カード

直規は、しばらくの間、ムズムズする鼻を啜ったり少し指で擦ったりしながら効き目が表れるのを待った。その間に心路は、直規からカードを受け取ると粉をすくって同じように鼻から吸引した。そして鼻を擦りながら、シバに向かって、やる? という風にカードを差し出した。

シバは、目を閉じゆっくりと首を振りながら、いいや、私はやらない、と胸の前で両手を広げた、と、その途端、直規が急に呻き声をあげた。

「うわっ、これ凄ぇ」

直規は、俯きながら立っていたが、次第にゆっくりと膝に手を突き、そのまま床に座り込んだ。そして顔を上げると焦点の定まらない目で辺りを見回しながら、凄いわ、これ……、とぼんやりと呟いた。心路の方も効き目が表れてきたらしく、首を捻ったり瞬きをしたりと、急にそわそわし始めた。

「心路、どう、これ、凄くない?」

直規が、空ろな目で真次を見ながらそう尋ねると、心路も、同じように、ああ、これ、いいよ、と嘆息した。

「今まで俺達がやってきたのと全然違うよ、全然違う……ああ、マジで凄いよ、これ……」

二人は、しばらくそうやってひたすら悶え続けていた。

その様子を見ていたシバは、満足そうにタンクトップと顔を見合わせながらこう言った。

「だから言ったじゃないか、スペシャルだって、嘘じゃなかっただろ? これだけ質のいいのはインドではとても珍しいんだ。君たちはラッキーだよ、こんなのに巡り会えて。三グラムにしといて良かっただろう?」 

直規は、向こうの言いなりになったようで少し癪に障ったが、もうそんなことはどうでも良くなっていた。そんなことを考えること自体が下らなく思えてきた。

「ああ、いいよ、三グラム買うよ、グラム八百だから二千四百だな? それでいいんだろ?」シバは、目を閉じゆっくりと頷いた。タンクトップは、腕組みをしながらシバの背後から直規と心路の様子をじっと眺めている。

「心路、金出せよ、千二百だ」

直規がそう言うと、心路は、ああ、分かった、と頷いて財布の中から金を取り出そうとするのだが、財布の中身をしばらく探ると急に黙り込んでしまった。そして申し訳なさそうに直規に謝った。

「直規君、ごめん、俺、両替えするの忘れてたみたい……」

直規は、まさか、という表情で心路を見返した。

「何だよ、金、無いの?」
「ごめん……」
「マジかよ、どうすんだよ、俺そんなに持ってないぜ。一体幾らあるんだよ?」
「三百」
「三百だって? お前よくそんなんでここへ来たよな。ああ、ちくしょう、俺だって千五百しかないぜ、六百足りねぇよ…どうすんだよ」
「ごめん……」

心路は俯いたまま動かない……。直規は、ハッと思いついたように智の方へ目を向けた。

スペシャルプライス

「落ち着きなよ、マイフレンド、これは本当に上物なんだ、三グラムにしたって何が変わっていうんだ? 千ルピーぐらい、君達にとってはどうってことない額じゃないか。絶対に買っとくべきだよ」

直規は、無言でタンクトップを一瞥すると、溜め息まじりに心路に言った。

「心路、どうするよ? 三グラムだってよ。話がややこしくなってる。長くかかりそうだぜ」

少し考えてから心路は言った。

「じゃあ、三グラム買うとして、八百ぐらいまで負けさせるっていうのはどう? 俺と直規君で千二百ずつだったら金の方も何とかなるでしょ」

二人が日本語で話していると、シバがその会話に割って入った。

「彼がいるじゃないか、彼と君たちとでちょうど一グラムずつでいいじゃないか」

智の方を見ながらシバはそう言った。

「智はやんないんだよ。それよりも、三グラム買ってやるからグラム七百にしろよ、だったら買ってやるよ」

直規は、少し値段を下げて交渉を始めた。するとシバは、天を仰がんばかりに大袈裟に驚いてみせた。

「七百? 七百は無理だよ、だって三グラムで二千百ルピーだよ、本当ならグラム千五百で売ってるところをスペシャルプライスで千でいいって言ってるんだよ、間違っちゃあいけない」 
「でも、俺らは二グラムって言ったんだ、そこを折れて三グラム買うって言ってんだぜ、せめて八百にしろよ、そうしたら三グラムで二千四百、悪くないじゃないか」

しばらくそんな言い合いがシバと直規の間で続いた。しかしとうとうシバが折れたらしく、仕方ない、今回だけは特別に八百でいいよ、ということになった。

さすがに直規も疲れた様子で、煙草を一本取り出すと溜め息まじりに火をつけた。そしてゆっくりと煙を吐き出しながらシバに向かってこう言った。

「シバ、試させてくれよ」

シバは、直規の方を向いて少し考えてから、ああ、と言ってタンクトップに声をかけた。
タンクトップは、それに応じて紙包みを直規に手渡した。心路、何か持ってるか?、と直規が尋ねると、心路は、財布の中からクレジットカードを取り出した。直規は、心路の手からそれを受け取って紙包みの上に盛られた薄い茶色の粉をカードの角で少しすくった。そしてくわえていた煙草を灰皿に置いて左手の中指で片鼻を押さえながら、カードの上の粉の小山をゆっくりともう一方の鼻孔に近付け、それを一息に吸い込んだ。

直規の鼻の粘膜に異物が付着する。それは痛覚を刺激した。そしてじわじわと溶け始め、重力に従って直規の喉の奥の方へと鼻腔を通って下りていく。嫌な苦い味が、直規の味覚を刺激する。

ハイ・カースト

シバと呼ばれるその男は、小柄で、年はタンクトップよりも若そうな感じなのだがどこか落ち着いた雰囲気を醸し出している。切れ長の目が静かに光っており、その瞳は常に遠くを見ているようだった。恐らくハイ・カーストの人間なのだろう。着ているものも小綺麗で、さっぱりとしている。 

インドという国は、カースト制という名の階級制度が非常に細かく厳格に設定されており、ハイ・カーストとロー・カーストとの間の親密な交流というものはまずあり得ない。
その為かカーストごとに醸し出している雰囲気のようなものが生まれ、しばらくインドを旅しているとそういったものは何となく肌で感じることができるようになる。シバの風采というのは、紛れもなくハイ・カーストのそれであった。表情に何か自信のようなものが満ちていた。

彼は、心路を見ると柔らかく微笑んで、ハイ、と言った。心路も笑顔で、ハイ、と言ってそれに応じた。シバは、タンクトップとヒンドゥー語で二言三言、言葉を交わすと、待たせて悪かった、と言って紙包みをポンッとベッドの上に放り投げた。直規は、それを手に取るとシバに向かって、開けてもいいか、と尋ねた。シバは無言で首を傾けた。

直規が包みを開くと、薄い茶色の粉が紙の折り目に沿って、漢方薬か何かのようにこんもりと盛り上がっており、それは直規達が想像していたよりもかなり大量にあった。

「これ、一体何グラムあるんだ?」

驚いて直規は尋ねた。

「三グラムだ」

シバは答えた。それを聞いて直規は言葉を詰まらせた。

「はぁ、三グラム? 俺達は、二グラムって言った筈だろ? そうだろ、心路」

心路は黙って頷いた。するとシバは、ゆっくりとした口調でこう言った。

「これは本当にスペシャルスタッフなんだ。これだけのものはインドではまず手に入らない。ちょうど三グラム仕入れられたから、そうしたんだよ。むしろ喜ぶべきことではないか。それに二グラムも三グラムもそんなに変わらないだろう? 君達ジャパニーズは金を持っている。買わないと損だよ、絶対に」

直規は、小さく溜め息をつくと日本語で心路に言った。

「だから言ったんだよ、心路。こいつらこういう奴らなんだよ、ドジンめ、絶対何かあるなって思ってたんだよ」

心路は、無言で直規から目を逸らした。

「いいか、シバ、俺らは、二グラムって言ったんだから二グラムしか買わない。いいな?」

するとシバは、残念そうに首を振り、二グラムでは商売にならない、俺達は普段はもっと大きな仕事をしているんだ、本当ならこんな小さな仕事はしないというのを特別にやっているんだ、三グラム買えないというのならグラム千五百ルピーで買ってもらう、というようなことを言いだした。それを聞いて直規は、冗談じゃないとばかりに怒り始めた。

「お前、ふざけんなよ、グラム千で話ついてんだろ? 千五百なんて出せるかよ」

直規が強い口調でまくしたてると、窓際にもたれかかっていたタンクトップがサッと身を乗り出した。そして直規の鼻先でゆっくりと人差し指を左右に振りながらなだめるようにこう言った。

シバ

少し坂になったその道をちょっと行くと右手に低い門と柵があって、そこにアルファベットで「クリシュナ・ゲストハウス」と書かれている。門の内側には小さな庭があり、L字型になった二階建ての建物は明るいベージュ色に塗られていて、見た感じは小ざっぱりとして、悪くはなかった。正面にいくつか見られる緑色の木の扉には番号が記されており、そこが宿泊用の部屋だということを表している。庭に生えている二本の木の間にはハンモックが吊るされており、それが風で少し揺れている。ひっそりとしていて人気はない。

「心路、本当にここなんだよな? 誰もいる気配がしないぞ」
「確かにここだよ。多分中にいるんじゃないのかな? この間来たときもこんな感じだったし」
「本当かよ? ところで今何時?」

直規は、心路にそう尋ねると、心路は、時計持ってない、という風に首を振ったので、すかさず智の方を振り返った。智は、それに気が付くと腕時計を見て、八時四十分、と言った。

「ちょっと遅くなったかな」
「大丈夫だよ」

心路は、気に留める様子もなくそう言うと、柵を開けてずかずかと中へ入っていった。
そしてゲストハウスの入り口の扉の前まで来ると、二三回軽くノックした。返事は無い。

「いないのかな?」

少し緊張して智がそう言った。しかし扉の隙間から漏れてくる光で、中に灯りのついていることは分かる。

「いや、灯りがついているから多分いるとは思うんだけど……」

そう言うと心路は、続けざまにまた何回かノックした。しかし何の応答もない。扉をノックする音が静まり返った空間に響き渡るだけだった。

「やっぱり時間間違えたんじゃねぇの?」

直規が、責めるように心路にそう言った。

「いや、そんなことはないと思うよ、確かにあいつ八時って言ってたよ」
「じゃあ、俺らが遅かったからどっかに行っちまったっていうのか?」
「分かんないよ」

二人の言い合いが発展しそうになるのを見かねて智が割って入った。

「ちょっと待ってよ、今、そんな言い合いしたってしょうがないだろ?」

二人は、智のその言葉に少し冷静になってお互いを見返した。

「どう、出直す?」

と、智が言ったその時、二階の部屋の一つに灯りがついて誰かが出て来るのが見えた。
暗くて良く分からないがインド人らしく、彼は、三人の様子を二階から眺めながら英語で、どうしたんだ、何か用か、と尋ねてきた。それに気付いた直規が、シバに会いに来たんだが、と答えると彼は、ああ分かったちょっとそこで待ってろ、と言って部屋の中に姿を消した。
しばらくすると三人の目の前の扉の向こうから足音が近付いてきて、ガチャガチャと鍵を開ける音がした。そしてスーッと扉がゆっくり開くと、タンクトップシャツを着た筋肉質の若いインド人が姿を現し、入れ、と行って首を傾げた。髪は、ヘア・オイルでねっとりと撫でつけられている。直規は、横目で彼を見ながら頷いて、心路に、こいつがシバか?、と日本語で尋ねた。心路は、いいや、と首を振るとそのタンクトップ姿のインド人は、シバという名前で会話を察したらしく、シバはもうすぐ帰ってくるからちょっとこっちで待っててくれ、と三人を二階の部屋へと案内した。

階段を上って連れて行かれたその部屋は、先程その男が出てきた部屋で、どうも客室のようだった。ベッドが一つに木の扉のついた小さな窓が一つ、部屋の壁は、外と同じく明るいベージュで塗られており、さらに壁一面にペンキか何かでカラフルな絵が描かれていた。それらはデフォルメされたヒンドゥーの神々だった。後はゆったりとした籐製の背もたれ椅子が一つと小さなテーブルが一つ、電気スタンドが一つ、その他には何もない。典型的な安宿の一部屋だ。様々な日用品が辺りに雑然と並べられているのを見ると、どうやらタンクトップはここで生活しているようだった。

彼は、部屋に入るとベッドの上に腰掛けた。そしてそれに向かい合うように直規は籐椅子に座り、心路と智は座る所が無いので仕方なく、床に座った。

タンクトップは煙草を取り出すとマッチで火をつけ深々と煙を吸い込んだ。それに釣られて直規も煙草に火をつけた。

「ヒンドゥー・ゴッズ」

壁に描かれた絵を眺めていた智を見て、インド人はそう言った。

「あなたが書いたの?」

智がそう聞くと、そうだ、と言って何度も得意気に頷いた。

「シバはいつ帰ってくるんだよ?」

テーブルの上の灰皿を床に座る心路の前に置きながら直規は尋ねた。心路は、横目で直規に礼を言って煙草に火をつけた。

「ああ、もう帰ってくる。今ネタを取りに行ってるんだ。すぐ帰ってくるよ」

タンクトップは、二人のその様子を眺めながら窓の外にせわしなく煙草の灰を落としている。

「ここで働いてるの?」

智が彼に尋ねた。

「ああ、そうだ、シバと一緒にここで働いている」
「ここのゲストハウス、泊まってる人いる? 何だかシーンとしてるけど」
「いるよ、向こうの部屋に二組と下の部屋に一人、イギリス人の二人組とイスラエル人とフランス人のカップル、あとはドイツ人の五人かな」
「でも、誰もいないみたいだけど……」
「今、みんな出かけてるんだ」
「出かけるってどこへ? 町に出たってどこも閉まってるし……」
「知らないのか? 今日はパーティがあるんだよ」

それを聞いた直規と心路は、その瞬間、顔を見合わせた。

「知ってた? 心路?」

心路は、いいやというように首を振った。

「どこでだよ?」

直規が尋ねた。

「町から少し行った所だ。よくパーティ会場になってる小高い丘のような所があって、そこでやってるんだよ」
「行ってみる? 直規君」

心路がそう尋ねると、直規は、ああそうだな、帰りに行ってみようか、と言いながら体を屈めて、床の上に置かれた灰皿で煙草の火を揉み消した、と、その時、外で柵の開く音がするのが聞こえた。屈んだ姿勢のまま直規が顔を上げると、タンクトップは、窓から外を覗いて、シバだよ、帰ってきた、と言った。智は、少し緊張して直規達の方を振り返ると、二人はとても嬉しそうに微笑んでいた。わくわくしているようだった。やがて階段を上る音が聞こえてきて、シバが姿を現わした。

クリシュナゲストハウス

月が、三人の頭上でひっそりと輝いている。智は、ぼんやりとそれを眺めた。

月は揺れているようだった。微妙に振動して光の波動を発しているのだ、と智は何となく思った。そしてその銀色の波動を自分は今全身に浴びている、と想像すると、今ここでこうして歩いているだけのことが凄く素晴らしいことのように思えてきて、自然と幸せな明るい気分になるのだった。そして全く異国の土地で、日本では全く見ず知らずだった日本人と偶然出会い、共に歩いているということが、まるっきり運命的で奇跡的な出来事に感じられ、智は妙に感動してしまうのだった。

「俺、直規と心路に出会えて良かったよ」

二人に向かって智は唐突にそう言った。

「何だよ、突然」

直規が、智の方を向いて言った。

「だってこんなインドみたいな広い国でもう何回だっけ? 三回目? 三回も再会してだよ、今こうして歩いているのなんて本当に凄いことじゃない? 俺は、今、運命を感じていたんだよ。だってお互い日本にいたら絶対会うことなんてなかっただろ? 住んでる場所も全然違う訳だし。なのに、旅っていう唯一共通する行為によって俺達は結び付けられてるわけで、それって奇跡に近いことっていうか、もう奇跡じゃない? だからさ、こういうのって何かの縁だから大切にしなきゃって思ってたんだよ、どう、そう思わない?」
「智、お前もキマり過ぎだよ、ちょっと落ち着けよ、何言ってるか分かんねぇよ」

直規がそう言った。

「でも、俺は、何となく智の言いたいこと、分かるような気がするな」

微笑みながら心路はそう言った。しかし智は、二人の言うことにはあまり耳を傾けず、ひとり、満足そうに感慨に耽るのだった。

三人は、もう町の入り口まで来ている。そこの細い裏通りを一本抜けると、明るい表通りに出る。しかし表通りといっても小さな町なので三人並んで歩いていたら、もう人とは擦れ違うことのできないぐらいの道幅だ。店もツーリスト向けの土産物屋がポツポツと開いているぐらいで、人通りもあまりない。

「夜は寂しい感じだね」

智はぽつりとそう言った。

「ああ、昼間は人も多くて賑やかなんだけど、夜は店閉まるの早いしな。九時ぐらいには人気もなくて本当に静かだよ」

直規が、周りを見渡しながらそう言った。

雑然とした町並は、他のインドの町の風景とあまり変わりはない。ヒンドゥー語と英語の混ざった看板がそこいら中に見受けられ、町の様子をより雑然としたものに見せかけている。かなりごちゃごちゃとした町並みだ。ぽつん、ぽつん、と灯る街灯は、埃っぽい通りを余計に薄暗く、寂しく染めている。

「心路、どっちだっけ? クリシュナ・ゲストハウスって?」
「もう一本向こうの道を右に入るんだよ」

指を差しながら心路はそう言った。

「良く分かるよなぁ、心路は、本当にこういうの得意だよな」
「直規君が方向音痴なだけだよ」
「いや、お前が詳しすぎるんだって。だって一回歩いたらもう絶対その道忘れないじゃん」

心路は、そんな直規の意見をよそにスタスタと歩いて行く。

「あ、ほら、ここを右に曲がるんだよ」

心路がそう言った道というのは、殆ど人一人通るのがやっとというような細い道で、普通なら決して立ち入ることのないような所だった。

「何でこんな道覚えてんだよ」

直規は、信じられないという風にそう言った。

「見てみなよ、直規君、そこに書いてあるよ、ほら」

そう言って心路が指したその先には、壁にペンキで小さく、クリシュナ・ゲストハウス、と矢印が書かれていた分かんねぇよこんなの。こんなんで客来るのかよ? 絶対これ見て来る奴なんていないだろ?」
「だから、ここの奴らは、ツーリストにドラッグ捌いて儲けてるから宿泊客なんて来なくたっていいんだよ。それに放っといても買いに来た奴らがそのまま泊まっていったりするんだから」

直規は、成る程なという風に納得しながら道を曲がった。

月光

「直規君、そろそろ行かないと……」

心路は、俯いている直規に向かってそう言った。ようやく直規は、落ち着いたという風にゆっくりと顔を上げた。

「そうだな、行こうか、行かなきゃな……。しかしキマッたな、これは……」

下を向いたまま智は動かない。

「おい、智、大丈夫か? サトシ?」

智の肩を揺すりながら直規はそう言った。

「あ、ああ、そうだよ、行かなくちゃ、行くんだよな、ブラウンだっけ、そうだよ、買いに行くんだよ……」
「智、大丈夫かよ?」
「ああ、大丈夫、かなりキマッてるけど、歩けそうな気はするし……。多分……」
「ハハ、何とか大丈夫みたいだな。このクサ、トビが軽いからきっと歩き始めたらシャキシャキしてくるよ。よし、そろそろ行こうか」

直規と心路は、手荷物をまとめて立ち上がり出かける準備をし始めた。

「俺、絶対何か忘れ物しそうだわ……。もし何か忘れてたら置いておいてね」

二人のその様子を見ながら智はそう言った。

「大丈夫だよ、明日にでも取りに来ればいいんだし、心配すんなよ」

智は、ふらふらっと立ち上がると、空ろな目で自分のサンダルを拾い上げた。霞む視界の中で悪戦苦闘しながらも、何とかそれを履くことはできた。

「俺、目ヤバくない? キマッてるって余裕で分かるでしょ」
「大丈夫だって、俺らみんな一緒だよ、分かんねえって。ほら、行こうぜ」

直規は、智の肩をポンッと叩いて外に出た。智も、ふらつきながら何とか直規について行った。

外に出てみると、もうすっかり日は落ち、辺りは真っ暗な闇に包まれていた。昼間の暑さを忘れさせるぐらい涼しくなってはいるのだが、未だ冷めやらぬ熱気はあちこちに悶々と残されている。

暗い池のほとりを歩いて行くと、その水面に満月に近い月がゆらゆらと揺れるように光っているのがとてもきれいだった。電灯の全くないこの夜道も、月明かりで何とか歩いて行ける程度には照らされている。

「月が、きれいだね」

独り言のように智が呟いた。

「ああ、今日は眩しいぐらいに光ってる」

足下を気にしながら直規はそう言った。辺りはとても静かで、三人の草を踏む音と虫の鳴き声の響くだけだった。

三人とも無言で、歩くことだけに集中していた。湿気た草の匂いがやけに鼻につく。

「それにしてもよくこんな所にある宿を見つけたものだよね」

智が言った。

「ああ、心路は、何故だか知らないけど、こういうの得意だからな。いつも安くて穴場みたいな所を見つけてくるんだよ」
「一泊幾らぐらいなの?」
「幾らだっけ、心路?」

心路は、急に話しかけられたので、驚いてハッと顔を上げた。

「ハハハ、何ビビってんだよ」
「いや、歩くのにハマッててさ、ずっと足下見てたら足音が心地良くって、それ聞くのに集中してたから……」
「お前キマり過ぎなんだよ。俺らの泊まってるゲストハウスの話だよ、幾らだっけ?」
「百ルピーぐらいだったんじゃないかな、多分?」
「二人で?」

心路がそう答えると、智は驚いて聞き返した。

「ああ、確かそうだったと思うよ」
「俺の泊まってる所なんて百二十ルピーもするよ。もちろん一人でだよ」
「町の真中だったらそれぐらいはするよ。ここはちょっと外れになるからさ」

智は羨ましそうに頷いた。

「普通はこんな所誰も来ないって。心路は、何でか分かんないけど、こういう所探すのが得意なんだよ」

直規がそう言うと、心路は、少し照れたように微笑みを浮かべた。

スカンク

結局そのまま何をすることもなく時間は経った。すっかり夜も更けて、裸電球の明かりだけが侘びしく灯っている。

「直規君、そろそろ時間だよ」
「ああ」

直規は、寝転んだ姿勢のまま面倒臭そうに返事をした。

「ところでそいつ、幾らって言ってた?」
「確か千ルピーだって……」
「グラム?」
「ああ」
「値切ってみた?」
「一応ね」
「一応ってどういうことだよ、二グラム買うんだからちょっとは安くできるだろ?」
「でも、言い値は千五百だったよ」
「まだいけるよ」
「え?」
「もっと安くなるよ。グラム、千って言ったらヘロイン買える値段だぜ、絶対もっと安くなるよ」
「そっかぁ、まあその辺は直規君に任すよ」

心路は、ペットボトルの容器で作ったマリファナ用の水パイプをいじりながら話をしている。直規は、その様子を横目で眺めながら、しっかりしてくれよと言わんばかりに、はぁ、と小さく溜め息をついた。

「どう、それ直った?」
「ああ、何とかなりそうだよ。どうしてもここから水が漏れてくるんだけど、ロウを溶かして固めたら大分良くなった。多分これでいけるよ」

直規は、納得したように頷くと、智に向かって言った。

「智、俺ら凄ぇクサ持ってんだよ、キメてみる?」
「どんなの?」
「アムスのクサだよ。バイオテクノロジーを駆使して作った科学の子だよ。ほら、見てみ、このバッズ、粉だらけだろ?」

直規は、小さなパケットに入ったそれを指でつまんで軽く振ってみせた。

「マジで凄いね」
「だろ? あと、この匂いだよ、まるで薬品みたいな匂いがするんだぜ」

パケットに入ったそれを直規は智に手渡して、嗅いでみな、と目で合図をした。智は、パケットの口に鼻を近づけてその匂いを嗅いだ。

「凄い匂いだね。ツーンとくる匂いだ。何か、葉っぱのエキスを抽出して固めたみたいな感じだね」

直規は、嬉しそうにそれをパケットから取り出すと、少しほぐして心路の直していたボングに詰め込み始めた。

「スカンクっていうんだぜ、これ」
「えっ、何が?」
「このクサの名前だよ。アムスのクサは品によってそれぞれ名前がついてんだよ」
「凄いところだね、アムステルダムっていう所は」
「何せ、マリファナ合法の国だからね、オランダは、ククク」

声を押し殺しながら心路が笑った。

「ほら、智、いってみなよ。マジで凄ぇぜ。ボングでいったら一発だよ」
「でも、もう出かけるんだろ?」
「こういうのはちょっとキマッてるぐらいがちょうどいいんだよ。気にすんなよ、ほら」

智は少し躊躇したが、直規が強引に勧めてくるものだから断りきれなかった。

心路がライターを手渡す。智は、ライターに火をつけ、ゆっくりとスカンクに近付けていく。そして大きく息を吸い込むとコポコポコポという激しい水泡の音とともに大量の煙が一気に肺に充満する。たまらずむせた。むせ返って息苦しくなると頭に血が昇り、顔が熱くなる。その瞬間、マリファナの作用が一気に智の脳を刺激する。

「どう、智、スカンクは?」
「………」

智は、咳が収まらず、まともに喋れない。

「ハハハ、ちょっと一気にいき過ぎた? じゃあ、俺もいっちゃおうかな」

直規は、物凄い勢いで煙を吸い込むとすぐさま心路にボングを手渡した。そして次の瞬間、直規の鼻と口から大量の煙が一気に吐き出された。そのまま直規は俯いて動かない。
心路も、渡されたボングにスカンクを詰め込むと、直規と同じぐらいかそれ以上の勢いで吸い込んだ。部屋の中は、この数分で瞬く間に煙によって埋め尽くされた。

しばらく三人とも動くことのできない状態が続いた。あちこちから時折咳が発せられる以外は、部屋の外から聞こえるコオロギの鳴く声と天井のファンの回る規則的な音の響きだけだった ――― 

マナリー

「智はこれからどうするの?」
「え、ああ、飯食いにいくよ」
「ハハハ、違うよ、この町の後だよ、旅の話」
「ああ、そうか、そうだね、ジャイサルメールに行こうと思う。ラジャスターンの町をいくつか回って、それからデリーへ行くつもり」
「俺らもこれからデリーに向かうつもりだよ、その後マナリーに行く。もうすぐシーズンだしね。まあ、まだ当分ここにいるだろうけど」

欠伸をしながら心路が横から口を挟んだ。直規は、その様子をちらっと横目で流し見た。

「智はずっと旅してるんだよな。もうどれぐらいになるんだっけ?」
「一年ぐらい」
「凄いよな、ずっと一人で回ってるんだろ? 大変じゃない、何で? やっぱ旅は一人に限る? ハハ」
「俺の場合はね。あんま協調性がないから。でも、どこ行ってもツーリストはいるし本当に一人にはなかなかならないよ。ほら、今だってこうやって話してるし」

直規は、成る程な、と真顔で頷きながら、もう終わりかけのジョイントを心路に手渡した。心路は、それを指の先で器用に挟んで一気に吸うと灰皿で揉み消した。

「智は旅してて楽しい?」

心路が智に訪ねた。

「どうかな……。楽しいんだけど、大変なことの方が多いと思う。やっぱり色々不安だし、自分がしっかりしてないとどうなるか分かんないし、別にどうなったっておかしくない状況はいっぱいあるし……。体だって壊すからね。大変だよ。心路達も経験あると思うけど、全然かかったこともないような病気にかかったりすると物凄く不安になるだろ? 特にそれが一人だと、このまま死んでも誰にも発見されないんじゃないかとか、色々考えちゃうんだよ。それに、日本のことはいつだって頭にある。ああ、帰りたいなって常に思ってる。楽しめるようになってきたのなんて、本当、最近になってからのことだよ」
「ハハハ、じゃあ、何で旅してるの?」
「何でかな? 知らないものを見るのは刺激はあるよ、やっぱり。でも俺は、自分を変えたかったていうのが一番大きいかもしれない。日本にいるときには旅に出るしかないってずっと思ってた。日本から出たいってずっと思ってた」
「そうか……。俺とか直規君は、ゴアや、パーティっていうのが目的みたいなもんだからなあ……。智とはちょっと違うな。でもそうやって色んなとこ旅するっていうのは面白いんだろうな、やっぱり」

心路は、天井からぶら下がる裸電球をぼんやりと見つめている。裸電球は、微風に吹かれて微かに揺れている。

「レイヴやパーティっていうのも凄いけどね。俺は、最初、テクノやトランスみたいな音楽には凄く抵抗があって、そんなの行くもんかって思ってたんだけどやっぱり興味はあったみたいで、結局ゴア行って、で、心路達に再会して……。一緒にパーティー行っただろ?、あのときのことは忘れられないよ。夜のビーチで波の音と大音量のトランスミュージック、銀色の満月。全然ミスマッチなのに何故か違和感をあまり感じない。それどころか、妙な調和のようなものすら感じた。あれは一体何だったんだろう? それまで味わったことのない、不思議な感じ。夜がだんだん明けていって周りで踊ってる奴らが次第にはっきりと見えてくる。砂埃とともに朝日が昇る。みんな泥まみれで踊ってるだろ。何か凄く原始的で宗教的なものを感じた。あんな感じは初めてのことだった。そう、何か、得体の知れない一体感があったんだ」
「智、凄かったもんな。輪のど真ん中でガンガン踊ってたもん。俺は、難しいことは良く分かんないけど、あの場にいるのが好きかな。何か、楽しいと思う」
「あの時は、初めてバツ食ってパキパキにキマってたから……。自分でも訳分かってなかったよ」
「でも智はいつもだぜ、ガンガン踊ってるよ」
「それだけ強烈だったってことだよ。俺の中で何かが変わったっていうのもあるかもしれない。テクノっていう音楽に対する偏見みたいなものもあんまり無くなったしね。実際良く聴くようになったよ」
「ハハハ」

俯きながら心路は軽く笑った。

「智はここに何日ぐらいいる予定?」

直規が言った。

「そんなに長くはいないと思う。三四日ぐらいかな。まだはっきり決めてるわけじゃないんだけど……」
「そうか……。でもデリー辺りでまた会うんだろうな、きっと」
「ハハハ、多分ね。でもまだ今日会ったばかりなのにもう次に会うときの話してるのは、ちょっと気が早すぎない?」
「そうだよな、早すぎるよな、ハハハ」

会話が一度途切れると、沈黙がしばらく三人を包んだ。夕方になって部屋の中は薄暗く、天井で回っている大きなファンのグォングォンという規則的な音だけが部屋に響いている。
大気中には、もうもうと焚かれる蚊取り線香の煙と、粘ついた汗の臭いが充満し、その中の三人は、まるでそれらに捕われているかのようにぼんやりと何かを見つめ続けていた。
大麻の煙の残り香は、ゆるやかに三人の嗅覚を刺激して、そのまま天井で回り続けるファンによって撹拌されていた。

ブラウンシュガー

「場所はどこなの?」 
「クリシュナ・ゲストハウス」
「ああ、あの?」
「そう、シバとかいうふざけた名前のインド人がいるところだよ」
「で、どれだけって言ったの?」
「二グラム」
「信用できる奴?」
「ああ、プシュカルではみんなあいつから買うらしい。それかイスラエリーだね、でも、イスラエリーはカミとかバツばっかりだし、奴らからは買えないでしょ」
「インド人からはあんまり買いたくないんだけどな」
「大丈夫だよ」
「心路はインド人に痛い目みてないからそんな軽く言えんだよ」
「………」
「ヤベェ奴は本当ヤベェんだぜ」
「でも、そいつはツーリストの間でも有名だし、実際あいつから買ってる奴も知ってるよ」
「………」
「大丈夫だって」
「本当かよ……。まぁ仕方ないよな、心路を信じるよ」

直規は、煙草を揉み消しながらそう言った。智は、黙って二人の会話を聞いている。

「智も一緒に来る?」

直規は、智に向かって言った。

「何の話?」
「ブラウンだよ、ブラウンシュガー」

心路は、細かく砕いたチャラスを煙草に混ぜながらそう言った。

「ブラウンシュガー? ブラウンシュガーってあの、ヘロインみたいなやつのこと?」
「そう、精製する前のヘロイン。それが今晩手に入るんだ。一緒に来ないか?」
「ああ……。でも……」

智は少し躊躇した。

「でも、何?」
「俺やったことないし、大丈夫かな」
「別にやりたくなきゃやんなきゃいいし、もし来たければ一緒に来ない?、って話だよ」

心路は、チャラスの混ざった煙草の葉っぱを薄いシガレットペーパーの上に乗せ、くるくるっと手早く丸めてその縁をツーッと舌で舐めていく。

「そっか……、せっかく二人にも再会したんだし行ってみようかな、どうせ他にすることもないし……。行くよ、何時頃行くの?」
「八時だって言ってた。多分……。まぁそれぐらいだと思うんだけど……」

心路は、出来上がったチャラスジョイントの尻をとんとんとんと三四回床で軽くたたいて、それを直規に手渡した。

「多分って、シンジ、お前ふざけんなよ、本当に合ってんのかよ?」

直規は、手渡されたジョイントにマッチで火をつけると深々と煙を吸い込む。閉め切られた窓の隙間から砂漠地帯特有の白い日光が細く差し込み、吐き出された大麻樹脂の煙は、ゆっくりとゆらゆらと昇っていく。後には、かすかに鼻を刺激する燐の燃える匂いが残された。

「大丈夫だよ、あいつらインド人だぜ、七時って言ったって八時に来るよ」
「じゃあ、九時って言ってたらどうすんだよ?」

笑いながら心路は首を振った。直規は、もう一度煙を吸い込むとジョイントを心路に手渡した。

「今何時? まだ五時か……。大分時間あるなあ……。智はそれまでどうする?」
「飯でも食って、町ぶらぶらしてみるよ。まだ昨日の晩に着いたばっかりだし……。どんな町なのか良く分かってないしね。ところで、心路と直規はここに来てどれぐらいになるの?」
「どうだろう、もう一週間ぐらいかな、ねぇ、直規君」
「多分それぐらいだよ」

心路は、智に無言で、どう?、という具合にジョイントを差し出した。

「ああ、ありがとう」

細く、独特の匂いのする巻き煙草を受け取って、智は一服深く吸い込んだ。大麻樹脂の味と匂いが口の中に広がってゆく。頭が少しボーッとする。

「ゴアの後は二人ともどこ行ったの? すぐここに来た?」
「いや、プネーってとこでパーティがあってさ、そこに二三日いてからこっち来たかなぁ。ゴアにいた連中も結構来てたよ。でも、あのパーティってあのまま警察来なかったら凄いことになってたよねぇ。ねえ直規くん、そう思わなかった?」

心路が直規にそう言った。

「なってたね、確かに何かそういう空気になってた」
「だよね、惜しかったよなあ、警察来ていきなり中止だもんなあ。主催してた奴がポリスにバクシーシ払ってなかったんだよ、きっと。せっかくいいところだったのに……」
「何、凄いことって、どういうこと?」 

智がそう尋ねた。                             
「何かムラムラした雰囲気になってたんだよ。俺だけじゃなく、きっとそこにいた大半の奴がね。実際、陰でやってる奴もいたんじゃないのかな? 例えば、踊ってて女の子と目が合ったりした時に、凄くエロティックなものを感じるんだ。多分これは俺のひとりよがりって訳じゃないと思う。どの子からもそんなのを感じた。あ、こいつやれるなって。心路なんか目、血走ってたし」
「直規君程じゃないでしょ」
「違うよ、お前のは何かネチネチしてんだよ」

心路は苦笑いしている。智は、少しむせ返りながら直規にジョイントを手渡した。

「どう、智、このチャラス?」        
「ああ、いい感じでキマッてるよ」
「そう? これイスラエリーから買ったやつなんだけど、カシミールだって言ってたな。本当かどうか分かんないけど。ハハハ」

顔をしかめてジョイントを吸い込むと、そう言って直規は短く笑った。吐き出された煙はゆっくりと空中に広がっていく。瞼は重く、感覚は曖昧になってゆく。

途中下車

私の旅は、そもそも途中下車だった。
その意味は文字通り、列車などを目的地まで行かず途中で降りるというものだ。
自分の将来がぼんやりと見え始めた私が、その人生を一度降りるという意味でこの『STOP-OVER(途中下車)』というタイトルをつけた。

もともと初めて途中下車という言葉の知ったのは高校生のときである。
もちろん、その意味はもっと以前から知っていたが、ある種の思い入れを持ったときが高校生のときだったというべきであろうか。

それは私の好きなある作家の、自身の若い頃を綴ったエッセイの一つに『途中下車』というタイトルのものがあった。
今となって記憶している内容も、曖昧だが、あえて調べることはせずに、私の記憶の範囲内で少し紹介したい。

彼、つまり若かりし日の作家は、高校3年生の冬、故郷から大学受験のために友人と列車に乗り、東京へと向かっていた。
そして、たまたま同じシートに乗り合わせた女子高生と言葉を交わすようになった。

彼らは連絡先を交換し、女子高生はある地方の街で降りた。
彼女はそこに住んでいる。
その後、彼らは、東京へと受験に行かなければいけないが、何を思ったか、彼女の住むとなり街で降りてしまう。
そして彼らは親から受験のためにもらったお金で、彼女の住むとなり街で、数日間過ごした。
しかし勇気がなく、彼女に連絡はできなかった。
その上、親には受験をしたことにして帰郷する。

後日、作家が友人の家に遊びに行ったときに、電話が入る。
作家がふざけて電話に出ると、例の彼女からだった。
彼女は作家のことを、彼の友人だと勘違いし、好意があることを伝える。
しかし作家は何も言わずに電話を切ってしまう。
つまり彼女は好意を拒否されたと受け取ったわけだ。
友人が作家に『誰からだ?』
と聞くと、
作家は『間違い電話だ』
と嘘をつく。
そして、その彼女と再び連絡を取ることはなかった。
作家がその紙面で打ち明けることができたのは、その友人が数年前に事故で亡くなったからだと告白している。

私が思い入れを持ったのは、青春の思い出の1ページとして共感したのではなく、途中下車することで、良くも悪くも、その後の出来事に物語としての広がりができるという点である。
つまりそれこそが、旅そのものの公式なのではないかと今でも思っている。

私自身はこの旅を、人生の途中下車と考えたが、同じレールへと戻るつもりであった。
もちろん途中下車はその後の生活に、いろいろな変化をもたらすであろうが、私は、 基本的には、旅をする前に考えていた人生を歩むつもりであり、それはゆるぎないと確信していた。
しかし途中下車はやはり私にそれを許してくれなかった。
私の途中下車は、その後の人生に変化をもたらした。

そして今では途中下車、つまりSTOP-OVERにもう一つの意味を考えている。
STOPは止まる。
そしてOVERは終わるという意味である。
つまり停止し、終わってしまうということは、同時に再び動き始めるために必要な動作なのではないかということだ。

そして私の旅もここに終わるが、再び別の暮らしが始まる。
途中下車したものの、元のレールには戻れなかった青年が、別の道を行く。
旅というのは変化への始まりなのかもしれない。
終着駅というのは同時に始発駅でもあるのだから。

STOP-OVER END

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。