たのしかったこと

ぼくはどちらかと言うと、インドア派でアウトドアな遊びはあんまりしたことがなかったし、また、それほど興味もなかった。
何だか目に見えて健康的な雰囲気に、反発心だかすねてんだかよく分からない心境になって、それこそよく分からない嫌悪感を、アウトドアに対してずっと抱きつづけていたのだ。
でもアジアを旅行するって事は無理矢理アウトドアをさせられてるのと同じようなものなので、知らない間にぼくはアウトドアな行いをどんどんこなしつつあったのだ。
それでもぼくは反発して、なんだよこんなん、暑いだけだよ、とか、だりぃよ、山なんて登りたくねぇんだよ、とかぶつくさ文句を言ったりしていた、の、だが、実際は心の奥底でそっと楽しんだりしていたのかもしれない、今思い返してみると。
その証拠にどうしても忘れられない、たのしかったこと、が、ぼくにはたくさんあることに気がつく。
それらの内のひとつを今から紹介してみたいと思う。

みなさん、ラオスという国を知っていますか?
ぼくは全く知りませんでした。
そんな国の名前も。そんな国があるということも。

タイの北に位置する国で、人口500万ぐらいの小さな国だ。
本当に田舎というか、自然が豊かというか、国土は緑に覆われていて、いや、ほとんど山で、その山道をオンボロバスで走っていくと、高床式の家にみんな住んでて、棚田が一面に広がっていて、ここは本当に現代なのだろうか? という、ちょっとタイムスリップしたような、異次元に迷い込んだかのようなえも言われぬ気分にさせてくれる、そんな国だ。
だって、山賊が出るっていうんだぜ?
そのスーパーオフロードな山道で。
山賊って、いつの時代の話だよ、山賊に気をつけてね、って言われたってよくわかんねぇよ、そんなの。
仕方ないから超満員のバスの中で、オフロードに激しく身体を揺さぶられながら、山賊に注意してたんだ。
そのおかげかどうか、幸い襲われずにすんだけどね。

そんな風に山賊の危機に脅かされながらやっと辿り着いたルアンプラバンという言ってみればラオスの古都のような町から、再び首都ビエンチャンに帰るとき、また、山賊の危険にさらされるのはまっぴらごめんだったので、何か違う方法を考えた。
そこで出てきたグッドアイディアは、船、だった。
思えば、チベット高原に源を発する母なる大河、メコンが南北にラオス国土をごうごうと流れているではないか。
出会った旅人に教えてもらった、スローボートと言う、船の上で三日ぐらい過ごすやつが値段的にも安いし評判もいいのでそれに乗ってみようといざ船着き場へ行ってみると、スローボートは三日に一回しか出ないと言う。
でも、スピードボートならあるぞ、とそう言われた。
話を聞いてみると、値段はスローボートの五、六倍、時間はそれの三分の一ぐらい。
宿の値段が一泊五、六ドルの物価の国で、五十ドルぐらいかかることになるのだ。
飛行機で飛ぶのと一緒ぐらい。
何のメリットもない。
でも、船着き場周辺は宿も何もなく引き返すにもルアンプラバンまで車で二、三時間かかるところなので仕方なくお金を払って乗ることにした。
で、乗るときに、変なヘルメットをかぶらされた。顔面にプラスチックのシールドがついているやつ。
さらにライフジャケットも。
そしてそのまましばらく客待ち。
直射日光で蒸れるヘルメット内。
自分の息遣いが規則的に響く。
もうだめだ、ヘルメットを脱ごう、と思ったそのときに、お客がひとり。
自分と同じ格好をしたおっさんが乗り込んできた。
ふう、やっときたか、と一息ついてたら目の前に現われたのが、ヘルメットかぶったお坊さん。
あの、ビルマの竪琴みたいなオレンジの袈裟着たお坊さん。
さらにその上にライフジャケットまで羽織ろうとしている。
そして、東南アジアの国々ではお坊さんは大変尊敬されているので、運転手だとか、さっきのおっさんだとかがヘルメット姿のその坊さんに向かって手を合わせて拝んでいる。
ぼくはその様子がおかしくっておかしくって、声を出さないように、笑いを押し殺すのに必死だった。

さて、どうやら三人ぐらい集まればドライバーは満足だったらしく(恐らくぼくが外人料金として、三人分ぐらいは払わされている)、彼はいよいよエンジンのスターターを引いた。
スクリューがごう音とともに水飛沫をあげる。
乳白色のメコンの水を荒々しくかき回す。
みんなヘルメット姿で神妙な面持ちで出発を緊張して待っている。
いよいよ出発だ、と思ったその瞬間ボートは物凄い勢いで水面を滑り始めた。
重力の影響で坊さんのヘルメット頭が激しく左右に揺れる。
ぼくはまたもやおかしくておかしくて、笑いながら同じように揺れていた。

しかし、いくらメコン川が大きいといっても、ここまで上流に来ると川幅もぐっと狭くなり、水流も勢いづいていてとても激しい。
あちこちに竜巻きみたいな渦がいくつもできている。
ドライバーはそれらの渦の回転をうまく避けながら、物凄いスピードで船を走らせる。
実際何キロぐらい出ているのかはっきりとは分からないが、体感速度では百キロ以上は出ていたように思う。
それぐらい速かった。
しかも激流で、うねる波間には大きな岩がいくつも顔を覗かせ、ああ、何かの間違いであれにぶつかったりしたら、死ぬな、と寒々しい気分になり、目の前で揺れている坊さんのヘルメット頭もあんまり笑えなくなってきた。

でも慣れてきてまわりの景色なんかも眺められる余裕がでてくると、こんなスリリングな遊びは他になかった。
ディズニーランドのジェットコースターなんて比べ物にならないぜ。
だってこちとら本物だもの。
断がい絶壁に、ツバメの巣があるらしく、何匹かその周りを旋回している。
そしてその様子が青空をバックに逆光で輝き、風切り音で音もなく、映画のワンシーンのような叙情的な風景に仕上がっている。
夢見心地で周りを見ると陸地は広大なジャングルで覆われ、野生の虎なんかが顔を出してもちっともおかしくないような光景だ。本当に夢を見ているような感じになった。
こんなところに自分がいて、こんなことをしてるなんて、ちょっと信じられないような気分。
こんな世界はテレビの中だけのできごとだった。
それが今、目の前に広がっている。
淡白なリアリティを伴って存在している。

水面をよく見てみると、実に様々なものが流れている。
木の枝や、流木、プラスチックなんかの人工的なもの、果てはなんだかよく分からない生き物の死骸まで、色んなものが沈んでは浮かび、浮かんでは沈んだりしている。
あるものは二度と浮かび上がってこない。

またもや再びゾッとした。
自分たちがいつこうなってもおかしくはない。ちっとも。
こんな重装備している理由がよく分かったよ。

でもおかげでその船旅は緊張感があって、とてもたのしいものとなった。
遊園地と違って安全が保障されていないのが良かったかもしれない。
多分、たのしいことって、リスキーであればリスキーである程面白みが増すと思うんだ。
ゾクゾクするような高揚感。
安心してたら味わえないもんね。

あのときひょんなことからあのスピードボートに乗れて良かったと思う。
とてもたのしかった。
あの光景は未だに忘れられないし、あんな体験はそうそうできそうもないからね。
もちろん、無事だったことにも感謝してるけど。

やっぱ何をやるにしても命をかけるぐらいの、誠実さって必要だと思うんだ。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

エジプトで騙される

誰が言い出したのかはわからないが、バックパッカーの間で語られる「3大バカ民族」というのがある。
あくまで、噂話の域を出ないものであり、あまり上品な言い方ではないし、言われた方はいい迷惑どころか激怒しそうなものだ。
しかし、平たく言えばそれらの民族の国は、旅行の行き先としては人気があっても、旅をする上ではトラブルも多いということだろう。
そしてトラブルに巻き込まれ、しまいには、彼らに対する反感がつのり
『奴らバカなんですよ』
ということになる。

その3大バカ民族は中国人、インド人、そして私のいるエジプト人である。
もちろん、私もそう思うかと言われれば、そんなことはないと思うが、私自身の旅を振り返っても、なるほどと思わないでもない。

まず中国であるが、ここはほとんど英語が通じない。
私の訪れた国々のなかでもだんとつである。
「one two three」さえ通じない。
都会ならともかく、地方に行くともう絶望的である。
彼らは漢字を使うので、筆談という手もあるが、これは思っているほど通じず、なにより誤解が生じる危険もある。
従って、中国を貧乏旅行するには、片言の会話を覚え、数字を覚え、旅に臨むことになる
私も、これが欲しいとか、どこに行きたいとか、それくらいの中国語は覚えた。

しかし、やはり通じないことの方が多い。
これは私が実際に実際に体験したことだが、マクドナルドでハンバーガーを中国語で注文した。
覚えてたての中国語で恐る恐る喋る。
すると、店員は私の言っている意味がわからずに、
『アー?』
と言う。
その『アー?』は普通の『アー?』ではなく、「何だお前は中国語も喋れずに中国にいるのか」という風に聞こえる『アー?』なのだ。
はっきり言ってしまえば、非常に不愉快に聞こえるのだ。
恐らくは「何て言ったの、もう一回言ってくれる?」という意味を込めた『アー?』
だと思うだが、何度聞いても不愉快に聞こえてしまう。
頭ではわかっていても、感情的はやはり腹立たしい。
これは慣れるまで時間がかかった。

さらに中国人はマナーが悪く、道端やバスや列車のなかでも痰ははくし、列には並ばない。
バスのなかで親が子供に小便をさせている。
女性は大股を開いて座る。
一度列車で、すごい美人を見たが、その股を大いに広げて座る姿に、心も萎えた。
とにかくマナーの悪さは、指折りであろう。

次にインドである。
この国もトラブルの宝庫である。
まず、タクシーやリクシャの類は、ひたすらぼったくろうとする。
特にひどいのが、デリーの空港からプリペイドタクシーである。
まず、空港のプリペイドだからといっても、安心できない。
ぼったくろうとするので、あらかじめ料金を知っていないといけない。
そしてやっかいなのは目的地に行ってくれないということだ。
特に深夜にデリー空港の到着した場合は要注意だ。
たいていの旅行者は安宿街のあるメインバザールへ行ってくれと言いタクシーに乗るが、深夜でゲストハウスは閉まっているとか、最近テロがあったとか、なにかと理由をつけて、高級ホテルへ連れていって、マージンをもらおうとする。
しかも200ドルのホテルに連れていかれたが、実際はせいぜい30ドルほどのホテルだったりする。
さらには、偽者の政府ツーリストオフィスに連れていき、法外な値段のツアーを組まされたりする。
特に女性の一人旅などでは、数人に囲まれてしまえば、詐欺だとわかっていても、やはりお金を払わざるを得ないことも多いと聞く。

そして最後が私のいるエジプトである。
タイプとしてはインドと似ている。
物の物価がないのだ。
土産屋などで、外国人と見ると10倍くらいの値段は言われることも少なくない。
さすがに日用品では、そこまでの値段を言われることは少ないが、それでも水1本買うにしても、せこくぼってくる店があるのも確かだ。
だからゲストハウスの情報ノートには、「正直屋を発見 ここならぼりません」なんていう情報まである。
正直屋というのは、適正な値段で買える雑貨屋という意味だ。
しかもやっかいなのは、地元の住民までがそのツーリストプライスというのを認めている節があるということだ。
それは特に観光地がひどい。
例えばアブシンベル神殿で有名なアスワンでのことである。
その街から、ナイル川を渡るとヌビア人の住む村があり、私は何度かそこへ写真を撮りに行った。
ナイル川を渡るには、対岸まで乗合ボートが出ていてそれに乗らなければならない。

たいてい1エジプトポンドで乗れる。
これで約20円だ。
こんなに安いのかと思ってしまうが、実は地元の人は0.25エジプトポンドで乗っている。
日本円に直すとわずか5円である。
私も最初にこのボートに乗るときに1ポンド払ったが、その後、他の旅行者と話していて、実は0.25エジプトポンドであることを知った。
しかしこの手の本当の値段を知るのはかなりやっかいだ。

後日ボートにのって、0.25ポンドきっかりのコインを出すとなにも言われなかったが、帰りに1エジプトポンドを出し、お釣りをくれといっても、なかなかくれなかった。
私がもめていると、他の乗客までが、1ポンド払えと言う。
つまりは、決められたツーリストプライスというわけではないが、地元の人と、ボートの職員暗黙の了解のもとに成り立っている外国人料金というわけだ。

同じようなことは、ここらで食べることのできる、ファラフェルというサンドイッチを買うときや、チャーハンとパスタをトマトソースで味付けしたような、エジプトの国民食であるコシャリ屋に入ったときにもあった。
カイロでそういうことは、まずないが、観光地ではひどい。

シリアからエジプトまでのルートは、南下するほど人が悪くなり、エジプトでピークを迎えるとよく言われる。
とはいえ、私はそれほど心配してはいなかった。
今までの旅でも、物価の決まっている国ほうが少なかったし、初めての国であっても、何かを買う前に、いくつかの店で値段を調べてから買えは、おおよその物価もつかめてくる。
それに、私としては、ぼったくろうとする連中がそれほど嫌いではなかった。
もちろんぼられると、腹立たしい。
しかし、お金を払うときは、納得して払うわけだから、こちら側の責任もある。
また、持ってる奴からは一円でも多く取ってやるといって、彼らのパワーみたいなものも、まんざら嫌いではないし、彼らとの交渉も旅でしか味わえないものである。

しかし、旅行者のなかには、徹底的に、そして頭からエジプト人は信用していない人もいた。
『あいつら、頭おかしいんですよ』
とまで言う人もいた。
旅をする上で警戒心とは、ある程度必要だが、そこまでいくと見苦しい。
だったら、エジプトに来なければいいのにと思ってしまうのは、余計なおせっかいだろうか。

さて、前置きが長くなったが、その3大バカ民族のエジプト人に、私もまんまとやられたのである。
別に巧妙な手口だったわけはなく、今考えると私が間抜けすぎた。
あるいは、旅慣れているという油断があったのかもしれない。
この旅で知らず知らずのうちに、小銭をぼられていることは、いくらでもあっただろうが、やられたと実感したのは、これが初めてであった。

その日、次の目的地、ルクソールまでの夜行列車の時間まで、カイロの街をふらふらと歩いていた。
もう夕方に差し掛かった頃だ。
その男が声をかけてきたのはそんな時だった。

宿の近くの交差点だった。
『ハロージャパニーズ、どこへ行くんだ?』
と声をかけてきた男は、50歳くらいのメガネをかけた中年で、片足をすこし引きずって歩いていた。
『シャイをご馳走したいんだ』
という唐突な誘いに対し、
『これからジュースを飲みに行くんだ』
と無表情に答えた。
どうせこの手の輩は、結局は土産物屋の客引きだったりする。
しかも初対面の、最初の言葉が、シャイを飲もうだなんて、どう考えても怪しすぎる。
それでも彼は、
『だったら待っているから、少し話をさせてくれ』
とめげない。

私は彼を無視して、いつも飲んでいる生ジューススタンドに行き、オレンジジュースを飲んだ。
この時期のカイロは、暑くも寒くもなく、日本の春先みたいな気候だが、目の前でオレンジを絞ってつくる新鮮な生ジュースは、体に吸収されるような感じで旨い。
しかも約20円と安い。
もちろん、椅子なんてないから、路上でグビグビと飲む。
そしてきた道を引き返すと、彼は同じ所で待っていた。
『約束通り待っていた、シャイをおごるよ』
『約束なんてした覚えはない。
あなたが勝手に待っていただけだ』
と我ながら冷たい言い方をした。
『5分でいいんだ。5分間だけ話をさせてくれないか』
『なんでそんなに私と話がしたい。盗られるような金は持ってないぞ』
と私が言うと、彼は続けた。
『そんな気はない。
今度娘が日本へ行くことになったんだ。
だから日本のことを少し教えてほしいんだ。
君は日本人だろう』
当然、そんな話を私は信用しない。
『だったら他をあたってくれ、今は時間がないんだ』
実際に時間がなかった。
列車の時間まではまだずいぶんと余裕がるが、宿に帰ってパッキングをしておきたかった。
私が、立ち去ろうとすると、彼はメモに自分の住所を書いて私に渡した。
『暇なときに、手紙をくれないか。何でもいいから日本のことを教えてほしい』
会って、数分しか経っていないこの男に、手紙を出すはずもないのだが、私は彼の住所の書かれたメモをうけとり、もしかしたら彼の言っていることは本当かもしれないと思い始めた。

もしこの男に、例えば土産物屋に連れて行き、何か買わせてマージンをもらうだとか、人気のないところに行き、仲間を呼んで金を奪うだとか、そういった目的があるとしたら、私をその目的の遂行できる場所へ連れていかなければならない。
ここで私が無視して立ち去ってしまえば、その時点で彼にとって私は無用の存在になるのだ。
つまり、手紙なんてもらってしょうがないのである。
ところが、彼は手紙でもいいから日本のことを知りたいという。
それで彼の言っている、娘が日本に行くというのは本当の話かもしれないと思ったのだ。

『わかったよ。でも私は今日の夜行列車でルクソールに行くから、あんまり時間がない。
でももちろんシャイを飲むくらいの時間はある。
シャイだけ付き合うよ』
そういうと、彼は握手をして、
『ムハンマドだ』
と名乗った。
ムハンマド。
イスラム圏ならどこにでもいる名前だ。

5分ほど歩き、路地裏にあるシャイ屋に案内された。
エジプトではチャイではなく、シャイという。
といっても他のイスラム圏同様、ミルクは入れない。
たっぷりの砂糖と、ミントを入れたりする。
そのシャイ屋の場所は、外国人は寄り付かないような雰囲気ではあったが、近くの通りは良く歩く道なので、全く知らない場所というわけではなく、特に不安もなかった。
彼はシャイを飲み、私はコーヒーを飲んだ。
挽いたコーヒーと、砂糖をグラスに入れ、コーヒーの粉が沈むのを待って、上澄みを飲む。
アラビアコーヒーだ。

『オリビアは日本へコンピューターの勉強へ行くんだ。
場所は長崎だ。
ビザを取るのに苦労したよ』
オリビアというのは、ムハンマドの娘の名前だ。
そして彼女の行き先は長崎だ。
この時に気付くべきだった。
いや、その長崎とう地名にピンとこなかったわけではなかったが、そのときはそんなに深く考えなかったのだ。
日本のなかで、最もよく知られている地名といえば、なんといっても東京である。
首都であるから当然だ。
その次は大阪。
大阪には国際空港もあるし、バックパッカーには大阪出身の人が多いというのも理由の一つかもしれない。
そして、横浜もワールドカップで有名になった。
その三つを除いて有名な都市名というと、広島と長崎がくる。
特にイスラム圏では反米感情も手伝って、アメリカの悪行が行われた場所として、驚くほど広島、長崎という街の名前が知れ渡っている。
街を歩くいていると、
『コンニチハ、サヨウナラ、ヒロシマ、ナガサキ』
と、とりあえず知っている単語だけを並べて、挨拶してくれる人もいるが、日本のコンニチハに匹敵するくらい、ヒロシマ、ナガサキは、ここでは知れ渡っている単語なのだ。
そして日本人を騙す連中は、きまって日本に友人がいるという。
当然嘘であるが、その友人が東京に住んでいると言うと、騙す相手である旅行者も東京出身の可能性が高く、つっこまれて嘘がばれる危険性があり、東京、大阪などの地名は避ける。
そして、彼らが良く知っていて、あまりバックパッカーの出身地でない地名として、広島、長崎はちょうどいいのだ。

だからムハンマドが、娘が長崎に行くと言ったとき、おやっと思ったが、それ以上気に止めなかった。
この時点で私は彼を信用しきっていた。
彼が娘の話をするときの、嬉しそうな、でれっとした顔が、私を信用させた。

私は長崎のことはわからないが、と断ってから、簡単に日本のことを説明した。
『人口は約1億2千万。
比較的内気な国民性だと言われるけど、親切な人が多い。
戦争が終わり50年以上たち、反米感情などはない。
宗教については、大半は仏教徒であるが、あくまで形式的なものでしかない。
結婚はキリスト教式であげるのが一般的だ。
国民の大部分が無宗教といっても差し支えない。
それから一応言っておくけど、日本はフリーセックスではない。
もちろん、ムスリムほど厳しくはないけどね』
セックスのことをあえて言ったのは、以前、日本はフリーセックスで羨ましいと言っていた男性に何人も会ったことがあるからだ。

一通り私が話し終わると、彼はシーシャ(水タバコ)を注文し、吸ってくれという。

彼がトライ、トライ、と薦めるので、私は何度もやったことがあると断わったが、結局はその薦めにまけて、アップル風味に煙を楽しんだ。
『そうか、やっぱり日本は人も親切で、いい所みたいだな、安心したよ』
と彼も満足そうだった。

そして今夜ルクソールに向かうという話をすると、あそこは旅行者を騙す連中が多いから気をつけてくれという。
『両替がすんでいないなら俺がいい店を紹介しようか。
ルクソールはレートがよくない』
しかし、両替は残りのエジプトの滞在日数を考え、すでに済ませていた。
サファリビルの入り口に、ヘチマを売っている老人がいて、彼の耳元で、チェンジマネーというと、奥へ連れていってくれ、両替してくれるのだ。
銀行よりもかなりレートが良く、ちょっとした名物だおやじだ。
その彼のところですでに両替はしていたが、50エジプトポンド(約1000円)の高額紙幣しか持っていなかった。 
今泊まっているベニスホテルが、1泊7エジプトポンド。
国民食のコシャリが2エジプトポンド。
つまり、50エジプトポンドは、かなりの高額紙幣で、嫌がられることも多い。

それをムハンマドに伝えると、くずしてくれるという。
私は彼自身がくずしてくれるのかと思い、50エジプトポンドを渡した。
それを受け取った彼は、すくっと立ち上がり、くずしてくるといって通りに消えていってしまった。
私は、あまりに突然だったのと、彼の行動を予想もしていなかったので、引き止める言葉も出ないうちに、彼は消えていってしまった。
待っている間不安だった。
これで彼が帰ってこなかったら、私はただのお人好しである。
シーシャを吸いながらそんなことを考えていてが、10分ほどでムハンマドが帰ってきた。
『何件かの店でことわられたけど、やっとやってもらえた』
と言って、10エジプトポンド札を5枚出した。
これで私はこれでムハンマドを完璧に信用した。

『私の家はこのすぐ近くなんだが、よかったら家内とオリビアを連れてきていいか?

親の私が言うのもなんだが、オリビアはすごい美人だ。
鉄郎と一緒にみんなで記念写真をとりたいんだ』
私に断わる理由もない。
そして、ムハンマドは、
『頼むからオリビアにキスはしないでくれ』
と言う。
『日本人にそんな習慣はない』
と説明すると笑っていた。
そして彼は、オリビアを呼んでくると言い、一度家にもどり、すぐにまた現れた。
しかし、ムハンマドの娘の姿はなく、彼一人だ。
『家内もオリビアもとても喜んでいた。
日本人のフレンドができたってね。
今からシャワーを浴びて、それから化粧をしてくるから、もう少し待ってくれ』
化粧はともかく、シャワーとは大げさだが、悪い気はしない。

私もその美人だというオリビアを見てみたかった。
それに彼女たちと一緒に写真を撮るといことは、その後で私が彼女の写真を撮っても問題ないだろう。
イスラムの女性は写真を嫌う。
カメラを向けるとまず、ラー、ラーを言われる。
ノー、ノーという意味だ。
しかし、今回は思いっきり撮れるし、しかも美人ときている。
ぜひとも彼女をフィルムに収めたかった。
一緒に写真を撮った後に、彼女一人の写真を撮りたいとムハンマドに確認すると、別に問題ないという。
これはついてる。

奥さんとオリビアを待っている間、ムハンマドは、私がテーブルの上に無造作においたタバコを指差して、いくらで買ったかを聞いた。
それはクレオパトラというエジプトのタバコで、決して旨いわけではないが、最も安い。
『1.75エジプトポンド(約36円)だ』
と言うと、それならローカルプライスだという。
『でも私の友人の店で1カートン(10個入り)で、13エジプトポンドだ。
1箱1.3エジプトポンド。
どうだ安いだろう。
ルクソールは高いから、ここで買っていったほうがいい。
どうする?』
『それじゃ1カートンたのむ。
お釣りは細かいのでくれ』
と私は50エジプトポンド札を彼に渡した。

そしてムハンマドは、
『そろそろオリビアたちが来る時間だから、行こう』
と言って、席を立ち上がった。
ここに来ると思っていたので、そのことを彼に言うと、
『ここじゃまずい、わかるだろう。
カイロはムスリムの街だ。
そのカイロの路地裏のシャイ屋に女性が来るなんてことはできないんだ。
近くの公園に行こう。
そこなら大丈夫だ』
なるほど、もっともな話である。
カイロは都会であり、女性もよく出歩いているいる。
しかし、マクドナルドや喫茶店に入る女性は多いが、さすがに路地裏のシャイ屋では、女性はあまりに目立つ。
いつもシャイ屋は男性でいっぱいで、それぞれにシャイをすすったり、水タバコをふかしている。
そのなかに若い女性が入ってきて、外国人と写真を撮るというのは、あまりよろしくないというのは、私にもわかった。

ムハンマドは会計をすませた。
もちろん奢ってくれた。
そして通りに出て、公園は近いが安いからタクシーで行こうという。
タバコ屋はその公園の近くらしい。
タクシーに乗っている時間はわずかだったが、その間もモスクが見えるとその説明をしてくれたり、通りの名前を教えてくれたり、ちょっとしたガイド気取りだった。
5分ほどでタクシーを降りたが、そのときに彼が、細かいお金がないので立て替えてくれという。
私はさっき彼に両替してもらった10エジプトポンド札があったので、それを渡した。
タクシーを降りたところは、以前歩いて来た場所で見覚えがあった。
土産物屋が並び、野菜や果物を売る屋台があり、ごちゃごちゃしたマーケットになっている。

『あと5分もすれば家内とオリビアが来る。
公園はすぐそこだ。
その間にタバコを買ってくるよ。
ちょっと待っていてくれ』
ムハンマドは言い残し、車の往来の激しい道路を、すいすいと器用にわたっていった。
そして、マーケットの中に消えていった。
確か、初めてムハンマドと会ったときに、彼は片足をひきずって歩いていた。
しかし、その彼がすいすいと道路をわたっている。
これはどういうことなのだろうか。

彼が消えてから5分ほどたっても、まだムハンマドは戻ってこない。
『これで彼が帰ってこなかったら、俺もただの間抜けだ』
などと冗談半分に考えていたが、10分たった頃から不安に思ってきた。
さすがに15分たつとあせってくる。
『俺は騙されたのだろうか、しかしまだ15分じゃないか。
タバコ屋が見つからないのかもしれない。
いや、友人とばったり会って話しこんでいるのかもしれない』
と自分に言い聞かせる。

20分たった。
30分たったら諦めようと決めて、私は彼が現れることを祈った。

人が悪いといわれるエジプトだが、そうでない人だってたくさんいる。
私はそういう人と出会い、短いが貴重な時間をすごした。
そんなことを、エジプト人を頭から信用せず、そして馬鹿にする旅行者に言ってやりたかった。
しかし、時間は虚しくすぎ、30分たった。
私は彼の消えたマーケットの方へ足を運び、一応は捜してみたが、見つかるわけもない。
仕方なく宿の方向へと歩き出した。

ムハンマドに渡したお金はタバコ代と、タクシー代で、60エジプトポンドである。

日本円になおすと1250円くらいだ。
別に金額としては惜しくない。
結果からみると私が恥ずかしいほど、うかつすぎた。
しかし後味が悪い。

旅行中に人を信用することができずに、頭から疑ってかかり、最終的には彼が信頼できる人物で、こちらのことを親身に考えてくれたことがわかったときほど、嫌なものはない。
はじめから疑ってかかるのは簡単なことなのだ。
しかし、人に信頼されるのも、人を信頼するのも、なんと難しいことか

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

キサールの幽霊

つい最近読んだのが、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」という本。
その中で、”夜の暗さ”のことについて述べられていた。
ちょっと抜き書きしてみる。

 けだし近代の都会人は本当の夜というものを知らない。いや,都会人でなくとも,この頃はかなり辺鄙な田舎の町にも鈴蘭燈が飾られる世の中だから,次第に闇の領分は駆逐せられて,人々は皆夜の暗黒というものを忘れてしまっている。
 私はそのとき北京の闇を歩きながら,これがほんとうの夜だったのだ,自分は長らく夜の暗さを忘れていたのだと,そう思った。そして自分が幼いおり,覚束ない行燈の明かりの下で眠った頃の夜と云うものが,いかに凄まじく,わびしく、むくつけく,あじきないものであったかを想い起こして、不思議ななつかしさを感じたのであった。

これを読んでいてふと思い出したことがある。
それはパキスタンのフンザでのことだ。

フンザというのは、パキスタン北部のヒマラヤの山々に囲まれた小さな村。
景色がとてもきれいで,春になれば杏の花の咲き乱れるその光景は桃源郷と称されるほどに美しい。
実際人々も穏やかで長生きの人が多く、世界的にも長寿の村として知られている。まさに桃源郷である。
でもやっぱり、桃源郷だから桃源郷らしく、テクノロジーはあまり発達しておらず、その恩恵からはちょっと縁遠い。
ぼくが行ったときは何と村全体が停電していた。
そのとき既にもう一週間ぐらいその状態で、聞くところによると復旧までさらに何週間もかかるという。
要するに,街灯も何もない状態でしかも山奥のさらに奥にあるような小さな村なので、その暗さと言ったら尋常ではない。
まさに真っ暗やみだった。
谷崎の文章を読んでいて,ああ,彼の言っているのは,オレが体験した,フンザでの夜のようなことなのではないのかな、と、そう思った。

ぼくの泊まったその宿は,たまたまそのとき他に宿泊客が誰もおらず,ぼく一人だけだった。
昼過ぎ頃到着して、そこの従業員とぺちゃくちゃ談笑し、夕方になって日が暮れて,いよいよ夜になって真っ暗な闇がしっとりと訪れた。
ランプに火をともして食事をし,自分の部屋と食堂とを行ったり来たりした。
しばらくしてさらに夜も更けて,従業員達は明日朝早いからもう寝るよ,と自分たちの部屋に帰っていってしまった。
ぼくはといえば,その日着いたばかりなので興奮してしまってすっかり目が冴えてしまい、ちっとも眠くならないため、とりあえずその食堂で眠たくなるまで時間を潰すことにした。
そういう安宿によくある情報ノートというのがそこにもあって、何気なくそれを読んでいた。
日本人もよく滞在するようで日本語で書かれているものも多い。
すると,トレッキングなどの情報に混じって、ちょっと不思議なことが書いてある。
その宿の9号室に幽霊が出るというのだ。
よくよく読んでみると、複数の人達がその意見に賛同している。
ベッドの上にジャージのようなものを着て,正座して窓の外を眺めているおじさんがいるというのだ。しかも日本人の。

そうそう,私も同じものを見ました!
そうです,おじさんが座ってるんです!
ジャージきてますよね!
日本人ですよね!

そうしてそれは10年ほど前ある著名なアルピニストがウルタル峰というフンザから程近い雪山で命を落としており、彼の幽霊であるという結論で締めくくられている。
成る程、事故で亡くなった彼のその話はガイドブックにも書いてある。納得だ、けど、納得したくねぇよ、そんなこと。
こんな停電の真っ暗闇でランプの乏しい明かりの揺れる中、たった一人、深夜,そんな話を聞かされるものの身にもなってくれよ。
ぼくの背筋には一気に冷たいものが走りまくって、背筋だけではおさまらず,体全体が総毛立った。
だめなのだ。
ぼくは幽霊というものが大変苦手なのだ。
そして,ぼくの部屋は11号室だった。
すぐ近くじゃん!

ランプを片手に恐る恐る部屋に帰った。
帰る途中,月光に照らされ9号室が妖しく霞んでいる。
ぼくはなるべくそこを見ないように見ないように通り過ぎた。
するとおあつらえ向きに、部屋にはいったその途端ランプの燃料がぷつりと切れた。
まさに漆黒の暗闇だ。虫のなく声すら聞こえない。
もうぼくは怖くなって、いち早くふとんに飛び込んだ。そうして頭までふとんをかぶって眠ってしまおうとひたすら努力するのだが,どうしても眠ることができない。
暗闇と静けさはこのぼくを,この世に生きている唯一の生物と思わしめる。まるでどこか宇宙の見知らぬ星にたった一人でいるかのようだ。
背中が寒くて寒くて,足ががたがた震えて止まらない。
闇の向こうに得体の知れないものがじっと潜んでいるようで,そんな妄想が止まらない。

いたたまれなくなってろうそくに火をつけた。
するとどこからか,一匹の蠅がその炎につられて飛んで来た。ぼくはそんな精神状態だったから、蠅のような普段であれば見向きもしない、むしろ忌み嫌うはずの存在に物凄く親近感を覚えてしまい、何だか、小さな仲間を見つけたようでほっとした。
くだらない、ただの蠅なのに………

思ったね。
一人というのがどんなに心細いのか。そしてどんなに無力なものなのか。
命というものがその姿形に関わらずどれだけ温かく、大切なものなのか。
ぼくは思わず微笑みながらその蠅を眺めてしまったよ。小声でぼそぼそ何ごとかを語りかけながらね。
凄く心強かった、のだが、その蠅は蠅らしく,文字通り,飛んで火にいる夏の虫,とばかりにろうそくの炎に飛び込んで、ジュッという音とともにあえなく焼け死んでしまった。

たった一人の大切な友達を失ってしまったぼくは,もうだめだ,と思い無理でも何でもふとんにもぐって眠ってしまおう,と心に決めて、ろうそくの炎をフッと吹き消したその瞬間、外で、バタン、というとても大きな音がして、思わず、うわぁ、と大声で叫んでしまった。
もういよいよ震えが止まらなくなり、どうしようもないので来るなら来てみろとばかりに、やけくそで叫びながらドアを、がぁっと開けてやったのはいいが、そこには部屋の中と変わらぬ闇と静けさが広がっているだけだった………
結局その音は何だったのか、最後まで分からずじまい。

そんなこんなで暗闇と格闘して一夜を明かしてみると、次の日の朝、実はすぐとなりの部屋で従業員の一人が眠っていたらしく、お前、昨日夜遅く何だか大きな声を出していたみたいだけど、一体どうしたっていうんだ、と、あくびをしながら尋ねて来た。
すっかり客室には自分一人と思っていたので、そうと分かっていればもっと安心して眠ることができたのに………
少々、拍子抜けした気分だった。

まあ、そんなオチもついた一晩の体験だったのだが、その後も結局幽霊さんには出会わず、ほっとした次第であった。

まあ、そんな経験をしたぼくだから、夜の闇が、谷崎の言う、

 ”凄まじく、侘びしく、むくつけく、あじきないもの”

である、と言うのは何となく分かるような気がするんだ。
もう、今の日本では、ああいう暗さというのはよっぽどのところへ行かないと味わえないからね。どこ行ったって街灯ぐらいは光ってるでしょう。
ぼくもあんなの初めてだったもんなぁ………、いやまてよ、その前にもうひとつあったぞ、確かラオスを旅してたときに。
この話は今、関係ないのでまた今度詳しく話します。

日本という国だけに限らず、先進国と呼ばれる国々のほとんどは、生活から闇を追い払っているように思える。
夜を無くしてしまおうとしているかのように思える。
それは見えないものや、判別できないものに対する恐怖から逃れるためなのだろうか?
未知なるものへの恐れの気持ち。
そんな不安から、周りを明るく照らしだそうとする。
闇を追いやって全てを判別可能にして安心感を得ようとする。

でも、ぼくは、そういう闇も必要なんではないのかな、と思うんだ。
すべてを理解し尽くすことなんてできるわけがない。
曖昧なところは曖昧なままでいいと思うし、夜の闇の怖さもある程度は必要なんじゃないだろうか。
恐怖心、というのは人間にとってけっこう大事なものなんだと思うのだ。
見えないものや、得体の知れないものに対する畏れの気持ち。
自分以上の存在というものを体で感じて覚えておくこと。

眠らない街をいくつもつくって、夜を征服した気になって、傲慢になってしまい、歪んだ万能感に浸っていては、これから訪れる人間の未来にとって良くないもんね。
夜の暗さや、分からないことというものもある程度必要で、また、そこから生まれてくる人間の想像力こそが人を戒め、成長させるのだ、と思うのです。
だから、何ごともあんまりはっきりしちゃあ面白くない。
昔の人が見えないものや分からないことから、想像力を働かせて様々な神話や物語りをつくり出したみたいに、今の世の中もみんながそういう自由な発想を持てればいいのにね。
そうすれば、想像力豊かな楽しい社会になると思うんだ。
文化というのは案外そういうところから出発していくものなのかもしれない。
幽霊には会いたくないけどね。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

ヴードゥー・チャイルド・スライトリターン

ジミ・ヘンドリクスって知ってるかい?
ある、天才ロック・ギタリスト。ギターを共鳴させる天才。
彼にとっては言葉を話すより、ギターを弾くことの方がより有効なコミニュケーションの手段だったんだ。

ヴードゥーの申し子。悪魔に魂を売ったギタリスト。
ドラッグとブルースに溺れた男。悲しい男。

ネパールの山奥の山小屋に、奴が壁に書き付けた落書きがあるんだ。
それは、こんな詩の一遍。

      「ヴードゥー・チャイルド」

 俺は氷山の頂きを眺めていた。
 俺は今にも崩れ落ちそうだった。
 俺は氷山の頂きを眺めていた。
 俺は今にも崩れ落ちそうだった。
 
 氷山を形作っているそのかけらは、突き詰めれば砂のひとつぶ ひとつぶに帰するのだ、と一人納得していたのだ。

 そうさ、分かるだろ? 
 俺は、ヴードゥー・チャイルド、
 ああ、神様、俺はヴードゥー・チャイルドなんだよ。

 俺はもうお前を必要としない、そう、必要としないんだ。
 この世では、な。
 来世で会おう。向こう側の世界で。
 そのとききっとまたお前と出会える。

 どうか咎めないでくれよ、
 俺は、ヴードゥー・チャイルド、
 ああ、神様、俺はヴードゥー・チャイルド。

 連れていってやるよ、素敵な世界へ。
 見たこともないような世界へ。
 そうさ、俺はヴードゥー・チャイルド、ヴードゥー・チャイルド………

ギターは共鳴して哭いている。
ヒマラヤは、天空を切り裂いている。
コバルトの青空は、そこから流れ出る青い血液のように空間を埋め尽くし、ジミはそれを眺めながら、砂のひとつぶひとつぶを想っていたんだ………

最大と最小。
分子レベルの極小から果てしない宇宙の広がりまで世界は同時に存在し、まるで何の矛盾もないかのようにただ単純に美しく、目の前に圧倒的に広がっている。

ヒマラヤの冷たさはオレを殺した。
ジミもそれを見て同じように感じていたのかと思うと興奮する。
それを感じながら、”ヴードゥー・チャイルド”を書いたのだ。

オレもきっと、ヴードゥー・チャイルド。
果てしない天の道を眺めつつ、地面の底の底を這いつくばってゆく、ヴードゥー・チャイルド。
ああ、神様、こんなオレを許してくれよ、慈悲深い全能の神よ、罪深いこのオレのためにどうか祈りを捧げてくれ………

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

伝説のゲストハウス

ダハブからの乗合ワゴンは、カイロ市内の地下鉄の前で停まり、私はそこで降ろされた。
朝方だったので、通勤や通学の人たちで地下鉄は込み合っている。
そこが一体カイロのどのあたりなのかよくわからなかったが、私は地下鉄に乗り、人に尋ねながら、ナセル駅へまでたどりついた。

目的の通称サファリビルは駅からすぐだと聞いていた。
そこのなかに私の目指すゲストハウスがある。
しかし、人に聞いても誰もわからず、地図と照らし合わせて歩いても、それらしいものは見当たらない。
ようやくそれは市場の前にあると教えられ、そこを歩いたが、やはりそれらしいものは見当たらない。
その通りを歩きながら、サファリビルはどこなんだろうかと思いながらうろついていると、ヘチマを売っている老人がこっちを見ている。
そして『お前の探しているのはここだ』
と目で合図してくれた。
なるほど、老人の座っている奥には、通路が続いている。
そしていかにも年代ものの、ビルが建っている。
そこがサファリビルの入り口である。

その老人は、通称「ヘチマ屋」と呼ばれている人だとすぐに気がついた。
彼のことは他の旅行者から聞いていた。
老人の見かけの商売は、彼の目の前に置かれたヘチマを売ることである。
しかし、彼の本当の商売は闇両替である。
老人の耳元で、
『チェンジマネー、プリーズ』
とささやくと、黙ってビルの奥につれていかれ、ドルのキャッシュをエジプトポンドにしてくれる。
レートは銀行よりはるかにいい。
100ドル両替すれば、銀行でやるより6ドルほどの得をすることになる。
このサファリビルの名物的な老人である。

そしてそのサファリビルに足を踏み入れると、ここが本当にゲストハウスなのとかと思う。
まず、階段が薄暗い。
そして壊れたエレベーターが1階のところで止まっている。
もう何年も動いていないうようだ。
そのまわりにはゴミが散乱して悪臭が漂っている。
そして猫が住み着いている様子で、誰かがエサをやっているようだった。

そのサファリビルには、2階にスルタンホテル、4階にベニスホテル、6階にサファリホテルとスルタン?がある。
どれも安宿であり、値段もそうは変わらなくて、140円前後だ。

そして、その6階にあるサファリホテルは、世界一濃いバックパッカーが集まる所として有名だった。
聞いたところでは、そこに4年間住んでいる日本人を筆頭に、1年以上の長期滞在者が数人いるということだった。
はたして、そこで彼らは何をやっているのかといえば、それぞれに事情があるのかもしれないが、はたから見ると何もやっていないに等しい。
いわゆる沈没である。
それにしても長すぎる沈没だ。
彼らが1階まで降り、外へ行くことを、「下界へ行く」と言うらしいが、それだけでも宿にこもっていることがわかる。

私はその手の日本人と、溜まり場的な宿が好きではなかった。
もちろん全ての人がそうだとは言わないが、その人たちの発する、どこか人を寄せ付けないような、それでいて長期滞在、あるいは長期旅行をどこかで誇っているような、そういう臭いが嫌いだった。
彼ら一人一人に個別に会えば、普通の人だったりするが、それが集団になってしまうと、なんとなく中に入りづらい。
しかし一方で、一度溶け込んでしまえば、居心地がよく、抜け出せなくなるのも確かだ。

私は一人で旅をしている。
誰かと行動を共にすることも多いが、基本は一人だ。
人と接するのは好きだし、誰かといることで、いろんな話が聞けたり、情報をもらえ
たりということはよくあることだけど、あえてわざわざ集団に入ることはしないこと
にしている。
日本で働くことになれば、多かれ少なかれ集団の中に入り、誰かに気を使うことにな
る。
だから旅の間だけは、そういう余計な労力を使いたくなかった。
だから今回もそのサファリホテルは避ける予定だった。

しかし、その世界一濃いバックパッカーが集まる宿には、世界一使える情報ノートが置いてあるはずだった。
そこには、これから行くアフリカの情報が大量にある。
広いアフリカに対して、一冊のガイドブックしかもっていない私は、その情報ノートを見なくては、とてもアフリカ縦断などできないと思っていた。
しかし、それは宿泊客しか見ることができないと聞いていたので、最初にそこで2、3泊して情報ノートをチェックし、それから別のホテルに移ろうと思っていた。

ところがそのサファリホテルは、私がヨルダンにいる時に、崩壊したと聞いた。
かといって本当に建物が崩れたわけではない。
ましてホテルがつぶれたわけでもなく、崩壊なのだ。

そこに4年間住んでいた日本人がいた。
その彼は、そこではボス的な存在であったらしい。
ボスというのは、どういうものかわからないが、ゲストハウスのルールなどを説明するのは、従業員ではなくその彼だったという話だ。
あとは、宿泊客で手分けして、自炊をすることが多いが、それを仕切ったりしていたらしい。
その彼が今年の3月に帰国し、それを機にオーナーは、他の長期滞在者も追い出しにかかった。
サファリホテルの長期滞在者たちは、毎晩マージャンとガンジャで時間をつぶす。
その雰囲気の悪さから、日本人以外の旅行者が来ないのと、日本人でも彼らについていけない旅行者は他に行ってしまうというのが理由らしい。
そしてサファリホテルから長期滞在者は消え、情報ノートはどういうわけだか、ヒルトンホテルの旅行大理店に預けられ、しかもそこへ行っても見ることはできない。
さらには宿の料金が上がった。

とにかく私がサファリホテルに行く理由もなくなり、4階のベニスホテルに宿をとったのだ。

ベニスホテルに泊まっているとき、同じビルにあるので、サファリホテルの宿泊客と知り合いになり、彼らが自炊するというので、一度そこに招かれたことがある。
ドミトリーは狭い部屋の中に、ベッドがいくつもおしこまれ、洗濯ものが室内の至るところにぶらさがっている。
ガンジャをやっている人もいた。
それくらいなら、どこのゲストハウスも同じである。
しかし以前のように、沈没する人はいなくなり、旅行者は次々と他の目的地へ行き、滞在者の入れ替わりも多い。
サファリホテルが溜まり場的な宿だという印象は受けなかった。
そして、宿泊客も減っていた。
値上げしたため、サファリビルのなかでは料金は一番高くなり、なおかつ最上階にあるので、そこまで階段で上がるよりは、2階のスルタンホテルや4階のベニスホテルに客は流れるのは当然だし、ベニスホテルなどのほうが清潔だった。

そして何より、情報ノートがないために、日本人は来なくなった。
かといって外国人の利用が増えたかといえば、そういうわけでもない。

私もその情報ノートをあきらめるしかなかった。
そしてカイロの街で、エッセイの原稿を書いたり、街を歩いたりした。
しかし、カイロの街並みは大して興味を持てなかった。
どことなくデリーに似ていて、発展はしているが、高層ビルが連なるというほどでもなく、ダウンタウンにしても悪くはないが、シリアのダマスカスや、イスラエルのエルサレムに比べると、どうしても色あせてしまう。
私はそこで、ピラミッドや国立博物館などの観光を一通り済ませ、アルジェリアとの国境近くにあるシーワ・オアシスという泥の街まで足を延ばしたりした。
そして、スーダンやエチオピアのビザと取ったりして、南下の準備を整えた。

ゲストハウスというものは、世界中に存在するが、そのなかにも日本人の溜まり場となり、名を馳せているものがいくつかある。
インド、バラナシの久美子ハウスであったり、トルコ、イスタンブールのコンヤペンションであったりする。
もちろんカイロのサファリホテルもそうだった。
それぞれのゲストハウスが、特有の匂いみたいなものを発していて、なかなか面白い。
旅行者も自分と同じような匂いを発する所を求めるのか、宿泊客もどことなく似たような長期旅行者が集まり、そして沈没していく。
サファリホテルには、そういう匂いはなくなってしまい、したがって、そういう匂いを発する宿泊客も、そこに溜まるということもこれからはなくなるのだろう。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

くわをかついだ男

くわをかついだ男に出会った。パキスタンの山奥でのことだ。
風の谷、と呼ばれる風光明媚な山道で、透き通った青空をバックに光り輝く日光をさんさんと浴びながら、その男はくわをかついで歩いていった。

おそらく、4、50代だと思われるその男は、20代前半のぼくを置き去りにしてスタスタと歩いていってしまう。
恥ずかしながらこのぼくは、ぜぇぜぇ言ってまるっきり追いつくことができなかったんだ。
荒ぶる呼吸の中で汗を垂らしながら、その男の姿にある種の感銘を覚えた。

近代的な装備に身を固めているぼく。
かたや、簡単な普段着にサンダル姿のその男。
速くて追いつけない。
男は口笛でも吹かんばかりの身軽さで、見る見るうちに離れていってしまう………

ぼくは思った。
文明がなんぼのもんじゃ、と。
文明人のこのオレは、発達したテクノロジーに囲まれ、守られ、こんなにも脆弱だ。
だって、ただのおっさんだぜ?
見てみろよ、あのさっそうとした出で立ちを。
朝日を浴び、空や木々や花々や、あらゆる自然の色彩の奇跡と一体となって歩くあの姿を。
それに比べてどうだ、このオレは。
ぜぇぜぇ言って。
自然から拒絶されている。
風景はオレを、自身に同化させない。
弱々しいこのオレを。
彼は自然に愛されている。
大地に祝福されている。
まるで山々や木々の歓喜の歌声が聞こえてくるかのようだ───

野生の美しさの消えた都会で、野性的な美しさに思いを馳せる。
コンクリートの建物に囲まれながら、あのおっさんを思い出していた。
単純で力強く、絶対的なもの。
おっさんはくわをかついで柔らかに微笑む。
その姿に強烈に惹かれている自分を、自分自身の中に見い出した。
太陽の明るさを、青空の美しさを、当たり前のことが当たり前に美しいということを、すっかりと忘れかけているぼくだった。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

煙草

ぼくは以前まで煙草を吸っていた。今は吸わないけど。
ネパールにいた頃は吸っていた。けっこうすぱすぱ吸っていた。

カトマンズで乗り合いバスに乗っていて、煙草を吸っていて、ぼくは紳士的なマナーを心得た人間なので、プラスチックのフィルムケースを携帯灰皿としていつも持ち歩いていて、そのときもそれを使ってその中に吸い殻を捨てていた。

するとそれを見ていたネパール人の少年が、

   ”おいお前、一体何してるんだ? 
      そんなものをそんなところにため込んで
             一体どういうつもりなんだ?”

とちょっとバカにしたような感じで笑いながら言ってきた。
やつらには公共道徳という観念はまるで根付いていないので、ぼくの紳士的な行いの意味が分からないのだ。
だからぼくは説明してやった。

 ”君たちの街を汚したくないから、わざわざこんなものを持ち  歩いているのだよ。ほら、煙草を吸った後ここにこうして吸い殻を入れているのだよ”

と分かりやすくいちから説明してやった。
するとやつは鳩が豆鉄砲くらったような表情できょとんとぼくの方をしばらく見つめた後、何か深く感銘を受けた様子で、オーケイ、ブラザー、お前の言いたいことはよく分かった、といわんばかりに首肯し、乗り合いバスの運転手に声をかけた。
そして、ネパール語でドライバーと何やら二言三言会話を交わすと、ぼくに向かって笑顔で手を差し伸べた。

そして、
 ”じゃあな、マイフレンド、良い旅を”
と言いおいて去っていった。

ぼくは彼のその様子を見ながら、ああ、ありがとう、と言って手を振った。彼の態度の変化を訝りながら。

そして目的地についてお金を払おうとしたらドライバーは、お金はもうもらってるよ、とぼくの申し出を断った。
やつが払ってくれていたのだ。

ぼくはやつのその行動をかっこいいと思った。
やつはぼくの紳士的な行いに敬意を表したのだ。さり気なく。
あいつめ。粋なことをしやがる。少年のくせに。

それはプライドのなせる技だと思う。
自分の住む街に対するプライド。
自分の生まれた国に対するプライド。
そしてそれを愛した人に対する敬いの気持ち。
プライドがなければそんなことできない。
誇りを持ってなきゃそんなことできない。

果たして、日本にそんなことできる人が何人いるだろう?
子供なんて言うに及ばず、いい年こいた大人でさえも。
あんまりいないと思う。
自分の生まれた街を、自分の育った国を、愛し、誇りに思ってる人なんて一体何人いるのだろう?
そして、そんな誇りを持てる国だろうか?
日本という国は。
それを持つに値する国だろうか?
今の日本の現状は。

ぼくは自分の国を良くしたい。
自分の住む街を素晴らしいものにしたい。
世界に冠たる誇らしい場所にしたい。
ネパールの少年のさり気ないその行動は、ぼくに深い感銘を与えた。
そしてぼくも、やつみたいに自然にそういう行動のできるかっこいい人間でありたい、と、そう思った。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

ダハブの休息

エジプトのカイロの東、シナイ半島にダハブという街がある。
比較的物価の安いそのビーチリゾートに特に興味があるわけではなかった。
ただ、なんとんとなく足を運んだ。

ヨルダンのアカバからフェリーで、紅海のアカバ湾を渡り、ヌエバに着く。
そこはもうエジプトだ。
そこから直接カイロに行くこともできたが、フェリーが一緒だった日本人が、ダハブに行くというので、私もなんとなくそこへ寄ることにした。

今までビーチリゾートの類に行ったことはない。
一人で行ったところで、まわりはカップルだらけだろうし、かといってドラマのような出会いがあるとも考えられず、きっと寂しい思いをするだけだという先入観があった。
タイには何回も行ったことがあるし、インドネシアにも行ったこともある。
しかしビーチリゾートは未経験だった。
一度だけバリ島に、当時付き合っていた人と行ったことがあるが、そのときでさえ、ビーチへ行ってみたものの、なぜか泳ぐこともせず、さっさと内陸部のウブドへ向かってしまった。

今回もそういう場所に行く予定もなかったし、魅力も感じなかった。
そんな私であるから、ダハブに来てみたのは、まさになんとなく通り道にあったから立ち寄ったというだけのものだった。
しかし、どういうわけだか、その後そこで2週間滞在することになる。

ヨルダンのアカバから、エジプトのヌエバに向かうのフェリーの出航は午前11時予定だったが、実際に出航したのは午後の9時で、ヌエバ着いたのは深夜2時である。

とはいえ、この数時間の遅れは別に驚くことではなく、この路線では当たり前であった。
ヌエバでフェリーを降りた後、深夜なのでバスはなく、そこからダハブまではタクシーを他の旅行者とシェアした。
ダハブのセブンヘブンというゲストハウスに着いたときは、午前3時をまわっていたが、オーナーは深夜にもかかわらず、快く迎えてくれた。
私が部屋の料金のことを口にすると、
『まずはチャイでも飲んでくれ』
と言って、ロビーに案内してくれた。
イスラム圏ではめずらしくない、こういう親切が、私は好きだった。

翌朝ゲストハウスの門を出ると、目の前は深い青のブルーが広がっていた。
着いたときは深夜であったのと、タクシーで裏手から入ったの気がつかなかった。
ビーチに沿って、レストランやゲストハウス、土産物屋が続いている。
うるさい客引きもいるにはいるが、そこは雑踏だとか喧騒だとかとは無縁の世界だ。

時間の流れもゆったりしているのではないかなんて、柄にもないことを考えたりする。
私はその中にしばらくの間、自分の身を浸すのも悪くはないと思い始めていた。

その後の何日間かは、フェリーが一緒だった日本人と、サザエを捕ったり、シュノーケルをしたりした。
この海では漁が禁止されているため、当然サザエを捕るのも違法だが、私は簡単に欲望に負けてしまい、サザエ漁に精を出した。
シュノーケルをつけ、海に入ると岩にしがみついているサザエが、案外簡単に捕れる。
といっても、私はどんなにがんばっても結局1匹も捕まえることはできなかった。
海育ちの友人はいとも簡単に捕ってきたが、私には最後の最後まで、そのコツがわからなかった。
そして捕ったサザエをガソリンコンロで焼き、しょう油で食べると、とにかく旨い。

サザエを抜きにしても、ただシュノーケルで潜るだけでも楽しかった。
沖へ向かって30メートルも泳げば、そこから先の海は、断崖絶壁のようになっていて、一気に深くなっている。
そこにではサンゴ礁も見ることができるし、黄色や青色の派手な色をした魚が歓迎してくれた。
そういう世界を私は見たことがなく、砂浜からたった数十メートルのところに、そうした世界があることが驚きであった。

ゲストハウスも快適だった。
私の泊まっているドミトリーの部屋はハットという、植物の茎を縫い合わせた小屋ではあったが、その日本の昔の家を思わせる部屋は悪くなかった。
値段は1泊、約100円だ。
ただ、部屋はとにかく狭く、小さなハットにベッドを強引に3つ入れているので、暇なときはロビーにいた。
ロビーの椅子に座っていると、オーナーが、
『チャイをのまないか?それともコーヒーがいいか?』
と声をかけてくれる。
もちろんフリーだ。
ゲストハウスの中に、レストランもあり、そこでチャイやコーヒーを飲むと、けっこうな値段をとられる。
セブンヘブンはゲストハウスであり、私の部屋は安いが、もっといい部屋もあり、客層はいろいろだった。
いい部屋に泊まる欧米人たちは、ちゃんとお金を出して、チャイなり、コーヒーなどを飲んでいた。
しかし私は、我ながらせこいが、それをただでそれを飲むために、よくロビーに顔を出した。
それでもオーナーは嫌な顔もしないで、チャイを振舞ってくれる。

オーナーはサミールという。
アンマンのクリフホテルのサミールとは違い、太っていて、40代半ばの中年だ。
気のいい人物であり、日本びいきであった。
ただ、日本の女性を妻に迎えたいらしく、事あるごとに
『日本の女性を紹介してくれないか』
としつこい。
この話が出る度に、私は曖昧に返事をして、笑って聞き流していた。

しかし、あまりにしつこいので、何故そんなに日本人と結婚したいのか、一度聞いたことがある。
『日本人は勤勉でよく働く。
女性もそうだし、きれいだ。
我慢強いし、優しいし、なにより教養もある。
だから結婚したいのだ。
できれば若い女性がいい』
と彼は真剣だった。
『エジプトにもそういう女性はいるでしょう』
と私が聞くと、
『エジプトの女性は教養もないし、優しさが足りない』
と彼は答える。
そんなことはないと思うし、日本女性にしたって、全ての女性が我慢強くて、優しくて、教養があるはずもないが、彼のなかで日本女性のイメージはすでにできあがり、それはゆるぎないものになっているようだった。
どうやら、彼は「おしん」の見過ぎなのではないだろうか。

彼には離婚暦がある。
40代で離婚暦のあるエジプト人の彼のところに、若い日本人女性が、はたして嫁に行くとも思えないが、何が起きるかわからないのが恋愛だ。

『とにかく、そんなに素敵な女性がいたら、サミールに紹介する前に、俺がその人と結婚したいよ』
と言うと、
『OK、鉄郎が結婚したら、その女性の友人を紹介してくれ』
と彼はどこまでも、真剣だった。

私はこのダハブでゆったりとした時間の流れに身をおいた。
ずっと戦争のことを考えていたヨルダンとは対照的だ。
とはいっても、まだそう遠くない場所で、戦争は続いていた。

ダハブに着いて数日して、私は何を思ったか、突然ダイビングのライセンスを取ることにした。
ここでライセンスを取る人が多い。
何より安い。
世界中見渡しても、かなり安い部類に入る。
それに日本人のインストラクターもいるので、言葉の問題もない。

しかし、正直に言ってしまうと、特にやりたいというわけではなかった。
今までは、どちらかというと、ダイビングを避けていた。
以前お付き合いをしていた女性が、ダイビングのライセンスを持っていて、何度も一緒に潜ろうと誘われたが、私はその度に、
『人間は陸で生きる動物だからなぁ』
などと、訳のわからない言い訳をして、やろうとしなかった。

しかし、ここへ来て数日たち、やることもなくなり、少し暇を持て余し始めた。
そしてここなら格安でライセンスが取れる。
私は、彼女が海に潜る度に、癒されると話していたことを思い出し、何となくやってみる気になった。
仮にここでライセンスを取った後、一生潜る機会がなかったとしても、それはそれでよかった。
ただ、彼女が癒されると言っていた世界を、ちょっと覗くだけでも悪くはない。
インストラクターに話をすると、ちょうど他の客もいないということで、その次の日からすぐに講習が始まった。

講習は予想以上に新鮮で楽しかった。
まったく未知の分野であるし、決められた時間に起きて、人から何かを教えてもらうなど、ここ何ヶ月もやったことがない。
ビデオを見て、テキストを読み、説明を受けて、質問を、小テストをする。
けっこう真面目にやらないと、テストで落ちてしまうので、私は真剣だった。
それを二日ほどやり、海に入った。
そして海中でいろいろな実技をやり、水泳テストもやった。
シュノーケルをつけての300mは、自信がなかったが、やってみると案外簡単だった。

一番簡単なオープンウォーターと、その次のアドバンスという資格まで取った。
最初の頃は、潜るだけで一杯一杯だったが、慣れて余裕が出てくると、今まで知らなかった世界を楽しむことができた。
色とりどりの魚が見ることができた。
ナポレオンフィッシュも見た。
海テングという珍しい生物もいたし、サンゴ礁も美しい。
ブルーの小魚たちが、何百匹も群れをなしていて、彼らの体に光があたり、それがキラキラ光る様子には、思わずため息が漏れた。
このダハブの海には、ブルーホールというポイントがあり、海岸から一気に300mほど落ちている。
つまり、海中の崖だ。
そこの水深30mのところを泳いだときには、異次元空を飛んでいるみたいな感覚だった。

料金は全部で290ドルかかったが、それ以上の価値があったと思う。
しかし、水中で耳の中の空気の圧力を調整する耳抜きがあまりうまくできずに、よく鼻の粘膜が切れてしまい、鼻血を出した。
陸に上がっても、いつも耳がおかしく、よく聞こえない状態が続いた。
ダイビングの講習が終了してもそれは1週間ほどつづいた。
あまり体質的には合ってないのかもしれないが、ダイビングが今回限りになってもそれはそれで構わないと思った。
とにかく、今まで全く知らなかった世界が見れたのだから。

1週間の講習が終わっても、私はまだそこを動かずに、シュノーケルをしたり、ビーチで日光浴をしたりして過ごしていた。
ここで知り合った人たちも、次々に次の目的地へと旅立っていった。
インストラクターも、学生の春休みが終わり、客が来ないという理由で、休暇をとり、ヨルダンへ旅行に行ってしまった。
とうとう一人になり、私もようやく重い腰を上げることにした。
いよいよアフリカ大陸に入る。
次はエジプトの首都カイロだ。
最終目的地はその大陸の先端にある。

ゲストハウスを出るときも、オーナーのサミールは気持ちよく送り出してくれた。
『鉄郎、約束を忘れないでくれ』
『約束?』
『あぁ、日本人の女性を紹介してくれる約束だよ。忘れたのか?』
『その話か。俺が結婚したらな』
『OK、グッドラック。気をつけて行けよ』

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

そして戦争は始まった2

戦争が始まって二日後に、私はアンマンを出た。
ペトラという遺跡を見るためだ。
それはナバテア人という、アラビア半島からやって来た民族が、紀元前1世紀頃に造ったといわれる遺跡だ。
そして、伝説と化していたその遺跡が、世界に現れたのは、1812年に英国系スイス人の探検家ヨハン・ルートヴィヒ・ブルックハルトに発見されたためである。
映画「インディージョーンズ・最後の聖戦」のロケにも使われ、今ではすっかり有名になった。

そのペトラ遺跡を見学するために、基点となるのが、ワディー・ムーサという街である。
そこのバックパッカーの集まる、バレンタインホテルは、女主人がいることで有名だった。
「ターミネーター」のサラコナーに似ていると評判であったが、また性格が悪いとも言われていて、かつてはよく客との間に、金銭的なトラブルがあったらしい。

実際、彼女は中年の域に達していたが、美人であった。
顔立ちはやはりヨーロッパの血が入っているらしく、イタリア系という噂もあった。

その宿には3泊ほどしたが、特にトラブルもなく快適だった。
しかし、いつも、胸の谷間を見てくれてと言わんばかりの格好には、少し辟易した。

ペトラ遺跡そのものも、申し分なかった。
崖の隙間にある細い道を通り抜けると、エル・ハズネという大きな神殿が見える。
岩をくりぬいて造ったそれは、陽が当たると、ピンク色に染まる。
その後も墳墓後などを見てまわろうと私は歩いた。
しかし、ろくな地図も持たなかったため、その広大な荒野ともいえる風景のなかで、私はすっかり道に迷ってしまった。

いつのまにか、メインルートからはずれ、だいぶ遠くに来てしまったようで、そのあたりにベドゥインの家が見えた。
彼らは砂漠の遊牧民族である。
しかし今はほとんどが定住生活をしている。
彼らは私をミルクティーでもてなしてくれた。
家は板をつなぎ合わせただけのもので、当然電気もない。
遺跡の跡と思われる洞窟に住んでいる家族もいた。
子供らは靴もはいていなかった。
全身ほこりだらけで、体には羊に臭いが染み付いていた。
水を手に入れるのはきっと大変なのだろう。
水で体を洗うことは、めったにないように思えた。

彼らとは全く言葉が通じず、意思の疎通はとれなかった。
しかし、私を歓迎していることだけは、伝わってきた。
彼らに戦争のことを聞いてみたかったが、それは無理な話だった。
きっと、彼らにとってはアメリカが勝とうが、イラクが勝とうが、羊を育て暮らしていけさえすれば、どうでもいいことなのかもしれない。

一日歩き回って、宿に帰るとロビーのテレビではニュースを流していた。
時期が時期だけに、いつもそこではニュースを流している。
欧米人の客がいるときには、CNNを流し、彼らが寝ると、スタッフがアルジャジーラに変える。
アルジャジーラとはアメリカでのテロのときに、ビン・ラディンの映像を流したことで有名になったカタールの衛星テレビ局である。
今でも、イスラム過激派が、声名を出すときなどは、まずここが使われる。
つまりはアラブよりなのである。

しかし、CNNとそのアルジャジーラの報道の仕方が、全く別のものであり、それはそれで興味深かった。
CNNはレポーターが話しをしているはるか後方で、空が光って、空爆中だということがわかる。
報道の形式としては見慣れているものである。
一方アルジャジーラのカメラは、バクダッド市内にあり、爆撃の度に画像が揺れ、地響きのような音がし、人々の悲鳴や、パニックになった叫び声なども聞こえる。
それを空爆が続くかぎりずっと流し続けていた。
その途中途中に、けが人が病院に運び込まれる様子や、あるいはその中が移される。

映し出されるそのほとんどが、女性と子供である。
そして、米兵を捕らえたニュースなどは、これでもかというくらい繰り返し伝えられる。
まさに、被害者意識と、反米を前面に押し出している。

現在、戦争が行われているというのは、紛れもない真実である。
しかし、それを見る角度によっては、正義というのは何通りもあるのだと感じた。
そしてそれは、メディアによって、操作されかねない。
何も知らない人が、ずっとアルジャジーラを見続けていたら、それでだけで簡単に反米の人間になってしまう恐れがある。
また、日本での報道は当然アメリカ寄りであることも忘れてはならない。

私は戦後の物質文明にどっぷりつかって育った。
別にそれが悪いとは思わない。
貧困や飢えと戦いながら、あるいは戦下で育つよりはよっどいい。
そしてアメリカの置いていった憲法のもとで、民主主義と資本主義を教えられ、それについて大して疑問を持つ事なく成長した。

私はこの時期にここにいることで、私は新しい視点を持つことができたということだけでも、この旅は価値のあることのように思う。
そして、きっとあのベドウィンたちにとっては、アメリカやイラクよりも、明日も羊がミルクを出してくれるかどうかが、切実な問題なのかもしれない。

戦争が始まって二日後に、私はアンマンを出た。
ペトラという遺跡を見るためだ。
それはナバテア人という、アラビア半島からやって来た民族が、紀元前1世紀頃に造ったといわれる遺跡だ。
そして、伝説と化していたその遺跡が、世界に現れたのは、1812年に英国系スイス人の探検家ヨハン・ルートヴィヒ・ブルックハルトに発見されたためである。
映画「インディージョーンズ・最後の聖戦」のロケにも使われ、今ではすっかり有名になった。

そのペトラ遺跡を見学するために、基点となるのが、ワディー・ムーサという街である。
そこのバックパッカーの集まる、バレンタインホテルは、女主人がいることで有名だった。
「ターミネーター」のサラコナーに似ていると評判であったが、また性格が悪いとも言われていて、かつてはよく客との間に、金銭的なトラブルがあったらしい。

実際、彼女は中年の域に達していたが、美人であった。
顔立ちはやはりヨーロッパの血が入っているらしく、イタリア系という噂もあった。

その宿には3泊ほどしたが、特にトラブルもなく快適だった。
しかし、いつも、胸の谷間を見てくれてと言わんばかりの格好には、少し辟易した。

ペトラ遺跡そのものも、申し分なかった。
崖の隙間にある細い道を通り抜けると、エル・ハズネという大きな神殿が見える。
岩をくりぬいて造ったそれは、陽が当たると、ピンク色に染まる。
その後も墳墓後などを見てまわろうと私は歩いた。
しかし、ろくな地図も持たなかったため、その広大な荒野ともいえる風景のなかで、私はすっかり道に迷ってしまった。

いつのまにか、メインルートからはずれ、だいぶ遠くに来てしまったようで、そのあたりにベドゥインの家が見えた。
彼らは砂漠の遊牧民族である。
しかし今はほとんどが定住生活をしている。
彼らは私をミルクティーでもてなしてくれた。
家は板をつなぎ合わせただけのもので、当然電気もない。
遺跡の跡と思われる洞窟に住んでいる家族もいた。
子供らは靴もはいていなかった。
全身ほこりだらけで、体には羊に臭いが染み付いていた。
水を手に入れるのはきっと大変なのだろう。
水で体を洗うことは、めったにないように思えた。

彼らとは全く言葉が通じず、意思の疎通はとれなかった。
しかし、私を歓迎していることだけは、伝わってきた。
彼らに戦争のことを聞いてみたかったが、それは無理な話だった。
きっと、彼らにとってはアメリカが勝とうが、イラクが勝とうが、羊を育て暮らしていけさえすれば、どうでもいいことなのかもしれない。

一日歩き回って、宿に帰るとロビーのテレビではニュースを流していた。
時期が時期だけに、いつもそこではニュースを流している。
欧米人の客がいるときには、CNNを流し、彼らが寝ると、スタッフがアルジャジーラに変える。
アルジャジーラとはアメリカでのテロのときに、ビン・ラディンの映像を流したことで有名になったカタールの衛星テレビ局である。
今でも、イスラム過激派が、声名を出すときなどは、まずここが使われる。
つまりはアラブよりなのである。

しかし、CNNとそのアルジャジーラの報道の仕方が、全く別のものであり、それはそれで興味深かった。
CNNはレポーターが話しをしているはるか後方で、空が光って、空爆中だということがわかる。
報道の形式としては見慣れているものである。
一方アルジャジーラのカメラは、バクダッド市内にあり、爆撃の度に画像が揺れ、地響きのような音がし、人々の悲鳴や、パニックになった叫び声なども聞こえる。
それを空爆が続くかぎりずっと流し続けていた。
その途中途中に、けが人が病院に運び込まれる様子や、あるいはその中が移される。

映し出されるそのほとんどが、女性と子供である。
そして、米兵を捕らえたニュースなどは、これでもかというくらい繰り返し伝えられる。
まさに、被害者意識と、反米を前面に押し出している。

現在、戦争が行われているというのは、紛れもない真実である。
しかし、それを見る角度によっては、正義というのは何通りもあるのだと感じた。
そしてそれは、メディアによって、操作されかねない。
何も知らない人が、ずっとアルジャジーラを見続けていたら、それでだけで簡単に反米の人間になってしまう恐れがある。
また、日本での報道は当然アメリカ寄りであることも忘れてはならない。

私は戦後の物質文明にどっぷりつかって育った。
別にそれが悪いとは思わない。
貧困や飢えと戦いながら、あるいは戦下で育つよりはよっどいい。
そしてアメリカの置いていった憲法のもとで、民主主義と資本主義を教えられ、それについて大して疑問を持つ事なく成長した。

私はこの時期にここにいることで、私は新しい視点を持つことができたということだけでも、この旅は価値のあることのように思う。
そして、きっとあのベドウィンたちにとっては、アメリカやイラクよりも、明日も羊がミルクを出してくれるかどうかが、切実な問題なのかもしれない。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

そして戦争は始まった1

その日、いつものように私は目を覚ました。
この時点では別にいつもと変わらない朝だ。
私のいる場所はヨルダンの首都アンマンにある、クリフホテルというところだった。

中東の安宿のなかでも、最も有名な安宿の一つである。
こんな状況でも客は多い。
日本人が多くて、10人以上はいた。

部屋を出てロビーに行くと、従業員のサミールが掃除の手を休めて、テレビを見てい た。
痩せていてメガネをかけた、30代半ばに見える彼は物腰が低く、見るからに、いい人という印象を受ける。
彼の評判はよく、「中東一のホテルマン」と言われている。
もちろん、それは安宿の中での話でのことではあるが、実際そうだと思う。
安さだけが売りの安宿のなかで、なるべく良いサービスを提供しようという気持ちが伝わってくる。
彼のおかげで、宿の中はいつも比較的清潔だし、旅の相談にものってくれる。
フレンドリーであるが、かといってべったりとしたところもなく、日本人にはうけるタイプだろう。

その彼がため息にも似た声で言った。
『始まったよ』
という短い言葉で全てはわかった。
始まったのは戦争だった。
アメリカによる、イラクの攻撃が始まったのだった。
イラクはこのヨルダンの隣である。
つまりは、そんな状況なのだ。

アメリカが国連の決議なしで、イラクを攻撃するであろうことは、わかりきったことだった。
いくら旅行中とはいえ、場所が場所だけに、毎日インターネットでニュースをチェックしている。
それを読めば、それくらいのことはわかる。
だから戦争の開始は別に驚きはしなかった。
それはサミールも同じだろう。
しかし他のアラブ諸国の人たちと同様に、私にとってもアメリカの正当性というものはとても受け入れられるものではなかった。
もちろんサミールにとってはなおさらだろう。

日本人としての私は、日本がアメリカ支持を表明しているので、肩身が狭い。
しかし、多くの日本人が心からアメリカを支持している、というわけではないことは、ここにいてもわかった。
かといって、積極的に反対するわけでない。
もちろん全ての日本人がそうだとは思わないが、多くの日本人が、遠い国の出来事としか感じていないのではないだろうか。
一般の人にとっては、イラク問題よりも、自分の給料や恋人との問題のほうが重大である。
それが普通の感覚だ。

そうはいっても、ここへ来れば、アメリカを支持している日本人になってしまう。
もちろん私にそんなつもりはなくてもだ。
外から見れば、私でさえ日本を背負って立つことになってしまう。

前回の湾岸戦争のとき、私は高校3年生だった。
開戦の日、私はニュースが見たくて、学校を休んだ。
時期としては受験の直前だったので、
『家で勉強します』
と言えば、学校側も何も言わなかった。
その時の、戦争の印象を正直に書けば、それはいかにもゲーム的であった。
当時の私にとって、国際情勢などわかるわけもなく、また人並み以上の興味があったわけではない。
ただ、アメリカという正義の味方が、イラクという悪を退治しているように思えた。

スカッドミサイルやピンポイント攻撃の映像は、いかにもゲーム的であった。
そう思ったのは、まだ私が幼かったからというよりは、日本から遠い国の出来事であったからだと思う。
つまり、自分の日常とは全く無関係の出来事であるから、そうやって無責任にニュースを見られたのだろう。
その頃の私にとっては、どうやったら彼女ができるかや、受験のことのほうが、よっぽど重大事だった。
しかし、今回は違う。
すぐ隣の国で戦争をやっているのだ。

アンマンの街はいつもと同じように動いていた。
人々はいつもと同じように仕事についている。
サミールもそうだ。
路上で売られる新聞には、でかでかと空爆の様子や、フセインやブッシュの写真を載せている。
アンマンでも反米デモがあったらしいが、効か不幸かそれに出くわすことはなかった。

しかし至るところで、
『何故日本はアメリカの味方をするんだ』
と聞かれる。
それは、入った食堂であったり、コーヒー屋であったり、道端で突然聞かれたりもする。
最初の何回かは、
『日本はアメリカと同盟をしているし、北朝鮮の脅威がある以上、アメリカと事を構えるわけにはいかないんだ。
しかし個人的には今回の攻撃には賛成できない』
ともっともらしいことを答えていたが、そのうちにそれも面倒になってやめた。
彼らにとっても、日本と北朝鮮の問題はやはり遠すぎるようだった。
韓国は知っていても、北朝鮮を知らない人さえいた。
そのうちに私は、
『アメリカ人は嫌いではないが、アメリカ政府は嫌いだ』
と答えることにした。
たいていは、それで丸く収まる。

宿の近くにイラク料理屋があった。
いくつかのスープのなかから、一つ選び、それをライスにかけて食べる。
他にはチキンやマトンのケバブなどもあった。
料理そのものは、このあたりとそれほど変わらないように思えたが、安くて旨い飯を提供してくれるので、よく足を運んだ。
戦争がはじまってもいつものように営業していた。
当然、従業員はイラク人だったし、客もイラク人が多かった。

あるとき、客の一人と今回の戦争について話したことがあった。
彼は私より、一回り上の年齢に見えた。
しかし、アラブの男性は、その髭のせいか、年齢よりも老けて見えるから、同じくらいの歳かもしれない。
その彼は、それなりのインテリらしく、英語を使った。
他の客が英語をわからないためか、彼はよく喋った。

『フセインはイラクの独裁者だ。
しかし、ブッシュもまた、独裁者になろうとしている。
二人は似たもの同士だな。
俺はフセインが嫌いだが、かといって、ブッシュが好きなわけでもない。
アラブのことはアラブが決める。
イラクのことはイラクが決めるのが一番いいんだ』
と彼は言った。

彼の意見は多くのイラク人を代表するものではないと思えたが、私は、隣りの国が今確かに戦争をしているということ、を感じないわけにはいられなかった。
いろんな人がいて、いろんな考えがある。
イラクもまた一くくりで語れるわけもない。

『日本は原爆を落とされたのに、どうして、アメリカの味方をしているんだ?』
やはり彼は聞いてきた。
私はとっさに答えられなかった。
原爆を落とされた時、当然私は生まれていない。
日本で生活していたって、原爆なんて単語は、毎年の8月を除けば、めったに聞かない。
私にとってのアメリカは、原爆を落としたアメリカではなく、ただのアメリカでしかない。
日本についても、韓国、台湾を占領し、中国に満州国を建てた日本ではなく、経済成長を遂げ、豊かになった日本でしかない。

『とにかく早く平和が来ることを祈るよ、それが私の意見だ』
私は彼にあたりさわりのないことしか言えなかった。
自分の知識のなさが嫌になってくる。

ここにいると、個人的な意見はともかく、やはりアメリカを支持する日本人として、見られてしまう。
それは避けられない。
幸いそれで嫌な思いをしたことはないが、自分が歴史の渦のなかにいることに、変わりはなかった。

確かに私は歴史の流れの真っ只中にいる。
そう一番に感じたのは、意外ではあるが、自分の宿の中だあった。
あるとき、紺色のスーツ姿の東洋の青年が、私のいる安宿を訪ねてきた。
こぎれいではあるが、やはり安宿である。
そこにスーツという姿が、いかにも不釣合いであった。

彼はロビーにいた私にまず話しかけてきた。
『旅行ですか?』
日本語だった。
『ええそうです』
と答えた私に彼は続けた。
『イラクに行く予定はありませんか?』
『戦争をやっている国になんて行きませんよ』
『そうですか。よかった』
と彼は少し笑い安心した表情になった。
いかにも真面目という顔が、笑うと途端にとっつきやすい顔に変わる。
『えーっと、あなたは・・・』
と私が聞くと、
『失礼しました。
私は日本大使館の職員なんです。
イラクへ行こうとする旅行者を説得しに来ているんです』
と彼が答える。
外務省というと、あまり良いイメージは持っていないが、彼には好感が持てた。
『そんなにいるんですか?イラク行きが。』
『だから困っているんですよ。
もう面倒見切れなくて』

イラクへ行くとすれば、この通常このヨルダンのアンマンが基点となる。
戦争の数週間前までは、イラク行きのツアーがこの宿から出ていた。
内容はメソポタミア文明の遺跡見学らしい。
戦争の3週間ほど前までは、5人集まればツアーが出ていた。

しかし、そのツアーもさすがに現在はない。
とはいえ今もイラクに行こうとしている人がいるのは知っていた。
彼らが見たいものはもちろん遺跡ではない。
以前は取るのが困難であったイラクビザだが、今では日本大使館のレターも必要なく、簡単に出るらしい。
イラク大使館へ行き、
『ヒューマンシールドに参加する』
と言えば、その場でもらえるという話だった。
ヒューマンシールドはイラクにとっては、いざというときに人質に使える。
だから一人でも多いほうがいいのだ。

またネットのニュースによれば、数人の報道以外の邦人が、未だイラク国内にいるらしかった。
たった一人で戦争を止めると言って数日前にイラクに入国した日本人もいると聞いた。
この宿にも、イラクに行くと断言している青年もいた。
実際に単独でイラクに入国しようとしたが、国境からの交通手段がなく、引き返してきたという人にも会った。

彼らの目的はよくいえば、不当な戦争を目の前にして、何かせずにはいられないといったものだ。
かといって、脱出のルートがあるわけでもなく、アラビア語ができるわけでもなく、英語も心もとない。
私から見れば無謀だ。

開戦の直前にイラクからもどってきた大学生もいた。
彼は一週間ほどイラクに滞在して、戻ってきたところだった。
もちろん彼は報道の関係者でもなければ、ジャーナリズムに関心があるわけではなく、またヒューマンシールドでもない。
中東関係の大学サークルの所属する普通の大学生である。
一度だけ、彼と話したことがあった。
私がバグダッドの様子を聞くと、
『普通でしたよ』
の一言だけで、話は終わってしまった。
街は機能しているのか。
流通はどうなのか。
食料は行き届いているのか。
交通は。
電話回線などの外部の連絡は。
雰囲気は。
国民の気持ちは。
知りたいことは山ほどあったが、その一言でその気持ちが失せてしまった。
いったい彼は何を見てきたのだろうかと、少し意地悪く思ってしまう。
普通であるわけはないと思う。
仮に、本当に普通であると思ったのであれば、感じる能力が欠如しているのではないかとさえ思った。
その学生は再びイラクに入ることを考えているらしく、大使館の職員も彼のことを知っていて、手を焼いているらしかった。

大使館の職員は、
『とにかくイラクに行くという人がいたら、やめるように言っておいてください』
と言い残して帰って行った。
外務省に強制力はないから、地道に説得するしか手段はない。

開戦の日の夜、日本のテレビ局のスタッフが、宿に来ていた。
イラク国内でヒューマンシールドを取材していたが、開戦と同時にヨルダンに引き上げてきたらしい。
そして、ロビーでイラク帰りの学生を取材していた。
それがどんな内容であったのかはわからないし、果たしてそのVTRが日本のニュースで流れたのもかもわからない。
その学生がどんな目的でイラクに行ったのかはわからないが、私には彼の行動がよくわからなかった。
私自身はやはり今回の戦争について思うことも多いし、イラクの状況には興味はある。
しかし、旅を続けることが目的なので、イラクに行こうとは思ったことはない。
そこに生命の危険を冒してまで行く目的が、私になかった。
そして、その学生を含め、これからイラクに入ろうとしている人たちからも、それは伝わってこなかった。
ただ、今のイラクに入りたい、ということ以外何も伝わってこなかった。
何かを感じたいとか、何かを伝えたいとか、そういったものが彼らからは見えてこなかった。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。