホテルの廊下は自分の部屋の、さらに奥まで続いていて、まるで迷路である。
ドミトリーに案内されると、一つの部屋にベッドが8つと、テレビがおいてあるだけで、やはり安宿であったが、その少し怪しげなホテルがすっかり気に入ってしまった。
私はここで多くの旅行者と言葉を交わしたが、彼女もその一人だった。

声をかけてきたのは、彼女の方だった。
『英語が話せますか?』
それは日本語だった。
私はレセプションの前の休憩用の椅子に腰をかけて、煙草を吸っていた。
突然のその問いに戸惑って、「少しくらいなら」と答えると、彼女は安堵の表情を見せて説明を始めた。

彼女の名前はSさんという。
Sさんは2日ほど前に、成都からこのホテルに来たらしい。
1ヶ月ほど成都に滞在し、短期の中国語学校に通って、帰国の途中上海に寄った。
そしてこのホテルに泊まっていたが、ドミトリーで荷物が盗まれたのだ。
盗まれたものは、撮り終わったフィルム、眼鏡、Tシャツ、化粧水で、およそ盗んでもしょうがないような物だが、なくなってしまったようだ。
『犯人は分かってるの』
とSさんは言う。
同室に40歳くらいの、日本語を話す中国人の女性がいて、彼女のベッドからTシャツだけが出てきたらしいのだ。
また、同室の欧米人が、昨日の夜、その中国人女性が留守中のSさんのベッドの周りを何度もうろうろしていのを見たらしい。
もちろんSさんは、その中国人女性に何故Tシャツがベッドにあったのか、説明を求めたが、埒があかず、とりあえずフロントに説明に来たところだった。
Sさんの中国語では、そこまで説明できず、かといって英語だとフロントの従業員は話せても、Sさんが話せず、私に助けを求めて来たというわけだ。

自分も英語が得意なわけではないが、それくらいの説明だったらできそうだと思った。
フロントの従業員もやはり予想通り、それほど英語が堪能ではないので、誤解のないようにシンプルな英語で説明した。
Sさんのフィルム、眼鏡、Tシャツが盗まれたこと、Tシャツが同室の中国人のベッドから見つかったこと、またその中国人女性がSさんのベッドをうろうろしているのを欧米人が見ていたこと話すと、とりあえず部屋を見てみようということになった。

彼女のドミトリーの部屋に行くと、例の中国人と、欧米人もいた。
例の中国人女性は40歳くらいの小太りで、ひまわりの柄のワンピースを着ていたが、それがひどく似合っていない。
まず、従業員がその女性に中国語で何か言った。
するとその女性は急に怒り出し、従業員をまくしたてている。
その後Sさんの方を見て、今度は日本語でまくしててきた。

中国はいわゆる「口喧嘩」が有名である。
街をあるけば、必ずどこかでどなりあっている。
というよりののしり合っているようにも見える。
中国語のわかる人から言わせれば、あれば交渉だと言っていたが、それが分からない私にとっては、やはり口喧嘩である。
その女性はまさにその「口喧嘩」のように、激しく抗議してきた。
しかも日本語でである。
そしてその日本語は、小さいとき漫画で読んだような「ワタシ・・・アルネ」的な口調なのである。
『ワタシ、ヌスンデナイネ、ヌスンデドウスルネ、ワタシ日本人アルネ』
といった具合である。
そのしゃべり方があまりに漫画的で、おかしくて吹き出しそうになってしまった。

しかし当人のSさんは笑っている余裕なんてない。
中国人の女性に押され気味で、
『私の荷物返してください』
と反撃しても、
『ワタシ、ヌスンデナイネ、荷物シラベルネ』
の一点ばりで平行線だった。
『じゃあ、昨日の夜、彼女のベッドでなにしてたの』
と私も助け船を出しても、やはり同じ答えが返ってくる。
例の欧米人も
『ベッドのところにいたのは見たけど、盗んだかどうかはわからない』
と言って、やはりこれも決定打にはならなかった。
結局、真相はわからずに、Sさんが部屋を変わることで、落ち着いた。

その後もSさんとは顔を会わす度に言葉を交わしたし、一緒に食事をしたりした。
『そうゆうのってトラウマにならない?』
とSさんは言う。
Sさんは中国語を学びに中国まで来たが、もう二度と中国には来ないし、中国語もやらないと断言していた。
『中国語の辞書を買わなくてほんとに良かった』
とまで言っていた。
その気持ちは痛いほどわかった。
自分も以前フィリピンで睡眠薬強盗にあったことがある。
しかし、たった一つの出来事で、その国を一方的に判断してしまうのは、もったいないような気がした。
それにSさんもその中国人女性を犯人と決めていたが、それも一方的すぎるのではないかと思った。

ちなみにその中国人女性は、日本人の男性と結婚していて、日本国籍らしい。
だから日本人だと言っていたのだ。
その旦那が70歳で、女性は40歳。
『金が欲しくてだましたんだよ』
とSさんは言うが、いったいどっちがどっちを騙したのか・・・

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。