バラナシの詐欺師

バラナシには怪しい日本語を話す輩はくさるほどいる。
もちろん彼らの全てとはいわないが、たいていは土産屋に連れていってマージンをもらうか、ガンジャやハシシを高めに売りつけ、その差額でもうけようとする。
しかし彼はそんな輩とは明らかに違った雰囲気を持っていた。
彼の完璧な日本語にも驚いたが、それ以上に驚いたのは彼が日本の文化や習慣も知っていたことだ。
私は彼を最初から最後まで信用しきっていた。
残念ながら名前は思い出せないので、仮にラムと呼ぶことにする。
そのラムと会ったのはバラナシに着いてもう1週間以上もたったある日のことだ。

私は同じゲストハウスのシングルに泊まっている、Tさんと夕食を食べに出かけていた。
彼は会社員で、貴重な一週間の休暇でインドに来ていた。
Tさんは外見も、喋り方もいい人そのものだったためか、彼のインド旅行はトラブル続きだった。
日本から深夜のデリーに飛行機で到着し、そこからタクシーに乗ったはいいが、安宿街に向かうはずが、300USドルの高級ホテルに連れていかれたらしい。
もう外は真っ暗闇で右も左も分からず、結局300USドル払ってそこに泊まったと言っていた。
もちろん、300USドル分のホテルかといえば、せいぜい30ドルくらいの設備だったようだ。
次の日、やはりおかしいと思って、ツーリストオフィスに相談して、なんとか250USドルはもどってきたが、そのツーリストオフィスで、今度はタージマハルの250USドルのツアーを組まされたと言っていた。
もちろんそんな高額なツアーがあるわけない。
今思えばそのツーリストオフィスも、偽物だったかもとも言っていた。

そんな彼といっしょに、どこかおいしそうな店を探していると、インド人の青年が声をかけてきた。
背は低いが、筋肉質でがっちりした体つきだった。
『どちらへ行かれますか?』
という完璧な日本語だった。
そしてTさんが、
『どこかヌードルスープを食べれる店を知りませんか?』
と聞くとそのインド人青年は、わざわざ店まで案内してくれた。
それがラムだった。

ラムは店まで案内するとまずこう言った。
『もしよければご一緒してもいいですか?
別にお金がほしいわけでも、何か売りつける気もありません。
私はバラナシ大学で医学を勉強してますが、日本語も勉強しています。
ただ日本語の勉強をしたいだけです。
もし「が」とか「は」とか助詞の使い方が間違っていたら、教えてほしいのです。』
と彼は丁寧な日本語で言った。
もちろん断る理由もないので、いっしょに食事をすることにした。

しかし彼は食事も飲み物の何も注文しないで、何もいらないと言う。
私がチャーイくらいおごるよと言うと、最初は断ってきた。
さらに私が薦めると、ラッシーを注文した。
その辺の一度断るところなど、極めて日本的だった。

食事をしながら聞く、ラムの話は面白かった。
『私は大学生ですが、日本語通訳の仕事もたまにやります。
NHKの取材班の通訳もしました。
緒方拳さんが来たときも案内しました。
そのときサイババの弟子がちょうどバラナシに来ていて、緒方さんは自分の将来をみてもらっていて、その時も通訳しました。
ちょっと、その内容は言えませんが、緒方さんはとても満足していました。
彼はとても紳士的でかっこいい人ですね。
それから鶴田真由さんの通訳もしました。
びっくりするほど、きれいな人ですね。

日本は大好きです。
いつか行ってみたいです。
たくさんのインド人が東京に行って働きたいと言うけど、私は京都に行きたいです。

あそこは日本の文化の故郷ですからね。
京都の鴨川で沐浴してみたいですね。』
そんなふうに、日本に対する憧れも語ってくれた。

私もここぞとばかりに、インドに対する疑問を、少々失礼かなとも思いながらもぶつけてみた。
しかしラムは嫌な顔もぜずに、答えてくれた。

『確かにカーストによる差別は憲法で禁止されています。
しかし、実際に全ての差別がなくなったともいえません。
やはり、職業カーストの枠から抜け出せず、親の職業を継ぐケースが多いです。
洗濯夫の子どもは洗濯夫に、リクシャ引きの子どもはリクシャ引きに、ヘビ使いの子どもはヘビ使いにといった具合です。
もちろん、自分で勉強し、努力し、他の職業に就くケースもありますが、まだ希なケースですね。
それから外国人が思うほど、カーストは悪いものじゃないと思っているインド人も多いです。
ずっとそれでやってきたわけですから。

それから結婚についてですね。
ご存知の通り、インドには花嫁が持参金を用意するのが習慣です。
その金額は、親の職業やカーストによっても様々ですが、それがトラブルの元になるのも事実です。
持参金が少ないといって、姑にいびられ焼身自殺したり、あるいは姑を焼き殺したりという事件は、インドではあまり珍しくありません。
持参金が原因で花嫁が夫を殺すなんてこともあります。
でも持参金はきっとなくならないと思います。
それをなくそうと運動している政治家もいますが、もう何千年も続いている習慣なのです。』

彼から聞く、インドの話は新鮮だった。
私はメモをとりながら、彼の話を聞いた。

それから旅行をする上での注意もしてくれた。

『インドでは残念ながら、旅行者をだます詐欺師が大勢います。
高額なツアーを組まされたり、お土産を何倍もする値段で買わせる連中もいます。
先日会った日本人の方は、デリーで400USドルも出して、シルクの布を何枚も買ってました。
見せてもらうと、せいぜい50ドルのものです。
お土産を買うならバラナシがいいと思います。
デリーで売っているものも、ほとんどバラナシの工場で作ってますので、ここで買ったほうが安いですよ。

この近くに旅行者用でなく、インド人が集まるバザールがあります。
もし、ピジャマやクルタ(インドの国民服)、シルクの布とか欲しいなら、よかったらこれから案内しますよ。』

ラムの申し出はありがたかったが、私は遠慮した。
昨日、何故だか考え事をしていたら、眠れなくなって一睡もしていないのだ。
私は疲れているからと断ったが、Tさんはラムと一緒にお土産を見に行くというので、私は一人ゲストハウスに戻った。

そして次の日の昼過ぎ、
『鉄郎さん、わかったよラムの正体が!!』
とちょっと興奮してゲストハウスのドミトリーにTさんが入ってきた。
『あの後、ラムが店を紹介してくれて、25ドルのショールを買ったんだよ。
シルクだから高いとラムが言ってて、そのときは俺もそう思ったんだ。
でもほんとにそんなにするのかなぁと思って、今その辺りの布屋に聞きにいったら、せいぜい5ドルだったよ。
2、3件きいたけど、どこも同じだった。
それで、事の顛末をしゃべったら、店員が、そいつは背が低くて、筋肉質で、日本がうまくて、NHKの通訳をやってたって言ってたろうって。
ここらではちょっと有名な詐欺師で、何人も日本人がやられてるらしいよ。
また騙されちゃったよ。
まったく・・・・』

私は、Tさんの話を聞いて、なんだかラムがそんな奴だとは信じられなかった。
なるほど、最初から土産屋に連れて行って、正当な値段よりも高く買わせて、後でその店からいくらかのマージンをもらう手口だというのはよくわかる。
しかし、私が引っかかったのは、彼の日本語と日本文化に対する知識だった。
ラムの日本語は明らかに、旅行者を食い物にする輩とはレベルが違った。
あれだけの日本語をマスターするのには、何年も相当な努力が必要だったはずだ。
それ以上に、日本の文化や地理を勉強するのだって、簡単なことではない。
それだけの努力のできる男が、なんで旅行者相手にそんなつまらない商売をしている のだろうか。
NHKの通訳はともかく、ツアーのガイドくらいならすぐに務まるはずだ。
いや、もしかしたら、そこにカーストの壁が存在したのかもしれない。
だからそんな事でしか生きていけないのかも・・・

私はそんなことをぼんやりと考えていた。
それにしても可哀相なのはTさんだ。
彼のなかのインドは、まさにさんざんだったようだ。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

人は旅で変われるか

人は旅で変われるのか。
旅に出て、何かを掴んだつもりで、あるいは自分は変わったつもりで、日本に帰ったはいいが、その後の生活がうまくいかないバックパッカーは多い。
結局好きでもない仕事を続け、再び次の旅を考える。
そして日本での旅の資金を作る仕事と、海外への旅とを繰り返し、年齢だけを重ねて行く人も少なくない。
そうなふうに旅にはまって抜け出せない人がいる。

それがいいとか悪いとか言う気はない。
ただ『人は旅で変われるか』と聞かれたら、私の答えは『NO』だ。
ガイドブックがほとんどの外国を網羅し、ネットで情報があふれ、決して冒険とはいえなくなってしまった現代の旅で、そんな簡単に人は変われないだろう。
いや正確にいえば、『旅だけでは人は変われない』と答えるかもしれない。

これから書く文章は旅とその結果としての変化を、自分自身の体験から考えたものであり、他のエッセイについてもいえることだが、これを読んだ人に同じ考えを持ってほしいというつもりは全くない。
10人いれば10通りの考えがあって当然と思っているので、批判があって当然だと思う。
ただ、一人のバックパッカーのつぶやきくらいに思って読んでもらえるとありがたい。

私は元々人生の中の大きな変化に弱い。
その度に、その先にあるものに期待するよりは、不安のほうが大きくなってしまう方だ。
小、中学校のクラス替えだって、高校の進学だって友達だできるか不安だったし、大学だってまだ社会に出て働く自信がなくて進学したともいえる。
どちらかといえば消極的だといえる。
旅にしてもそうだった。
日本国内だって、たくさん旅行したわけではなかったし、まして海外の一人旅なんて考えたこともなかった。
その時までは。

初めて海外に、しかも一人で旅に出たのは大学を休学した22歳のときだった。
当時付き合って、1年ほどたつ彼女がいて、一人暮らしだった彼女の部屋に入り浸り、授業はどれも出席日数ぎりぎりで、何故だか入部してしまった空手道部の練習だけは精を出し、夜はバイトに励む毎日だった。
空手道部だったことを除けば、どこにでもいるごくありふれた普通の学生だった。
そしてこれもありふれた話だが、もう紅葉が散り始めた大学3年の秋、突然彼女にふられてしまった。
人並みに落ち込んだのを覚えている。
そしてその後の私の行動はありふれているものではなかった。

私は彼女との結婚を考えていて、就職も仕事のやりがい云々よりは、結婚生活のための手段くらいにしか考えていなかった。
もう大学3年の秋ともなると、ちらほら学内での就職セミナーなどが開かれていたが、失恋を期にその一切に出なくなった。
結婚ができないのなら、就職も私にとって意味がなくなってしまったからだ。

そして、それまでの学生生活はそれなりに充実したものと感じていたが、『何か』をやってみたいと思いはじめた。
私の所属する学部は国際学部だったので、ホームスティや留学は、なんだかみんなやっていてありふれていたし、もっと他と違う何かがよかった。
それで頭に浮かんだのが海外の旅だった。
何故それが旅だったのかは、今をもってわからない。
とにかく、ぬるま湯みたいな日本の生活かれ離れたかった。
旅に出ることで、過去の自分と決別できるかもしれないと思った。
もしかしたら空手道部の二つ上の先輩が、休学してヨーロッパを旅していたのに影響されたのかもしれない。
しかし私の行き先は迷わずアジアだった。

旅を決意してからは真面目に授業に出て、なるべく多くの単位を取った。
そして大学3年が終わり空手道部も引退し、1年間の休学届けを出した。
一人暮らしで旅の資金などまるでなかった私は、その後の半年間、ガラス工場の50℃以上の気温の中、文字通り汗水流して働いて旅の資金を貯めた。

当時バックパッカーという言葉も、今ほど市民権を得てなく、両親も私の行動を不思議に思っただろうけど、反対も賛成もせず何も言わなかったことに今でも感謝している。
私自身、トラベラーズチェックの意味もわからなかったし、国によってビザが必要だということも初めて知った。
とにかくわけのわからないまま、沖縄から台湾行のフェリーに乗ったのは、旅を決めてからすでに1年がたっていた。
その後半年でアジア8ヶ国をまわり、今思えば忙しい旅だった。
そのときもインドのバラナシに来た。
初めて見るインド。
そしてバラナシは衝撃そのものだった。
人がガンガー沐浴し、そのすぐ横で火葬が行われている。
その光景は感動とも畏怖とも違った、その二つが混ざり合ったような感覚が自分につきささった。

そのとき一緒にいた友人が
『ここへ来て、この光景を見て、人生観が変わらない人なんていないよ』
と言ったのを覚えている。
その時私もそう思った。
アジアへ来て、インドに来て、自分は変わったと。
言葉にはできないけど、何かを掴めたのではないかと。
じゃあどう変わったのか説明しろ言われても無理だったが、私は自分の変化に期待した。

でも実際は帰国してみて、私はちっとも変わってなかったことに気づかされた。
あの時の私は具体的な知識や経験もないまま、ただ漠然と大きなことがしたい、社会を動かすこうやことがしたいと思っていた。
旅で掴んだ何かが、そこで生かされると思っていた。
今思うと、ただの若気の至りだが本気だった。
そしてマスコミを中心に就職活動したが、まさに木っ端微塵に砕かれた。
何かを掴んだ気になってもそんなのは、あくまで自分のなかでの話だった。
第三者から見れば、やはりありふれた大学生だったことに変わりはなかった。
就職活動をしたって、旅の経験なんて役に立つはずもないし、逆に半年間遊んでいたくらいにしか取られなかった。
たまに熱心に旅の経験を聞いてくれる面接官はいても、それと採用とは関係なかった。
変わったことといえば、それはそれで大切だとは思うが、どこでも生きていける自信がついたくらいだった。

旅は、自分のなかでいろいろな変化が生まれるかもしれない。
しかし他者からの評価となるとまるで変わらない。
留学などと違って、目に見える能力がつくわけではない。
『私は旅で変わった』なんて口では誰でも言えることで、それだけなら誰でもできる。
人は内面が変わったとしても、自分の生活を変えるのは難しい。
変わった自分に基づいて行動し、努力を積み重ね、初めて変わったと言えるのでないかと感じた。
人が変わるのは一朝一夕ではいかない。

その後就職も決まらないまま卒業して、しばらくは写真屋でバイトしていたが、運良く幼いときからの夢だった新聞社に就職することができた。
小さい教育関係の業界紙だったが、
『いつか社会に何かを問い掛ける仕事をしてやる。まずは技術と経験を身につけなければ。』
と大真面目に思っていた。
しかし発行部数500部を20万部と偽って、新聞広告を集める営業は8ヶ月しかもたなかった。
多少記事を書かせてもらったり、写真を撮ったり、プレスカードを持って、文部省や環境庁に出入りするのも、新鮮な経験だったが、休みもろくに取れず、徹夜も多く、給料も少なく、私は挫折した。

そしていくつかの偶然が重なり障害者福祉の仕事に就いて、4年間情熱を燃やした。

こんな風に書くと仕事人間と思うかもしれないが、実際そうだったと思う。
どんなに忙しくても苦にならなかったと言えば嘘になるが、やりがいがあった。
そして旅で培った死生観はこの仕事で役たったし、自分の原動力にもなった。
慣れない仕事で失敗も多かったが、いろいろな人の協力もあり充実した4年間だった。
しかし私は再び生活に変化を求めてしまった。

『あの旅の続きがしたい』
今回の旅の理由を誰に聞かれたって、それ以上は答えられない。
それが正直な気持ちだった。

初めてバラナシに来てから7年の月日が流れていた。
ガンガーに立つと、この街は変わっていない。
物売りのしつこさも、妙な日本語を話すインド人も、チャイの甘さも、沐浴の美しさも、ガンガーの汚さも・・・・

ただ私は変わった。
変わったと実感できた。
以前の旅で生まれた私の中の変化があり、自問自答し試行錯誤して、いくつかの仕事を経験し、日本での生活があって、やっと本当に変われたのかもしれないと思うことができた。
とはいってもじゃあどう変わったのか説明しろと言われれば、やっぱりうまく説明できない。
人の変化なんてそんなものかもしれない。
あやふやで曖昧で、形なんてない。
だから、変わるのは難しくても、変わったつもりになるのは簡単なのだろう。

旅で人が変わることはパズルみたいなもんだと思う。
いろんな場所に行き、いろんなものを見て、いろんな経験し、時に今までの価値観を覆され、新しい価値観を発見し、死生観を問われ、人生観を試されながら、パズルのパーツを集めていく。
それがたくさん集まって、あーでもないこーでもないと組み立てて、やっと一つの絵が完成する。
一つの絵ができるまでのきっと何年もかかるだろう。

私は旅で何も求めないことにしている。
人が変わるのが容易でないことを思い知らされたからだ。
ただ、パズルのパーツだけは、やっぱり持ち帰りたい。
そのパズルが完成するのは、さらに何年も後のことだろうけども・・・・

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

死から生へ

およそ一般的な日本人が想像する、インドらしいインドとはどんなものだろう。
神秘、喧騒、混沌といったところか。
そのインドのなかでも最もインドらしいと言われている街がバナラシ。
東の玄関口カルカッタと、西の首都デリーのちょうど中間に位置するヒンズー教の聖地。
今、そのバナラシにいる。

街のいたるところに牛が歩いている。
時折、道の隅っこでゴミをあさる姿はどこかはかない。
おまけに商店の前などで止まると、どけとばかりに尻を叩かれ、邪険に扱われる。
神聖な動物には変わりないのだろうが、彼らとて人間社会のなかで生きるのは骨が折れるように見える。
でも一方で、牛に触り、その手を額に持ってきて、祈るインド人もよく見かける。
牛の他には猿や山羊もこの街では珍しくない。

通りに出ると、車とバイク、3輪タクシーがこれでもかとクラクションを鳴らし走っている。
それに負けじと、サイクルリクシャもチャリチャリとベルを鳴らして走る。
彼らは私を見ると
『ヘイ、ジャパニ、どこへ行くんだ。乗ってけ。安くしとく。』
とうるさい。

路地に入ると、入り組んだ迷路のようで、あっというまに方向感覚を失う。
食堂ではまだ10歳くらいの少年たちがよく働いている。
道は狭くて、牛とバイクがすれ違うのがやっとだ。
道の隅にはゴミが散乱し、その上、気をつけて歩かないと、牛の糞を踏んでしまう。

サンダルでそれを踏んでしまうと足にまでついてしまって、その日一日嫌な気分になる。
ここでも客引きがうるさい。
『うちのシルクショップに来ないか。大沢たかおを知ってるだろう。深夜特急のロケのとき、うちの店でピジャマとクルタを買っていった。見るだけただだ。ガンジャやハシシもあるぞ。』
となかなか一人にさせてくれない。

ゲストハウスに戻って見晴らしのいい屋上へと上がってみる。
そこではバックパッカーが溜まって、ハシシやガンジャをやっている。
コカインなんて持ってる奴もいた。
ハシシやガンジャをやることはともかく、私はそうやって群れてやるのが好きではないので、なんとなく彼らと距離をおいてしまう。
わからない人のために書くが、ガンジャもハシシも、一般的な日本人の感覚からすればドラッグだ。
しかしバックパッカーのなかでは、ごく普通にそれらをやる人が多い。
コカインはさらに強力なドラックだと思ってくれて差し支えない。

とにかく、そこも居心地がよくないので、ガンガーへと出てみる。
まずは、
『ボートにのらないか』
と声がかかる。
そして、
『髭をそってやる』
『マッサージはどうだ。頭、肩、腰、手で10ルピーだ』
と続く。
それをやり過ごすとピーナツ売りが、どこからともなくやってくる。
5ルピー出して、それをポリポリやってると、ポストカード売りの少年がやってくる。
いらないと言うと、
『なんでやねん、アホ』
と誰から教わったのか、妙な日本語が返ってくることもある。
そしてたばこを吸っていると、
『ヘイ、フレンド、たばこを1本くれないか』
と若造が声を掛けてきて、これもうっとうしい。
『あなたと会うのも、言葉を交わすのも初めてで、友達でもなんでもない。だからたばこをあげる義理もない。だいたいこれは俺が汗水たらして働いた金で買ったんだ。
なんであげなきゃならない。』
と言うと、すごすごとどこかへ消えていく。
そして物乞いもやってくる。
母親らしき女性が赤子を抱えている。
彼女らは、たいてい蚊の泣くような声とジェスチャーで、この子の食べるものがないと訴える。
一説では物乞いが同情を得るために、どこからか赤子をレンタルしてきて、そのための業者もあると聞く。
また、彼らは私の目の前では今にも倒れてしまいそうな虚ろな目をしているが、私が立ち去った途端、突然元気になってどっかへ行くなんてこともある。
それらをどう思うかは勝手だが、そこに貧困があることに変わりはない。

彼らを一通りかわして、ガンガーを眺めてみる。
沐浴をしている人がいる。
そのついでに石鹸で身体も洗っている。
その横では洗濯をしている。
ガート(川沿いに造られた階段の沐浴場)の横で糞をして、ガンガーで尻を洗う男もいる。
そして、そこから歩いてすぐの火葬場では人が焼かれ灰が流される。

とにかくバラナシは飽きることがない。

バナラシ最大の火葬場であるマニカルニガートは、私の泊まっているゲストハウスから近かったこともあって、ほとんど毎日足を運んだ。
そこでは毎日24時間休むことなく人が焼かれ続ける。
一日に焼かれるのは約250体。
遺体はインド中から運ばれるという。

担架みたいなもので運ばれた布に包まれた遺体は、家族によってガンガーの水で清められる。
そして火葬場へと運ばれる。
火葬場といっても屋根などなく、ただ一度に10体くらいが焼けるスペースがあるだけで、日本のそれとは全く違う。
ガンガーで清められた遺体の周りに薪が積み重ねられ、火を入れる前に家族がその周りを何回か周る。
5回だと聞いたが7回という人もいた。
そして絶えず灯されている聖なる火から火をもらい、遺体に火が入る。
1体焼くのに2時間から3時間かかるらしい。
人が焼かれる様子は不謹慎な表現だが、小学生の時にやったキャンプファイヤーそっくりだ。
途中布だけ焼けて、人の足や頭が見えたりして生々しい。
薪も体格によるのだろうが、一体につき200kg以上は必要だといってた。
薪は無料ではなく、1体焼くのに5?6万は必要だとも聞いた。
ただ、薪の種類にもよるらしく、もっと安い木もあるらしい。
そして灰はガンガーへと流す。
妊婦や幼児、ヘビに噛まれて死んだものは火葬をせず、そのまま布に包みガンガーに流す。
重しを付けるらしいが、川面も浮いてきて、ハゲタカやカラスの餌になったりもする。

そして、死を悟ってここを訪れ、死を待つ人がいるというのも本当だった。
火葬場のすぐ横に死を待つ人の館があった。
男女別棟になっていて、私は女性の方に入った。
3階建てのそれは、ただの吹き抜けで、この時期の夜は寒そうだ。
2階に上がると、床に数名の老婆が座っていた。
生活用品はなにもない。
ただ食事のためのアルミの食器だけがいくつか転がっていた。
ぼろぼろの衣服を着た老婆は、どんな理由かは分からないが、死を悟りバラナシへ来たという。
そして薪を買う金をバクシーシで集めながら静かに死を待っているという。
私も少しばかり寄付をした。
私がそこに彼女らの様子を見ていると、突然青年が入ってきて、
『そこで立ち止まってはいけない』
と言われた。
死が移るのだろうか。

バラナシでは毎日人が焼かれ、ガンガーへと流される。
またそこでの死を望む人がいて、死を悟りそこを目指す人がいる。
人はそこにインドの底知れぬ信仰心と神秘性を感じるだろうか。
しかし私は全く逆のことを考えていた。
ガンガーという河で沐浴し、身体を洗い、洗濯もし、尻を拭き、汚水やゴミだって多く、そして死体を焼き、灰を流す。
ガンガーという河を通してそれらを考えたとき、見えてくるのは、人の生活の延長上にある『死』だった。
彼らにとって『死』とは毎日繰り返される営みの一つで、そこに信仰や悲しみはあっても、決して特別なものではないのでないかと思った。

一方日本では『死』は生活と切り離されているように思う。
よく言われるのは核家族化で、身近な存在の死を体験する機会がないからだという。

それはあながち間違ってはいないように思える。
私自身、祖母を二人亡くしているが、一緒に暮らしていたわけではなく、悲しいと感じても、それが死を考えるきっかけにはならなかった。
また、学生の時の半年の旅から帰ると、高校時代の友人の一人が交通事故で亡くなっていた。
それを他の友人から聞き、葬儀に出れなかったことは悔やまれたが、なんとなく彼の死が実感できなくて、彼のバイトしていたスーパーに行けばまた会えるかもしれない
と思い、自分は馬鹿だと思いながらも、そこへ行ったこともある。

私が実際に死というものに正面から向き合ったのは、知的障害者福祉の仕事を始めてからだと思う。
同じ系列の施設がレクリエーションでプールに行き、そこでの事故で一人の障害者が亡くなってしまった。
亡くなった彼は、知的な障害の他に、足に障害を持ち、幼児用のプールで遊んでいる最中溺死した。
その時もちろん職員は一緒にいたはずだが、少し目を離したため、彼は亡くなってしまった。
私はその職員に怒りさえ感じると同時に、私とて人の命を預かっていると自分を戒めた。
またある障害者の保護者から 『うちの娘(障害者)は医者から20歳まで生きられないって言われていたんです。』
と言われたとき言葉が詰まって何も言えなかった。
実際彼女は20歳以上生きているが、一般の健常者と比べ寿命が短いことに違いはない。
当時彼女は私が受け持っていたが、その時は自分に何ができるかを真剣に悩んだ。
退職した今でも、自分自身のやってきたことが十分であったかと考えることがある。

そして私自身の死についても考えるようになった。
あと何年生きれて、その間に何ができるだろうかと。
私は『死』を意識することで、『生』がいきいきとしてくると思うようになった。

インドでは人は灰になってガンガーへと流れる。
灰になった後は、もうカーストは存在しない。
インドのカーストはバラモン(司祭)、クシャトリア(王侯、戦士)、ヴァイシャ(農業、牧畜、商業などの庶民)、シードラ(奴隷)という身分がよく知られていて、インド人はこれをヴァルナと呼ぶ。
しかしこれらの区分とは別に、ジャーティという生まれを同じくする集団が2千とも3千ともあると言われていて、実際にインド人がカーストと呼んでいるのはこれらしい。
例えば、ヘビ使いの集団や、洗濯夫の集団。
職業集団と言っても差し支えないかもしれない。
そしてヘビ使いの子はやはりヘビ使いに、洗濯夫の子は洗濯夫となるケースが多い。

もちろん教育を受け、努力し這い上がれる機会もちゃんとあるが、やはり希なケースらしい。
これらのジャーティは、通常4つのヴァルナのどれかに属していてるが、そのどこにも入らないジャーティもあり、それが不可触民やハリジャン(神の子)と呼ばれるそれである。
現在はカーストによる差別を憲法で禁止しているが、完全になくなったとは言えないし、カーストがすべて悪とも言い切れない側面もあるようだ。
インドのカースト制は複雑で、旅行者にとってはそれを実感することは少ないし、それについて語るほどの知識もないし、そんな気もない。

いずれにしろ、インドにはカーストという生まれながらにして、どうにもならない不平等が存在する。
しかし不平等に生まれてくるというのはインドだけではないだろう。
日本を含め、世界中どこだって同じだ。
人は生まれる時の条件を選べない。
時代も、国籍も、地域も、両親も、両親が裕福なのかどうかも、顔も、体格も、才能に恵まれるかどうかも・・・・
時に障害を抱えて生を受ける人もいる。
内戦の真っ只中で生まれる人だっている。
世界に通用する才能を持って生まれる人もいるが、そういった才能のない人が圧倒的だ。
確かに努力の積み重ねで変えられる部分もあるだろう。
しかし、どうにもならないことだってある。
それら全てを努力で克服できると思える程、私は若くも純粋でもない。

仮に私が、バナラシの路上で母親に抱えられている、物乞いの赤子だったらと空想する。
おそらく生きていくことはできたとしても、ほとんど教育は受けらず、文字を書けるようになるかも怪しい。
運良く成長したとしても仕事にありつけたら幸運で、さもなくばやはり母親と同じく路上で力なく手を出すしか、生きる術を持たないだろう。

そして、反対にその赤子が、自分と全く同じ境遇で生まれたらと空想する。
特に際立った才能がなくてもきちんと教育を受けて、高校くらいまでは卒業して、それなりの人生を歩み、家庭を持てるのではないだろうか。
少なくとも住む家に困り、ぼろぼろ衣服を着て、食べ物を求めてさまようことはないだろう。

人間は生まれてくるときの条件で、そこ後の人生の大部分を決められてしまう。
人は仮に神の前で平等であったとしても、人間社会の中では不平等を抱えて生きなければならない。

しかし・・・と思う。
人は生まれる条件が様々だからこそ、時にもがいて苦しんだり、人を恨み羨んだり、優しさとか、妬みとか、励んだり励まされたり、愛したり愛されたいと思ったり、およそ人間らしい感情を育て、それが個性になるのではないか。
だから人生は辛くて悲しくて面白い。
いやもしかしたら私が極東の比較的豊かな国の、極普通の中流階級の家庭で生まれからそう思うのかもしれない。
しかし内戦の最中に生まれて、あるいは貧困のどん底に生まれて自分の宿命を呪ったとしても、生まれる条件が選べないという摂理に変わりはない。

私とてその摂理からは逃れられない。
路上で生活する物乞いもまた同じだ。

そうやって考えると、私が彼らで、彼らが私として生まれたかもしれないのだ。
誰もそれを選ぶことは出来ないのだから。
私と彼らの違いなんて、もともとは髪の毛1本分しかない。

だとしたら私はこれからどうやって生きていけばいいのだろうか。
私は、あと何年生きれて、何ができるだろうか。
私の禅問答はまだまだ続きそうだ。

私は毎日火葬場で人が焼かれる様子を見ながら、そんなことを考えていた。
不思議と死体を見ても恐怖心などは全くない。
死体が炎に包まれいく様子は何故だか美しいとさえ思った。

でも人の『死』が美しいのなら『生』はもっと美しいだろう。
そう思えたことが嬉しかった。

そして今日もガンガーでは無数の命が解き放たれて流れていく。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

ミスターバブル

カトマンズでは荷物を送ったり受け取ったりしてせいもあり、いつのまにか長居してしまった。
ゲストハウスの居心地がよかったせいもあるかもしれない。
中心街に近くて、それでいて静かで、スタッフの人柄もよかった。
スタッフの一人に部屋の掃除にきてくれたり、水を持ってきてくれたりしてくれた20代の男性がいた。
彼は英語が苦手であまりコミュニケーションを取れなかったが、その代わりどこか人懐っこく、信頼がおけた。
ポカラへの出発の日、朝の5時に起きて支度をしていると、その彼が部屋にミルクティーを持ってきてくれた。
もちろん私が頼んだわけではなく、彼の気持ちだった。
そして、ゲストハウスの門まで見送ってくれて、もうカトマンズには戻らないでインドに行くというと、カタというスカーフみたいな布を持ってきて、首にかけてくれた。
『これはどういう意味だい?』
と聞くと、
『幸運を・・・という意味です。ネパールの習慣です。』
と答えてくれた。
正直に告白すればこのカタには感動して、涙が出そうになってしまった。
私はただ、
『ダンニャバート(ありがとう)。』
を繰り返していた。
そのカタは今でもお守り代わりに私のバックパックに結ばれている。

そしてバスでポカラへと向かい、すぐにアンナプルナトレッキングに行った。
ガイドもポーターも雇わず、アンナプルナベースキャンプまで登ったが、道も分かりやすく、宿も充実していて、西チベットのカイラスと比べると快適そのものだった。

途中いくつもの村を通過して、写真もたくさん撮れた。
何より雨季が明けたばかりで晴天が続き、アンナプルナやマチャプチャレといった山々を間近に見ることができて、満足のいくトレッキングだった。
しかし、快適すぎて残念ながらここで書くような体験はない。

ポカラに戻ってからも居心地がよくて、なかなかそこを出れなかった。
湖ごしに見るマチャプチャレは美しくて、宿も安く、飯もうまい。
まさにうってつけの沈没地だ。
といってもいつまでもそこでだらだら過ごしているわけにもいかないと思い、インドとのボーダーまでのバスチケットを買ったはいいが、マオイスト(毛沢東主義のテロ集団)のバス爆破予告があり、長距離バスが全てストップしてしまった。
そのせいでさらに3日間そこに足止めとなった。
そしてやっとインドとのボーダー、スノウリ行のバスに乗ったのは、トレッキングが終わってもう10日が経っていた。

そのスノウリ行のバスはツーリストバスだったが、途中たくさん地元の人ものせ、ひたすら走った。
朝、7時半にポカラを出発し、スノウリのバスターミナルに着いたのが3時半。
そこでローカルバスに乗り換えて、5分もしないうちにボーダーに到着した。
そこから夜行のバラナシ行きのバスもあったが、ネパール最後の夜をそこで過ごすことにした。
ホテルはバスを降りた目の前にあった「ホテル ムクティナート」というところにした。
ただなんとなく、そのチベット文化圏の地名に惹かれたからだ。
オーナーはやっぱりチベット人で、片言のチベット語を使うと、とても喜んでくれた。

この旅でラサに入ってから、いろんなところでチベット人に会った。
ラサや西チベットはもちろん、カトマンズやアンナプルナのトレッキングでも会った。
ポカラではチベット人のおばさんに、
『物々交換しよう』
と日本語で言われ、もう使わない傘や靴下を持っていったら、結局お土産を買わされたこともあったが、今では思い出の一つだ。
おそらくそこのオーナーが今回の旅で会う最後のチベット人だろうと思うと、なんだか感慨深いものがあった。
そして、長いことヒマラヤの麓をうろうろしてきたが、とうとうヒマラヤとも別れて太陽が地平線に沈む場所に来た。

そこで一泊し、早朝宿を出た。
『カリペー(さようなら)』
と言うと、
『ジェ?ヨン(また会いましょう)』
とオーナーが返してくれた。
ここからいよいよインドに入ることになる。

ボーダーは問題無く通過した。
そしてバラナシ行きのバスを探す。
バラナシ行きのチケットは昨日のうちにネパール側で購入していた。
ほんとはボーダーを越えてから購入した方が間違いがないと思ったが、マオイストの影響でバスが3日間ストップしていたから、早めにチケットを買わないと売り切れると、地元の人が口々に言うのでそれにしたがった。
もう何年の前、カトマンズからバラナシの通しのバスチケットを、カトマンズで購入したが、結局インドに入ってそのチケットが使えず、チケットは買い直すはめになったという苦い経験があるので、できればインドに入ってから買いたいと思ったが、ここまでくれば大丈夫だろうと昨日うちに買っておいた。
しかしそれがトラブルの始まりだった。

まずインド側に入り、バスターミナルまで歩いた。
チケットを買った時に
『インドに入ったら、まずミスターバブルを探せ。あとは全て彼がやってくれる。すぐに見つかるよ』
と言われ「ミスターバブルへ」と書かれたチケットをくれた。
その言葉通りまずミスターバブルを探したが、彼は案外簡単に見つかった。
バスターミナルで、
『どこまで行くんだ』
と声をかけてきた男がいたので、
『ミスターバブルを探していると』
と言うと、
『俺がバブルだ』
との返事が返ってきた。
これはついてると思ってバスに案内してもらおうとするが、何故か彼は考え込んで動かない。
そうこうしているうちに、他の男がやってきて、また同じ質問をしてくる。
それでミスターバブルへと書かれたチケットを見せると、なんとそいつも『俺がバブルだ』という。
なんだ、どっちが本当なんだと頭を悩ませているうちに、一人目のバブルは消えてしまった。

本物らしいバブルは、バスが出るまではまだ時間があると言って、私を旅行代理店に連れてきた。
しかし私がどのバスがバラナシ行きかと聞いても、要領を得ない。
私はもう、誰を信用していいかわからなくなって、
『おまえがバブルなら名刺か証明書を見せてくれ』
と言うと、彼は突然腕をまくって、そこには確かに英語でBABULと書かれてあった。
そんなもんは身分証明にも何にもならないと思ったが、バブル以外の人物がバブルと書くこともないのではと思い、彼を信用することにした。

私が代理店のなかで待っていると、外で数人の男が集まりなにやらガヤガヤやっている。
そのなかにバブルもいる。
しばらくしてバブルが戻ってきて申し分けなさそうに喋りはじめた。
『ミスター、すまない。今日ツーリストバスは出ないんだ。今日出るはずのバスが昨日故障でここまでこれなくて、今日出るバスはないんだ。代わりに公共バスが出るからそれで行ってくれ。公共バスとの差額とチケットの書き換えの手数料で、100ルピーだけ払ってくれればいい。』

私はその時にインドにやってきたぞと実感した。
はっきりいって私の中のインド人の印象はよくない。
もちろん悪い人ばかりではなく、旅行者を相手にする一部のインド人が信用できないことはよくわかっているが、前回の旅でインドに行ったときもさんざんてこずった。

やっぱりインド。
これでこそインド。
わけもなく高揚しそんな事を思った。

『オーケーわかった。まずは何でバスが来てないのか説明してくれ。納得できないと金は払えない。それに第一なんで公共バスの方が値段が高いんだ。』
と私はかなり声を荒立てて喋っていた。
『そんなこと言ってもバスが来てないんだからしかたない。公共バスの値段だって正当なものだ。』
『わかった。だったらチケット代を返せ。同じ系列の旅行会社だろう。』
『ミスターが買った店とは違う代理店なんだ。金がほしいのならもう1回ネパールへ戻れ!!』
『オーケー、オーケー戻ってやるよネパールへ!!』
と私はチケットをひったくって店を出た。
最後に、
『おまえの事をガイドブックに載せてやるからな。もう誰も日本人はお前を信用しないぞ。』
と、いざというときに使おうと思っていた、はったりの決めゼリフを言い忘れてしまった。
こういうのは肝心なときには出てこないもんだ。

とにかく私はバックパックを背負って店を出た。
もちろんネパールになんか行かない。
ただボラてるのがわかっていて、金を払うのがいやだった。
100ルピーといえば約2ドルで、大した金額ではないと思うかもしれないが、金額の問題ではなくて意地の問題だった。
するとやっぱりバブルは追いかけてきた。
これでバスに乗れると思ったら、さっきと同じことを言う。
つまり100ルピーかかると。
そして私とバブルはさっきと全く同じ問答を繰り返し、私はまたバックパックを背負って店を出た。
そして再びバブルがやってきて、やっぱり100ルピーだと言う。

ここまでやられて、私はもしかしたらバブルが言っていることが本当なのかもしれないと思い始めた。
故障でバスが来てないことも。
公共バスの料金も。
私は、今持っているチケットを無駄にしないためにもと思って金を払った。
なんとなく釈然としなかったが、バスに乗って周りの人に確認すると、バスの故障も、公共バスの料金もバブルの言ったとおりだった。
ちょっと私は言い過ぎてしまったようだ。

そしてその公共バスは丸一日かけてバラナシを目指した。
バラナシのバスターミナルに着いたきにはもう6時をまわっていて、日はすっかり暮れていた。
そしてここでもやはり私はインドの洗礼を受けることになる。
バスのステップを降りた途端、サイクルリクシャのおやじたちに囲まれた。
旅行者は私一人ではないが、他の欧米人たちは2、3人のグループでとっとと、3輪タクシーへと流れていった。
残されたのは私一人。
絶好のカモに見えたことだろう。
リクシャのおやじとの交渉が始まった。
『ホテルは決まっているのか。いいホテルを知ってる。50ルピーで行くぞ。』
『おれはPUJAゲストハウスに行きたい。知ってるか。』
『いや、あそこのオーナーは信用できないぞ。俺がいいホテルに連れていってやる。』
『それは俺が決めることだ。誰もPUJAを知らないのか。』
『俺が知ってる。50ルピーだ。』
『だめだ高すぎる。それなら歩いていく。』
『こっから5Kmはあるぞ。歩くには遠い。』
『いや、5Kmならたいしたことはない。心配するな。』
『分かった40ルピーでどうだ。』
『だめだ。歩く。20ルピーなら乗る。』
『20ルピーは安すぎる。30ルピーでどうだ。』
『いや20ルピーが限界だ。』

私は慎重だった。
インドはボリが激しい。
値切って半額にしたつもりが、実は物価の2倍だったなんて話はくさるほどある。
私はボラれるくらいなら本当に歩くつもりだった。

その時だった。
他のおやじたちとは違い、まだ若く20代の若者が口をはさんだ。
『分かった。10ルピーで行ってやる。その代わりヨギロッジまでだ。』
『オーケー、10ルピーで行こう。』
その一言で他のおやじたちはすごすごと消えていった。

ヨギロッジならガイドブックにも載っていた有名な宿だし、もし気に入らなければそこからPUJAゲストハウスも歩いていけると思って、その若者のリクシャに決めた。
私はその若者に、もしかしたらヨギロッジには泊まらないかもしれないと確認し、リクシャにのった。

なるほど、リクシャのおやじたちが言うとおり、安宿が集まるエリアまではかなりの距離があった。
何キロあるかはわからないが、歩けば30分以上はかかっただろう。
そしてヨギロッジに着いて、お金を払うと若者はとっとと消えていった。
てっきり宿のオーナーから、客を連れてきたマージンをもらうと思っていたので以外だった。
そしてヨギロッジの部屋を見ると悪くはないので、日も暮れているしとりあえず1泊することにした。

そして次の日、目的のPUJAゲストハウスを探すが、どうやら私のヨギロッジはガイドブックのヨギロッジとは違うらしく、まだ安宿が集まるエリアまでかなりあることがわかった。
だから10ルピーで来れたのかもしれない。
そういえばフロントにオールドヨギロッジと書かれていたっけ。

私は重いバックパックを背負って、再びさまようはめになった。
全くインドってやつは・・・

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

セクシュアリティ

性的な関心というのは、隠す、という行為と密接に係っていると思う。恥じらいとか。
必要以上に隠されたり、焦らされたりすると、何とかその秘められたものを暴いてみたくなるものだ。
手に入らないものってセクシーだ。

ぼくは中国に二か月ぐらいいたけれど、中国の女の人にそういった感覚を抱いたことが一度もない。
こんな国他にない。
街を歩けば女の人ばかり見ているこのぼくが、中国の女の人に興味を抱いたことが一度もない。
何というか、エロティックなものを感じない。

中国の人達は性的な関心ごとを隠そうという気があまりないのかもしれない。
一番驚いたのが、ごく普通の往来に、まるで八百屋か何かみたいに、大人のおもちゃ屋があったことだ。しかもそれは日本のそれのようにダークに隠ぺいされておらず、ショーケースに普通に並べられており、その様子が通りから丸見えである。
さらに白衣を着たおばちゃんがそれらを販売している。
ぼくはそれを見たとき、中国の人達とぼくとは根本的に何かが違っているのだと思わされずにはいられなかった。
焦点の当て方が違うというか。

例えば中国の女の人は、男性と同じように唾を吐く。道を歩いていて、カーッとやってペッと吐く。ぼくは何度もかけられそうになって冷や冷やしたものだ。
立ち居振る舞いも、恥じらい、というものがない。
座り方や、歩き方などが男の人のそれとあんまり変わらない。
むしろ、男よりも堂々としてて男らしいかもしれない。
男らしいといえば、一番驚いたのが、電車の中、ぼくの目の前で年頃のお姉さんがシートに足をのっけて大股開きで大口開けて寝ていたのを見たときだ。
男のぼくでもあんな格好はあまりしたことがない。
さすがにその光景は衝撃的だった。
「男女平等」を突き詰めていくとこういう世界になるのではないか、と思ったりもした。

でも、こういのもいいかもね。
はっきりいって、セクシュアリティはぼくの心を苦しめる。
肉体的な欲求と精神的な欲求がごちゃごちゃになって、区別がつかなくなって、冷静に女の人を見ることができない。
果たしてこれは恋愛なのか、やりたいだけなのか、自分で自分が分からない。
人を好きになる、という感覚が分からない。
自分は本当に人を愛したことがあるのかどうか。
愛していた、と自信を持って言うことができない。
人を人として純粋に見ていたかどうか疑わしい。
うまく自分の中で整理することができない。

もっと、単純だったらいいのに。
中国みたいに分かりやすかったらいいのに。
女の人が女でなく、男と女の区別が極めて曖昧で、変な駆け引きだとか、作戦だとか、そんなのなくって、もっとストレートに付き合えたらいいのに。
おかしいかな?
風邪なんかひいたりして、元気がなくって、まるで性欲なんて湧いてこない状態。
あんな状態が一生続けばいいのにと思う。
そうすれば楽なのになぁ、と思う。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

アメリカ -Simon&Garfunkel,Americaより-

ぼくら恋人になろう、結婚しよう、これから先、ずっと一緒に暮らそう

ぼくは、キャシーに言ってみました。

少しなら、お金はあるんだ。

煙草と、ミセス・ワグナーのパイを買って、歩き始めた。
アメリカを求めて。
アメリカを探しに、アメリカを探しに……

ピッツバーグからグレイハウンドに乗って、ぼくは言いました。

“キャシー、もうミシガンだなんて夢みたいだよ、昔はね、シグノウからヒッチハイクで四日もかかったんだ。
ぼくは、その昔、アメリカを見たくて旅にでた。アメリカのことをもっと知りたくって旅にでたんだ”

長い長いバスの中、ぼくらは子供っぽい遊びをして、時間は退屈なバスの中の空間をゆっくりと循環するように過ぎていきました。

“気をつけて、ギャバジンのスーツを着たあの男、きっとスパイよ”
“奴のあのネクタイは、カメラになってるんだね”
“ええ、そうよ、奴らに私達が何ものかってことを気付かれないようにしなくちゃいけないわ”

しばらくしてそんな遊びにも飽きたぼくたちは、することもなく煙草でも吸おうかと思いました。
しかし、どうやら最後の一箱は一時間も前に吸い終わってしまっていたらしいのです。
仕方なく彼女は退屈してつまらない雑誌なんかをぺらぺらとめくっていました。
ぼくは、ぼんやりと窓の外の景色を眺めることにしたのです。

明るい電気のついた車内に反射して、窓は、ぼくのぼんやりした顔をぼんやりした顔そのままに映し込んでいました。
窓に映った自分のその顔と、背後に絶えまなくどこまでも広がっていく平原の様子を、どちらを見るともなくぼんやりと眺め続けていました。
日も落ちて、平原の向こうには月が浮かんでいきました。
ゆっくりと、浮かんでいきました。

ぼくは、キャシーに向かって言いました。
今となっては、彼女は眠ってしまっているというのは知っていたんですけれども、言ってみました。

“キャシー、辛いんだ、何だか分からないけど苦しいんだ、
       胸が痛くってたまらない、
          どうしてだろう、どうしてだろう……”

夜が明けて、次の日のニュージャージーターンパイクでは道ゆく車の数を数えたりして遊びました。

アメリカを見つけにやって来たのです。
みんな、アメリカを探しに。
アメリカを求めて、アメリカを求めて……

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

カトマンズの彼

その人と再び旅の途中で会うことはないだろうし、こちらから連絡を入れて日本で会うこともないと思うが、彼は私に強烈な印象を残したことに間違いはない。
彼と会ったのは、カトマンズに着いてもう一週間もたったある日の夕食時だった。

物価が高くて、食べるもののバリエーションの少ない西チベットから来ると、カトマンズは天国だった。
宿は1USDと少し出せば清潔な部屋に泊まれるし、食事だって、そこそこの値段で各国の料理が食べれる。
ここでは日本食も食べたし、ステーキやピザだって食べた。
ちょっと変わりどころではイスラエルレストランなんてのも行った。
旅行者街があるから、お土産もくさるほどあって、ここぞとばかりに家族や友人に買ってしまった。
街は迷路みたいで、赤レンガの街を、あてもなくカメラを持って歩くのも、それだけで楽しいものだった。
時間だけは過ぎていくが、毎日何かしらやることがあって、まだ沈没している気分にはなっていない。
そんな風にして、日々過ごしていた。

その日はネパールの祭りの日にあたっていて、地元の食堂はほとんど閉まっていた。

祭りといっても、感じは日本の正月に似ていて、みんな家で奮発しておいしいものを食べるようで、特に大きなセレモニーなどはないらしい。
そこで私も久しぶりに旅行者向けにレストランに行くことにした。
そこの店はチベット料理の店で、値段も良心的でボリュームがあると聞いたことがあったので、そこを選んだ。
正直、チベット料理は食べ飽きたが、チベットのそれよりも格段に美味しいとも聞いていて、それで行くことにした。

私は昆明からずっと一緒に旅をしているNさんと一緒に、トゥクパやらモモやら、よく名前のわからない料理やらをたらふく食べた。
実際にチベットで食べるそれよりも、はるかに美味しくて、値段も安く満足できた。

私たちは食後のお茶を飲んでいる所に彼が入ってきた。

風貌からして明らかに日本人である彼と目が合ったので、「こんにちは」と声をかけると、「御一緒していいですか?」と返ってきた。
もちろん断る理由もないので、しばらく彼の食事に付き合いながら話すことになった。
口調が柔らかくて、穏やかに話す人だった。
彼は、インドからポカラを通ってカトマンズに来たと話していた。
私とは逆のルートだ。
この旅で日本人と席を一緒にするのは初めてだと話していた。

カトマンズは日本人がやたらと多い。
バンコクのカオサンロード並みだ。
これだけ多いと日本人がいてもなんだか声をかけづらくなる。
「日本の方ですか? ちょっと時間があればお茶でものみません?」
なんて声をかける感覚は、はっきりいってナンパに近い気がする。
ところが、旅行者なんかぜんぜんいない辺境で日本人を見ると、自然とどちらからというわけでもなく、声をかけられるから不思議なものだ。
そのまま、ルートが同じだと、一緒に行動したりするからさらに不思議だ。

ちなみに私はカメラを持つようになってから、旅で誰かと一緒に行動するのが苦手になってしまった。
もちろんドミトリーでいろんな人と話すのは楽しいが、写真を撮る時は誰かに気を使っていると、じっくりと撮れないので、一人の方が気が楽だ。
そういう意味では一緒にいるNさんも写真をやるので、お互い気を使わずに一緒にいて楽である。

話がそれたが、彼はギターを弾くまねをして、ミュージシャンだと自己紹介した。
そして、シチューみたいなものを食べながら話はじめた。

『インドのリシュケシュって知ってる?
いい所だよ。なにもないけどね。
ビートルズが修行してたんだ。
ビートルズからはいろいろ影響を受けたよ。
それでジョージ・ハリスンが死んだ時に、インドに、リシュケシュに行かなきゃって
思ったの。
あそこは良かったよ。
サドゥーにギターを弾いたりもしたな。
みんなすごい喜んでくれるんだよね。
いい人たちだったな。

歳?27歳。
実はもう結婚してて、子どももいるんだ。
まだお腹のなかだけどね。
旅に出る直前にわかってね。
だからもう帰らなきゃ。
バンドは解散しちゃったけど、仕事はあるんだ。
レコーディングの仕事とかたまっちゃってるしね。』

ニューヨークで1年音楽の勉強をしていたという彼は、いわゆるミュージシャンを目指している人ではなく、ある程度成功しているプロのミュージシャンのようだった。

バンドの名前は聞かなかった。
音楽にうとい私が知っているわけがないと思ったからだ。

彼は食事を済ませるとおもむろに一服しに行きませんかと言った。
最初はよく意味がわからなかった。
どこかのカフェにでも行きたいのかと思ったが、彼が自分のホテルに向かって歩き出し、その屋上で待っててくれと言ったとき、なるほどそういうことかと理解した。

カトマンズを歩けば
『葉っぱカイマセンカ、チョットミルダケ、トモダチプライス』
なんてふうに声をかけられる。
1日5回はこの言葉を聞くような気がする。
いやもっと多いかも。
実際にそれを買うバックパッカーも多い。
だから別に彼がそれを持っていても驚きはしなかった。
ただ、それは最初だけで、彼の話を聞くうちに、私はなんだか違う次元の人と話しているような気がしてきた。

彼は部屋から道具一式を持ってきて、蝋燭の明かりのなか、慣れた手つきでそれを巻きながら、また話し始めた。

『初めてのときは中学3年生のとき。
友達の家に遊びに行ったら、その兄貴がもってて、吸ってみろって。
そしたらすごい事になっちゃって。
もうそれからずっとだね。
日本でも毎日やってるよ。
自分の家で栽培したこともある。
でもかみさんがそれだけは止めてくれって。
何で日本でそれが、あんなに厳しいのかわからないよ。
だって地球が作った物だよ。
体に悪いわけがないよ。』

私もそれを一口二口もらった。
いやもっとかもしれない。
正直に告白すれば、それをやるのは始めてではない。
以前の旅でも同じように人からもらって吸ったことはある。
しかし自分で買い求めたことはなく、詳しい知識なんてものはない。
ガンジャとハシシの区別もつかないし、巻き方も知らない。
聞くと、彼の持っている物はハシシだった。

そのまま彼はギターを弾きはじめた。
私は始めぼんやりとそれを聞いていたが、すぐにギターの音に吸い込まれていった。

完璧な演奏はギター1本とは思えないほどの存在感を持っていた。
曲はビートルズらしいが、知らない曲だった。
手の動きは女性のようにしなやかで、細く繊細に流れるように動いていた。
そう感じたのは私が朦朧としていたせいもあるが、それを抜きにしても彼の演奏はプロのそれだった。

彼は、あと1ヶ月もすれば帰国する。
旅の日程は全部で2ヶ月だと話していた。
その後の彼の生活とはどういうものだろうか。
奥さんもいて子どもも生まれ、ミュージシャンのとしての仕事もある。
しかしやはり毎日吸い続けるのだろう。
それを見て奥さんはどう思うのだろうか。
一緒に吸っているのだろうか。
そして子どもはどうなるのだろう。
やはり成長すれば父親と一緒に吸うのだろうか。
別に私が心配する義理もないが、そういう人も日本に、ごく普通にいることに驚いた。

それがいいかどうかは別として、私は法律を犯すことはしない。
しかし彼は大した抵抗もなくそれをする。
『だって地球が作った物だよ。体に悪いわけがないよ。』
その彼の言葉は全てを語っているような気がした。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

写真機という道具

今、カトマンズのゲストハウスのテラスで、コーヒーを飲みながらこれを書いている。
こんなにゆったりした気分になれたのはラサ以来だ。
ここはTシャツとショートパンツで、暑くもなく寒くもない。
夜風が心地よくて、それに身を任せていると、ほんの数日前まで西チベットの過酷な環境にいたことが信じられない。

西チベットは旅している間は、電気のあるところに泊まったことも少なく、ゆっくりと日記を書く余裕がなかった。
その代わりに思ったことや、感じたこと、見たものなどを、ちょっとした時間に小さな手帳に書きなぐってきた。
それを見ると、ラサを出てからカトマンズに着くまで実に42日間かかった。
そのうち日本から持ってきたテントで寝たのが15泊。
テント泊では結露がひどくて、朝方になるとテントそのものが凍っているのが日常茶飯事だった。
バックパックも埃にまみれ、ずいぶんとくたびれてしまった。
終いにはカトマンズに着いたときショルダーベルトが切れて使い物にならなくなった。
愛用していたガソリンコンロも、トラックで移動中、その振動でごとくが曲がってしまった。
これらの道具を見る度に、西チベットをヒッチハイクで旅することの過酷さを思わずにはいられない。

その他によく頑張ってくれたのがカメラだった。
ファインダーを覗くと微細な埃がたくさん付いている。
付いているというよりは積もっていると言った方がいいかもしれない。
レンズ交換をするたびにそれがミラーとスクリーンの部分に侵入してきたのだろう。

また三脚を立てて撮影している時に突風が吹いて、カメラごと倒れてしまったこともある。
それでも故障することなく、私の見たものを、大して出来のいいわけでわない私の脳みその代わりに、フィルムに記憶してくれた。
バックパックはここで買い替えなければならないし、テントやコンロは西チベットの旅が終わり、その役目を終えることになるが、カメラだけは私の旅が続くかぎり手放すことは有り得ない。
私にとってカメラのない旅は考えられないものになっている。

もともと私がカメラと出会ったのは遅い。
22歳のとき最初の旅に出たのとき、初めてカメラというものを持った。
ヨドバシカメラに行き、店員に相談して、一番安い一眼レフを購入したのが最初のカメラである。
それを持って東南アジアをまわった。
旅の途中で一度現像したが、途中で故障していたらしく、撮ったフィルムの半分以上が真っ黒で、その時の落胆は忘れられない。
撮れていた写真も、一眼レフを持っただけでいい写真が撮れると勘違いしていた私にとって、期待外れのつまらないものしか写っていなかった。
旅はその後も3ヶ月ほど続いたが、もう一眼レフは持ち歩かなかった。
フィルムを詰め替えられる写るんですみたいなカメラで、数本、記念写真を撮っただけだった。

再び一眼レフを持ったのが、その旅から一年後の卒業旅行でラオスとタイに行ったときだった。
ラオスからタイに下ってきた私は、ナコーン・ラチャーシマーという街でバンコク行きの列車を5時間ほどまつはめになった。
そのときどういう訳かは忘れたが、街へは行かず駅のホームで時間をつぶしていた。

日も暮れかかり、ぼんやりと空を眺めていると、少しずつ空が赤く染まり、みるみる
うちに今まで生きてきて、初めて見る赤く美しい夕焼けになった。
私はバックパックから安っぽい三脚を取り出し、カメラを取り付け、ただ目の前の綺麗な赤をフィルムに収めたいと思いでシャッターを切った。
レリーズなんてものを持っていなかったので、セルフタイマーでぶれないようにスローシャッターを切った。
正直に言えば、始めはその写真も期待していなかった。
期待していたものが期待通りに写っていたことなど、今まで一度もなかった。
しかし日本で現像して見ると、これが自分の撮った写真かと思うほどの出来だった。

自分の見た真っ赤な空と、暗く沈んだプラットホームがしっかりと写っていた。

全てはその写真から始まったと思う。
その後から写真にのめり込み、カメラ雑誌や「一眼レフの使い方」みたいな本を読みあさり、どんなに短い旅行にも一眼レフを持って行くようになった。
今ではバックパックの大半が三脚やフィルター、フィルムなどのカメラ用品で占められている。

今のカメラはある人が、ある事情でこの旅のために、私に購入してくれたものである。
さらにその人の父親は横浜では著名な写真家で、私がその人の家を訪れる度に写真の話をしてくれた。
その人の父親は弟子は取らないが、私の写真を見てくれたこともあり、私は密かに師と思っている。
今のカメラには私だけでなく、いろんな人の思いが込められている。
そんな気がしてならない。
そしてあの時の、目の前の感動したものをただフィルムに収めたいという気持ちだけは、カメラが変わった今も、持って歩いていきたい。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

美しいたましい

マケドニアという東欧の小さな国を電車で通過するとき、
ぼくらのコンパートメントに、五人家族が乗り込んできた。
家族はいかにも田舎の大衆的な一家だった。
そんなにお金がありそうには見えないし、むしろ、普通よりは貧乏な方だろう。
服装や持ち物も決してこぎれいとは言えない。
ベオグラードという、ユーゴスラビアの首都へ、出稼ぎに行くんだ、というようなことを言っていた。

子供が二人いた。お兄ちゃんと弟と。
彼らは警戒心というものを全く持たずに、ぼくらに接してきた。
まるで昔からの知り合いのようなやり方で、ぼくらに近づいて来た。
屈託のない笑顔で話しかけてくるその瞳には、相手の考えを見抜いてやろうとか、自分のことはなるだけ見せないでおこう、というような謀略めいたものはまるでなく、それはただ、澄んで、夏の小川のせせらぎのようにキラキラと輝いていた。
ストレートにぼくの心に入り込んできた。

ぼくは今までそんな経験があまりなかったので、ちょっと慌ててしまったんだ。
そんなことあり得ない、って、これは何か企んでるに違いない、って。
いつもそうしてるみたいに、自分の心にバリアを張った。
でも、そんなことなかった。それは間違いだった。

一昔前に、はやったでしょう? タマゴッチ、っていうひよこを育てる携帯型のあのゲーム。
ぼくはあれの偽物を旅の途中で手に入れて、それを育てながら旅してたんだ。
退屈なときそれをピコピコやってたら、彼らはぼくも持ってるよ、って、鞄の中から自分達のを出してきた。
差し出されたそれはぼくの奴よりもさらに偽物で、インチキくさいものだった。ほらほら、一緒だろ、って、見せてくる。
変な恐竜がぱくぱく餌を食べている。
ぼくはもうゲームに飽きてたし、その子達があんまり大事そうにそれを扱ってるものだから、これ、あげるよ、って言ってぼくのやつをあげたんだ。
そしたら彼らはきょとんとした眼差しでぼくの方をしばらく見つめ、うれしそうに笑った。
そして宝石でも取り扱うかのようにぼくの偽タマゴッチを手の平の中で転がした。
お母さんに、これもらったんだ、って報告したり、ひとしきり画面の中の犬を操ったりした後に、じゃあ、ぼくのこれをあげるよ、って彼らのタマゴッチの偽物をいとも簡単にぼくにくれた。
ぼくが、いいよって断っても応じずに押し付けてくる。
仕方ないからぼくはそれをもらったんだけど、内心とてもうれしかったんだ。
色がはげてるプラスチックのそれは、よっぽど何回も何回も彼らに遊ばれたことを物語っている。
楽しそうに遊んでる姿が自然と目に浮かんでくる。
彼らがぼくにそれを見せてきたときの彼らの表情は誇らしげに輝いていた。
そんな大事な宝物をぼくにくれるなんて。
両方自分のものにしようなんていうケチな考えは、多分彼らの頭には浮かんで来ないんだろうな。
欲がないっていうか……
清潔な心。清いたましい。

実は人間っていうのはもともとこういう人達みたいなものなんじゃないのかな、って思った。
シンプルで、ストレート。
変な駆け引きや下らないプライドなんて介在しない、人と人との純粋な関係。

人間の心を歪めてるものって何だろう?
自然に他人を警戒して心に壁を作ってしまうその気持ちって何だろう?
ぼくはちょっと悲しくなった。

彼らの清さとは強さだと思う。
人を信じるということは恐ろしいことだ。
必ず何らかのリスクが付きまとう。
人というのは、ちょっとした気持ちの行き違いによって簡単に傷ついてしまう、もろい生き物なのだ。
本能的にそれを知っているから身を守るために、防御して様子を窺う。見ず知らずの他人に自分の全てをさらけだすなんてとてもできない。

でも彼らはとても無防備だった。見ず知らずの外国人であるぼくの心に裸で飛び込んできた。
何の警戒心も抱かずに、まるで彼らの家族や、兄弟であるかのようにぼくらに接してきた。
それってある意味強さだろ?

傷つくのが怖いから、ぼくは意地を張ってきた。
本当はそんなつもりじゃないのに、素直になれなくて、色んな人を傷つけた。
ぼくに彼らのような勇気があったなら、ぼくは、もっと違ったぼくになってたのかもしれない。
色んなことが、もっと違っていたのかもしれない。

ぼくは彼らがとてもきれいに見えた。
ああ、人間ってこういうものなんだよな、って思うことができた。ピュアな感覚。ピュアな人達。美しいたましい。

ぼくは憧れる。
彼らみたいな清潔な強さに、とても強く憧れる。           

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

カイラス巡礼

私はその聖山をこの眼で見て、その道を歩いたことを忘れることはない。
この長い旅の中でも、最も過酷でそして最も心の動いた場所になるだろう。
ここでの経験がこれから先の日本での生活で、自分を助けてくれる。
それは確信に近い。
日本での困難と、カイラスとは何の関係もないが、そんな気がしてならない。

巡礼者が五体投地をしている。
「タシデレ」と挨拶の言葉をかけ、カメラを向けると
『どこから来た?』と返してくれる。
『日本からです』と答えると、それはいいと言わんばかりの笑顔が灯る。
身にまとった民族衣装の上には服を守るための分厚いエプロンのようなものを付けている。
手にも、保護のため分厚い手袋をはめている。
どちらも埃にまみれ、ところどころ穴があいている。
それを見ると、五体投地の壮絶さが伝わってくる。
しかしその壮絶さとは裏腹に、表情はやわらかい。
チベット人の誰もが一度は訪れたいと思うカイラス。
ヒッチハイクの途中でチベット人にカイラスに行くと言うと誰もが喜んでくれた。
『がんばれ、しっかりやれ』
とでも言われた気がする。
もちろんそんなチベット語は知らないが、そんが気がしてならない。
そして私も憧れ続けたカイラスにとうとう来た。

『ここに来るまでにいったいどれだけの月日がかかっただろう』と改めて思う。
もちろんラサからの日数でも、日本からの日数でもない。
その聖山を知ってから、ここに辿り着くまでの月日である。

もともとその聖山のことを知ったのは、おそらく数年前のNHKのTVの特番だったと思う。
ある巡礼者に焦点を当て、彼らがラサからカイラスまでを五体投地で巡礼する様を追った内容だったと記憶している。
当時、ラサにさえ行ったことのなかった私は、西チベットの広大な風景に憧れ、巡礼者の壮絶な姿に驚き、カイラスの神秘性に魅せられてしまった。
しかし交通機関の未発達な西チベットは、旅行者の簡単に行ける場所ではないし、何より標高5000mを超えるその巡礼路は実現不可能な夢に思えた。

カイラスは一度は私の中で風化していったが、この旅でラサへ行くことを決め、チベットの情報を集めているうちに再び浮上してきた。
しかしわからないことだらけで、富士山も登ったことのない私にとっては、
5000mを超えること自体未知の世界だった。
期待より不安の方が強かったがラサまで行けば、なんとかなるだろうと腹をくくって、行くことを決心した。
そのためにテント、ガソリンコンロ、防寒具などを用意し、準備万端でそこを目指した。

トラックをヒッチハイクして、他の見所もいくつか見た後、カイラスの基点となる
街、タルチェンに着いたときには、ラサを出てからもう1ヶ月たっていた。
その街から丸1日歩きカイラス北面に着いた。
標高はすでに5000mを超えている。
心配していた高山病は、既に高地順応がすんでいるのでなんともない。
しかし空気が薄いことは、少し歩いただけで体全体で感じる。
いくら空気を吸っても、空気が足りない。
そこでテントを張り1泊したが、寒さは想像を超えていた。
夜はダウンジャケットを着て寝袋に入って寝たが、寒さのあまりなかなか寝付けない。
眠ったと思っても、寒くてすぐに目が覚めてしまう。
朝方にはテントのなかに入れておいた水筒の水も凍り、テントそのものも凍っていた。
テントを出て、靴に足を入れると、靴の冷たさで足が痛い。

日が昇り北面に日が当たり始める。
空は考えられないほど澄んでいる。
雲はもう手が届きそうなほど低い。
カイラスは自分の目の前だ。
雪に太陽が反射して、カイラスはその存在感を増す。
荘厳なその姿は、美しいという言葉だけではとても表現できない。
そのに神が住んでいると言われても、私はなんの疑問も持たないだろう。
私は言葉さえなく、シャッターを切った。
何枚も、何枚も・・・

その日の午後から再び歩き出し、ドルマ・ラを超えた。
そこは5668mと巡礼路のなかで最も高い。
もちろん私の人生の中でも最も標高の高いところだ。
あたりは雪で覆われていて、時折膝のところまで足がはまってしまう。
無数のタルチョ(経典の書かれた旗)がはためき、それが風になびいている。
風は冷たいというより、痛いくらいだ。
私の心臓はもう限界といわんばかりに、バクバクと最速の鼓動を繰り返している。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。