カリフォルニア・ドリーミン

ぼくは、冬が嫌いだ。
寒いから。
木々は枯れ果て、空は灰色。
とても憂鬱………

そんなとき、カリフォルニアにいられたらな、と思う。
夢のカリフォルニア………

カリフォルニアに行ったのはもう10年も前になるのか。
海と太陽と潮風と。
湿気のない乾燥した空気に、降り注ぐ陽光。何もかもが光り輝くまばゆい風景。
まるっきり、夢のような世界………

あのね、世界は何でカリフォルニアみたいではないのかと、ぼくはいつも疑問に思うんだ。
カリフォルニアみたいなところがあると思えば、ボスニア・ヘルツェゴビナみたいなところもある。
年中太陽がでないところもある。
そんなの、不公平だと思うんだな、ぼくは。

ああ、カリフォルニアにいられたらな。
年中裸で、日光を浴びて、海で泳いで、サーフィンして。
冬なんて来なければいいのに。
寒い冬なんて無くなればいいのに。
世の中から辛いことが消えればいいのに。

むかつくな。
いやだな。
冬は。

カリフォルニア・ドリーミン
カリフォルニア・ドリーミン

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

雪のアウシュビッツ

雪のアウシュビッツは、雪に覆われ白く輝いていた。
ぴん、と、張りつめた静寂に包まれて、美しく輝いていた。
何万人も殺されたところだ。
人間が、人間を殺すために、ガス室に閉じ込めて、毒ガスを撒き散らす。
人々は、苦しみながら、死んでいく。
祝福されて生まれてきたはずのけなげな魂が、どろどろの靴で踏みにじられる。
一体誰にそんな権利があったろう?
その人達を愛した別の人達は、一体どんな心持ちでその現実を受け止めたろう。

憎しみが憎しみを呼んで、体内に充満し、自家中毒している。
おれは、人を信じることができない。おれは、何でこんなにも人を憎むのだろう。
なんでこの世には憎しみという感情が存在するのだろう。
おれは、人間が信じられない。人間が憎い。

ナチスはその対象を強制収容所に押し込んで、全員抹殺しようとした。
何もかも剥ぎ取って。まる裸にして。動物みたいに。衣服も。プライドも。何もかも。
おんなじ人間を、おんなじ人間が、そんなにもひどく扱う。
どうしてそんなことが可能なのか。
もし神様が,人間をつくったというのなら、どうして人間をそんな風に残酷に創造したのだろう。
憎しみや怒りという感情を、人間に与えたのだろう。
おれは、無慈悲な神を憎む。

人間は、決して美しくはない。
人生とは,美しいものではない。
もっと、いびつで、暗いものだ。
決して幸福なものではあり得ない。
もし,素晴らしいというのなら、人生は美しく、輝きに満ちあふれているというのなら、いったい、そういった不幸せなできごとを、どう説明するというのだ。
人が人を殺す地獄のような有り様を、なんで美しいといえるのか。

ナチスはユダヤ民族の撲滅を図り、一千万人近く虐殺したという。地球上から消し去ろうとしたらしい。
どこの悪魔がそんな恐ろしい発想を思いつくだろう?
そしてさらに、人間はそういった過去から何にも学び取ろうとしないで、色んな口実を見つけだしては人を殺し続ける。
よっぽど人殺しがたのしいんだろうな。
そんな性質を持っている人間の、一体どこが美しいというんだ、おい、だれか、教えてくれよ。

ささいな金に媚びへつらい、色んなものをないがしろにして、人を傷つける。
そんな残酷な人間の、どこが素晴らしいというのだ。
人生が素晴らしい、人間って素晴らしい、おい、そんなの全部嘘じゃないか、まやかしじゃないか 、何でだれも大きな声で言えないんだ?

雪で覆われた、冬のアウシュビッツは、過去の惨劇が嘘のように、静寂に包まれ、美しく輝いていた。血塗られた過去は、何もなかったかのようにまっ白く覆い隠されている。

血まみれの歴史の上を、さらに血で塗り固めていく。
どうして人殺しに理由をつけるんだ?
戦争が正しいというのなら、その辺で起きている、個々の殺人事件すべてが正しい。
正義とは、人の数だけ存在する。
おれの正義と,あなたの正義とは絶対に相容れない。

何だか疲れてしまった。
おれは美しいものだけを見ていたい。
汚れて、汚いものは、みんな雪に覆われて、まっ白になればいい。

無人の冬のアウシュビッツは何ごとも語らずただ、しん、と雪の中で静寂に包まれていた。美しく輝いていた。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

ぱさぱさのタイ米

タイ米って、ぱさぱさなんだよね。ほそながくって。
あんまり味がしない。味気ない。
でも今、無性にそれが食べたいんだ。
ココナッツ風味のさらさらしたカレーなんか上にかけちゃって。
そうすりゃあ完璧なタイ・カレー。
マサラ風味のさらさらしたのかけりゃあ、インド・カレー。

うまいよね。
最近はまって、よく食べにいく。
食べてると、旅してたときの風景とかぼんやりと浮かんできて、ちょっと懐かしい気持ちになったりもするんだ。
たのしいかんじ。

でも、ぜいたくを言うと、ごはんが違うんだな。これが。
おいしい日本米なのである。
ちょっとさめてしまう。
そこだけは気を使って日本人にあわせているのかな。
それが少し残念だ。
日本の料理には日本のお米があうように、アジアの料理にはやっぱりアジアのお米がぴったりなのだ。
ほそながくって、ぱさぱさなのがね。
ためしてごらんよ。
ちょっと慣れれば絶対そっちの方がおいしいから。
日本人って、お米にはこだわりがあるから、なかなかその辺の所は譲れないんだよね。
だけど、ちょっと冒険してみるのも、たのしいかも。
視野が広がるよ。
うまいんだって。
本当に。

誰か、ちゃんとしたぱさぱさのタイ米で、おいしいインド・カレーやタイ・カレーを食わせてくれないかなあ。
食ってみたいなあ。久々に。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

五か国語を話す少女

サイゴンのマーケットに五か国語を話す少女がいた。
道ゆく観光客に色んな言葉で話しかけ、お店に案内し、マージンをもらっているのだ。
まだ10才ぐらいの女の子だよ。
フランス人のおばちゃんたちにフランス語で声をかけていて、ぼくを見つけると、すぐさまぼくの方に寄ってきて日本語で声をかけてきたからびっくりした。
しかもけっこう流暢な日本語で、普通にぼくと会話ができる。
フランス人のおばちゃんたちとも普通に会話してたみたいだから、フランス語も相当話せるみたいだ。

「お兄さん、おみやげあるよ、買ってく? 何探してるの?」

10才のくせに、お兄さん、なんて言われるとホステスさんか何かみたいでちょっとおかしいんだが、あんまりその子の日本語が年令に似合わずにうまいものだから釣られて話し込んでしまった。
そのときぼくは刺しゅうの入ったベトナムの素敵なTシャツを探していたんだ。
だからそれに適したお店を彼女に聞いてみた。
そういったお店はマーケットの中にたくさんあるので、どこから手をつけていいのか分からないのだ。
彼女は、こっちこっち、とぼくのシャツの裾を引っ張ってお店の前まで連れていくと、そこのおばちゃんとベトナム語で何か会話をし、そして差し出された品物をおばちゃんから受け取ってぼくに見せてきた。

「これは、どう? こういうのでしょ?」

見るとそれは緑のTシャツに金色の糸ででかでかと、ベトナム、と書いてあり、ちょっと派手だったし、何よりも機械縫いの刺しゅうだったため、

「違うんだ、もっとこう地味な感じで、そう、手縫いのものが欲しいんだ、手縫い、分かる? ハンド・ソーイング」

と聞き返した。
ベトナムでは実は、手縫いの素敵なTシャツがとても安く売られている。
ぼくは以前まだ旅に出る前友達に、その手縫いのTシャツを見せられ、さんざん自慢され、そしてそれをとてもうらやましく思っていたため、いつかベトナムに行ったら死ぬ程買い込んでやろう、と何年もの間ひそかに心に決めていたのだった。
だから、手縫いのものでないとだめだったのだ。

彼女は少し考えると、よし、分かった、と言ってまたぼくの服を引っ張って、スタスタと駆け始めた。
どこから来たのか、いつの間にか彼女の弟とおぼしき少年も一緒になって駆けている。
そして彼女たちが連れていってくれたお店には、成る程ぼくの追い求めていたTシャツがたくさん売られていた。
ぼくが死ぬ程買い込んだのは言うまでもない。

その後彼女たちは市場の中を色々案内してくれた。
実にたくさんの色んな種類のお店がそこにはあって、一日いても飽きないぐらい。
甘味どころもあって、ベトナムのお菓子がとてもおいしそうに売られていたので、お礼におごってあげるから食べていこうよ、といったら彼女はその申し出を断って、自分でお金を払った。
日本のあんみつみたいなさっぱりと甘く冷たいそのお菓子を食べながら、ぼくは彼女に聞いてみた。

「一体何か国語ぐらい喋れるの?」

彼女はゆびおり数え始めて、五か国語ぐらいかな、と言った。
日本語と、フランス語と、英語と、ドイツ語と、あとベトナム語。スペイン語をいま勉強中という。
あながち嘘ではないみたい。さっきフランス語をぺらぺら喋っていたのは見ているし。
もし本当だとしたら、すごいよな。
ぼくは感心してしまったのだ。
こんな小さな子でもこんなに話せるようになるんだ。
自分は英語すらままならないのに。

きっと言葉を話せたら便利だからだろうな。
お金が稼ぎやすいから。
だから必死で覚えるんだ。
こんな小さなベトナムの女の子が日本語をぺらぺら喋っている。
それだけでも十分驚きだ。
きっと隣にいる小さな弟も、姉さんを見習って、これから覚えていくんだろう。
人間やろうと思えば何だってできるものなんだな。
なんか妙なふうに人間の持つ底力のようなものに感心してしまった。

きっと高いお金払って英会話なんて行く必要なんてないんだ。
何かそういうのがすごくばからしく思えてきた。
あんな小さな子でもペラペラ話せるようになるんだから。
お金なんて使わなくたって、きっと英語ぐらいペラペラになれるんだ。
要はやる気だよな。
必要性というか。真剣さというか。
お金つぎ込んだってだめなものはだめだよね。
何か、何でもお金払って簡単に済まそうとしている自分がとても愚かに思えました。
いつから物事に真剣に取り組むという姿勢を忘れてしまったんだろう。
お金なんてなくたって、英語ぐらいきっと話せるようになるもんなんだ。
お金なんてちょっとあればいいんだよな。本当は。
そんなにたくさんいらないんだよな。きっと。
豊かさをはき違えて、もっと大切なことを忘れてしまっている。
そんなことに気付いてしまった、さとうさんでしたとさ。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

ある光景

恐ろしい光景を見たことがある。
ひょっとしたら、今この瞬間、人が死ぬかもしれない。
そういう場面に出くわした。
人の心とは不思議なもので、そういうギリギリの場面ではなるべく精神が混乱しないよう何らかの自衛作用が自動的に働くらしく、ぼくは目の前の出来事を自分とは関係のない客観的な出来事としてまるで異次元の世界のことのように冷静に見つめていた。
多分、どちらかが死んでもパニックなど起こさずにけっこう冷静に対処できていたように思う………

インドにはこの21世紀の近代的な世の中においてなお、恐るべき原始的な制度がいまだに現存しており、その制度は、インド社会に不可触賤民という人間以下の動物のような扱いの人達を多く産出している。
彼らは、近代インド独立の父、マハトマ・ガンジーによって、神の子、ハリジャン、などと呼ばれはしたものの、実状は名目だけで、今もなお、最下層のさらに下の、想像を絶するような悲惨な生活を強いられ続けている。
ひょっとしたら動物以下かもしれない。
人に飼われている犬の方がまだましだ。

そんな動物以下の人達を町中で見かけることは、インドではそれほど珍しいことではないのだが、そのときは違った。

インドの首都、デリーでのことだ。
ぶらぶらのんきに道を歩いていたら、人だかりができている。
それは車道にまではみだす程で、どうやら輪の中心で何かがおきているらしい。
みんな口々に何ごとかを言い合い、時にはその中心に向かって叫んだりしている。
はて、何だろう、と思ってなおものんきに歩いていたら、肌はまっ黒で、髪の毛は汚れて束になって固まっており、ぼろぼろの衣服を身にまとった、一目でそれとわかる男女が物凄い勢いで喧嘩をしていた。
その喧嘩の仕方というのが普通でなく、男も女も関係なく、髪の毛を引っ掴んだり、足を蹴飛ばしたり、時には男が女の顔面を思いっきり拳でぶん殴ったりしているのだ。
男に殴られた女はさすがに効いたらしくしばらく俯いて頬を押さえていたが、突然起き上がると近くに落ちていたコンクリートブロックを拾い上げ、男に向かって投げ付けた。
男は間一髪避けて頭部への直撃はかわしたものの、肩の辺りにまともにそれをくらった。
鈍い音をたてて男はそのまま倒れ込んだ。
男はしばらくの間そのまま動かなかったが、回復してムックリと起き上がるとその手中には刃物のようなものを光らせていた。
ギラギラと照りつける日光を白く跳ね返す、そのものは、それまで面白半分で見学していた人達をあっという間に沈黙させた。
張り詰めた空気が辺りを包む。

あっ、人が死ぬ、と、ぼくは思った。
でも、まわりの人達は誰一人としてとめようとしない。
ああ、これがハリジャンなのだ、と、ぼくの意識に奇妙な形でその言葉が叩き込まれた。
と、よくみると、女の足下に子供がしがみついて泣きじゃくっている。まだ、年端も行かぬ子供だ。
その子供が泣きながら、懸命にその女の足を叩いている。
脱げたサンダルを拾い上げ、それで叩いて投げ付けた。
必死に喧嘩をやめさせようとしているのだ。
追い払われても、追い払われてもひっついてしがみつく。
二人の間の子供なのだろうか。

地獄、だった。
その光景は。まさに。

するととうとうそれを見兼ねたひとりの割腹のいい男性が、お前らもういい加減にしろ、という風にその争いを止めに入った。
二人はまだ大声で言い争っていたが、そんな所にも階級の見えざる力が働いているのだろうか、逆らうことを知らない不可触賤民は割と素直にその仲裁を受け入れた。

事態が収束するにつれ、人だかりは散開していった。
しかしその子供はなおも泣きながら、女の足を叩き続けていた………

この世の地獄だった。

どうして人はああも残酷になれるのだろう。
あれが仮に、自分たちと同じような風采の人達だったなら、彼らはあんな風にニヤニヤ笑いながら見ていられただろうか。
あの様子は明らかにあの人達を自分たちとは異質の存在と認識しているように思えた。
そこまで人間、同じ人間を差別できるものなのだろうか。

たまたまぼくは、穏やかな社会で生まれ育った。
それは巧妙に隠蔽されているだけなのかもしれないが、少なくともあんな風に露骨に残酷な場面は見なくてすんできたといえる。
だからあんな光景を目の当たりにして、少なからず衝撃を受けたのだ。

どうして人間はこんなにも醜いのだろう。
どうしてすべての人を平等に愛すことができないのだろう。
何故に怒りや憎しみという感情を必要とするのだろう。
果たしてぼくやあなた達の中に、あの、周りでニヤニヤ笑いながら見ていた人達のような、冷酷で、悪魔のような人格が潜んでないと言い切れるだろうか。
人間は人間であるが故に、そういう醜悪さを生まれながらにして持っている。
それは事実だ。
私は持っていない、なんて眠たいことは言わせない。
ぼくが聞きたいのは、一体どうやったらその醜悪さを乗り越えられるかということだ。
誰か教えて欲しい。
この地獄から抜け出す方法を、誰かぼくに教えて欲しい。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

ダライ・ラマ

「首にかけてる赤いひも、それ、一体何だよ?」

「ああ、これか。これはダラムサラにダライ・ラマに会いに行ったとき、彼からもらったものなのだよ。それ以来、常に首にかけているのだよ」

そいつはオレに赤いひものことを、そう説明した。

ダライ・ラマとはチベット仏教における最高指導者であり、チベット亡命政権の国家元首でもある。
加えて、衆生救済のためあえて涅槃に入ることを拒否し、輪廻世界に留まり続ける観音菩薩の化身であると信じられている。

ダラムサラとはインドの北部にある、山奥の小さな村のことで、ダライ・ラマがチベットからインドに亡命し、亡命政権を樹立したところだ。
オレの友達は遥かそんなところまで行ってその、観音菩薩の化身と言われる人に出会って、赤いひもを手に入れてきたのだ。
まだアジア諸国に行ったことの無かったオレには、それはとんでもないことのように思えた。
自分の住んでいる世界とは全く別世界すぎて、無関係すぎて、想像もつかない。
まるで雲をつかむような、現実味の薄い話だった。
すごいなあ、と感心するより他にしようがなかった―――

本当に尊敬できる人というのはあまり出会ったことがない。
世に聖人と呼ばれる人というのも、物質文明の横行する以前の遥か昔ならいざ知らず、今のこの、金と物の欲望によって支配されている現代社会においては、皆無に等しいのではなかろうか。

オレは、その赤いひもの友達の話に少なからず影響を受けて、いつか自分も会えるものならダライ・ラマに出会って握手をしてもらい、その赤いひもを手に入れたい、と、そう思っていた。
物欲にかられたその動機が不純だったせいなのか何なのか、何年後かにとうとうダラムサラに辿り着いたとき、折しも彼は日本訪問中で、会うことはかなわなかった。
そのときは、その皮肉っぽい偶然に我が身の不幸を嘆いたりしたものだが、実を言うとそれより以前にオレはダライ・ラマに会っていたのだ。
しかし、会っていたといってもその友達のように個人的に一対一の形ではなく、もっと多くの人達に混じった講演の場で、であって、会ったというよりはむしろ、講演に参加してその姿を目にしただけのことなのだが。
だから赤いひもはもらっていない。

ブッダガヤ、という、ブッダが悟りを開いたとされる仏教の聖地の村にオレが訪れたときのこと。
ダライ・ラマの講演が開かれるという噂は薄々耳にしていた。
しかし、いざ辿り着いてみるとそれは一週間も先のことだった。
ブッダガヤというのは聖地というだけで他に何があるわけでもなく、しかも、インドの中でも一二を争うような貧しい地域に属しているため、物資も乏しく、食べ物も粗末で、本当にすることなんて何もなく、聖地巡りなんかも一日もあれば十分なのだが、友達の話に影響を受けていたオレは、どうしても彼の姿を見ておきたくて、耐えてそこで待つことにした。
今思い返してみても、その一週間をどうやって過ごしたのか全く覚えていない。何にも思い出せない。
それほど無為に過ごしていたのだろう。
他の町ならまだ誰がしか日本人などに出会って暇を潰せるものなのだが、そのときは、たった一人だったため、毎日をどうやって過ごしていたのかなんにも覚えていないのだ。
一週間もの間、なんにもない村で、一体一人で何をしていたのだろう?
よっぽど無駄に過ごしていたんだろうな。
今考えると一週間も一人で何もせずに過ごすだなんて、ちょっと不思議な気がする。
日本での生活と比較すると、やっぱりあり得ない話だ。

ともかく、一週間が過ぎていよいよ講演の日が訪れた。
村もチベット色一色に染まり、多くのチベタンの姿が見受けられる。
何か月か前、チベットで過ごしてきた日々のことが懐かしく思い出され、胸がざわめいた。
広い会場には天幕が敷かれ、仕切りの中には蓙が敷き詰められている。
その敷地内にダライ・ラマを一目見んとする人達が、ひしめき合っている。
多くは、あの、赤紫色の袈裟を着たチベット人なのだが、中にはぼくのような旅行者とおぼしき外国人の姿もちらほら見受けられる。
よく見ると、どうも会場はエリア別に振り分けられているらしく、ぼくの周りは外国人ばかりだった。
ぼくの目の前にいた背の高い西洋人は、チベタンと同じ風体で、赤紫色の袈裟まで着込んでかなり気合いが入っている。
隣のエリアにはチベット人たちが、座るスペースもないぐらいに押し込められている。

いよいよダライ・ラマの登場だ。
ステイジの上ではお付きの人達がマントラを唱え始める。
荘厳で厳粛な空気が会場を包む。
すると、チベタンエリアのチベタンたちはあんな狭い中、一体どうやってしているのか不思議なのだが、いっせいに五体投地を始めた。
五体投地というのはチベット仏教の独特のお祈り方法で、その名の通り全身をヘッドスライディングのように地面に投げ出して祈りを捧げるのだ。
今や、彼らにとって最も貴い人があらわれようとしているのだから、彼らがその五体投地をするのは当然といえば当然のことなのだが、それを見ていたぼくの目の前のチベットかぶれの、袈裟を着込んだ西洋人までもが彼らに遅れまい、と、真似して五体投地をやり始める。
そして彼が地面にひれ伏すその度に、座っているぼくの顔にひらひらした袈裟の端がぴちぴちと当たるのだ。
ぼくはそういうアジアかぶれの外人があまり好きではないので、本当にそいつをうっとうしく思っていたのだが、そいつは、ぼくのそんな思いなどまるっきりおかまいなしで黙々と五体投地をし続けるのだった。
やれやれ、と思っていると、いよいよダライ・ラマの登場だ。
ぼくはさすがに緊張し、目の前のうっとうしい外人のことなどすっかり忘れて彼が現れるのを息を呑んで待ち続けた。

そして。
とうとうその人が姿を現した。

と、思わずこけそうになった。
だって、普通のおっさんなんだもん。
びっくりした。
もっと、鯱張った難しそうな人が威厳をたたえて出てくるのかと思ったら、普通のおっさんがニコニコしながら現れるんだもん。
あまりに想像と違ったんで、ぼくはしばらくの間放心していました。

更に講演が始まると、オールチベット語で、何言ってるのか一言たりとも分からなかった。
それまた度胆を抜かれたんだけど。
でも大多数のチベタンたちは、彼のいう一言一言に反応し、笑ったり、感嘆の吐息を洩らしたりしているのでした。
予想に反して、始終和やかで、ユーモラスな感じの講演模様となったのです。
でも、それは、すごく心地の良い感じでした。
厳めしい、説教くさいものでなく、もっと対等で、フレンドリーなものだったのだ。

そこでぼくは、思ったね。
ああ、この人は聖人なのだ、と。
こういう人こそが聖人と呼ばれるべき存在なのだ、と。
自分を捨てて、人のために生きる、彼からは、そんなものを感じました。
とても素晴らしいことだ、と思いました。

だって、ぼくの友達みたいな、その辺の一般ピープルにまでいちいち握手してくれて、首にひもをかけてくれるんだぜ。
過去、そんなことを何百回、何千回、繰り返してきたか分かんないのに、それでも嫌な表情ひとつ見せずに、喜んで応じてくれる。
ぼくはその後、その赤いひもをもらった人に何人か出会ったが、みんながみんな、ダライ・ラマはやさしく微笑んでひもをかけて下すった、と、口を揃えて言っていた。
それは決して作り笑いの営業スマイルなどではなく、本心から目の前のその人の幸せを願っての笑顔なのだ。
そういう人なのだ。
他人のために生きられる人なのだ。
そのことは講演を聴いていて、あの、チベタンたちのくつろいだ明るい表情を目の当たりにしているため、すんなりと違和感なく確信することができるのだった。
それは、心の中から自然に湧き出てくるような確信だった。
だからぼくはあの人を現代に生きる聖人なのだ、と思うのだ。
尊敬してしまう………

人のために生きるなんて事は、そうそうできるものではない。
そんなことができるのは、ごく限られた、一部の人だけだ、とぼくは思う。
でも、ダライ・ラマがそうであったように、聖なる人、というのは、実はそんな厳めしいものでもなんでもなく、もっと自然な、その辺で普通のことを普通に営んでいるような人達のことを言うのかもしれない。
悟りを開いてる人なんてのは、じつは、最も平凡に毎日を暮らしている人なのかもしれない。
普通のことを普通にし続ける才能のある人のことを言うのかもしれない。

多分、ダライ・ラマ、という人は、自分の信じたことを、こうだ、と思ったことを普通に、自然に、することのできる人なんだな。
自分を信じるだけの強さを持った人なのだ。
当たり前のことを、当たり前にできる人なのだ。

ぼくは自分を信じていない。
この世の中で一番信じられないのは、自分自身だ。
自分が信じられないので、他人も信じられない。
当たり前のことが当たり前にできない、欠陥を持った人間なのだ。
だから、ぼくは、ダライ・ラマのような人に憧れる。
ちょっとでも、彼のような強さが持てたなら、と思う。
そうすれば、みんなにやさしくできるのに。
ぼくのまわりの人を、愛する人を、傷つけなくても済むのに。
ぼくは、人にやさしくしたい。
人を愛せるようになりたい。
まわりの人に嫌な思いをさせるのは、もう、まっぴらごめんだ。

ダライ・ラマのように、笑顔でみんなを笑わせて、人の心を明るくしたい。
人のために生きられるようになりたい。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

シリアのために、アメリカのために

ぼくはあんまり時事的なことをここに書くのは好きじゃないのだが、それは、出来事はひとつでも、人それぞれ色んな意見があって、それらの主張は結局お互い相容れず、平行線を辿って、いらないエネルギーばかりを浪費することになり、結局無意味に消耗するのが嫌だからだ。
そんなのは現実だけで精一杯だ。
熱い議論を誘うような題材はあんまり選びたくないのだ。

だが。
今回はどうしても言いたいことがある。
それを聞いたとき、怒りとか、悲しみよりもむしろ、ぐったりとした、とても不快な疲労感に打ちのめされた気分を味わったからだ。
やりきれない思いが胸の中に充満して爆発しそうだったからだ。

周知のように、アメリカとイラクは戦争をやった。
そしてアメリカはフセイン政権を打ちのめし、事実上勝利し、イラク国民を解放したという。
結果はそう伝えられている。
ぼくは戦争反対論者なので、もちろん両国の開戦の報を知ったときも嫌な気分になったのだが、最近のニュースでそのことを知ったときは、それよりも更に、本当にぐったりと、無意味に消耗した気分になった。
アメリカがシリアを攻撃するという。
アメリカに対して、非協力的だという理由で。
もう理由にもなんにもなっていない。
ただ戦争がやりたいだけなのだ。
人を殺したいだけなのだ。

ぼくは前から言っているように、イスラムの国はあまり好きではない。
しかし、シリアという国は別だった。
いや、別と言っても特に好きだというわけではなく、もっと、さらっとしたものなのだ。

政治のことはあまり詳しくは分からないが、あの国も、フセインに似たような独裁者だか何だかが、国の英雄として、至る所で崇められている。
そのおっさんをモチーフにした、ブロマイドみたいなものや、ステッカーまでもが売られていた。
そんな様子を目の当たりにしていると、この国の政治はあまり健康的ではないんだな、と思えてくるのだが、市場のおっさんや、街を歩いている人達、ホテルの従業員、どれをとってもそこから発生する政治的な暗さや陰湿さは全く感じられず、いい人ばかりだった。
もちろん数日間滞在しただけだし、その国にはびこる陰湿な面など分かるべくもないのだが、イランやパキスタンのような、固さ、みたいなものはみじんも感じられなかった。
居心地がいいのだ。
みんな明るくて。
ゆったりしてて。
町自体も、のんびりしているし。
大した観光資源もないので、そんなに観光化が進んでいるわけでもなく。
観光地特有の、日本語話すうっとうしいやつらもいないし。
長旅でくたびれた心身をほぐしてくれるような国だった。

そんなほのぼのとしたいい国が、わがままなガキ大将みたいなアメリカに、悪の枢軸、だかなんだか決めつけられて、論理にもならない小学生がいうような暴論で、制裁を加えなければならない、なんて、絶対に納得できない。

何かがおかしい。
誰かが嘘をついていて、誰かが何かをごまかしていて、そしてそれらを強引に正当化するために、全力で取り組んでいる。
今のアメリカの姿はそんな風に見える。
なんなんだろう?
アメリカ国内の、溜まりに溜まった歪んだうっぷんを、国内で爆発させる前に、その鉾先を、関係のない海外の小国に下手な理屈を付けて背負わせて、解消しようとしている。
正義もヘチマもあったもんじゃあない。
アメリカとは、そんな国だったのか。

ぼくは、昔、アメリカという国に強く憧れていた。
多分、それは、子供のときに見たアメリカの映画や、アニメ、スーパー・スター、それらの印象が強烈で、あまりにも面白かったし、かっこ良かったからだと思う。
たくさん夢を与えてくれた。
やさしかった。
そのとき見たものや、体験したことは今でもよく覚えているし、ぼくの中によく見えないけど、何か、あたたかく光り輝く大切なものをそっとプレゼントしてくれたように思う。
それが。
そんなに強く、やさしい、お父さんのような国だったはずのアメリカが。
平然と正義をかかげ平和の名のもとに、遠くの貧しく無抵抗な人々を爆撃し、虐殺している。

そんなんじゃなかった。
アメリカとは、そんな国ではなかったはずだ。
それとも、ぼくが最初から勘違いしていただけなのだろうか?
でもぼくはアメリカの生んだ大衆的な文化が大好きだし、その楽しみは、国境や、人種や、貧富の差を超えて万人に作用し、悦びを与えるものだと信じている。
そんな素晴らしいものをつくれる国なのだから、そういうエンターテイメント精神にあふれた人達なのだから、どうか、そんな愚かしく、恐ろしい破壊行為は一刻も早くやめて欲しい。
子供たちを殺すのではなく、かつてそうしていたように、夢を与えて喜ばせてあげて欲しい。

なんかテレビで、知識人と呼ばれる人達が分かったような顔をして、アメリカの攻撃は、独裁国家打倒の目的のため正当であり、それによって被る被害は致し方ないのです、安直なヒューマニズムでは、世界的な平和などむしろあり得ないのです、と言うようなことを言っていた。
ぼくはこういういわゆる、大人の意見、には、唾を吐きかけたくなる。
こういう人達は、大人になるということは、青臭い、ナイーヴで感情的で敏感な感性を捨て、もっと冷静で、客観的でクールな意見を持つことだ、と思っているのだ。
要するに、もっともでストレートな意見というのは、こそばゆくって、かっこわるくって口にする勇気が出ないのだ。
ぼくに言わせてみればそんな人達というのは、心がすり減って、鈍磨して、不感症になっているだけの人達だ。

ぼくは、きれいごとを信じる。夢や理想という言葉が大好きだ。
今の日本には、それらのえせインテリの言うような虚無至上主義が横行し、それをむしろ、若い人達の方が率先して信じていて、
夢だとか希望だとか言うと、どうせ、ありえねぇし、だとか、そんなわけないだろ、だとか、ふん、と鼻を鳴らして嫌な目つきでせせら笑う。
期待に裏切られ、自分が傷つくのが嫌だからだ。
考えるのを拒否して、見えないふりして素通りするのだ。
意識してかしないでか知らないけれど、自己防衛本能が働いているのだ。
痛い思いをするのが怖いから、怯えて逃げて逃げて逃げまくる。
そして知らない内に、そういうのがかっこいいことだと思われる世の中になった。
信頼は敵、なのだ。
人を信じていては生きていけない世の中なのだ。

ぼくは勇気のある人が好きだ。
自分の中にある恐れや疑いの心と闘えるだけの勇気を持っている人。
人を信じることのできる人。
そういう人に憧れる。
そういう人を見ると、ああ、自分も頑張って生きていかなくちゃな、と思う。

そんな風に常々思っているのだが、とにかくアメリカは、間違ってもシリアを攻撃するなんていう愚かなことはやめて欲しい。
あの、のんきにお茶を飲みながらドミノゲームに夢中になっていた平和的なおっさんたちが爆弾や銃弾で殺されてしまうなんて、本当にいたたまれない気持ちになる。
そんな悲しいことをする必要なんて、全くないはずだ。
もっと世界中のみんなが喜ぶことをして欲しい。
アメリカという国にはそれだけのことをする力があるはずだし、責任もあるはずだ。
世界で一番豊かで、強い国なんだから。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

ぜいたくな話 Part 2

以前、「ぜいたくな話」という一遍を書きましたが、また似たようなのを思い出したんで、紹介したいと思います。
ただし、今回は、ちょっときたない話です。
それでもよろしければ、この先にお進み下さい。

ぼくが初めて行ったアジア圏は東南アジア。
東南アジアの国々は御存じの通り衛生状況があまりよろしくないので、無菌国家日本でぬくぬくと育ってきたぼくの内臓は、敏感にそれに反応して一発でブッ壊れてしまいました。
半年ぐらい,下痢に苦しむ毎日。
ぼくは、10年以上ぶりぐらいに恥ずかしながらおもらしをしてしまったんです。おおきいほうをね。
だって普通におならをしたら、もれちゃったんだもん。
別にお腹が痛かったわけでもないし、具合が悪かったわけでもない。ただ、道を歩いていて普通におならをしたら、出てしまったんです。しかも水状の無色透明なの。そんなのって、初めてでした。
それを発端に、次の日目覚めてみたら、嵐のような腹具合い。
雷鳴の如くお腹が鳴り続け、噴水みたいに下痢が止まらない。
5分おきに10回も20回もトイレに行き続けました。

そんな地獄のような毎日がしばらく続いておりましたので、ふいにトイレに行きたくなるのは、珍しいことではありません。
しかし、道を歩いていても、おあつらえむきに公衆トイレがあるわけでは決してなく、人目に付かない草むらで用を足したのは数えられる程ではありません。
カンボジアという国で、世界遺産のアンコールワットを見学中、その敷地内でやむを得ずしてしまったこともあるぐらいです。
地雷の恐怖に怯えながら草むらに分け入って、しゃがみ込むのは、なかなか勇気のいることでした。
そんな危険もありますが、屋外でするのもそこまで悪いものではありません。
開放感があってなかなか良いものなのです。
果てしなく広がる青空を仰ぎ見ながらしていると、何だか自分が大いなる自然の循環の一部にくみこまれたような気がして、心地よい安心感すら覚えることもあるほどです。

それこそ色んな環境でその行為を行ってきたぼくですが、中でも忘れられない特別な思い出があるんです。
それは、チベットの首都ラサからネパールのカトマンズへと、ヒマラヤ山脈を越えていく道中のことでした。

ヒマラヤ山脈は世界で一番高い山、エベレストをその懐に内包するほど規模の大きな山脈なので、その道程も生半可なものではありません。
標高五千メートル超の峠をいくつもいくつも越えていきます。
そんな過酷な環境なので、もう、生物の気配はあまりなく、あるのはコバルト色の濃い青空と、茶色の不毛な大地と、石や岩ばかりです。
そんなところに公衆トイレのあるはずもありません。
しかし人間とは不便なもので、もよおすときは時間や場所に関係なく、問答無用でもよおしてしまいます。
やっぱりぼくもその例にもれず、もよおしてしまいました。
ちょうど五千メートルぐらいの峠を越えようというところです。
仕方なく、車を止めてもらい適当な場所を探して、さあ、いよいよというところでふと顔を上げてみると、茶色の大地を切り裂くように銀色のヒマラヤ山脈が敢然と連なっています。
しばらく放心してその絶景に心奪われ、ふと、我に返って自分の目的を思い出して辺りを見回すと、目の前の姿を隠すために利用した石碑に、何やら文字が書かれていることに気が付きました。
よく見てみるとそこには、漢字でチョモランマ、と書かれているではありませんか。
(チョモランマとは、エベレストのことで、現地の人達はそう呼んでいるのですから、正式名称といっても良いかもしれません)
その位置から眺めた山脈の略図も記されており、それによって、チョモランマの位置を大体知ることができました。
ぼくはそのときもちろんお尻は丸出しで、事の真っ最中です。
空気が薄いため、空の色は異様に濃くなり、景色の輪郭はシャープにくっきりと浮かびだされています。
遠くの景色まではっきりと見ることができます。
チョモランマはまるで、目の前にそびえているようでした。
世界最高峰のチョモランマを眺めながら、そんなことをするのです。
なんだか、恍惚とした気分に捕われました。
空気の薄かったせいもあるかもしれません。
自分は今、こんなにも美しい景色の中でこんなことをしている。
それでも大自然は、揺るがず、うろたえず、自分を受け入れてくれている。
まるで大地の子になったような、そんな大きな気持ちになっていたのです。

都市生活を長年営んでいると、排泄行為というのはどんどん隠ぺいされ、押しやられ、まるで忌み嫌うべき恥ずかしい行いであると感じずにはいられません。
都市生活は、不潔を嫌うからです。
しかし、元来、排泄行為というのは、そんなものではないはずです。
人間が生きていく上で必要不可欠な行為なのですから、悪いものではないはずなのです。
ぼくは、度重なる、屋外体験でそれに気が付くことができました。
決して恥ずべき行為ではなく、もっと自然で、当たり前の行いである、と。
大っぴらにそんなことをできるのは実は、とてもぜいたくなことなのだ、と。

青空に抱かれ、大地に見守られながらそんなことをしていると、ある種のカタルシスにも似たとてもぜいたくな気分を得られるものです。
日光をさんさんと浴びて、燃えるような新緑の草木に埋もれながらしていると、自分が自然とともに生きていた太古の人類のような自由さを感じられ、とても気持ちがいいのです。
原始に戻ったような気がして。

建物の中で、狭い個室に閉じこもってするよりは、よほど健康的で良いことだと思うんですが、やっぱり発展してしまった近代社会では難しいことかもしれませんね。
でもたまにはこっそりと、ゲリラ的にしてみるのもいいかもしれませんよ。

 

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

ジャンピングバス2

イミグレーションを出て、乗合トラックで街まで行く。
そこから首都のハルツームまで列車が出ている。
私の目的地もそこだ。
列車が出るのは、次の日である。
この列車が相当つらいという話であった。
炎天下の中を列車は走るが、信じられないほど車内は暑くなる。
当然冷房はない。
1等車両でも冷房はなく、しかもベッドもないという話だ。
かといって、窓を開けると、砂漠の中を走っているので、砂が入ってきてそれもできないらしい。
そして砂にレールが埋もれ脱線も日常茶飯事。
その度に、どうやるのかは知らないが、職員が脱線をなおすらしい。
ハルツームまでうまく行って2泊3日。
遅いと3泊4日になる。
ここもムスリムの国なので、みんな到着時間はインシュアッラーだという。
アッラーだけが知っているという意味だ。
つまり何時着くか誰もわからないということである。

そんな列車にのっても話のネタくらいにしかならないので、あえて乗りたいとは思っていなかった。
とはいえ前に進むには、他に選択肢はないと諦めていた。
しかしフェリーで知り合ったスーダン人たちは、バスでハルツームまで行くという。

そう、バスという選択肢があったということを、私は初めて知った。
バス乗り場に行くと、列車が脱線するのと同じがそれ以上の確率で故障するであろうことは、そのバスの外観をみるとすぐにわかった。
とはいえ、地元の人はほとんどがバスを使っているという。
ということは、少なくとも列車よりはましなのではないだろうか。
私はバスで行くことに決めた。

バスは夜出るのでまだ時間がある。
食事を済ませて、バスの発車を待った。
バスの料金は、アトバラというハムツールまでの中継地点まで4200スーダンディナール、
ざっと1900円ほどだ。
他のスーダン人をよく観察しても、その額を払っているので、ぼられているというわけではなさそうだが、物価を考えると結構高い。
ダメもとで一応値切ってみると、すぐに4000スーダンディナールになった。
90円ほどのディスカウントだ。
しかし、それが間違いだったのかもしれない。

夕食後、7時30分くらいにバスに乗り込んだ。
日本のどんなローカルな路線でも走っていないであろうこのオンボロバスは、以外にもチケットにシートナンバーが書いてあり、どこに座ってもいいというようなものではなかった。
私は周りの人にチケットを見せ、自分の座席を確認すると、一番後ろのシートであった。
バスは左側が3列シート。
通路をはさみ右側に2列シートがある。
シートといっても限りなくベンチに近い。
クッションなんてあってないようなもので、すぐにお尻が痛くなりそうな代物だ。
背もたれは当然背中の所までしかなく、頭をもたれかける部分はない。
これがあるとなしでは、寝るときの快適さがかなり違う。
頭を固定できないと寝るのは非常に難しい。
そしてこれも当然だが足元のスペースもとても狭い。
さらに、私の割り当てられた一番後ろの席は、他の席と比べても、それよりも劣るものなのだ。
とにかく足元が狭く、だらりと浅くすわると、膝が前の席にぶつかる。
常にしっかりと深く座っていなければいけないほど狭い。

いったいこのシートはどうやって決めたのだろうか。
早いもの順であるなら、私がチケットを買ったタイミングは、決して遅くないほうであった。
だとしたら、値切ったからこのシートになったとしか考えられない。
値切るくせがついていると、こんな目に遭うこともある。
たかだか90円のために、このあと20時間、このスペースでひたすら耐えなければならないことになる。
こんなことならば4200スーダンディナール払って、普通のシートにすればよかった。

8時すぎにやっとバスは走り出した。
シートは全て埋まり、通路にはズタ袋やらダンボールやらで一杯になり、その間に立っている乗客もいて、山手線のラッシュアワーに近いものがある。

灯りなど一つもない完璧な砂漠の闇をバスは走った。
真っ暗なので、よくはわからなかったが、思いのほかスピードを出しているようだった。
『これならば、列車よりは早く着くだろう。』
自分の選択が正しかったと確信が持てたのは、わずか数分であった。
その思いはすぐに疑問に変わった。

砂漠のなかに舗装された道路などあるわけもない。
ただ、本当に純粋な砂を上を走っているのだ。
それも明かりなど一つもない、完璧な夜の闇を走っている。
砂漠の砂にも、盛り上がっているところもあれば、凹んでいる部分もある。
そこを通過するたびにバスは跳んだ。
揺れたとかそういう感覚ではなく、跳ぶのだ。
とうぜん、そういったバスの振動は乗客にもつたわってくる。
バスが跳ぶたびに、私の体もまた中に浮く。
そしてバスが着地して、その後、私もまた着地する。
その度に内臓をうちつけらるような感覚を受ける。
私は必死につかまりながら、耐えているが、他の乗客は案外平気だ。
別に慣れているというわけではない。
車の跳ねというのは、後方に行くに従ってひどくなる。
前方の乗客は案外平気なのだ。
私のシートは最後列である。
私はたかが90円を値切った自分を恨んだ。

跳ねる前に、もっとスピードを緩めてくれればいいのにと思うが、そうはいかないらしい。
ここは砂漠の中だ。
スピードを緩めればたちまち砂にタイヤをとられ、スタックしてしまう。
つまりは、ジャンプしようが、振動がひどかろうが、私の内臓が痛くなろうが、そんなことはお構いなしに突っ走るしかないのだ。
私はこのバスを「ジャンピングバス」と呼ぶことにした。

とはいえ、いかにジャンピングバスがジャンプして走っても、砂にタイヤと取られ、スタックすることはめずらしくない。
バスのタイヤが砂に埋まり、発進できなくなると、屋根にいた二人の男がバス後方の梯子から素早く降りてくる。

いったい彼らはこの悪路で、どうやったら振り落とされないで、バスの屋根に乗っていられるのだろうか。
そしてその梯子にはさんである、直径10センチくらいの2本の丸太を引き抜く。
長さは3メートルほどはある。
それを砂に埋めるように、スタックしているタイヤに噛ませる。
しかし、それで脱出できるとは限らないから、彼らはまだそこにいる。
そしてドライバーが一気にアクセルを踏み込み急発進する。
タイヤが丸太を踏むときに、ガタン、ガタンという振動があり、バスが発進する。
驚いたのはそれからだった。
せっかくうまく発進できたのに、その丸太の男たちを待つために、バスが止まると、またスタックする恐れがある。
だからバスはそのまま走り続ける。
その瞬間、二人の男は素早く丸太を拾い、走ってバスに追いつき、もとあった梯子のところに丸太をひっかけ、そしてバスにしがみつき、また屋根に登っていく。
職人技だ。
そしてバスは砂漠の闇を、また走り続ける。

このバスは一応夜行バスではあるが、そんなことが続くから、寝ることなんて不可能だ。
数分眠ったかと思うと、また例のジャンプで起こされる。
明け方、まだ暗いうちに、ある村で休憩し、チャイとビスケットを食べた。
食べている間に夜が明けた。
砂漠に昇る朝日というのは初めて見たが、何もないシンプルな美しさがある。
しかし、ここからが、また別の苦難の始まりだった。

砂漠は日差しが強い。
つきささるようだ。
日が昇るにつれ、気温はぐんぐん上がる。
息苦しいくらいだ。
温度計をもっていたので、見てみると、なんと45度だった。
車内は蒸し風呂みたいになり、窓を開ける。
それで気温が下がるわけではないのだが、風が入ってきて、少しは暑さがやわらぐ。

しかし、そうすると、バスの前輪で舞い上がった砂が、窓から吹き込んでくる。
5分もすると、まるでスライディングした高校野球児みたいになる。
髪の毛もまるで1ヶ月洗っていないような色になり、顔を触っても砂でざらざらす
る。
服は言うまでもなく、ちょっとたたいただけで、砂が舞い上がる。

窓を開ければ、風は入るが、一緒に砂も入る。
閉めればサウナ状態である。
どちらもつらい。
私としてはもう、一度砂だらけになってしまえば、もう関係ないので、窓を開けたかったが、現地の人たちは、暑さに慣れているらしく、すぐに窓を閉めたがった。
私の近くの窓では、私が開け、またしばらくすると、現地の人が閉め、また私が開けるということを繰り返している。

この暑さでは、当然咽が渇いている。
用意していた1リットルの水もすでに飲んでしまった。
こんなバスでも水の支給のサービスがある。
しかし、それはペットボトルの水なんかではなく、バケツでまわってくるのだ。
現地の人は、それについているコップでゴクゴクと飲む。
しかも、凍らせている状態でバスに積み込み、それが溶け出したところで飲むので、
実に冷えていて、うまそうだ。
『これはナイルの水だ。まずいわけはないだろう』
と誰もが言う。
ナイル川の水を、そのまますくってきたという。
そんな水が果たして私に飲めるのだろうか。
私は、自分の水があるうちは、どんなに薦められても、ナイルの水は遠慮した。
しかし、45度の暑さで自分の水はすぐになくなり、咽の乾きには勝てない。
ナイルの水で病気になるのも怖いが、このまま水を我慢して脱水症状になるのも怖い。
『えーい、ままよ』
とそのバケツのナイルの水を飲んでみる。
とにかく冷えている。
味は、うまい。
少し飲んでも、大量に飲んでも、病気になるときはなるのだと割り切って、何杯もおかわりしてしまった。
結局その水で腹を壊すことさえなかったが。

振動と熱気の苦痛は、その後も続いた。
それは移動というより、ただ耐えているというだけのものだった。
もちろん一睡もできない。
そしてバスが出発してから20時間後、やっとアトバラに着く。
そこで1泊し、次の日バスを乗り換えハルツームに着いた。
アトバラからハルツームは、道路が舗装されていた。
旅をして、辺境の地などに行き、道路が舗装されていると、勝手な話しではあるが、なんとなくイメージと違い少しがっかりしたりするが、このときほどアスファルトの道路をありがたく思ったことはない。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

ジャンピングバス1

アフリカは魅力的だ。
しかし同時につらい。
アフリカに行ったことのある人は誰もが言う。
何がつらいのか。
食事か、移動か、あるいは現地の人との交渉か、マラリアか。
まあ、そのどれもあてはまるだろう。

エジプトのカイロから、ルクソール、アスワンと南下し、私はスーダンに入った。
アフリカの魅力はその後の国々でたっぷりと味わうことになるであろうが、とりあえずはそのつらい部分をさっそく体験しなければならなくなった。

エジプトのアスワンハイダムから国際線のフェリーに乗って、スーダンの玄関口であるワディハルファという街に行く。
国際線のフェリーといってもいたって小さい。
神戸から上海まで出ている鑑真号などとは比べ物にならない程小さい。
日本でいえば、海沿いの観光地などにある、定員60名くらいの高速艇くらいの大きさだ。
しかしこちらは、もちろん高速ではなく低速である。
ベッドなんてものはなく、全てシートである。
それもリクライニングなどもなく、一応固いクッションのついたベンチである。

エジプトのイミグレを通過し、船内に入ったのはその日の午後1時くらいだった。
すでに席は埋まっていた。
埋まっているといっても、全ての席に人が座っているわけではない。
乗客の荷物が大きく、そして多すぎて、そのためにスペースが埋まっているのだ。
でかいスーツケースは許せるとして、ずた袋、10キロはあるだろう洗剤の袋、大きなミルクの管、バケツ、そしてダンボールの山である。
それをシートの下、網棚はもちろん、通路にずらりと並んでいる。
荷物の山と乱雑さは、市場がそのまま引越してきたようだ。
その持ち主はといえば、荷物のそばのシートを一人で3、4人分占領して横になっている。
あるいは、わざと荷物をシートにおいて、席を確保している。
この船がスーダンに着くまでに一晩はかかる。
夜になって足を延ばして眠れるように、場所を確保しているのである。
それにしても、一体何時から乗船しているのだろうか。

通路にも荷物があふれていて、天井まで重なった卵の箱。
そして冷蔵庫には恐れ入った。
いったいどうやって運ぶのだろうか。
どれもスーダン人がエジプトで買い物してきたものなのだろう。
エジプトのほうが物価も安く、なにより物が多い。
といってもエジプト人もスーダン人も外見上の違いはなく、見分けはつかないが。

席は指定ではない。
早いもの勝ちだ。
彼らのずうずうしさ、いやたくましさに感心している場合ではなく、私もここはずうずうしく自分の寝床とまではいかなくとも、せめて座れる席くらいは確保せねばならない。
一人で3、4人分のシートを占領している人に片っ端から声をかける。
『ここ座っていいですか?』
英語が通じてないかもしれないが、バックパックを背負って、席を指させば意味は絶対に通じる。
『ノー、ノー』
それが3、4人は続いた。
『そりゃないだろ、あんたらいったい何人分のシートを取れば気が済むんだ。
俺だって同じ料金払ってんだよ』
思わず、日本語で愚痴ってしまう。

しばらく途方にくれていたが、私を見て、心配してくれたスーダン人の男性が、他の客と話をつけてくれて、なんとか座ることができた。
あとはそこを死守するだけだ。
しかし、客は後から後からやってくる。
さすがに全員体を伸ばすスペースを確保できるわけもなく、人口密度は上がる一方だった。
後から入ってきた客は、私と同じように誰彼構わず声をかけて、シートと、荷物を置くスペースを確保していく。
そのために言い争いも何回かあった。
そして、通路はほとんどダンボールなどの荷物で埋め尽くされ、シートは人で埋まり、結局体を伸ばして寝るスペースを確保できた人はいなくなった。
だったら初めからそんなことしなければいいのに。

船は私が乗船してから6時間後の午後7時にやっと動き出した。

動き出してすぐに支給された食券で夕食を食べた。
一応食堂があるのだ。
といっても豆とパンだけで、とても足りなかったが、エジプトポンドを使いきってしまっていたので売店で何も買うことができない。

夕食後、9時になるとなぜか人がはけて、全ての人が体を伸ばして寝始めている。
不思議に思ったが、半分ほどの人が食堂に行き、そこで寝ているのだ。
あとは、通路の荷物の隙間などに器用に寝ている。
救命ボートの下にまで人が寝ていた。
おかげで私も体を伸ばしてぐっすり眠ることができた。
シートはベンチみたいに固いが、体を伸ばせるのは何よりありがたい。
そして翌日の午後3時に、ワディハルファに到着した。
しかし本当につらかったのはここからだ。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。