再会のアジア終着駅

イランからトルコに入国した私は、トゥバヤズットとエルズルムにそれぞれ1泊しただけで、ほとんど何も見ることなく、イスタンブールへと急いだ。
その途中にも見たい場所はいくつかあった。
黒海も見たかったし、サフランボルの旧市街で写真も撮りたかった。
しかし私は、そんなことよりも、早くイスタンブールに着きたかった。
私はそこである人と会う約束があったからだ。
そのために余裕を持ってイスタンブールに着いていたかった。

エルズルムから、雪景色のなかをバスは走った。

私とエミには約束があった。
旅に出ている間、週に一度は必ず手紙を書くというものだった。
私はそれを宿題みたいに思ってしまって、何回かさぼってしまったこともあったが、彼女に旅先で見たものや、感じたことを綴るのは、やはり楽しいものだった。

エミはその何回か届かなかった手紙のことを、私に言った。
私にとっては、ただ何となしに何回か書かなかった手紙でも、エミにとっては私と彼女をつなぐ、ほとんど唯一の約束だった。

いや、もちろん手紙が一通や二通届かなかっただけで、婚約を解消するわけもないことはわかっていた。
私が旅の途中にいろんな人と会い、いろんな経験をしたように、彼女も日常のなかで、いろんな人に会い、もちろん楽しいことばかりであるはずもなく、つらいこともあったはずだ。
エミが何かに苦しんでいたときも、私は旅をしていた。
そしていろんな出来事が重なり合って、やがてエミの心を動かした。
その一つが手紙だったとも言える。
私はその小さな積み重ねを怠ってしまったのだ。

そんなエミの気持ちを聞いて、やはりどうしようもなくやりきれなくなって、落ち込んだりもした。
それでも、昼間は二人でよくイスタンブールを歩いた。
きっと、他の人から見れば、やはり恋人同士に見えただろう。
新婚旅行に間違えられることもよくあった。

しかしその時の私たちの関係を表現する言葉を私は知らない。
恋人でもなく、かといって友人でもない。
そして喧嘩や口論をしたわけでもない。
お互いの胸の内はよく話した。
旅の話もしたし、日本での話も聞いた。
しかし、やはり、恋人ではなかった。

ブルーモスクやトプカプ宮殿、アヤソフィア博物館、メデューサの地下宮殿などを見てまわった。
エミの誕生日が近かったので、スケッチブックと色えんぴつを彼女に買って、それを持って、ブルーモスクの前の広場に行ったことがあった。
まだ、寒い時期だが、そこのベンチに座り彼女はブルーモスクをスケッチして、私はブルーモスクや、同じくその広場で佇む老女や少女の写真を撮った。
そしてエミの写真も撮った。
その時間は、何にも代え難い甘美なものに思えた。

イスタンブールを一通り見た後、私たちはセルチュクに行った。
エフェスという古代ギリシャの遺跡を見るためだった。
エミは遺跡に、特にギリシャのそれに興味があり、ずっとギリシャに憧れていた。
だからエフェスに行きその後、船でギリシャに渡る予定を立てていた。

セルチュクでも曇りや雨が続いたが、エフェスそのものは悪くなかった。
多分一人で行ったら大して興味をもてなかったかもしれない。
しかしエミと、かつて24000人収容できたと言われる半円形の大劇場の端まで行って、
『すごい、真ん中にいる観光客の話声が聞こえるよ。この頃から音響っていう考えがあったんだね』
とか、また、博物館を見て、
『彫刻を見るとこの時代の人たちは薄っぺらい服を着てるけど、寒くなかったのかな。だって私は寒くてエアテック着てるんだよ』
なんて話を聞くのは楽しかった。
そうして過去の人たちに思いはせることのできるエミを少し羨ましく思った。

ちょっと足を伸ばし、シリンジェ村というところに昔の街並みを見に行ったりもした。
その小さな村はワインが有名でそこでワインを買い、その夜は二人でエミの誕生日をささやかに祝った。

私はセルチュクのゲストハウスで思いがけない偶然に遭遇した。
そこのロビーで、日本の女子大生の2人組と話をした。
何の勉強をしているとかそんな話をしてるうちに、そのうちの一人がW大学の大学院生であることがわかった。
私はもしやと思って、
『H先生を知ってますか』
とたずねてみた。
H先生は、私の母校のゼミの教授で、今は学校を変わりW大学の大学院の教授だと聞いていたからだ。
もし私に恩師と呼べる人がいるとすれば、そのH先生以外に考えられなかった。
すると彼女は、意外にもH先生のゼミをとっていると言う。
私はその偶然になんだか嬉しくなった。

私はもうすぐ帰国するという彼女に、H先生宛ての手紙を託すことにした。
今でも年賀状だけは欠かさず出しているが、手紙を書くのは何年ぶりだろうか。
以前、休学して旅をしていたときにはよく手紙を書いた。
そのとき、H先生のゼミで、環境問題を勉強していたが、私はアジアの貧困という視点からそれを考えていた。
だからアジアを旅して、タイのスラム街の様子だとか、インドのカルカッタには歩けば踏んでしまうほどの物乞いがいるとか、そんな手紙を送ったのを覚えている。

私は手紙を書きながら当時のことを思い出した。
やはりあの時は若かった。
何も知らなかった。
けれども何も知らない分、何でもできるような気がした。
その後卒業し、いくつかの仕事を経験し、年齢的にもすっかり大人と呼ばれるようになった。

コンヤペンションで会った彼のことがふと頭をよぎった。
彼の憂さの晴らし方に私は若いなぁと思ったが、実際に彼はまだ若かった。
私にはそれはできない。
私はもう充分に年齢を重ねた大人だった。
少なくとも、年齢だけは大人になってしまっている。

私には、何かに逃げるなんていうことはできなかった。
それに、まだエミはまだ目に前にいるのだ。
しかし今の自分は、エミとの微妙な関係に振り回され、彼女の前でさえ、落ちこんだりした。
私は自分自身のことを狭量な男だと思った。

そんなふうに二人で旅をしったって、旅はいきいきとはしない。
少なくとも思い描いていた旅とは違う。
それによって、自分にとって貴重なはずの旅の時間どころか、彼女にとっても大切で、少なくとも楽しみだったはずの旅の時間をも台無しにしようとしていた。

エミは2月11日のイスタンブールから成田のエアチケットを持っていた。
トルコに来るのに往復の航空券を買ったのだ。
日本では通常、片道航空券の格安チケットを買うことができない。
いや買えたとしても、往復のそれより高くついてしまうこともある。
だから私も旅の最初、香港までの往復の格安航空券を買って、帰りのそれは捨てた。

エミはその便で帰国するかもしれない。
それはまだわからないし、それまでにはまだ20日ばかり時間がある。
私はもしかしたら、エミと過ごす最後の時間になるかもしれない残りの時間を、少なくとも彼女が
『いい旅だった』
と思い出せるようにしたいと思った。

それが自分のやるべきことだと思ったのだった。
それが最後の、私がエミにできることだとしても、やはりそうしたいと思った。

この後はギリシャに行く。
それはエミの憧れの地だ。
そこへ行けば何かが変わるかもしれない。
今の状況をひっくりかえすような何かが起こるかもしれない。
そんなことを思った。

東京だったら大雪という表現がふさわしいくらいの雪だが、バスはそんなことお構いなしにひたすら走る。
雪はきれいだった。
降りてくる雪が、窓ガラスにくっついて、その結晶が少しずつ、少しずつ溶けていく様子を、ずっと見ていた。
日本で雪が降ったって、そんなふうに見たことはない。
そんなことで、私は旅に出ているのだなということを、自分で認識する。

20時間くらいはかかったろうか。
昼頃にエルズルムを出発し、一晩かかり、イスタンブールへは、朝方に到着した。
イスタンブールのバスターミナルはあまりに巨大でどこかの空港を思わせる。
とにかく腹が減っていて、私はバスターミナルのなかの店で、パンとチャーイだけの簡単な朝食を食べた。
そのチャーイを飲みながら
『とうとうイスタンブールまで来た』
そんなことをいくら考えてもみても、やっとアジアを陸路で横断したという感慨はほとんどない。
香港から中国、モンゴル、ネパール、インド、パキスタン、イラン、トルコと、今まで越えてきた国の名前を思い浮かべてみる。
確かに遠くに来たという思いはあった。
しかし、なぜか達成感みたいなものはない。
それは自分でも不思議だった。
そして少し残念だと思った。
そんなことよりも、その人に早く会って、いろんな旅の話しを聞かせたいとか、どこへ連れていこうかとか、そんなことばかりを考えていた。

バスと路面電車を使い、安宿街まで来て、宿を探す。
ここには二つの有名な日本人宿があったが、まずはTREE OF LIFEという宿へ行ってみた。
絨毯屋の2階から4階までが宿になっている。
ドミトリーが男女別と聞いていたが、男性用がいっぱいだったので、女性用の部屋に案内された。
一度は、そこへ泊まろうかとは思ったが、結局断って別の宿を探すことにした。
もともと男女混合のドミトリーなら問題ないが、部屋が女性用でなんだか落着かなそうだったし、9時を過ぎてもカーテンを締め切っていて薄暗く、ほとんどの人が寝ている様子で、こそこそと荷物をほどくのもなんだか面倒なことに思えた。

そして、もう一つの日本人宿であるコンヤペンションへ行ってみた。
見てみると、なんだかそっちの方が落ち着きそうな気がした。
なにより団欒室がTREE OF LIFEより広く、靴を脱いであがるようになっていて、くつろげそうだった。

別に私は日本人の溜まり場となっている宿が、嫌いというわけでもないが、特別好きというわけでもない。
いろんな人間がいて、彼らと関わるのが楽しくて、そこに行くときはある。
しかしそれ以上に、たいてい日本の書籍があるし、特に情報ノートがあるので利用することは多い。
私はこれから先のルートの情報をほとんど持っていなかったので、イスタンブールでは日本人宿に泊り情報を集めると決めていた。

そのコンヤペンションはエリフという日本語を話すかわいい女性スタッフがいるせいもあって、日本人の、特に男性の溜まり場になっていた。
私が着いたときも8名ほどの日本人がいて、女性は一人だけだった。

私が団欒室でくつろいでいるとき、ある大学生の男性と話をした。
名前は聞いたが覚えていない。
彼は大学を休学し、上海から陸路でユーラシア大陸を横断し、スペインあたりから飛行機でイスタンブールまで戻ってきたところだった。

何かのとき、彼の恋の話になった。
彼は恋人を日本に残し旅に出た。
メールや手紙を欠かさなかったことには、別に驚きもしなかったが、週に一度はかならず国際電話を入れていたという話には恐れ入った。
それだけで相当の金が飛んでしまうだろう。
そして一ヶ月ほど前、ヨーロッパのどこからか、彼女に国際電話を入れたときに、新しい彼ができたことを突然宣告されたらしい。
その後は飲めない酒を飲んで、吸えない煙草を吸っていると、ビールを飲んで真っ赤になりながら話してくれた。
私はそんな彼の憂さの晴らし方が、若いなぁと思った。
別にそれがいいとか、悪いとか言うつもりはないが、ただ若いなぁと感じた。

『そんなのよくある話だよ』
と私は彼に言った。
別に冷たく言ったつもりもなく、本当にそう思ったからだ。
すると彼は、
『そんなこと言わないでくださいよ、真剣に落ちこんでるんですから』
と彼が言う。
『いや、よくある話だよ。俺も学生の時に似たようなことがあったよ』
と言うと、彼は私の隣に座り、ぜひその話を聞かせて欲しいと言う。
別に聞かせて面白い話でもないが、困る話でもないのでその話をした。
それは、私が学生のときに休学して旅に出たが、そのとき日本に残してきた彼女が、帰国したら別の男の彼女になっていたという、別に面白くもなんともない話だ。

彼は真剣に私の話を聞いた後、
『今はどうなんですか?』
と言うので、
『彼女いるよ、婚約してる。明日イスタンブールまで来るよ』
と答えると、彼は少し安心したように、
『婚約ですか。じゃあ、自分も結婚できますかね』
と言う。
そんなことは、私に聞かれてもわかるわけもないことだが、
『できるよ、まだ若いんだし。仕事だって恋愛だって、いくらだってできるよ』
と私は答えた。
彼は、
『なんか・・・すっきりしました。ありがとうございます』
なんてふうに丁寧にお礼を言っていた。
そんなことを言われる覚えもないが、まあ、悪い気はしない。

私がイスタンブールまで急いだ理由はその婚約者に会うためだった。
彼女は、いやエミは、仕事を辞め飛行機に乗り、明日イスタンブールに着く。
そして、イスタンブールから、南アフリカの喜望峰まで一緒に行き、帰国したら結婚する予定だ。
すでに結納もすませてあったし、式場も予約していた。

私は旅の途中、エミとの将来をあれこれとよく空想していた。
まずは仕事をどうするかを考えなくてはならないのに、そんなことよりも、鎌倉に一緒に住みたいとか、犬を飼いたいとか、車を買うなら4WDを買って、キャンプに行きたいとか、次の夏は花火を見に行きたいとか、そういったおよそどうでもいいような、それでいて楽しいことばかりをよく考えていた。
私は彼女と過ごすはずの将来を疑うことはなかった。
次の日、空港までエミを迎えに行った。
やがてゲートから出てくる彼女を見つけた。
しかし約半年ぶりの再会というのは、あまりにあっけなく、普通だった。
『まあ、ドラマじゃあるまいし』
と思ったが、その理由は別にあったことを、その数日後、私は知ることになる。

私はエミと合流して宿変えた。
少しランクが上の、といっても安宿には変わらないツインの部屋に移った。
そこで5日くらいいただろうか。

私はエミと再会して以来、日記を書くことをやめてしまった。
もちろん書くことはできただろうが、書けば、自分がまるで泥の中に沈んでいく様子を書くはめになるのでやめてしまった。
だからエミにそのことをいつ言われたのか、正確に思い出すことはできない。
会った次の日か、あるいはその次の日だっただろうか。

エミが仕事も辞めてイスタンブールまで来た理由は、待ちきれなくなったからだ。
少なくとも数ヶ月前に、彼女が航空券を予約したときはそうだったろう。
しかし、今は違う理由で来たと彼女は言った。
彼女自身、自分の気持ちがよくわからなくなってしまったと言った。
『なんだか恋愛感情から、家族や兄弟みたいな感情になってしまったみたい。だからもう恋愛も結婚もできないかもしれない。』
それを確かめるために来たと彼女は言った。
それは別に、都合のいい、別れる理由でもない。
そうだとしたら、わざわざイスタンブールまで来るわけがない。
エミは半年旅をするつもりで、装備も半年分のものだったし、保険だって高い金を出し、半年分のそれに加入してきたのだ。
『最後まで一緒に行くかもしれないし、途中で帰るかもしれない。もし帰ったらもう結婚はできない』
そう言った。

そのエミの感情の変化というものは、正直に書けば、私にはよくわからないものだった。
いや、人の気持ちを正確に理解できる人間なんているわけがないのはよくわかる。
しかしそれは私が男だからわからないのだろうか。
それにしても、私は彼女の気持ちが、やはりよくわからなかった。
別に好きな人ができたわけでもなく、恋愛感情から兄弟みたいな感情とはどういうものだろうか。
実際にエミは、例え婚約を解消したとしても、私と連絡が取れなくなることだけはしないし、絶対にしたくないと言った。

そしてその変化した気持ちを確かめるために、エミは仕事も辞めてわざわざイスタンブールまで来た。
だったら何故・・・と私は何度も思った。

いやその時のエミの気持ちは、これを書いている今なら少しは理解できる気がする。

きっとそのときはわかりたくもなかったのかもしれない。
あと、数ヶ月して旅が終わったそのときには、きっと正確にわかるのだろう。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

イランの憂鬱その2

年が明けた。
といっても除夜の鐘が聞こえるわけでも、カウントダウンをしたわけでも、花火が上がったわけでもない。
ここイランでは西洋暦の新年を祝う習慣はない。
私はただ時計を見てそれを確認しただけだった。
あまりに普通すぎる2003年のスタートだった。
私は元旦から移動をした。
ここ、バムにいても、もうやることがなかったからだ。

私はケルマンという小さな街へ行った。
その街は伝統的なチャイ屋とバザール以外特に見るものがなかった。
そこで1泊しようと思ったが、安宿がどこもいっぱいだった。
もしかしたら外国人だから断られたのかもしれない。
イランの小さな宿は、外国人を嫌う風潮がある。
中級ホテルは空いていたが、余分な金は使えないので、結局そこには泊らず、夜行バスでシラーズへと向かった。
そこはぺルセポリスという有名な遺跡の観光の拠点となる街だった。
ペルセポリスは世界史の教科書にも写真が載っているくらい有名だ。
イランに来たからにはと思って、私もそれを見学した。
レリーフなどの価値は確かにすごいものだと思えたが、正直私にはその価値がわからない。
こんなとき、受験の時に、日本史ではなく世界史を勉強しておけばよかったとだった
とつくづく思う。

私は過去の死んでしまった人や、物よりも、現在も生きているものに惹かれるのだなと思った。
だからチベットのラサや、インドのバラナシでは何日いても飽きることがなかったのだ。
あそこは今でも、街そのものが生きているような気がした。
私はきっと、たとえ歴史に詳しくても過去に思いをはせるのは数分で飽きてしまうだ
ろうが、脈々と生きつづける街や、人間のありさまには飽きることがないと思った。

別にどっちが正しいとか間違っているとかいうのではなく、私はそういうタイプの人間なのだと思う。

シラーズでは、ほかにシャー・チェラーグ廟というところに行った。
そこはここで殉教した、セイエド・ミールアフマドという人の棺がある。
その棺が安置されているドームに入ると、内側の壁は細かい鏡が無数にはめ込まれていた。
何十人ものイラン人の巡礼者がその棺の前で立ち止まり、棺の周りの柵に接吻している。
なかには泣き崩れている人もいた。
そのセイエド・ミールアフマドという人がどんな人かは全くわからないが、ここは聖地であることを感じた。
とにかくシラーズで見るべきものは見て、エスファハンに向かった。
そこは日本でいえば京都のような所らしい。
かつては「世界の半分」とうたわれたほど栄えたらしいが、現在見ても正直な印象は「そこまで言うか?」という感じだった。
実際そういう時代もあったのだろうが、今はただの観光地だ。
しかしモスクのタイルの装飾などは、極めて細かく美しくと思ったが、それだけだった。
そして私はテヘランへやってきた。

イランに入ってからまだ10日も経っていない。
我ながら急ぎ足だ。
というより、腰を落ち着けたくなるような街がないから、次へ次へと進んでいると言ったほうが正しいかもしれない。
テヘランへは夜行列車で到着し、地下鉄に乗り換え中心街へとやってくると、ずいぶんと都会を感じた。
ビルが並び、車も多く、排気ガスもひどい。

テヘランのゲストハウスでは、ある日本人がトラブルに遭ったと言っていた。
夜行バスで盗難に遭って、持ち金のほとんどを奪われ、日本に帰るはめになり、宿でパスポートの再発行を待ると話していた。
また情報ノートにはナイフ強盗に遭って、抵抗して手を切られた話しが書いてあった。
それはわずか1ヶ月前のことだった。
他にも、石を投げられたり、卑猥な言葉でからかわれたという話しもイランに入ってから何度も聞いた。
とにかくイランではトラブルが多い。
そんなイラン人はごく一部で、そんな輩のせいで、
『イラン人は最低だ。悪い奴が多い』
なんて言うのはバカげていることはわかっている。
しかも私自身は何も被害にあっていないし、嫌な思いをしたことさえない。
それどころか、バムでは忘れられない親切を受けた。
にもかかわらず、私自身もイランには長くいたくないというふうに思い始めていた。

イランは、中年からそれ以上の人たちは、限りなく親切である。
それにバブルの頃はイランから日本へ出稼ぎに行った人も多く、中年のおじさんたちのなかには、突然日本語で話し掛けてくれる人もいる。
彼らはみんな親日家だった。
しかし、若者たちには、どことなく歓迎されていないような気がした。
バスターミナルなどでバスを待っていると、20歳くらいの若者たちが私を見てニヤニヤしているなんとことはよくあった。
なんとなくバカにされている気分になる。
それは反米感情が反日感情にも結びついているのかもしれない。

次の日、地下鉄に乗って、旧アメリカ大使館へ行ってみた
1979年のアメリカ大使館人質事件の現場だ。
今は専門学校になっていて中には入れない。
外側の壁には骸骨の顔をした自由の女神や、アメリカの国旗の模様をした手が、ペルシャ絨毯に火をつけようとしている絵が描かれてあった。
俗っぽく言えば「ファッキン・アメリカ」の絵である。
門の所に警備員がいて、写真を撮っていいかどうか聞くと、意外にもOKの返事だった。
そんなもん撮ってもしょうがないと思いつつ、数回シャッターを切った。
その近くにナショナル・フォトギャラリーというのがあり、ちょっと覗いてみた。
誰の作品かはわからなかったが、50点ほどの白黒の写真が展示してあった。
イランの地方の風景や人物の写真だった。
テヘランで見たものはその二つだけだった。

私はその日のうちに荷物をまとめ宿を出た。
テヘランには1泊しかしていない。
駅へと向かった。
チケットはもっていなかったが、なんとかなるだろうと思っていた。
夜行列車はいっぱいだと言われ、キャンセル待ちの客たちが30人ほどいた。
私も彼らと一緒に待っていたが、係員は何故か一番最初に、私にキャンセルチケットをまわしてくれたようだった。
私はさらに西へと移動することになった。
別にこの国を嫌いではなかったし、いまでもそうだ。
しかし妙な居心地の悪さというやつはあった。
単に相性が悪かったのかもしれない。
だからイランには2週間も滞在していない。

早く西へと行きたいというよりは、その妙な居心地の悪さが、一つの街に腰を落ち着けることを許さず、結果的に早足でここまで来て、さらに先を急いでいる。
次はトルコ。
アジアの終着駅だ。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

イランの憂鬱その1

パキスタンとイランの国境の街は荒野のなかにぽつんと存在していて、街と呼ぶにはあまりに小さく、人も少なかった。
そこで生活するというよりは、ただ国境があるから、そこを通る旅行者や商人が通過するだけの街というように映った。
私はどうやら街の外れでバスを降ろされたらしく、そこから人の道を聞き、国境まで30分ほど歩くはめになった。

道を聞くと言っても、視界を遮るような建物は何もないから、教えてもらったイミグレーションの建物を目指して歩くだけだ。
イミグレーションに着くと、近くの売店で、残りわずかのパキスタンルピーでたばこを買って、それを使い果たした。
そしてまずカスタムと書かれた建物に向かった。

小さな建物の前にテーブルとイスが置かれていて、3人の制服を着た男たちがチャーイを飲んでいた。
『ここがカスタムですか?』
と尋ねると、
『そうだ』
と3人のうち、一番年配で偉いと思われる男が答えた。
『じゃあ、荷物をチェックしてください』
と私が言うと、
『まずは座ってくれ、そして、チャーイを飲んでいけ』
とその男が言う。
そして、これはリプトンティーだからうまいと自慢気にチャーイを入れてくれ、さらにクッキーを出してくれた。
『どこから来た?』
『ジャパンです』
『これからイランか?その後は?』
『トルコです』
『その後、ジャーマンか?』
『いえギリシャから、アフリカに行きたいと思っています』
『いつジャーマンに帰る?』
とその男とそこまで会話をして、彼がジャーマンとジャパンを間違えていることに気づいた。
いったいどっからどうみれば、私をドイツ人だと思うのだろうか。

その後、彼は新聞を見て、記事のなかにアメリカのブッシュの写真を見つけると、
『ブッシュを知っているか?ブッシュは駄目だな。でもイラクはもっとだめだ』
と同意を求めるでもなく、話していた。
またパレスチナ解放機構のアラファト議長の写真を見ながら何か言っていたが、私の語学力では、その内容がわからなかった。
さらに、化粧品の広告で女性の写真が出ていると、
『どうだ、パキスタンの女性はかわいいだろう?』
と言って、全く本題に入ろうとしない。

私は勧められるまま、3杯のリプトンティーを飲み干した。
私はしびれを切らして
『カスタムチェックは?』
と聞くと、
『ジャパニーズ、何をそんなに急ぐのだ?』
と言われてしまった。
確かに急ぐ必要なんて私にとっても彼にとっても何もない。
そして、
『カスタムチェックはすでに終わっている。日本人よ、良い旅を』
と彼は言って、カスタムチェックは終わった。
要はノーチェックなわけだ。

その直後に彼の無線に連絡があった。
『これから要人が国境を通過するから、イミグレーションでは待たされるぞ』と言って、彼も要人を迎えるべく通りに消えて行った。
数メートル先のイミグレーションへ行くとやはり少し待てと言われた。
パキスタン人だか、イラン人だかわからない数十人の男たちもやはり待たされているのか、通りに出て要人を待っているので、私もそれに倣うことにした。
15分ほど待って、イラン側からスーツを着た40代の男が護衛の兵士と共に現れ、パキスタンの軍服を着た男たちと握手をして抱擁をしていた。
彼がどんな人なのか、パキスタンの要人なのか、イランの要人なのかは全くわからない。
そして、彼を出迎えた車はトヨタのランドクルーザーだった。
それを見て私は、
『日本とはたいした国だ』
などと思ってしまった。
こんな所で要人を迎える車として、トヨタが使われている。
日本という国はすごいものだとつくづく思った。
私はその国に生まれ、育った。
日本にいるときは自分が日本人だなんて考えることはない。
しかし、一歩海外へ足を踏み入れると、「お前は何人か」と問われ「日本人だ」と言う度に、自分は日本国籍だということを噛み締める。
その時の感覚というものは不思議なものだ。
日本では決して感じることはない。
私はその度に日本人に生まれたことを素直に喜び、「祖国」なんて古臭い言葉が頭をよぎる。

私は国境を越え、イランに入国した。
国境から乗合タクシーとバスを乗り継ぎ、その日のうちにバムという街まで行った。

アクバルゲストハウスという安宿に着くと、オーナーが、
『まずはチャーイを』
と言って、もてなしてくれた。
ここまでくるとチャーイはすでにミルクティーではない。
ブラックティーとともに、角砂糖を口のなかに放り込んで、口の中で溶かしながら飲む。
チャーイの味が変わり、国が変わったことを感じた。

次の日、私はゲストハウスから30分ほど歩いて、アルゲ・バムという遺跡に行った。
壮大な廃虚と表現されるそれは、十分に私を満足させてくれた。
土と草を混ぜて造った建物が続き、それは廃虚と呼ぶにふさわしい。
その奥には城が残っていた。
その歴史的な重要性というのは、同じくイランのぺルセポリスの方が上らしいが、世界史にうとい私にはそんなことは関係ない。
2002の最後の日に、このアルゲ・バムの遺跡を見ことができたことを嬉しく思った。

その夜、新たに着いた数人の日本人と一緒に、ゲストハウスで食事をした。
そして、ロビーでくつろいでいるとき、一人のイラン人の男性と話をした。
彼はもう50歳に手が届くくらいだろうか。
足が不自由らしく、いつもクラッチ(杖)をして歩いていた。
私は彼のクラッチが何故か気にかかっていた。
彼は英語がまったくできない。
彼は昨日もこの宿にいたので、挨拶くらいの会話はしていたが、意思の疎通がうまいようにいかないので、会話は長続きしなかった。
ただビジネスでパキスタンへ行き、エスファハンへ帰る途中であることだけはわかった。
しかし今日は失礼を重々承知で足のことを尋ねてみた。
やはり私の英語は通じなかったが、彼がわざわざ従業員に通訳を頼み私は改めて彼と話をした。
『その足はどうしたんですか?事故ですか?』
と聞くと、
『これはイラン・イラク戦争を戦ったときのものだ』
と予想もしていなかった答えが返ってきた。
その言い方は極めて静かで落ち着いていた。
『じゃあ、年金みたいなものを国からもらっているのですか?』
と私は言って、我ながらしょうもないことを聞いてしまったと後悔した。
しかし彼はまた落ち着いて答えてくれた。
『もちろんもらっている。私は国のために戦った』
『国のため』という彼の言葉が私には新鮮に聞こえた。
今の日本ではまず聞かない言葉だ。
私を含め、戦後の豊かな時代に生まれ育った人間は、まず口にしないだろう。
今の日本で『国のために』本気で何かをする人間が果たしてどれくらいいるだろうか。
しかしそれを誇らしく語る男がここにはいた。
『あなたはイランのヒーローですね』
と私が言うと彼はちょっとはにかんで、素直に喜んでいた。
彼は私を外に連れ出して、
『他の人には内緒だ』
と言って、自分のしている指輪を私にくれた。
それはシルバーリングにオレンジ色のでっかい石がはめ込まれたもので、石にはイスラム教の経典の一文が書かれているらしかった。
『私のことを忘れないように。そしてあなたにアッラーの祝福が訪れるように』と言ってそれを渡してくれた。
私は深く何度もお礼を言った。
今日はいい日だと思った。
2002年の最後の日にふさわしかった。
そして、イランのことを、イランの人を好きになった。
数十分して、2003年に年が変わった。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

風の谷のフンザ

パキスタンの北部にフンザという場所がある。
世界最後の桃源郷と言われている、パキスタンの一大観光地だ。
私もそこにはいつか行ってみたいとは思っていたものの、今回はパスしようかと思っていた。
季節が悪かったからである。
私が行くとすれば、冬の真っ只中になる。
そこは春には杏の花が咲き、夏には数多くのフルーツが実り、秋には紅葉が美しい場所である。
しかし今は冬。
なのでまた、別の機会にとっておいてもいいかなと思っていた。

しかしインドのバラナシで知り合ったある青年の話を聞いて私の心は動いた。
その青年はパキスタンのフンザから中国へと抜け、チベット、ネパール、インドと下ってきて、バラナシで私とクロスしたのだ。
『フンザはとてもいいところでしたよ。
あそこが宮崎駿監督の風の谷のナウシカの舞台になったっていう話は知ってますよね。
宮崎監督は取材旅行に行っても絶対写真を撮らないそうですよ。
写真を撮ると、そこの場所のただの模倣になってしまうからだそうです。
だからイメージを焼き付けて、そこから自分なりの世界を描写するそうです。
まあ、ナウシカの舞台は、オーストラリアとも言われていて、どっちが本当なのかは、監督は絶対に言わないみたいですけどね。』
青年のその話は興味があった。
私もナウシカに特に思い入れがあるわけではないが何度も見た。
ただ、一枚の写真も撮らないということがなんとなくひっかかった。
一方私は、写真を撮り捲る。
なんとなく、その写真にも残されなかったフンザの景色から、あのナウシカが生まれたのかと思うと、行ってみたいと思いはじめた。

ただ、季節は冬。
私は西チベットとネパールで使った防寒具は、とうに売り払い、大した防寒具も持っていなかったが、別にテントは張って旅をするわけではないし、大丈夫だろうと思ってフンザに行ってみることにした。

パキスタンの首都イスラマバードの隣のラワールピンディから一晩バスに揺られ、ギルギットという街に着いた。
そこで1泊し、ワゴンに乗ってカラコルムウェイを3時間ばかり走るとそこはもうフンザだ。
ハイウェイなんていっても、もちろん日本のそれを考えてもらっては困る。
ただ山を削って道をつけただけの道である。
しかし、それが中国まで続いているのだからすごいものだ。

フンザのゼロポイントという妙ちくりんな地名のところでワゴンを下ろしてもらった。
そこにゲストハウスがいくつかあるからだ。
ワゴンを降りたところに、何人かの男たちがたむろしていたので、コショーさんゲストハウスはどこか聞いて歩き始めると、ものの1分で着いてしまった。

コショーさんゲストハウスはその名前の通り、コショーさんがオーナーなのだ。
入り口を入ると、そこは食堂になっていて、その奥のキッチンにコショーさんがいた。
キッチンはハシシの匂いがぷんぷんしていた。
コショーさんが吸っているのだ。
コショーさんはもじゃもじゃ頭のに髭をはやし、それでいて、痩せていてた。
それでいて、いつもハシシできまっている(気持ちよくなっている状態のこと)ものだから、漫画のキャラクターになりそうな風貌である。
そこでドミトリーはあるかと聞くと、
『オフコース』
と、完全にきまっている笑顔で答えてくれて、なんだかおかしかった。
荷物をおいて、食堂にもどると早速チャーイが出てきた。
それをすすりながらたばこを吸っていると、日本人のおじさんが入ってきた。
『今着いたの?
今は寒いよぉ。
だから観光客なんて誰もいないよ。
それにね昨日から停電だからね。
停電といっても、すぐに復活するわけじゃなくて、なんでも工事をやるからこれから、3日くらいは電気こないらしいよ。』
と教えてくれた。
そのMさんというおじさんはの年齢は推定38歳くらいで、靴下は破れていて、Gパンも破れたらしく、そこに何故かひよこのワッペンをはりつけて、髭も髪も伸び放題で、インド人みたいにショールを肩にまいていて、ちょっと怪しい印象を受けた。
後で分ったが彼はここらではちょっとした有名人らしく、フンザに5ヶ月もいるらしい。
いったいどうやったら、そんなにビザが出るのだろうという感じである。
とまあ、宿泊客は私とMさんに二人だけで、私のフンザの滞在はそんなふうに始まった。

次の日の朝、ゲストハウスの食堂に朝食を食べようと思って行くと、壁に朝食のメニューが貼ってあった。
ちなみにフンザには、このコショーさんゲストハウスのほかにハイダーインと、フンザインというゲストハウスがあり、どこもシーズン中は日本人の溜まり場として有名である。
しかしこのコショーさんは、ゲストハウスを始めるまえに、いろいろなホテルをコックとして、働いた経歴があり、コショーさんのところの食事はうまいと評判だった。

フンザのゲストハウスでは、もちろん断ることもできるが、だいたい宿で食事をとることになるので、宿選びは食堂選びも兼ねることになる。
そんなこともあり、私は期待していた。
昨日の夕食は、私が突然の客だったせか、スープとパンといった簡単なものだった。

私は、ブレイクファーストとかかれたメニューにフライドエッグセットとあったので、それを注文した。
するとコショーさんは、またあの決まった笑顔でニコッとして、
『エッグ ノー トゥモロー』
と言う。
要は卵なくて、マーケットに行かなければいけないから、明日にしてくれとのことだった。
なるほど、客が少ないと、そんなに食材を仕入れるわけにもいかないようだ。
もう一人の客である、Mさんはすべて携帯用のコンロで自炊をしているようなので、ここで食べるのは私だけだようだ。
そのために数多くの食材を仕入れても、ほとんどが無駄になってしまう。
なので、メニューがあっても選択の余地はなく出されたものを頂くしかないようだ。

この日の朝食はパンとジャムと、チャーイだった。
しかし次の日の朝食からは卵がついて、夕食も肉が入っておいしかった。

しかし、客が少ないからといっても悪いことばかりではない。
朝食の後、コショーさんが、
『ウォーキング ウォーキング』
と言って、散歩に連れて行ってくれた。
客が多ければこんなことはまずない。
行き先はイーガルネストという、ちょっとした展望ポイントだ。
そこに行くまでに3時間ほどかかった。
天気は完璧といっていいほど曇っていて、目の前は段々畑が急勾配に広がっている。

時期が夏ならここはフルーツに木々でいっぱいになるらしい。
しかし今は冬なのでただの茶色い土があるだけで、農民も冬の間は他の村に移るらしい。
そして、その段々の先には村があり、川が続いている。
その川の向こうにはディランとラカボシという山々が連なっている。
それらの山は雪に覆われていて、背景のくもり空に沈んでしまっていたが、これが快晴だったら、すごい風景だろう。
その風景は、山々に囲まれた谷の村という感じだった。
ここがナウシカのモデルなのかはわからないが、もうそんなことはどうだっていいと思った。
そんな話はおいておいても十分魅力的な景色だった。

ここフンザを歩いていると、よく声をかけられ家に来ないかと誘われる。
もう何年も前、フィリピンのマニラで知り合った人の家に招待され、まんまと睡眠薬を飲まされ身包みはがされたことがあるので、さすがに最初は警戒した。
しかしフンザは歩いてまわれるほどの小さな村である。
知らないところに連れていかれることはまずない。
そんな警戒の必要もないのどかな所だ。

あるときゲストハウスの周りは散歩していると、40代の男が話かけてきた。
英語のできる彼は、ガイドをやっているらしい。
でも今は冬で仕事がないとのことだった。
よかったら家に来ないかというので喜んで行ってみることにした。
彼の家は、ゲストハウスから20分も歩くと着いた。
150年前に造られたというそれは、木の柱に土を塗り固めたものだった。
そこで彼の子どもたちの写真を撮らせてもらったり、インスタントの写真をあげたりした。
そして、彼が近くの村を案内してくれるというので二人で出かけた。
その時に、村を案内するかわりに少しチップをくれないかという。
まあ、案内された後に言われれば私も嫌な思いをしただろうが、最初に言ってくれる
のである意味ありがたい。
そのいい方もバラナシのインド人なんかとは違って、ごくやわらかい言い方だった。

断って一人で帰ってもよかったが、彼の家でいろいろ写真を撮らせてもらったので、少し払うことを約束に村を案内してもらった。
カメラを持っていると子どもたちが
『ワン ピクチャー』
と言って話かけてくる。
写真を撮ってくれという意味だ。
別に撮ったからと言って、
『ワン ルピー』
とは言わない。
彼と歩きながら、そんな風に村の子どもたちの写真を撮るのも楽しかった。

また、一人でアルティット村というところを歩いているとき、ある青年から声をかけられた。
よかったら、家でお茶を飲んでいかないかという。
家はすぐそばだというので、またしてもお邪魔することにした。
その家には女性がたくさんいて、10歳くらいの子どもから、20歳前後の年頃の女性もいた。
その青年の母親が迎えてくれて、お茶だけかと思いきや、ジャガイモと肉を煮込んだ
ご飯を出してくれた。
その後はリンゴがでてきた。
まったく有り難い。
そして、一度青年と村を歩いて、また家にもどってくると再びチャーイで迎えてくれた。
そして、
『今日このまま泊っていけ』
という。
『ホテルに荷物があるから』
と遠回しに断ると、
『じゃあ、明日荷物をもってきてくれ』
となかなかあきらめてくれない。
彼らは信頼できる人たちだというのは充分わかったし、泊ってもよかったが、言葉も
あまり通じない彼らのなかで雑魚寝みたいに泊るのも、疲れてしまうので、理由をつけて丁寧にお断りした。

私がフンザに滞在したのは1週間だった。
結局1週間ずっと電気は来なかった。
ここらではもう5時になると暗くなる。
そのあと、コショーさんのつくる夕食を食べて、7時くらいになるともうやることがない。
室内でも気温は4度くらいまで下がり寒い。
おまけにストーブはあるが、電気ストーブなので意味が無い。
シャワーも電気でお湯を湧かすので、浴びれない。
寝袋に入ってその上に毛布をかけて、ろうそくの明かりで日記を書けばもうあとは暇をもてあますだけだった。
それになにより、天気がよくなかった。
晴れた日というのが一日もなかった。
季節がよかったらもっと長居をしたかったが、1週間で充分かと思ってギルギットに下った。

旅をしていると、やはりもう一度来たいと思う場所は多くある。
同じ場所を尋ねても、同じ体験をすることはまずない。
必ず違った印象を抱かせてくれる。
それは場所が同じでも、時が違うし、自分自身も変わっているからだろう。

このフンザはやはり杏の花が咲く5月にまた来てみたい。
私は強くそう思った。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

インディアン・ランナー

オレの友達に、映画好きな奴がいた。

今日、オレは「プレッジ」という映画を観て来た。
定年を迎える刑事が、ある殺人事件を追っていく話だ。
とても切なく、やりきれない話だった。
誰のせいでもないのに、みんなが不幸になっていく話。

現実と似ている。
現実は、誰のせいでもないのに、みんなを不幸にしていく。
強すぎる愛情が、情熱が、そういうのを持っているその人自身を、どんどん不幸にさせていく。
オレは、そういうものだと思っている。

その友達は、ニューヨークへ行った。
学校を辞めて、ニューヨークへ行った。
オレの知らない間に。
いつの間にか行っていた。

そいつが。
オレと遊んでた頃。
よく飯を食いに行ったりしてた頃。
 ”この映画観てみろよ” ってオレに渡したその映画。
「インディアン・ランナー」という題名だった。
「プレッジ」と同じ監督が撮ったものだった。
ショーン・ペンという役者が撮った。

それは。
その映画は。
愛情の強すぎる兄弟が、愛情が強すぎるが故に相容れず、離ればなれになっていく悲しいお話。
うまくいかない人達の、悲しいお話。
不幸せな人達の、不幸せな物語。

でもオレは、それにでてくる人達が好きだった。
情熱を秘めてて、思い入れが強すぎて、破滅していく人達。
人を、あらゆるものを愛し過ぎるが故に、破滅していく悲しい人達。
弱さが、罪のないほんの少しの弱さが、人をおとしいれていく……

何だか、切なくて、やるせなくて、大声で叫び出したくなる。
何で、そういう純粋な人達が悲しい思いをしなくちゃならないんだろう?
どうしてそういう正直な人達が、辛い思いをしなくちゃならないんだろう?

そいつも、オレの友達も、思えばそんな奴だった。
ニューヨークに行ってからは消息不明で、ホームレスになっているという説もある。
ちょっと信じられないけど、あいつならあるかもな、と思ったりもする。
そのときはあんまり思わなかったけど、今ならあいつが「インディアン・ランナー」を好きだった理由も分かるような気がする。

悲しみを知っていたんだと思う。
人間の、どうすることもできない、終わらない悲しみを知っていたんではないかと思う。

不公平だ。この世の中は、公平ではない。
まじめな人が報われない。
純粋すぎる人達は、そうであるが故に辛い思いばかりする。
どうしてだろう? どうしてなんだろう?
誠実な人であればある程、不幸になる世の中だ。

もし神様がいるならば。
万能で、全能の、神がいるならば、一体どうしてこの世の中をこんなふうにつくったんだろう?
こんなにも不完全につくったんだろう?

それがみんなを苦しめる。みんなに辛い思いをさせている。
孤独で、ひとりぼっちの、悲しい世の中だ。
寂しい。とても寂しい。

ふと気が付くと、みんなの笑顔が思い出になって、自分だけが取り残されて、全ては過ぎ去った過去の海へと呑み込まれていく。

目が覚めると、家の中にひとりぼっちで誰もいなくって、とても静かで、この世界にたったひとりのような気がして、誰かに会いたくなって、話がしたくなって、落ち着きもなく右往左往する。
胸が掻きむしられるように痛くって、心細くって、とても不安で、誰かに抱き締めて欲しい。強く、しっかりと抱きしめて欲しい。

悲しみは、終わらない。寂しさは決して無くならないーーー

みんなの笑顔が、オレを苦しめる。
楽しかった思い出が、オレを苦しめる。
もう戻らないあの時間が、とても輝いてみえる。

インディアン・ランナーは、メッセンジャーとなって駆け抜けていった。
オレの心に何かを打ち込んで駆け抜けていった。
打ち込まれたそのものは、人間の悲しみの質量をオレに教える。
それは、打ち込まれた楔となって、いつまでもオレの心に残り続ける。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

パキスタンの噂

旅というものは、いかに自分の行く地域についての情報をあらかじめ集めておくかで、その旅の内容も変わってくる。
情報がないと、闇両替でレートがわからずボラれてしまったり、たいして良くない高いゲストハウスに泊まってしまったり、見所を知らずに通り過ぎてしまったりする。

基本的には一冊のガイドブックも持っていないバックパッカーというのはいないだろう。
なかにはガイドブックを一切持たない人もいるかもしれないが、旅先で会った日本人にガイドブックを見せてもらったりして、結局のところは使用しているわけで、純粋にガイドブックに頼らない人はおそらくいないと思う。
とはいっても、ガイドブックが全ての国や地域をカバーしているわけではないし、また自分の行く全ての国のガイドブックを持っていくというのも、長期旅行者となると何十国ものガイドブックを持っていく事になり、現実的でない。
そこで、行く先々で情報を集めていくことになる。

だいたい日本人の溜まっているゲストハウスには、情報ノートというのがあり、旅人がいろんな情報を残していくので、それにお世話になる。
私自身も何度もお世話になったし、自分の情報を書いていくこともある。
ほかには、日本人旅行者と会ったときに、その人が、逆方向から来ていたりすれば、お互いに情報を交換し、レートはいくらだとか、どこの宿がいいとか、あそこの国はどこがよかったとか、人がすれてるとかすれてないとか、そんな会話に花が咲くわけである。
いわゆる「口コミ」というやつである。
そして交換した情報のなかには、単に話しとしても面白いものがあったりして、そしてその面白い話は、また他の旅人に話し、その旅人がまた他の国で他の旅人に話し、驚くべき速さで、そしていささか誇張されながら世界中に広まっていく。
そしてそれはやがて噂としてささやかれるようになる。

私がインドを後にして目指したパキスタンという国にはそんな噂のある国だった。
その噂というのはこうだ。
インドとの国境近くにラホールという街がある。
インドから入って、始めての大きな街なので、たいていここで何泊かすることになる。
そこの駅前のホテルというのが要注意だというのだ。
パキスタンというのはホモの多い国らしい。
その駅前のホテルで男性の旅人が、ホモに襲われるというのだ。
だいたい噂としてささやかれる手口というのは決まっている。
まず駅前のホテルにチェックインしたあと、街を歩いていて、まずどこかでパキスタン人にチャイをおごられる。
旅人は睡眠薬が入っているとは知らずにそれを飲んでしまい、強烈な眠気に襲われる。
そして、なんとか宿にもどり、ベッドに倒れ込んで寝込んでしまう。
一応鍵は閉めるが、そんな事に意味はない。
そのうちしばらくたって、天井がするする開いて、あるいは壁が回転扉になっていて、屈強な男が部屋に侵入する。
当然睡眠薬入りのチャイを飲んでしまった旅人は、そのことに気づかずに眠っているわけで、あとは男の思うがままに弄ばれてしまう。
翌朝、旅人が目を覚ますと、お尻の穴が痛いというわけだ。
そして、髭がすくなくて細身の日本人がホモのターゲットになりやすいらしい。
まあ、いくつかのパターンがあるが、基本のパターンはこんな感じだ。

私がインドのバラナシあたりで、
『これからパキスタンに行きます』
なんて言うと、
『じゃあ、ホモに気を付けないとね』
なんてふうに、冗談とも本気ともとれないような口調で他の旅人が言う。
この話は実に有名で、別にパキスタンのお隣のインドでなくても、この話を聞くことができる。
そして、この話がいつ頃から噂として世界中を走り回っているかというと、定かではない。
私が始めてこの話を聞いたのは7年前のバンコクだった。
その時、バンコクからミャンマー経由のカルカッタまでのエアチケットと買ったときに、その旅行代理店のオーナーが、
『もし、パキスタンに行くのなら、気をつけたほうがいい』
と言って真顔で教えてくれた。
その時は相当にびびって、
『絶対にパキスタンなんかに行くもんか』
と本気で思ったものだった。
その旅では時間の都合で、インドまでだったが、今回アジアを横断する事になって、当然パキスタンに行く事になった。

インドのデリーで、ビザを待ったり、写真を現像したりと用事を済ませて、まずはアムリトサルという街へと向かった。
そこで1泊し、シーク教徒の聖地である黄金寺院を見学し、パキスタンへと向かった。
アムリトサルを朝出て、バスでボーダー近くの街へ行き、そこからリクシャをつかまえて、ボーダーへと行った。
ボーダー付近は畑が続いていた。
ただ、畑といっても、この時期には何も作物を作ってはいないようで、ただの茶色い平原だった。
その平原のなかに突然、2、3台の戦車が駐車してあったりして、インドとパキスタンの国際的な関係を実感はしたが、その戦車がなければ至って平和な田舎である。
インド側のイミグレはあっという間に通過し、歩いてパキスタンへと入ってそこでスタンプをもらい、カスタムチェックへと行った。
そこにパキスタン人の係員がいたが、
『今ボスがお祈りしているから、ちょっと待ってくれ』
と言われ、1時間くらい待たされた。
なるほど、イスラム圏に入ったぞと思った。
さんざん待った揚げ句、そのボスが来て、
『日本人か。いい国だ。フンザへ行くのか。あそこはいい所だが、今は寒いぞ。それじゃ、良い旅を』
と言われただけで、カスタムチェックが終わって、ちょっと拍子抜けだった。
だったら、早く通してくれれば良かったのにという感じである。

そんなわけで無事にボーダーを通過して、そこでバスを待っていると、暇そうな男たちがよってきた。
暇そうな男たちというのは、アジアを旅すればどこにでもいて、やはりパキスタンでも例外ではなかった。
なかには旅人からなんとかして、金をふんだくろうという輩も多いが、彼らは純粋に暇そうだった。
そこでチャイを飲んで彼らと雑談しているうちにバスがやってきた。
『それじゃ、もう行くよ』
と私が言うと、彼らのうちの一人が、自分の腕につけていたブレスレットを記念にと言ってくれた。
それはどっから見ても高そうなものではなく、快く受け取った。
『なるほど、そんなに悪そうな国じゃないな、パキスタンは』
と思い始めた。

バスは前方が女性専用になっていて、後方が男性専用と別れていた。
当然私は男性専用の方だ。
バスは満員まではいかないが、けっこう人が載っていて、みんなが表情もなく、じっと私を見つめている。
結構外国人が通るルートだから、日本人が珍しいわけでないと思うのだが、やはり興味があるのだろう。
この視線攻撃というのは結構精神的につらいときがある。
とくに女性の一人旅でインドや中東に行くと嫌な思いをする事も多いだろう。
私とて、それが心地良いわけでは絶対ないが、視線攻撃をする連中にこっちから軽く会釈をすると、たいてい無表情の相手も笑ってくれて、あるいは笑ってくれなくとも
軽く肯いてくれて、お互いにどこの誰だかわからない不信感みたいなものが消えて、これはなかなか効果的であることを経験的に覚えた。
このときも視線攻撃をする男たちに片っ端から、会釈をしていった。
そうして、相手も笑ってくれると、こっちも気が楽になり、英語でちょっとした会話をしたりして、なかなか悪くない時間だった。

そして1時間ばかりでラホールへと着いた。
さて、と私は思った。
例の噂を確かめるために、駅前のホテルに泊まってみるほど、私は物好きではない。

やはりガイドブックにある、安全そうなホテルに行く事にした。
それにしてもホモに襲われるというパキスタンもおかしいが、それを考えると、女性のバックパッカーというのは大変だ。
バスを降りて、市バスを乗り継ぎクイーンズウェイというホテルに着いた。

パキスタンはその例のホモに襲われるという噂を除けは、バックパッカーに人気がある。
パキスタンは人がいいと評判の国だった。
それはイスラム教に旅人に親切を施すようにという教えがあるらしいためだ。
私はそのホテルで、もちろんホモに襲われることはなかった。
しかし、私はここで、早くもパキスタン人の親切さを実感することになった。

そこのホテルのフロントには、人が3人ほど座れるソファーとテーブルがおいてあった。
それはロビーなんて呼ぶにはふさわしく無いほどの狭さであったが、たいていいつもパキスタン人の旅行者が何人かいて、レセプションのオーナーのおやじと何か喋っている。
私がそこを通る度に、そこに溜まっている誰かに呼び止められ、
『チャーイ飲んでいかんか』
と言われる。
最初は例の噂があるだけに警戒しないでもなかったが、このホテルの大丈夫だろうと
思って頂戴する事にした。
もちろんなんともない。
そして、それが毎回である。
毎回私がそこを通る度に誰かしらからチャーイをご馳走になった。
ある時、そこでカレーとチャパティーを食べている親子がいた。
その親父の方が例によっって
『チャーイのんでいかんか』
と言う。
いつものようにご馳走になると、今度はチャパティーを買ってきて、カレーと一緒に食べろと言う。
これまた、悪いなぁと思いながら頂いた。
パキスタンでカレーを食べたのはこれが初めてだったが、個人的にはインドのそれより癖がなく、非常においしかった。
それでお礼にと思って、部屋から小さいプリクラサイズのインスタントカメラを取ってきて、彼らを撮ってあげた。
私は写真が好きで一眼レフと、コンパクトカメラを持ち歩いているが、さらに遊びでインスタントカメラも持っている。
現地にお世話になった人たちにお礼代わりに撮って渡したりしている。
しかし、下手にそれを出すと、たちまち行列ができてしまうので、たまにしか出さない。
それで親子を撮るとやはり喜んでくれて、こちらも嬉しかった。
それで食事のお礼を言って立ち去ろうとすると、今度はその13歳くらいの息子が首に付けていた、オレンジ色の石に紐を通したペンダントをくれるという。
最初はさすがに断ったが、押し切られ頂戴することにした。

何もパキスタン人の人の良さは、なにもホテルの中だけには限らない。
あるときラホールを歩いていると、プラオという一見焼き飯みたなものを作ってビニール袋につめている人たちがいた。
私が通りかかると、声をかけられた。
そして、突然そのビニールに入ったプラオをもっていけという。
『それは売り物だろう?別にいらないよ』
と言うと、金はいらないからと言って、強引にその一つを持たされた。

また、チャイを売る屋台で、チャイを飲んで休んでいるときだった。
1杯飲んで、たばこを吸い、金を払おうとすると、屋台のおやじが金はいらないと言う。
何故かと尋ねると、前に座っていた男が私の分まで払って行ったというのだ。
確かにその男とは、あいさつくらいの会話は交わして、私にしきりに何か言って立ち去って言ったが、それを伝えたかったのだった。
それに気づいたときには彼はもう行ってしまった後で、私はお礼も言えなかった。

と、まあ、こんな感じて書いているときりがない。
チャイをおごられたことは数え切れないほどあった。

さらにギルギットという、パキスタン北部の街でのことである。
そこは、パキスタンの一大観光地であるフンザの入り口の街である。
私はラホールから北上し、その街で一泊し、フンザへ行き、フンザで1週間ほど過ごし、またギルギットに戻って来た。
その街は、行くときにも通ったので、泊まらないで寝台バスに乗って、さらに次の街へと進むつもりだった。
しかしバスのチケットを買おうとすると、途中の道が地震のため崩れが起きて、バスの運行がストップし、そこで足止めを食うことになった。
次の日には出れるかと思ったが、結局3日もそこで待たされることになった。
私は毎日バス会社に
『今日はバスが出るのか?』
と確認する以外には特にやることもなく、暇をもてあましていた。
やる事と言えば、チャイ屋に行って、甘いチャイをすすりたばこを吹かすことぐらい
で、そんな風に時間をつぶしていた。

確か、足止めを食らって二日目のことだと思う。
いつものように、バス会社に行って、今日もバスが出ないと言われ、またチャイ屋でチャイを飲んでいた。
あいにくテーブルがいっぱいで、私は髭を蓄え、ジャケットを着た、30代の紳士風の男と相席した。
するとその男が早速話し掛けてきた。
『私はこのチャイ屋の裏で工場を経営しているんだ。
何を作っているかって?
洋服の工場だよ。
このジャケットもうちでつくったものだ。
よかったら見学にこないか?』
と誘われた。
私は洋服の工場にははっきりいって興味はなかった。
それに一通り見た後、結局何かを買わされるのがオチだ。
とは言っても暇で暇でしょうがなかったし、何か買うように薦められても、断ればいいだけの話しなので行って見ることにした。

その工場はチャイ屋の真裏にあり、一見工場とはわからず、ちょっと大きい平屋みたいだと思った。
中に入ると商談用のロビーがあり、そのさらに中に工場があって、数台のミシンがあった。
ミシンは懐かしい足漕ぎ式のもので、数人の女性がせっせと何かを作っていた。
『ここのテーブルで型をつくって、こっちのミシンでシャツを縫って・・・』
という風に一生懸命説明してくれた。
その説明の後、商談用のロビーでチャイをごちそうしてくれて、何冊かのカラーのパンフレットを見せてくれた。
『うちはいくつかの学校の制服をつくっていて、それが主な収入だ。
しかし、紳士服のジャケットもオーダーメイドで作っている。』
パンフレットには学生服の写真がいくつもあった。
私がそのパンフレットをぱらぱらめくっていると、突然奥からジャケットとヘンプのTシャツをもってきて、どっちが好きかと聞いて来た。
私は、来たぞと思った。
あとは適当に断って退散するかと考えていると、
『プレゼント フォー ユウ』
と言うではないか。
ジャケットにしてもヘンプのTシャツにしても、新しくどう見ても売り物であった。

『本当にもらっていいの?』
と何度も念を押すと、どうやら本当らしい。
ジャケットをもらっても、バックパックを背負ってははどう考えても似合わないでの、Tシャツのほうを頂くことにした。
『じゃ、Tシャツを・・・』
というと、従業員の一人が綺麗に折ってビニールに入れ、タグまでつけてくれた。
どう見ても売り物だ。
私はありがたく頂いて、何度も礼を言って店を出た。

パキスタンのホモの噂は、運良くそれを実感することはなかった。
しかし、パキスタン人が旅人に対して親切だということは肌で実感した。
人がいいとか悪いとか、どこの場所が面白いとか面白くないとか、そんな話しは主観的すぎて、感じる側によって、かなり印象というは変わってくる。
でも、このパキスタン人の親切さというのは、10人いれば8人は同じく親切だと答えるのではないだろうか。
パキスタンは私にとって初めてのイスラム国家だったので、行く前はちょっと良く分らない国だなぁと思って不安もあった。
でも実際行ってみると人々は親切で過ごし易い国だ。
私のなかでのパキスタンはそんな風に映った。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

ヒッチハイクの景色たち

ラサを出てから、2日かけてラツェという街まではバスで行ったが、そこから西チベットは旅して、ネパールに抜けるまでの移動は、全てトラックのヒッチハイクだった。
数えてみると10台のトラックをヒッチしたことになる。
西チベットを、トラックをヒッチして移動することは、決して楽なものでなかったが、ヒッチでしかできないような体験も多かったし、出会えない風景も多かったように思う。

トラックの乗り心地と、移動のスピードは、道の状態もさる事ながら、ドライバーの性格とやる気によるところが大きい。
いろいろなドライバーがいて、いろいろなトラックに乗った。
幌がなく、土埃がひどくて、眉毛に砂がつもって仙人のようになったトラック。
実際には2泊3日の距離なのに、寄り道が多く、いつ聞いても「明日着く」と言って結局4泊5日かかったトラック。
家に招いてくれて、インスタントラーメンや、ご飯をごちそうしてくれたドライバー。
宴会が始まってひたすらワインみたいな酒をすすめられて、気持ち悪くなるまで飲まされたこともあった。

なかでも最悪のトラックはツァンダからタルチェンまでのトラックだった。
そのトラックのことは忘れたくとも忘れられない。

ツァンダでそのトラックを捕まえたのは早朝で、最初の値段交渉はスムーズだった。

料金を紙に書いてドライバーに確認して、荷台に上ってみると、すでに数人のチベット人と日本人が乗っていた。
トラックの振動は、荷台のなかでも場所によってだいぶ違うということを、今までの経験で学んでいたから、なるべく振動の少ない前の方に行きたかったが、いい場所にはすでにチベタンがいた。
さらにその後方に数人の日本人がいた。
必然的に空いているスペースは荷台の一番後ろしかなく仕方なくそこに座った。
トラックの荷台の床は固い。
ただの鉄板だ。
チベタンは用意周到に敷物を持っているし、先客の日本人は、チベタンの野宿用の分厚いマットを借りてクッションにしていたが、私が借りる分はもうない。
私は何か敷くもの探したが見当たらなくて、トラックの振動がちょっと心配だった。

そして走り出したそのトラックは、この世の中で最も乗り心地の悪い乗り物だと断言してもいいくらいひどいものだった。
道は山道が続きでこぼこで、ドライバーは荷台に人が乗っていることなんかおかまいなしに、ぶっ飛ばすものだから、そのでこぼこの度に振動が荷台を突き上げる。
ガタンという度に体全体が宙に浮いて、着地の時に尻の骨を打つ。
尻の痛さも耐え難いものだったが、その衝撃が内臓に伝わりそれもきつい。
まるで空手で中段突きを食らった時のような感覚だ
必死にトラックのふちにしがみついても、まるで意味がない。
自分の着替えを敷物にしたがほとんど効果がない。
おまけに、荷台にくくりつけられたバカでかい予備タイヤが、ロープで縛ってあるはずなのに、何十センチもバウンドして何回も足をはさみそうになる。
それは乗り物とはいえない。
何かの罰ゲーム、いや何かの刑罰となり得るものだ。
途中、何回も「もう降りよう」と思ったが、他のトラックがいつ捕まるかわからない
で必死にこらえた。
戦いは12時間続いた。
タルチェンに着いた時にはヘロヘロに疲れていた。
宿で荷物をチェックしてみると、ガソリンコンロの鉄の部分が振動で曲がっていた。

しかし悪い体験ばかりではない。
ヒッチを始めたラツェという街はずれの、ダプという村では、2日間トラックを待ったが、村人たちがとても親切にしてくれた。
水をくれたりバター茶をごちそうしてくれたり、家に招いて三味線のような民族楽器を披露してくれたりした。
村の子供たちもたくさん集まってきて、写真を撮らせてくれたりもした。
彼らとはトラックを待つ間、日本の遊びを教えて一緒に遊んだりした。
別れ際、子供たちが口々に「1元ちょうだい」と言ってきたのには少しがっかりしたが、そんな中「そんな事いうな」と言って、彼らを諭している年長の少年がいた。
その少年の眼差しは他の誰よりも凛としていた。

そのダプから乗ったトラックは、最初馬鹿みたいな料金を言ってきて、値切るのにてこずったが、いざ乗ってみるとなかなか快適なものだった。
ドライバーの二人も優しい人たちだった。
荷台にはパイプが山積みになっていて、他に乗っている人もいないので、その上で横になれた。
荷物に気を使って走るドライバーだったので、振動も少ない。
幌付きのトラックで晴れると前の部分を開けてくれて、景色を楽しめたし、ちょっとした雨でもわざわざ幌を閉めてくれた。
夜はドライバーと一緒にその荷台で寝かせてもらったから、宿代もかからなかった。

彼らは休憩の度にバター茶をご馳走してくれた。
最初はやはりおいしいとは思えなかったが、慣れてしまえば案外いける。
ある時、そのバター茶を飲みながら、地図を広げどの辺りまで進んだのかをドライバーと話していた。
草原にぺたりと座って、あと何日かかるとか、そんか会話をしていた。
その地図には「西蔵自治区地図」と書かれてあり、私がラサで購入したものだった。

彼らは「自治区」の部分を指で隠し、「これが本当の呼び方だ」とでも言っているようだった。
ここに住む人たち、景色、文化、どれ一つとっても中国ではない。
旅行者の私などはここが中国だなんてことは忘れていた。
ここはチベットだ。
やはり一つの国なんだ。

私も「自治区」のところを指で隠し、ちょっと笑いながら「今どこにいる?」と聞いてみると、彼らの顔もまた微笑んでいた。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

匂い

匂い。嗅覚。人間の、嗅覚、感覚、知覚、感受性。
ぼくは、不思議に思う。それらを、とても不思議に思う。
どうして目の前にある現実は一定ではないんだろう?
どうしてぼくの見ているものは、あなたの見ているものと同じではないんだろう?
どうして今確かにいるこの場所が、とつぜん違う所になったりしてしまうんだろう?

よくあるでしょ。アジアン雑貨屋さん。
たいてい、雰囲気を出すために、お香を焚いている。
独特の香りのする、あれだ。
そしてそれらは、ネパール製だったりする。
その前を通ってね、その煙の匂いを嗅いだりすると、ぼくは一瞬にしてカトマンズへ行ってしまうんだ。
カトマンズの思い出が、目の前に広がってくる。
そのとき見ていた光景の、本当にちょっとした細かな部分までが鮮明に甦ってくる。
インドでなくってネパール、なんだ。
あの、甘い香りは、カトマンズなんだ。
その煙りの匂いは、このぼくを一瞬にしてネパールへ連れていく。
目の前に広がる、甘い思い出。
他のどこでもない、ネパールの思い出。
とっても甘い。甘く切ない。

そんなのが。
忘れてしまっていた、そういう感覚が、お香ひとつでよみがえる。
不思議だと思わない?
人間は、忘れてしまっていると思っていても、どこかでそれを覚えているものなんだ。
感覚が、無意識を刺激して、目の前に幻をつくり出す。
お香の匂いは、オレに、カトマンズの風景をとてもはっきりと、思い出させる。

無限だな、と思う。
人間の感覚は、無限なんだな、と思う。
そんな奇跡をつくり出せる。

健全な社会生活を送るために、健全な約束事があって、オレはそれらを、とってもつまんないものだと思うんだ。
人間とは本来、もっと自由で、何でもありの存在だと思うから。

ぼくは、人間の持っている感覚が好きだ。
言葉では言い表わすことのできない不可思議さが好きだ。
だから、世界とは、もっと自由であるべきだ。
お香の香りひとつでカトマンズへ行けるぼくみたいな奴もいるんだもの。
もっと何でもありでいいじゃないか。

世の中は、もっとはっきりしている。
答えは、すぐ目の前にある。
そんなにシンプルな世の中なのに、何故だかとても難しいものに思えてしまう。
それってもったいないよね。
せっかく生まれてきたんだから、ぼくは楽しく生きたい。
楽しんで毎日を過ごしたい。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

バクシーシのこころ

自分の歩いている前方に物乞いが座っている。
もう50歳を越えているように見えるが、おそらくもっと若いだろう。
左腕が折れていて、腕が皮膚だけでつながり、ぶらりとぶら下がった状態になっている。
彼はすでに私を見つけて、じっと見ている。
私が近づくと手を差し出してバクシーシ(施し)を求める。
私は決して目線を合わすことなく通りすぎる。

こんな事はインドに入ってから数えきれないほどある。
私はその瞬間が嫌いだった。
別にバクシーシをしないことに罪悪感はない。
求められるままに金を渡したら、私は散財し、すぐに帰国するはめになる。
嫌いなのは慣れてしまうことだ。
自分とは対極ともいえる状況にいる彼らを見ても、何も感じることなく、視線を合わせることなく、ただ適当にあしらうのだけは上手くなる。
そうなってしまう自分が嫌いで、恐かった。

チベットではほとんど見かけなかった物乞いも、ネパール、インドと南下するにつれ目につくようになる。
特にインドに入ってからは、一日として彼らを見かけない日はない。
ガンガーで、路上のチャイ屋で、バスの休憩で、デリーの地下道で、至るところに彼らはいる。

手のない人。
足のない人。
それらの変形している人。
下半身のない人。
顔の変形している人。
皮膚のただれている人。
赤子を抱えている人。
子どもがさらに幼い子どもを抱えていることもある。
さまざまだ。
もちろん五体は満足にある人もいる。
彼らに共通しているのは、力のない目だった。

彼らは同情を得るために、自ら自分の体を傷つけると聞いたことがある。
また、同じ理由で赤子を借りてきて、そのための業者もあると聞く。
それを彼らの技術だと皮肉っぽくいう人もいる。
実際、私が通りすぎると、それまでうつろな目をしていたのが、急に元気になったりする人もいた。
またインドには習慣としてバクシーシがあるから、物乞いを一種の職業だと捉える人もいる。
しかし、虚ろな目を装ったって、自分を傷つけたって、仮にそれが職業だとしても、彼らが貧困のどん底にいることに変わりはないと、私は思う。
逆にそこまでするしか、彼らには生きていく術がないとも言える。

私も彼らの壮絶とも言えるアピールを見たことがある。

それはネパールのポカラのある食堂でのことだ。
私は友人二人とラッシーを飲みながらくつろいでいた。
なんとなく外に目をやると老婆が外を歩いている。
そのときは彼女が物乞いだとは思わなかった。
衣服もそれほど汚れているわけでもなく、歩き方もしっかりしていた。
老婆は私たちに気が付くと、食堂の入り口までやってきた。
そして、ゼスチャーで食べるものがないと、バクシーシを求めてきて、そのとき初めて老婆が物乞いであるとわかった。
私たちが拒否すると、老婆は私たちの座っているテーブルの目の前まで来て、再びバクシーシを求める。
しかし私たちはさらに「NO NO」と言って、彼女を無視して喋り始めた。
すると老婆は突然、テーブルの上に置いてあって、灰皿を手に取った。
このときは、吸い終わったたばこを持ち帰り、残りの部分を後で吸うのかなと思った。
しかし、彼女のその後の行動は、私の理解を越えていた。
まず吸い殻を外へ捨てて、灰皿の上に積もっている灰を口に運び、一気にごくりと飲み込んでしまった。
それだけ食べるものがないということなのだろう。
私は唖然として声も出なかった。
そしてさらに老婆はバクシーシを求めてきたが、結局私は何も渡さなかった。
正直、なんだかその老婆が恐かった。
他の二人も私と同様、バクシーシをしなかった。
すると老婆は諦めて、以外なことにちゃんとお金を払いその店でバナナを2本買って
いった。その様子を見て、
『なんだ、お金あるんじゃん』
とそのときは思った。

しかし何だか釈然としない。
ゲストハウスで一人になって、その出来事を思い起こしてみる。
彼女は確かにバナナ2本分のお金を持っていた。
でも、もしかしたらそれが彼女の全財産かもしれない。
いや他にも多少のお金を持っていたとしても、やはり食べるものに困る生活なのだろう。
でなければ、たばこの灰なんか、食べるわけがない。
かといって、彼女にバクシーシをしなかったことを後悔したわけではない。
施すかどうかは自由だろう。
しかし、その老婆がバナナを買ったことを以外に思い、安易に、彼女がお金をもっているのなら、私たちがバクシーシをする必要はないと思ったことを恥じた。
物乞いだって、食べ物くらい買うだろう。
でなければ生きていけない。

確かに私は求められるまま、バクシーシをするわけではない。
しかしいくら私が貧乏バクパッカーといっても、バクシーシに応えることだってある。

バラナシで、ガンガー沿いを歩いているとき、よく会う物乞いがいた。
最初、私がガンガーを見ながらぼーっとしていると、彼が近づいてきた。
歳は20歳くらいの青年で、衣類は汚れていて、アルミの缶をもっている。
私はいつものように「NO NO」と言って、バクシーシを拒否したが、彼はあきらめずなかなか立ち去ろうとしない。
私の言うことなど無視して、食べるものがないと小声で喋っている。
そのうち私の方がしびれを切らせて、その場を離れた。
そうすると彼も私にスタスタとついてくる。
そんなことをしばらくやっていたが、いいかげん私は彼のしつこさにうんざりして、大人げなく怒鳴ってしまった。
するとさすがに彼も諦め、どこかへ行ってしまった。

そして次の日、また彼とガンガーで会った。
昨日のことなどすっかり忘れているように、またバクシーシを求めてきた。
私はなんとなく、昨日怒鳴ってしまったことを大人げなかったと思っていて、たばこを1本渡した。
そうすると驚いたことに、それまでの表情とは一変して、彼はにっこりと笑顔になった。
驚いたのは別にたばこが喜ばれたからではない。
元々バクシーシは、施す側が施すことによって徳を積めるとされているので、もらう側はお礼なんていわないし、愛想がよくなるわけでもない。
だから彼が私のバクシーシに喜びを表したことが以外だった。
その顔が見れたことで、私も気分がよかった。
その次の日も、そのまた次の日も私は彼と顔を合わせた。
私はその度に彼にたばこを渡し、その度に彼は喜びを顔いっぱいに表わした。

また、デリーで日本大使館に行くために市バスにのったときのことだ。
大使館までは距離があったが、タクシー代なんて払う金はないので、バスで行くことにした。
乗ってからしばらくすると、どこからか悲しい旋律が聞こえてきた。
車内を見渡すと、10歳くらいの少年がアコーディオンのちょっと小さくした楽器を弾いている。
どこから乗ったのかはわからないアコーディオン弾きの少年と、そのあまりに悲しい旋律はなんだか、映画のワンシーンのようだった。
私はその旋律に身を任せていたが、しばらくして、その少年とは別にもう一人少女が乗っていることがわかった。
その子は乗客一人一人にバクシーシを求めていた。
なるほど、彼らは兄弟らしい。
その悲しい旋律のためか、かなりの人が小銭を少女に渡していた。
私もいくらか渡すことを決めていた。
そして、少女は私の目の前にきた。
私はその時に初めて、少女のあごの骨がぐにゃりと変形しているのに気がついた。
左の方が耳から顎にかけて、ひしゃげている。
それでは食べ物を噛むのも大変だろう。
正直私はその少女を直視できなかった。
私はすでにバクシーシをすることを決めていたので、財布から小銭を探したが1ルピーが見あたらない。
あるのは5ルピーの硬貨だけだった。
5ルピーといえば、15円くらいだと思うが、海外に出て日本円に換算しても意味がない。
5ルピーといえば、チャーイ(ミルクティー)が2杯飲めるし、屋台でバーガーが買えるちょっとしたお金だ。
しかし私は迷うことなく、それを渡した。

インドを旅すると、このバクシーシは避けて通れないものだ。
しかし、別に難しく考える必要はないと思う。
自分の心が動けば渡せばいいし、別に渡さなければいけないというものでもない。
別に私がバクシーシすることで、彼らが救えるなんて、そんなおこがましいことは考えないし、そんなことがあるわけもない。
また子どもへのバクシーシは、彼らの自立心の成長を妨げるなんて難しいことを言う人もいるけど、それを肯定する気もない。
ただ私は、私の渡した小銭で、チャーイの一杯でも飲めればそれでいいと思っている。

もう何年も前、ある本でバクシーシについてのエッセイを読んだことがある。
残念ながら筆者も題名も覚えてないが、鮮明に覚えている場面がある。

それは欧米人の筆者がインドを旅したときのことだと思う。
インドのどこかの空港に来たはいいが、筆者に何かのトラブルが起きてしまう。
トラブルといっても命に関わるものではなく、ちょっとしたものだったと思う。
その時に通り掛かった、インド人の紳士が、筆者を助けて問題は解決した。
筆者はその紳士に何かお礼がしたいと言うが、紳士は丁寧に断って、こう言った。

『あなたが私にお礼をする必要はありません。
もしあなたが、私のちょっとした親切に感謝の念を抱いたのなら、あなたも誰か身の回りの困っている人に、同じようにちょっとした親切を施してください。
いや、別にお金をあげてくれとかそういう意味ではないです。
自分のできる範囲で、ささいな親切を施してくれればそれで結構です。
そうして、私からあなたへと渡った親切が、あなたから別の人へ、そしてその人からまた別に人へと、世界中に広がっていくでしょうから。
それをインドではバクシーシといいます。
それではよい旅を。』

なるほど、バクシーシとは本来そういうものなのかもしれない。
別にインドの貧困問題とか、子ども自立心とか、難しいことを持ち出す必要もないだろう。
私も今度はお金ではなく別の形で・・・・

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

カーペンターズ

インドの山奥で部屋をシェアしていた奴が、いつもカーペンターズを聴いていた。
オレは、知っての通りのロックン・ローラーで、そんな甘ったるい曲聴けるかよ、って、本人には言えないけど内心いつもそう思っていた。
そいつは、 そこで出会ったタトゥー職人に、キューバ革命の英雄、チェ・ゲバラ、のタトゥーを入れてもらっていたような奴で、お前がカーペンターズって柄かよ、って、これまた内心いつもそう思っていた。

先日、NHKか何かの番組で、カーペンターズの特集をやっていた。
何の気なしにそれを見ていたぼくは、歌うカレン・カーペンターの姿を見て、戦慄を覚えた。
決して美人とは言えない彼女は、むしろ、陰惨な印象をかもし出していた。やつれた顔の輪郭、太い眉、薄い唇、青ざめた顔色。

しかし。

しかし。

彼女の笑顔。

はち切れんばかりのその輝き。

あんまり眩しいその輝きは、明るい気分を通り越してむしろ、悲しみを表現していた。
オレは、何だか知らないけど、涙が止まらなかった。
あの表情は、あの笑顔は、決して簡単なものではなかった。
決して、お愛想や、付き合いで作ることのできるものではなかった。
深い悲しみや、寂しさを知っている人だけにしかできない微笑み方だった。

オレはそんなことを思いながら涙が止まらなかった。
本当に止まらなかった。

何でだろう? 何でそんなに辛い思いをしなくちゃならないんだろう?
彼女は、彼女は、きっと、強く求めているものが目の前にあるのにもかかわらず、目の前にあるそのものと自分との間に絶望的に永遠の隔たりのあることを知っている人だったんだろう。
目の前にあるのに、決してそれに触れることのできないもどかしさ。
それを確信している、不幸。
欲しいものにはいつだって手が届かない。
遠い雲の上。

なんて、不幸な人生なんだろう。
なんて、悲しい人なんだろう。

でも。
笑ってる。
彼女はいつも笑ってる。
永遠の孤独を知っていて、もはやそれに抗うことすら諦めて、それを受け入れようとしている。
そのために歌う。
魂をしぼりあげて歌う。

だから。
彼女の声は美しい。
この世のものとは思えないぐらい、美しい。

オレは思うんだ。
彼女の歌声には、神さまが宿っていると。
彼女は、きっと、その歌声で、神を表現しようとしているんだと。
愛に溢れてる。
胸いっぱいの愛だ。

こういう人が、いたっていうことは、オレに希望を与えてくれる。
偽物ばかりの世の中で、嘘やまやかしだらけの世の中で、こういう本当の人が確かに存在したという事実は、オレに生きる希望を与えてくれる。
とても優しい気分にさせてくれる。

世界のてっぺんに腰掛けて、眩いばかりの笑顔を振りまいて、みんなの幸せのために歌う。
みんなの幸せのために、命を削って歌い続ける。

ああ、カーペンターズって素晴らしい。
本当に、素晴らしい。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。