サバンナの風

私はエチオピアのコンソからさらに西へと行き、いくつかの民族を尋ねた。
そのルートは人と荷物を満載してトラックを乗り継ぎ、めずらしい民族を見ることができた。
彼らのほとんどは、男女とも上半身裸である。
そして、貝やビーズなどの装飾品を身につけている。
なかでも珍しいのは、ムルシ族という民族で、彼らは唇に直径10センチくらいの円形の板をはめている。
それをはめているのは女性だけであり、それをはめると婚期になったという意味らしい。
彼らを見たときはさすがに驚いた。
その板をはずして、そのぶらんとさがった唇の穴に、サービスで手を突っ込んでくれたときには、正直目を疑った。
痛くないのだろうか。
そんな素朴な疑問をもつが、小さい頃から穴を少しずつ大きくしているので、痛くはないらしい。
中国の纏足や、タイの首長族も、小さいころからそうやって体を変形させていく。
小さい頃からやれば、案外できるものかもしれない。

残念ながら彼らのことをそれ以上文章で説明するのは難しい。
写真であればできるかもしれない。
エジプトのピラミッドやスフィンクスを見たときにも思ったが、純粋に驚いたした経験というのは、その感想が一言で終わってしまう。
何々を見て、すごいと思った・・・みたいな平坦な文章になってしまう。
それは単に私の力不足だからであろうことは明白であるが、そうなってしまう。
逆に体験や経験なら書くことはできる。
だから私の書くものはいつもそういう主題が多い。
とにかく話を前に進めたいと思う。

私は再びコンソに戻り、またトラックを乗り継いで南下を始めた。
地名を挙げると、コンソ、ヤベロ、モヤレを通り、そしてやっとケニアのマルサビットへと入った。
そこからさらにトラックを乗り継いで、一気にナイロビへの中継地である、イシオロを目指したが、そのトラックが曲者だった。

マルサビットは、エチオピアとの国境の街である。
そして、国境特有の活気があり、物もよく集まるらしく、小さい街ではあるが、活気があった。
エチオピアに比べれば物が豊富だということが、街の雑貨屋に行けばすぐに感じることができた。

そのマルサビットからイシオロまでは2日かかると聞いていた。
前日にトラックのドライバーを捕まえ、値段交渉を済ませ、翌朝指定された場所へ行くとすでにトラックは来ていた。
荷台にはまだ何もつまれていない。
初日は空で走り、二日目にヤギを乗せると言っていた。

荷台の幌は、屋根の骨組みの端に、きれいにたたまれていた。
そして、荷台にはスペアのタイアが1本、ごろんと転がっていただけだ。
ドライバーのほかに、数人のケニア人も乗る予定らしかった。
しかし、そんななかに、ちょっと身なりのいい中年男が、何かドライバーと話している。
内容はわからないが、あまり楽しい話ではなさそうだ。
そしてそのドライバーと中年男が荷台に乗り込んできた。
中年男は荷台の中を見渡し、たたまれた幌のなかに手を突っ込んで、なにかをひっぱりだした。
その手にあったのは、ビニールに入った衣服であった。
さらにスペアタイアのチューブをひっぱりだし、そこからも同じものを見つけ出した。

彼はどこかで見たことがあると思ったが、税関の職員だった。
昨日エチオピアからケニアに入国したとき、そこにイミグレにいた男だ。
つまりは密輸の抜き打ち検査だ。
他の男たちがエチオピアから運んできた物資を、トラックでイシオロに輸送すると踏んで検査に来ていたのだ。
まったくプロの目というのはすごいものだ。

しかしまたそうやって、違法ではあるが少しでも生活ために金をかせごうとする輩を私はたくましいと思う。
トラックは一度イミグレまで行き、全て検査され、そしてドライバーは税金を払わされたようだ。
税関の職員の仕事もなれたもので、ものの10分で終わってしまった。
ドライバーは大して落込んだ様子もなく、今回は税金がかかってしまったが、今度はうまくやってやるくらいの感じだった。
密輸なんて書くと大げさに聞こえるが、税金を払わずに商品を運ぶのは、いつものことで、今回はたまたま税金を取られてしまったというところだろう。

そんなことをしていて、出発は大幅におくれたが、私として急ぐ旅でもないので、問題ない。
逆に庶民の生活の知恵というのか、生活向上の努力というのか、とにかくちょっと面白いものを見ることだできた。

そして私は、空の荷台に乗って、やっと出発した。
他のケニア人は何故か、トラックの荷台に幌をかける骨組みに器用に座っている。
その理由はすぐにわかった。
走り始めて30分もすると私は、全身茶色になり、埃にまみれ、ひどいことになった。
かるく服をたたいだけで、砂が舞うのが見える。
しかし荷台の屋根の骨組みに乗れば、かなり高いところになるので、車輪が巻き上げる砂埃がかからないのだ。
エチオピアでは、トラックの荷台にのっても、そこまでひどくなることはなかった。

しかしその埃にまみれると、いよいよ乾燥したサバンナにやってきたという気になる。

そして私もケニア人と同じように、トラックの屋根の骨組みに乗ってはみたものの、凸凹道の振動がもろに伝わり、全身の筋肉をフルに活用して骨組みにしがみつくはめになった。
それは体力的に30分ともたず、その日は砂埃を選んだ。
ケニア人は慣れているもので、器用にバランスをとっている。
骨組みのバーとバーを布で結んで、そこに体を沈めて居眠りする人もいる。
いってみればハンモックみたいな要領だ。

そして1日目は夕方まで走り、安宿で1泊し、朝になると、トラックの荷台には、ヤギが満載していた。
40頭ほどのヤギのおかげで、荷台はもう足の踏み場もないほどだ。
私はといえば、やはり屋根のフレームにしがみついて、何時間移動する自信はないので、ヤギとの一緒に荷台にいたいとドライバーに申し出たが、断られた。
ヤギが興奮するらしい。
しかたなく、屋根にのぼってみる。
トラック後方は振動が激しいので、前のほうのスペースをくれた。
とはいえ、やはり振動の度に全身の力を込め、骨組みにしがみついていたが、1時間もすると慣れてきた。
振動がきても力を抜いたまま揺れに任せると、不思議と自然にバランスがとれて、案外平気だ。
最初は怖かったが、落ちることはまずなさそうだ。

それにしても疲れるのは人間だけではないようだ。
ヤギも振動のなかの移動で疲れるらしく、たまにぐったりと倒れこむヤギもいる。
そうすると荷台に一人だけのっている、係りのおやじが、やぎの耳を引っ張って、強引に起こすのだ。
荷台には余分なスペースがないから、ヤギが倒れこむと、他のヤギに踏まれてしまい、商品としての価値が下がるらしい。
荷台に一人だけのっているおやじは、それを防ぐのが役目なのだ。

トラックは国立公園の敷地内の道路を走っていたので、キリンでも通らないものかと期待したが、残念ながらそれはなかった。
しかし、装飾品を身につけ、槍を持ち、上半身裸で歩く民族を、よく追い越した。
そして家畜のラクダもいた。

エチオピアと違い、この辺は一面サバンナが広がっている。
なにより、2mほどの高いところから見るそれは、地面に立って見るそれよりも、より広大に見える。
そこに土色の道が地平線に向かって一直線に伸びている。
まるでそれは終わりがなくどこまでも続いているようにさえ思えている。
そして私もどこまでも行けるのではないかと。
そんなとき、この壮大な景色が自分のものになったような気がする。
それはもちろん気がするだけなのだが、そんな気になれる移動というものが私は好きだ。

旅は街から街への移動の繰り返しだ。
移動して飯を食い、宿を探し、また移動する。
そしてその移動は、苦しければ苦しいほど後になると、なんだか甘美な情景とともに心に蘇ってくる。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

コンソの少年

視界に入る景色は緑に満ちていた。
太陽の光が山々に横たわる木々に反射してまぶしいくらいだ。
頬に当たる風もまた心地いい。
こういうなんでもないような時間が、旅をしているなかで至福の時である。

私は久しぶりにトラックで移動をしていた。
それはチベット以来のことだ。
エチオピアの首都アジスアベベからバスで南下し、アルバミンチまで来たが、そこから先は雨季のためにバスの通行ができなくなっていた。
かといって全ての交通が遮断されたわけではなく、地元の住民はイスズのトラックの荷台に乗って移動をしている。
要は、雨季によって道が悪くなり、バスでは行けないが、トラックなら通れるというわけだ。
私もそのトラックに乗っている。

それにしても、この緑豊かな風景のなかを走っていると、この国どうして飢餓があったのかが、不思議に思えてくる。
素人目に見ても、肥沃な大地という表現がぴったりくるような景色だ。
私が小学生のときに、アフリカの飢餓がよくニュースになった。
ユニセフの公共CMなんかもテレビで流れていたと思う。
そのときに必ず出てきたのがエチオピアだったと記憶している。
私のなかで、飢餓といえば、エチオピアだった。
しかし実際にこの景色を見ていると、どうも信じられない。
聞いた話だが、当時のエチオピアの飢餓は、旱魃などの自然災害によって起こったというより、そのときの政権が、国家予算のほとんどを軍事費につぎ込み、農業政策を怠ったために起きた、いわば人災だという。
現在の北朝鮮にそっくりで、ありえそうな話だ。

トラックは山を抜け、小さな川をいくつか渡った。
浅い川だが、トラックは渡れても、バスでは無理だろう。
そして着いたのは、コンソという小さな街だ。
いや村と言ったほうがいいかもしれない。
宿も食堂も商店も2,3件しかなく、5分も歩けばそれらが並ぶメインストリートからはずれてしまう。
銀行などはもちろんない。
電線は通っているが、何故か電気はいつも通っていない。
宿などは、発電機をもっていたりするが、夜はロウソクの明かりで過ごすのは普通だ。
要するに全てこじんまりとしているのだ。

コンソについて、宿に荷物をおき、遅い昼食をとった。
ティブスというマトンの焼肉とパンだ。
エチオピアに入ってからこればかり食べている。
別にそれが大好きというわけではなく、私にとって、それしか食べられるものがないのだ。
エチオピアといえば、インジェラが有名である。
見た目はクレープに似ているが、その色は食欲の減退する灰色がかっているそれは麦を発酵させてつくった、湿ったパンみたいなもので、すっぱいような臭いがして、食べると実際非常にすっぱい。
要するにまずい。
これを評して「見た目雑巾、嗅いで雑巾、食べて雑巾」と言った旅行者がいたが、私もその意見に賛成である。
これを「案外いけますよ」と言った旅行者はいたが、「おいしい」と言った旅行者には会ったことがない。
そのインジェラを主食に、野菜や肉を煮込んだスープをおかずにして食べるのだ。
これも辛くて、私は食べられなかった。
アジスアベベなどの都市を除くと、ほとんどこれらの組み合わせしか食べるものがない。
ライスはアジスアベベ以外で、食べた記憶がほとんどない。
しかし、幸いパンは比較的どこでも手に入るので、残された選択肢は、ティブス(マトンの焼肉)とパンということになり、私はひたすらこればかり食べていた。
だいたい朝食はビスケットで、昼食と夕食はティブスとパンである。
しかし、田舎に行くほどパンもあまりなく、あったとしても、数日前に焼いたようなものであったが、それでもないよりはましだ。

食については苦労したエチオピアだが、この国はコーヒーがうまい。
さすがにコーヒーの発祥地と言われているだけのことはある。
どこに行ってもコーヒーだけは飲めた。
このコンソでさえ、宿の食堂兼バーに、旧式ではあるがコーヒーマシーンがあり、マキヤートが飲める。
もっと小さな村に行くと、コーヒー豆をフライパンで炒って、それを杵と臼に似た道具で、ザクザクつぶし、コーヒーを入れてくれた。
少数民族の家を訪ねたときでも、椰子の実に似た、フルーツの殻に、冷めていたがコーヒーを入れてもてなしてくれた。
これだってなかなかいける。

私がこのコンソという小さな村にやってきたのは、この周辺に住む少数民族を、カメラに収めるためである。
コンソはその入り口ともいう場所なのだ。
そして、その手始めに、コンソの村で開かれるマーケットに行くことにした。
そのマーケットに少数民族がやってくるのだ。

お目当てのマーケットは明日なので、昼食のあとは、なにもやることがなくなってしまった。
散歩しようにも、5分もあるけば、村から出てしまい、あとは畑と森が続いているだけだ。私はチャットをやって時間をつぶした。
チャットというのは、どういう種類に属するのかは知らないが、見た目は普通の葉っぱである。
それを生のまま口に入れ、クチャクチャとやる。
そのままだと苦いので、砂糖も一緒に口に入れる。
そして飲み込むことはせずに、ひたすら噛みつづけると、葉っぱがだんだん口のなかでなくなっていくので、また新しい葉っぱを口に入れる。
これをやると、リラックスするらしい。
最初大麻などの一種かと思ったが、全然違うらしく、効き目もそれほどあるわけではない。
ただ、ずっと噛み続けていると、ボーっとする程度だ。
この辺りでは、タバコは高価だが、このチャットは安く、庶民の嗜好品としてやる人が多い。
私もこのチャットが気に入り、何時間もやっていた。

夜になり、今度はタッジを飲みに出かけた。
タッジというのは、蜂蜜からつくったお酒で、エチオピアでお酒といえばタッジというくらい飲まれている。
夜になると、街灯など一つもないので、道を歩くのも苦労する。
そんななかで、タッジ屋を探したが、やはり見つからなかった。
そうやって、ウロウロしていたときに、少年がたどたどしい英語で声をかけてきた。

『May I Help You?』
という、発音はともかく教科書どおりの英語だった。
私はタッジが飲みたいのだが、と言うと案内してくれた。
タッジ屋の入り口には、看板の一つもなく、まして電気もなく、これでは見つかるわけもない。
たとえ昼間でも見つからなかったかもしれない。

少年は私にタッジを注文してくれて、隣に座った。
タッジはオレンジジュースのような色をしている。
そして、どういうわだか三角フラスコの形をしたガラスのコップに入れられて出てくる。それが習慣だ。
私その小さな口からタッジを飲んだ。
口当たりがよく、なかなかうまい。
私は少年が『なにか飲ませてくれ』というのではないかと思っていたが、彼はただ静かに座っていた。
そしてソウソクの灯りで少し話しをした。

少年の家族は両親と弟が二人に妹が二人。
少年は長男だ。
年は13歳。
両親は米をつくっていて、それで生活している。
少年は学校へ行っているがよく休み両親の仕事を手伝うことが多いらしい。
教科書、ノート、ペンにお金がかかるのが大変だと話していた。
どこにでもある苦労話ではあるが、少年の話し方には全く同情をひくような様子がなく、それが気持ちよかった。

少年の将来の夢を聞いてみた。
『先生になりたい』
とはっきり言った。
『だったらちゃんと学校へ行かないとね』
と私が言うと、少年の顔が笑っていた。
学校へ行き、両親の手伝いをやめると、家計が苦しくなり、学校にかかるお金を稼ぐことができないという矛盾があるのだろう。

私は、ありふれてはいるが、その少年の夢を聞いて嬉しくなった。
エチオピアの少年には、いままでうんざりさせられた事が多かったからだ。

どこの街に行っても、バスを降りると子供らが集まってきて、
『ユー、ユー』
と連発する。
おそらくはYOUという意味で使っているのだと思う。
しかし、YOU以外は何も言わず、そればかり繰り返すので、なんだかバカにされている気分になる。
一度どういう意味で使っているのか聞いたことがあるが、ただの挨拶らしい。
どういうわけか、ここではハローではなくYOUなのだ。
しかしあまり歓迎の意思は伝わってこず、直訳どおりの『お前!』に聞こえる。

そしてそのYOUの後にくるのだマネーだ。
そしてマネーがダメなら次にペンがくる。
YOU、マネー、ペンという単語は子供が最も初めに覚え、かつ実用的な英語なのだ。
これは子供らが自発的に言っているというよりは、親にそういうように教え込まれているらしい。

そして年長の少年は勝手に宿まで案内してくれて、宿からマージンを貰う。
このあたりは慣れたもので、旅行者はそれと気付かずにチェックインし、案内してくれた少年に感謝さえしてしまうことも多い。
さらに大人はこれまた頼みもしないのに、ガイドをやるといって、けっこうな値段を請求してくる。
これはエチオピアのラリベラという世界遺産のある街でひどい。
10分街をあるけば、必ず3人以上のガイド志願者に会うことになる。

エチオピアという国は、アフリカの国のなかでは歴史が長い。
アフリカというのは部族単位での歴史はあるが、国という概念があまり育たなかった。
そのために植民地化は容易であり、現在の国のほとんどは第二次世界大戦後に独立したものだ。
そんななかで、エチオピアは古くから国家として発展してきて数少ない国なのだ。
しかしそのエチオピアもここ数十年は先進国からの援助に頼らざるを得なかった。
もちろん必要な場所や時期に、援助は必要である。
しかし、援助の行き過ぎは、悪影響があるという批判もある。
つまり、外国人=何かくれる人、という図式がすっかり浸透してしまったのだ。
彼らは対価を払わずに何かを貰うことに何も抵抗がなくなってしまったのだ。
それを表しているのが、YOU、マネー、ペンという単語だと思える。
そんなわけで、エチオピアはアフリカのなかでも最も人気がない国の一つである。
要するに人がうざったいのだ。

話がそれたが、そんなエチオピアのなかで、そのタッジ屋を案内してくれた少年のその態度と、教師になりたいという言葉は、素直に嬉しく感じた。
私はエジプトで友人からもらったお菓子を、彼と一緒に食べた。
そしてこういう時のお酒は、格別においしい。

次の日、朝からお目当てのマーケットへ行って写真を撮った。
意気揚揚と写真を撮っていると、
『入域許可と撮影許可は取っているのか?』
と警官に聞かれ、そこで警官と口論になり、事務所まで連れていかれ、払わされるはめになった。
本来払うべきお金ではあったが、その警官の態度はあまりに高圧的で腹立たしかった。
さらにお目当ての民族の写真も、撮るには撮ったが、やはりお金を要求され思うようには撮れなかった。

すこし、落ち込んだ気分で宿にもどり、私はまたチャットをやった。
宿のレストランのオープンスペースで、旧式のコーヒーマシーンでつくった上等のマキヤートを飲みながら、チャットをする。
このコンソではそればかりやっている気がする。

するとそこへある少年がやってきて、私に話しかけてきた。
誰だろうと思っていると、昨日タッジ屋を案内してくれた少年だった。
昨日は、真っ暗のなか、ロウソクの灯りで話をしていたので、ほとんど顔を見ていなかったため、思い出せなかった。
私は嬉しくなって、
『こっちへ来て座りなよ』
と声をかけた。
そして少年がレストランの入り口に差し掛かったとき、宿のオーナーがすっとんできた。
30歳くらいの彼は英語もうまく、このあたりではインテリであろうと思われた。
そして、オーナーはいきなり少年の頭をひっぱたいた。

私はびっくりして、
『彼は昨日会った友達なんだ』
と言うと、
『君は騙されている。
彼はこの辺では有名なワルガキだ。
泥棒だってしょっちゅうやってる。
この辺の連中なら誰でも知っている。』
とはっきりと言った。
少年はそのまま走るように、逃げて行ってしまった。

オーナーの言ったことは本当なのだろうか。
私には信じられなかった。
昨日の少年は独立心があり、お金や物を要求することもなかった。
しかし、私は少年と昨日あったばかりなのだ。
オーナーの言うことのほうが正しいのかもしれない。
それにしても、やりきれない気分だ。

それまで青かった空が急に暗くなり、雨雲がたちこめてきた。
ここへ来て、雨も少なくなったが、まだ雨季なのだ。
あっという間にスコールがやってきた。
宿の従業員は奥からいくつもバケツもってきて、水を貯め始めた。
屋根からは滝のように、雨が落ちてくる。
オーナーはその水をコップにため、飲み干した。
そしてまた水をため、それを私にくれた。
その水は衛生面はともかく、味がやや苦いのは感傷的なためだろうか。

私はただの旅行者だ。
国から国へと、街から街へと移動を繰りかえる。
そこで、ちょっとした友人ができたとしても、そんなに長い間一緒にいられるわけでもなく、その人の全てを理解できるわけでもない。
だからオーナーの言うことを否定する気はなかった。

しかし、少年が話してくれたように、教師になる夢を持ち続けて、そして実現してくれればいいと願うだけだ。
それは彼の状況を考えると、私の想像する以上に難しいことなのかもしれないけれども、頑張って欲しいと思う。
人間は過去によって現在の自分があることに変わりはないが、過去によって未来を制約する必要はないはずだから。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

ヨーグルトにあたる

いつかはそういう時がくるとは思っていたが、実際になってみると、一体なにが原因で、よりによってこんなところでなんて思ってしまう。
私はこの旅が始まった以来、大きく体調を崩した。
場所はエチオピアのゴンダールという場所だった。
スーダンは別に見たいものもなく、南部では内戦をやっていた。
おまけに日中は40度を越す暑さで、ひたすら水とジュースを飲んでやり過ごした。

ハルツームで2泊した私は、暑さから逃れるように、すぐにエチオピアに向かった。

バスを乗り継いで国境を通過し、最初の大きな街が、このゴンダールだ。

村と呼べるほど小さくはないが、いかにも地方の街という感じでこじんまりしている。
とはいえ、銀行もあるし、そこそこの宿もあるので、一息つくにはいいかもしれない。
世界遺産にも登録されているファシリダス王宮もあり、観光地ではあるが、観光客はまれにしか見ない。
たまに西洋人は見るが、東洋人はもうほとんど見なくなる。
エジプトを出ると、観光客はめっきりと減る。

その日ゴンダールのファイサルホテルというところへチェックインすると、偶然エジプトのカイロでもホテルが一緒だった日本人カップルに会った。
偶然といってもエチオピアでは、まともな宿は少ないので、旅行者は必然的にだいたい同じような宿に集まる。
私もそのとき、エジプトで会ったA君と行動を共にしていて、その夜は4人で食事をし、再会を祝してビールで乾杯した。
このエチオピアはアフリカのなかでも物価が安く、生ビールが17円だ。

そのカップルの男性のほうは酒がつよい。
そして私が一緒に行動しているA君もつよい。
私は飲まないではないが、2杯も飲めば十分だ。
ここまでイスラム圏が続き、お酒もほとんど飲めなかったが、ここはキリスト教なので、お酒も自由に手に入る。
女性にしても、スカーフで顔を隠している人もいない。
私たちは少し開放的な気分になり、飲み続けた。
レストランで飲んだ後、部屋の前のロビーに場所を移し飲んでいたら、いつのまにか夜の12時をまわっていた。

私は突然のだるさを感じた。
きっとお酒と疲れのせいだろうと思い先に休ませてもらうことにして、ベッドに入った。
すると、すぐに便意が襲ってきて、トイレに駆け込んだ。
下痢をしている。
別にめずらしいことではない。
きっと疲れているのだろうと思い、またベッドに入った。

それからがひどかった。
やっと眠ったと思った頃にトイレに行きたくなる。
また行くと下痢をしている。
そしてまた眠りにつくと、もよおしてくる。
回数を重ねるほど、下痢はひどくなっていき、そして倦怠感があった。
上体を起こすだけでもひどく疲れる。
部屋のドアを出て、廊下にあるトイレに行くだけでも、はるか長い移動に思えた。

そんなことを6、7回ほどくりかえし、また便意が来た。
やっとの思いでトイレまでたどりつき、限りなく水に近い便を排泄し、また壁にもたれながら部屋にもどると、もう動けない。
しかし、やっとの思い出バックパックから体温計を探し出し、測ってみると、40度を越えている。
これは尋常ではない。
私の記憶のあるなかでは、人生最高の高熱だ。

私はなるだけ冷静に自分の症状を分析してみた。
まず、下痢は相当にひどい。
ほとんど水便だ。
昼食のときに食べたヨーグルトがどうも怪しい。
今日の朝食、昼食、夕食ともA君と一緒に食事をしたが、私が食べて、彼が食べていないものはそれしかない。
食堂のメニューにヨーグルトを発見し喜んで注文した。
見た目は普通だった。
食べてみると妙にすっぱかったが、ヨーグルトはすっぱいのものだと思い、砂糖を入れて食べた。
思い当たるのはそれしかない。

そして熱であるが、40度を越えているとなると、これはもう風邪などのレベルではない。
まっ先に頭に浮かんだのはマラリアである。
ここはアフリカだ。
いつどこにマラリア蚊がいても不思議ではない。
アフリカを旅行する人は、たいていマラリアの予防薬を飲んでいる。
以前のものは副作用が強く、それで失明したという話もある。
現在はコテクシンという名前の比較的安全なものが出回っていて、それを購入しようかとも思った。
しかも発病したときに服用すると治療薬にもなる。
とはいえ、人にもよるがコテクシンでも、頭痛やだるさなどの副作用は起こる可能性が高い。
マラリア蚊にさされ、且つ発病する可能性よりも、予防薬を飲んで、副作用に苦しむ可能性の方が高いと考え、飲んでいない。
それに予防薬も完璧に予防できるわけではない。
だったら、蚊に刺されないような工夫をしたほうがよっぽどいい。
だから予防薬は飲まずに、いざというときの治療用として、コテクシンを購入する予定だった。
私はそれをスーダンで探したが、運悪くどこも売り切れでまだ買っていなかった。

40度を越える熱は、私を非常に不安にさせた。
しかし、飲む薬もなければ、何を飲むべきかもわからない。
それに、時間は深夜の2時くらいだ。
病院もやっていない。
しかもあまりの高熱のため、正確な判断力さえなかったと思う。
そのときに私のしたことは、下痢を止めるために正露丸を飲み、熱を下げるためにバファリンを飲んだ。
とにかく一晩寝て、それから考えることにした。
しかし日本の薬は全くといっていいほど、効果がなかった。
私は翌朝までに20回ほどトイレとベッドを往復し、体力だけを消耗していった。
熱も下がることはない。
ほとんど眠ることなく朝を迎えた。

朝になっても、私の症状はまったく変っていない。
熱も39度から40度の間をいったりきたりしている。
体はひどく衰弱しているように思えた。
体温計を振って、メモリを35度以下にする動作でさえ、ままならなかった。
そんな状況ではあったが、このままではどうにもならないと思い、アフリカのガイドブック引っ張り出し、病気の項を開いて見る。
それを読むと、細菌性の下痢では高熱を伴うことがあると書いてあった。
これかもしれない。
下痢によって、熱を出したのかもしれない。
できればそうであってほしい。
マラリアよりはだいぶましだ。
そう思うと少し気が楽になった。

細菌性の下痢であれば、こっちで売っている、シプロキサンという薬がよく効くと書いてある。
私は自力でそれを買いに行く体力はないが、幸いA君がとなりのベッドに寝ている。

しかし、彼を起こすのは気がひけて、起きるのを待つことにした。
やっと10時くらいにA君が起き出し、事情を説明し、薬を頼んだ。
だが薬局が閉まっていると言ってすぐに戻ってきた。
この辺りでは、昼前後には休憩する店が多い。
その時間にあたってしまった。

仕方ないので、病院へ行くかどうか迷ったが、やはりやめた。
おそらくは細菌性の下痢だ。
だとしたら、薬で治るはずだ。
薬局が開くまで待てばいい。
その後も下痢は続いたが、さすがに出るものがなくなり、完璧な水便だ。
前の夜には、20分に1回だった下痢も、今はなんとか1時間に1回程度になってきた。
私は脱水症状を避けるために、水だけを飲んだ。
普通の水ではなく、水1リットルに対し、砂糖小さじ4杯、小さじ2分の1杯を混ぜたものを飲み続けた。
これはORS(経口補水塩)と呼ばれるもので、普通の水よりも25倍も体の吸収率が高い。
私は幸い砂糖と塩を持っていたので、これをつくった。
もちろん割合なんて適当であるが、ただの水よりはいいだろう。
体力は消耗しきっていたが、これで脱水症状にはならないはずだ。

夕方になりA君がやっと薬を買って戻ってきた。
それを飲み、2時間もすると、下痢は嘘みたいにおさまった。
熱は37度まで下がった。
私はようやく眠ることを許され、次の日の朝まで睡眠をむさぼった。

そして次の日、体力はすっかりなくなっていたが、やっと食事ができるようになった。
とにかく、マラリアでなくて良かった。
それ以来ヨーグルトは食べていない。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

バナナボートに、銀の月夜

バナナ・パンケーキ、なんて、つまらない食べ物がある。
ホットケーキよりももっと簡単な生地に、バナナを放り込んで焼いただけの簡単な食べ物。
それにはちみつなんか塗って食べる。

長くアジアの発展途上国を旅していると、極端に甘いものが恋しくなるときがある。
それもただ甘いお菓子なんかじゃなくって、もっとこう、西洋的な甘味。
チョコレートだとか、ケーキだとか、そんなの。
一応それらの国々にもあるにはあるのだが、それがまた極端にマズイ。
きっとそれ作ってる人達がおいしいの食べたことないからだと思うんだけど、本当にマズイ。
味がドギツイというか………。
根本から間違っているというか………。

バナナ・パンケーキってのは、不思議とどこの国のツーリストレストランでもメニューにあって、先程述べたように簡単な食べ物だから味もそんなに変わらない。どこで食べても一緒。
でも、これがなかなかいけるのだ。一応,ケーキっていう名前だし、西洋的な甘味としては全く不十分ではあるが、代用品としてはそこそこの線を行っている。
今食べても決しておいしくないのは明らかなんだけど、そういう状況下ではとってもおいしく感じられてしまうんだ、くやしいけど、飢えてると。

甘味っていうのは、とてもセクシュアルなものだと思う。

インドかなんかの山の中の掘っ建て小屋のようなレストランで、はちみつのたっぷりかかった、バナナ・パンケーキを一口かじる。
舌を差すような甘味と、バナナの食感と、生地のふわふわが口の中で混ざり合って、頭のてっぺんを直接刺激する。
とろりとした甘い感覚が徐々に降りてきて、全身の力が抜ける。
もう、失神しちゃう。

何日も何日も甘いものが食べられなくって、食べられなくって、飢えに飢えてようやく、口にする一切れのケーキ。
そういえばチベットにいた頃なんて、茶色の不毛の大地がチョコレートパウダー振ったティラミスの表面に見えて仕方なくって、頭からクリームのなかに突っ込んで、窒息してしまいたかったよ。
欲しくって欲しくって欲しくって欲しくって、でも手に入らない、手に入らない、どうしても手に入らない。
まるで女の子にふられて、身悶えするような感じ。
そんなのに似てるなあ。
決定的にふられたのは分かってるんだけど、どうしてもその子の影がちらついて………。

ああ、バナナ・ボートに銀の月夜で、そして、君がいてくれたら。
君さえ、いてくれればなあ………。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

ベトナムの雨

全く関係がなさそうで不釣り合いにみえるものが一緒になって醸し出す絶妙なハーモニーというものが世の中にはたまにある。

もうずいぶん前に、「夏至」という映画を見た。ベトナムを舞台にしたものだ。ベトナミーズ・アメリカンの監督が撮った映画。

内容は特に憶えていないのだが、映像がとてもきれいで、アメリカ育ちのベトナム人監督だからこそ感じとれるであろう、洗練された、客観的なベトナムがうまく表現されている。

アジア的なものと、それとはまるで正反対の欧米的なものが混ざり合うと、まれに、全く新しいスタイルのものが生まれることがある。
それは斬新で,一歩先ゆく文化だと思う。
「夏至」に関していえば、音楽だ。

ルー・リードというニューヨーク・アンダーグラウンドカルチャー界のカリスマがいる。
彼は昔、その名も、ベルベット・アンダーグラウンド、というアンダーグラウンド・バンドを率い、60年代後半のニューヨーク・ポップカルチャーの中心的人物、アンディー・ウォーホールとともに時代を牽引した。当時の多くの奇抜なフリークス達が、時代の波とともに淘汰されていくのを尻目に彼は生き残り、ソロとして活動を続けた。

ルー・リードは低い声で囁くように歌う。
バンド時代の暴力的で破壊的なサウンドは身を潜め、穏やかな調子でしっとりと歌う。

「夏至」には、その彼の曲が使われていた。
特に雨のシーンに何曲か ――

ベトナムはよく雨が降る。
ぼくがいたときはちょうど雨期の真只中だったため、毎日毎日四六時中雨が降り、じとじとじとじとしていた。
当然、何をやる気もきれいさっぱり消え失せ、ダニに噛まれた手や足をぼりぼり掻きながら一日中、何をするわけでもなく、湿ったふとんの上でごろごろごろごろしていた。

そんなベトナムの雨のシーンにルー・リードの低く、湿った歌声がゆっくりと流れるのだ。
ベトナムとルー・リードなんて一見、食い合わせの悪い食べ物みたいな関係で、ぼくのような平凡な感性の持ち主には到底思い浮かぶべくもなかったのだが、実際それらはとてもよく調和して、まるでルー・リードは最初からベトナムの雨を想って歌っているかのように思える程だった。
なんともいえないけだるい感じ。
ベトナムの雨と湿気は、人間から全ての気力と活力とを奪い去る。寝ころんだまま、動きたくなくなる。
もう,一生寝ころんでいたくなる。
そうやって寝ころんでいる所に、ルー・リードの湿っぽい歌声は汗や湿気を通り抜け、全身にすらすらと染み込んでいく。
ブウン、ブウン、と蒸れた空気をかき回す、くたびれた扇風機。
退屈な午後。
湿っぽい、暑さ。
そして雨音。

最初からこのことを歌ってたんじゃないの?
というぐらいぴったりだった。

何か、クールだね。
まるで正反対の文化が融合して全く違ったものになる。
化学反応でも起こすのかな?
世界中のそういった組み合わせを発見して、組み合わせていけたら、新しいものがいっぱいできそう。
それって、グローバルってことなんではないだろうか。
ゾクゾクする。

「夏至」で描かれていた風景は、確かにベトナムだったのだが、同時に、ベトナムではなかった。実際ぼくが行って、見た、ベトナムの印象はあんなものではなかった。
もっとリアリティに溢れ、地に足の着いたものだった。

ただ、印象としてはものすごくよく分かる。
ああだった。
一日中動きたくなくなるような、倦怠の雨。
怠惰な時間。
湿った空気に溺れるように、体を横たえる。
ルー・リードの歌声。
全てを放棄したくなるような、退廃的な時間。
艶っぽくって危険な香りが漂っていた。

ああ、ベトナムの雨。
湿っぽい空気。
うだるような、暑さ。

雨の日の今日、ルー・リードを聴きながら、ちょっとベトナムのことなんて思い出してみる………

doot do doot do doot do doot………

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

アザーンの聴こえる、朝

パキスタンに入って初めて知ったんだけど、イスラムの国ではどこの街でも大体一日に何回か決まった時間に、何処ぞやのモスクからアザーンが聞こえてくる。
アザーンっていうのは、お祈りね。
拡声器かなんかでそれを大きな音で流すんだ。

 
  ――アッラー,アクバル――

で始まって、何分かそれが続くんだ。
アッラーっていうのは「神様」ってことで、アクバルっていうのは「偉大」ってことらしい。
要するに、「神は偉大である」、ってことを言っているのだ。

パキスタンの北の方、ギルギットっていう小さな町には日本人の集まる有名なゲストハウスがあって、オレがそこにいたときにはクレイジーで面白い奴らがたくさんいた。
だからついつい長居しちゃって。
毎日毎日、ドラッグ三昧。明け方までケタケタ笑ってた。
ある日オレは、ついつい調子に乗っちゃって、一日中、鼻から口から色んなもの吸い込みまくって、夜が更ける頃には意識不明でブッ倒れてた。わけ分かんない。
次の日起きたら、スッゲェ体調悪ぃのなんのって。
これまた一日ブッ倒れるはめになってたね。

自分では気付いてなかったんだけど、部屋をシェアしてた奴が言うにはその晩、眠ってる間に何回も起き上がって、げぇげぇげぇげぇやってたんだって。
とても苦しそうだったという。
でも、明け方アザーンが聞こえてくると、だんだんと落ち着きを取り戻し、再び安らかな眠りについたという。

それからかな。アザーンが苦にならなくなったのは。
それまでは、気になって気になってしょうがなかったんだ。
うるさいから。
でも、よくよく聞いてみると、そんなに悪いものでもないらしい。
特に夕方、寂れた町に響くその声は、砂漠に沈む大きな夕日やその色彩にぴったりでそれは、永遠という言葉に最も近い風景の内の一つ、なんじゃないのかな、なんて思った。穏やかな気分になれる。
オレの苦しみも鎮静されるわけだ。

もうしばらく聞いてないなあ。
たまにテレビなんかでアザーンの鳴ってるのや、イスラムの人達がゆっくりとひれ伏してお祈りしてるのなんか見ると、懐かしいなあと思う。
時間がゆっくり流れているようで、好きなんだ。
毎日に、ちょっとでも日常から離れられるそういう時間があれば、大分違うだろうにね。
そんなにピリピリしなくってもいいかもよ。

夕暮れの帰り道、どこからかアザーンが聞こえてきて、公園のベンチかなんかでちょっと一息。缶コーヒーなんか飲みながら。
目を閉じて。
何にも考えずに。

一日に五分でも十分でも、そんな時間があったら素敵かも。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

満月と、アンコールワットと

もう何年も前のことになるんだけれど、カンボジアという国へアンコールワットという石のお寺を見に行った。

千年も前に建てられた仏教寺院。
ジャングルの中に、まるで時間なんて何も関係ないみたいに、永遠に存在し続ける。
朝も。昼も。夜も。
松ぼっくりみたいな三本の塔の上を太陽は昇っては沈み、沈んでは昇る。
月も。
星とともに、その灰色の建築を銀の光で照らしだす。
寺は、重たい森林の空気を膝もとにたたえ、さんさんと月光を浴び続ける。

カンボジアという国は、政治が腐っているから、金で買えないものなんて何もなく、嘘か本当か分からないような残酷な噂が、いくつもいくつも囁かれるようなそんな国だから、警察だってお金をあげれば簡単に動かせる。

もともとバックパック背負って旅行してるやつらなんて不逞の徒ばかりなんだから、そういった恩恵にはことさらめざとく、早速その晩ポリスにお金を握らせて、夜のアンコールワットに忍び込んだ。
みんなで50ドルぐらい集めたらポリスの奴もう上機嫌で、持ってたAKライフルなんかも簡単に貸してくれて、仲間のひとりがふざけて銃口をこっちへ向けてくるのでさすがにそれには肝を冷やして、やめろ、って怒ってやったよ。

昼間あんなにいた、観光客なんてひとりもいない夜のアンコールワットはぼく達だけのものだった。
ひっそりと冷たい夜のとばりに包まれて、静かに月光と星の光を浴びている。そんな風にしていると、月や星の光は粒子によって構成されている、と、思わずにはいられない。一定のリズムで、何かを浴びているような感じがするからだ。静かで穏やかな気持ちになっていく………

その晩はちょうど満月で、アンコールワットの屋根のてっぺんにまんまるでざらざらの月が白く輝いていた。
湿った夜風が吹く度に、木々がざわめく。
ぼくらの心も同じようにざわめいた。
昔、夜の学校に忍び込んだときのことを思い出したりして。
楽しかったな。
仲間と秘密を共有したときの、わくわくするような連帯感。

宿に帰って、みんな酔っぱらって、さっきの光景を思い返した。
夜のアンコールワットを。満月の光に照らし出されたアンコールワットを。
最高の肴だよね、ほんと、贅沢な。
ああ、またあんな光景を前に一杯やってみたいもんだな。

目を閉じれば思い出す。
満月と、アンコールワットと。
木々のざわめきと、あのときの仲間たち。
今となっては、遠い思い出。
そんなこともあったよなあ………

………なんて。

変に年寄りくさくなったもんだ。
やだやだ。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

NIRVANA

ひとりぼっちの秋、中国東北部紅い夕日の沈む淋しい裏通りをひとりぼっちで歩いた。

『NIRVANA』というバンドがある。
もう何年も前に解散したバンドだ。
カート・コバーンというボーカリストがいた。
“グランジ”というロック・ムーブメントの火付け役となった人だ。
ぼろぼろのジーンズを履いて、髪は何日も洗っていないような長髪、酔っぱらったようにふらつきながらギターを弾き、叫ぶようにして歌う。
カート・コバーンはショットガンで頭を吹き飛ばして自殺して死んだ。
彼の存在無くしては「NIRVANA」は存続しえず、その死によって必然的にバンドは解散した。

最初の内はそんなに好きなわけではなかったんだ。
むしろ嫌いだった。
なんだ、こんなの。うるさいだけじゃん、なんて思ってたし。
でも当時、ちょっとしたクラブなんかに行けば必ずニルヴァーナの曲はかかっていたし、CD屋に行ったって彼らのアルバムはいやという程目に入ってきた。
だから、個人的に気に入って聴いていなくたって自然と憶えてしまったし、ヒットした曲なら大体知っていた。フレーズとか。
まあ、そんな風に刷り込まれていたんだよ。

旅行中はとにかく寂しかった。
不安だったし、そのせいで体調を崩したりもした。
初めのうちはずっと微熱が下がらずに四六時中、ふらふらふらふら眩暈がして、食欲もなくって、何を食べても味気なく、なにもかもがざらざらしていた。おまけに何か食べるたびに気持が悪くなって、あんまりひどいと食べたものを戻したりもしていた。
全部、一人でいることによる不安や寂しさから来るものだったのだと思う。
それぐらい寂しかった。

それから4、5か月後の中国にいたころにはそんな旅にも大分慣れていて、痩せた体も元に戻りつつあったものの、秋の中国東北部の景色はすべてが茶色で、沈む夕日があんまり大きくて、大気はこれから訪れる烈しい冬の季節を予感させる程張りつめて身を切るぐらいに透明で、どうしたって寂しい気分にならないわけには行かなかったんだ。
生まれ育った故郷や、子供の頃の記憶が自然と目に浮かぶ………

一言でいうと、ニルヴァーナは孤独を歌い上げていた。
その破壊的なサウンドの裏には、極端に傷つきやすい感性と、絶望的に救いようのない深い孤独が潜んでいた、と、思う。

ぼくはそんなに好きではなかったはずのニルヴァーナのカセットテープを、中国東北部の裏町の寂れたレコード屋で偶然見つけだし、何故だかそれを買ってしまった。そしてそれからその後、狂ったように聴きはじめるのだった。
ホテルの部屋で一人でいた夜、ベッドの上に寝っ転がって何をすることもなく、一晩中それを聴いていた。
自殺した、カート・コバーンのかすれた歌声がやけにぼくの胸に染みわたった。

それ以来ぼくはニルヴァーナに取り憑かれている。
“ニルヴァーナ”とは仏教用語でいう”涅槃”のことだ。
涅槃とは釈尊の死。
仏教における理想の境地。
煩悩の消え去った、絶対自由の状態 ―――

ああ、秋の中国東北部は何であんなにも寂しい風景なのだろう。
ぼくの胸に眠っていた様々な思い出を引っ張りだす。
それは死ぬ前に見るみたいな風景。
すべてが明るく、輝きながらまわりだす。
ひとりだったあのころ。
ひとりではなかったあのころ。
みんな美しい。
こんなにもあたたかく、ぼくは羽毛に包まれたみたいに安らかだ。
お別れは,とても寂しい。
去っていってしまうのはとても寂しい。
死んでしまうのは、とても寂しいことなのだ。

ぼくは今でもニルヴァーナを聴いている。
あれから大分たったけど、あのときの感覚は消えていないのだろう、聴いていると今でも何となくあの風景が甦ってくる。
ひとりでいたあのころの。

孤独は消えない。
寂しさは決して無くならない。
絶望的にかなしい孤独を、人は一生生きねばならぬ。
だから、せめて、信じる心を、愛を、信じる心を。

死んでしまった、カート・コバーンのかなしい孤独を思うと、胸が痛む。
せめて,彼の魂が安らかであるように。
苦しみの少ない、穏やかな世界にいるように………。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

ライターの石

ライターには、火をつけるときにパチッと火花を飛ばすための小さな石が組み込まれている。
電子式で、ないやつもあるけど。
大体入っていると思う。
その石は使っていくにつれ、削れて小さくなっていくので最終的には無くなってしまい、火がつけられなくなるという事態が発生する。
高級なライターだったら、交換用の石に取り替えてまた使い続けることが可能なのだが、いわゆる百円ライターのような安物だったら構造上簡単に交換などできないため、ポイッと捨てられてしまうのだ。
使い捨てライターと言われるゆえんだ。

どこが最初だったかな。
初めて百円ライターの石を交換したのは。
ネパールだったと思う。
そう。
取り替えてくれるんだ。
使い捨てライターの石を。
路上にそんな店があって、店といってもただおっさんがそれ用の道具を並べて座ってるだけなんだけど、何ルピーかで石を補充してくれるんだ。
そして百円ライターはまた使えるようになる。

あ、忘れてたけど、その店ではガスも入れてくれるんだ。
したがってライターは、外側のプラスチックが割れたりしない限り、半永久的に使えることになる。
これにはさすがに驚いた。
百円ライターなんて、いつも使い切る前にどこかにやってしまい、最後まで使ったことなんて一度もなかったんだから。

今思えばおかしな話だけど、そのときはそんな百円ライターに愛着さえ憶えてずっと使い続けていたもんだ。

百円ライターだって、使おうと思えばずっと使い続けられる。
小さなことだけど、ぼくにとってそれは新たな発見だった。
だって、わざわざ買い替えるよりその方がいいじゃん。
今流行りのエコロジーの観点から見ても。
ちょっと不便になるだけで、我慢できない程ではない。

思うんだけど、世の中無駄な循環が多すぎやしないかい?
いらないものが多すぎない?

人間の欲望というものは、尽きることを知らない。
果てしなく続く。
恐ろしいね。
ぼくは自分の中にその片鱗を見い出したとき、その果てしない欲望の深さに、身震いしてしまう程なんだ。
恐ろしいね。
突き詰めていったらキリがない。
どこかで我慢しなくちゃならない。

その欲望というものを追求し過ぎて疲弊しているのが、今の日本の状況だと思うんだ。
だから、日本の路上にもライターの石替え屋さんがいてもいいと思うのだ。
そんなのんきな社会なら経済力は落ちるかもしれないが、その分ユーモアのあるゆったりとした社会になるんじゃないのかな。
だって、ファンキーでいいじゃない。
往来にそんな人が座っていたら。

ぼくはバランスが重要だと思う。
もちろんお金も大切だが、そればっかりにこだわるのではなくもっとこう、目に見えない大切なことも失ってはいけないと思うんだ。
心のゆとりというか。

物質面と精神面。
それらのバランスがうまくとれている社会こそが、本当の豊かな社会であり、また、そんな豊かな社会を持つ国こそが、本当の意味での先進的な国であると思うんだ。

そういう意味では、心の豊かさの少ない、かねかねかねの今の日本という国の現状は、明らかに後進的な国のそれだよね。
何で先進国なんて呼ばれているかが不思議でならない。

そういう国を目指そうよ。
本当の意味での豊かな国を。
人が人に対して、自然に思いやりを持てるような国を。
そしてぼくは、そんな国にこそ住みたいと思う。
そんな国にこそ本当の意味での”誇り”を持てるのだろう、とそう思う。
ぼくは、日本人としての誇りを持って、恥じることなく世界を歩きたい。
素敵な日本の一員でありたい。
そんな日本という国を愛したい。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。

地平線

初めて地平線を見たのは、19の夏の頃だったか。
もう、10年以上も前のことになる………。

それまで自分は、地平線なんて見られないものだと思っていた。
こんな小さな国じゃあ。
大地の少ない、この国じゃあ。

買ったばかりのバイクで、日本を走った。
北へ北へ向かった。
ひたすら北へ向かって駆け抜けた。

北海道には、地平線があった。
果てしなく何もなく、何もないってことがこんなにも気持ち良く、爽快であるということを初めて知った夏だった。
地球を見た気がした。

それから何年もたって、その間に何度も地平線を見た。
なかには、地平線ばかりの国もあった。
当たり前のようにそこに大地が広がっていた。

もう久しく、地平線なんてものは見ていない。
広い景色を見ていない。

あんまり長く窮屈な所にいつづけると、世界は広いんだ、っていうことを忘れてしまう。
そんな当たり前のことにすら、気付かなくなってしまう。

ぼくはいま、地平線が見たい。
抜けるような青空と、果てしなく広がる茶色い大地、青く萌える草原、銀色の山脈、大自然の創りだす色彩の奇跡、宇宙。
そんなものに、抱かれたい。
考え付かないぐらい大きなものに抱かれたい。
そしてその中に溶け込んで、自分というものを無くしてしまいたい。
地平線の向こうを越えて、果てしないものと同化したい。

さとうりゅうたの軌跡
さとうりゅうた 最初は欧米諸国を旅するが、友人の話がきっかけでアジアに興味を抱く。大学卒業後、働いて資金をつくり、97年4月ユーラシア横断の旅に出る。ユーラシアの西端にたどり着くまでに2年を費やす。