ソマリアから来た男

『まったく、無駄足だった』
恐らく私はその時そんな事を呟いていたと思う
私はケニアのイシオロというところで、マタトゥを待っていた。
マタトゥというのは、ケニアの乗合バスである。
車体はトヨタのハイエースが圧倒的に多い。
日本から果てしなく遠いこのアフリカで、よくトヨタが使われているものだなと、驚きをかくせない。
日本の技術というのは、やはり世界に誇れるものがある。
特にトヨタは他の日本車と比べても長持ちすると人気だった。
もちろんここらで走っているのは、走行距離も10万キロを超え、10年以上は軽く走っている代物だ。
だから何より耐久性が重視される。

そしてさらに驚きなのが、そのハイエースによくもこれだけ人が乗れるものだな、と思うくらいに人が詰め込まれることである。
まず、最前列は運転席を含め3人というのはいい。
そして2列目からは4人づつ座席が4列続く。
合計19人。
もちろん時にはさらに一人が乗り口付近にかがんで立って、20人乗ることもある。

日本では絶対に走れない。
しかし使用されるガソリンなどを考えれば、究極のエコロジーとも考えられる。
とはいえ、いくらエコロジーが得意なトヨタでも、まさかこんなふうにハイエースが使われているとは思ってもいないことだろう。

いや、本当のことを言うと、そんなことに感心している場合ではなく、私は落ち込んでいた。
私のいるイシオロという場所はエチオピアから南下してケニアに入った場合、ナイロビまでの中継点となる町だった。
数日前も私はこのイシオロにいた。
エチオピアからケニアに入り、イシオロまで南下しそこで1泊して、ナイロビまでやってきた。
ナイロビに着いたことでエチオピアから続いた移動の連続もやっと一息ついた。
この10日間は毎日移動していた。
しかもそのほとんどがトラックの荷台での移動で、さすがに疲れていた。
ナイロビはビルの立ち並ぶちょっとした都会だった。
ヒルトンホテルやインター・コンチネンタルホテルもある。

ちなみに私の泊まった宿は、ニュー・ケニア・ロッジというところだが、これはダウンダウンにある。
『地球の歩き方 東アフリカ 2002-2003』によると、『安宿はすべて危険な下町にある。泊まってはいけない』と書いてある。
もちろん私は危険を顧みないで泊まったわけではない。
そのエリアに泊まって大丈夫だと自分で判断しただけだ。
そして実際、大丈夫だった。
ナイロビの治安は回復しつつあるが、もしケニアに行く人がいたら十分に気をつけたほうがいい。
ナイフで威されて、金を盗られるなんてことは、珍しいことではない。

私はその宿で久しぶりにゆっくりとホットシャワー浴びれると期待した。
安宿とはいえ、ナイロビである。
しかし断水続きでそれは叶わなかった。
街の中心のホテルなら、ちゃんと水が出るという話だったが、私のいるのはダウンタウンの安宿なので、そんなことでいちいち腹をたてていたら、旅が成り立たない。
とにかく、久しぶりにナイロビで商品が溢れているスーパーで買い物をしたり、ファーストフードを食べたり、文明社会の恩恵を受けくつろげはした。

しかし、私は大変なことをしてしまったことに気付いた。
あろうことか、メガネをなくしてしまったのだ。
いつもはコンタクトレンズを使っているが、もちろんメガネは持ち歩いている。
そしてどこで、なくしたか考えた結果、イシオロの宿で使ったのが最後なのだ。
そして私は再びナイロビからイシオロまでメガネを求めてもどってきたが、やはり見つからなかった。
イシオロの宿のオーナーは親切な人で、従業員全員に聞いてくれたが、やはり見つからなかった。
私が他でなくしたのか、あるいは従業員の誰かが見つけ、取ってしまったのかもしれない。
いずれにしろ、ここでなければもう見つかることはないだろう。
そして私はその宿で1泊し、翌朝再びナイロビに戻るために、マタトゥを待っていたのだ。

やってきたマタトゥにはすでに数人が乗り込んでいた、私が乗り込むとそのうちの一人の男性が微笑んできた。
そんな風に書くと、なにか変な印象を持つかもしれないが、本当なのだ。
明らかに彼は私を知っているらしい。
彼は私より2列後ろに座っていたが、私が振り替える度に、微笑んでくる。
私は誰だか思い出せなかった。

2時間ほど走り、ニャイニュキというところで、乗り換えのためマタトゥを降りた。

そのときにその彼が、
『ナイロビ行きのマタトゥが出るまでは、まだ時間がある。
昼食を一緒に食べよう』
と誘ってくれた。
そのときにやっと思い出した。
昨日、イシオロの安宿で少し話しをしたムスリムの男だ。
痩せていて、髭も濃く、いわゆるアラブの顔をして、カフィーユを頭にまいた40歳くらいの痩せた男だった。
『やっと思い出したか』
と彼に笑われてしまった。

そのいかにもアラブを代表するような顔立ちの男は、実はソマリア人だった。
ソマリアといえば、ケニアの東側に位地し、未だ内戦状態だと聞いている。
そのことを聞くと、
『戦争は終わったよ。
しかし政府がまだない』
とのことだった。
つまりは、未だ闘争は続いているのだ。

彼は食堂につれていってくれた。
食事はインドカレーである。
ケニアにはインド人が多く、よく商店や食堂をやっている。
だからインドカレーが食べられる。
正直本場インドのカレーよりもコクがあって、うまいと思った。
そしてチャイももちろんある。
ケニアのチャイは恐らく、ヤギのミルクからつくったもので、ややくさみがある。
チャイはやはりインドのほうが数段うまい。
そしてそれを飲みながら、私たちはたった数十分であるが、有意義な話をした。

ソマリア人の男は驚いたことにアメリカ国籍を持っていた。
今は妻と5人の子供と一緒にアメリカのシアトルに住み、貿易の仕事をしているらしい。

私がアメリカ国籍だということに驚いていると、彼はパスポートを見せてくれた。
『他の客には見られないようにしてくれ』
と言いながら、そのパスポートをそっと渡してくれた。
ここでもアメリカという国はやはり嫌われ者らしい。
ムスリムに嫌われているのだ。
エチオピアはそのほとんどがクリスチャンであるが、ケニアにはムスリムも多い。
特に東海岸のほとんどはムスリムの暮らすエリアである。
そして彼もまたムスリムであり、立場としては微妙なものがあるのかもしれない。
なおかつアメリカはソマリアの紛争にも首を突っ込んでいる。
それは映画『ブラック・ホーク・ダウン』という映画にもなった。

その彼のパスポートをテーブルの下で開くと、それは確かにアメリカ合衆国のものだった。
『今回、イシオロに住む父が病気になり、戻ってきたのだ。
あんまりよくなくてね。
それで父のために、信頼できる病院を探していて、ナイロビに行く途中だ』
と話してくれた。
私はパスポートを返すと、
『ケニアの後はどこへ行くんだい?』
と聞いてきた。
私は香港から旅を始め、南アフリカの喜望峰を目指している旅の途中だと説明した。

私はそのことを、旅で会った現地の人にほとんど言ったことがない。
たいていは来月には帰国するとか適当なことを言ってしまう。
もちろん本当のことを言うことに問題はないが、たいていは、
『世界中を旅して、いいご身分ですな』
と思われてしまう。
私が、私なりに苦労して金を貯め、夢を叶えたと説明したところで、それは彼らには
通じないことの方が多い。
その説明はあくまで私の、日本という国の価値観での話だからだ。
しかし、彼にはためらいもなく、喜望峰までの旅を話した。

そしてその後、彼の言った事はけして忘れられないものになった。
『そうか。
だったらもうすぐ旅も終わりだな。
それにしても世界中を旅しているんだな。
もし君が・・・
いろいろな民族、いろいろな人々の、食べ物、服、肌の色、目の色、習慣や考え方、そういったものを少しでも理解できたなら、きっと将来いい仕事ができるよ。
どんな仕事に就こうとね。
いい、人生が送れるはずさ』
『でも旅行者というのは、街から街を移動していって、そこに暮らすわけではなく、言ってみれば通過するだけですよ』
と、私は素直に今まで思っていたことを話してみた。
『確かにそれはそうだろう。
でも、何年同じ場所にいたって、理解しようとしない人は理解できないし、感じようとしない人は何も感じない。
たった1日でも、何かを理解して、感じる人だっている。
その国や地域の表面だろうが、あるいは内面だろうが、そしてどこの場所であれ、少なく
とも君の見たものは紛れもない真実だ。
薄皮一枚も、本体の一部には変わりないだろう。
そして、君の感じたことは君自身のものだ。
もちろんそれを否定するやつらだっているだろう。
でも君の感じたことは、何年たっても変わることがない、君の財産じゃないのか。
大切なのは感じる心を持とうすることだ。』
と彼は自分の胸を指差した。

もしかしたら、彼も同じような旅をしたことがあるのではないかと思って、それを口に出そうとしたが、思いとどまった。
ソマリアにいた彼が、アメリカまで渡り、そしてアメリカ国籍まで取るに至った道のりには、私の旅などよりも遥かに波乱に満ちていたものであることは、容易に想像できたからだ。

『私と君は違う。
私はアメリカ国籍のソマリア人で、君は日本人だ。
生まれた場所も、育った場所も、習慣だって、考え方だってちがうはずだ。
でもそれを十分承知しているからこそ、私は君を少しでも理解したいという気持ちになるんだよ。
みんなそこから始めればいい。
そうすれば、お互いを感じて、理解しようとする気持ちになる。
それができないから、お互い認められず、人間は戦争ばかりやるんだな』
そして最後に、ちょっと笑いながら、
『まったく SO MANY バカだよ、わかった?』
と突然日本語の単語がまじった。
以前、日系の企業で働いて覚えた単語らしい。

全く、カフィーユまいたソマリアの男はかっこいいと思った。

私は、自分の旅に、目的はないと思っていたし、今でもそう思っている。
しかし、彼の話は私の気持ちをなんだか軽くしてくれた。
私の見たものは真実であり、感じたものは私の財産である。
それだけで十分だ。

イシオロまで戻ってきたのは、案外無駄足ではなかったかもしれない。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

サバンナの風

私はエチオピアのコンソからさらに西へと行き、いくつかの民族を尋ねた。
そのルートは人と荷物を満載してトラックを乗り継ぎ、めずらしい民族を見ることができた。
彼らのほとんどは、男女とも上半身裸である。
そして、貝やビーズなどの装飾品を身につけている。
なかでも珍しいのは、ムルシ族という民族で、彼らは唇に直径10センチくらいの円形の板をはめている。
それをはめているのは女性だけであり、それをはめると婚期になったという意味らしい。
彼らを見たときはさすがに驚いた。
その板をはずして、そのぶらんとさがった唇の穴に、サービスで手を突っ込んでくれたときには、正直目を疑った。
痛くないのだろうか。
そんな素朴な疑問をもつが、小さい頃から穴を少しずつ大きくしているので、痛くはないらしい。
中国の纏足や、タイの首長族も、小さいころからそうやって体を変形させていく。
小さい頃からやれば、案外できるものかもしれない。

残念ながら彼らのことをそれ以上文章で説明するのは難しい。
写真であればできるかもしれない。
エジプトのピラミッドやスフィンクスを見たときにも思ったが、純粋に驚いたした経験というのは、その感想が一言で終わってしまう。
何々を見て、すごいと思った・・・みたいな平坦な文章になってしまう。
それは単に私の力不足だからであろうことは明白であるが、そうなってしまう。
逆に体験や経験なら書くことはできる。
だから私の書くものはいつもそういう主題が多い。
とにかく話を前に進めたいと思う。

私は再びコンソに戻り、またトラックを乗り継いで南下を始めた。
地名を挙げると、コンソ、ヤベロ、モヤレを通り、そしてやっとケニアのマルサビットへと入った。
そこからさらにトラックを乗り継いで、一気にナイロビへの中継地である、イシオロを目指したが、そのトラックが曲者だった。

マルサビットは、エチオピアとの国境の街である。
そして、国境特有の活気があり、物もよく集まるらしく、小さい街ではあるが、活気があった。
エチオピアに比べれば物が豊富だということが、街の雑貨屋に行けばすぐに感じることができた。

そのマルサビットからイシオロまでは2日かかると聞いていた。
前日にトラックのドライバーを捕まえ、値段交渉を済ませ、翌朝指定された場所へ行くとすでにトラックは来ていた。
荷台にはまだ何もつまれていない。
初日は空で走り、二日目にヤギを乗せると言っていた。

荷台の幌は、屋根の骨組みの端に、きれいにたたまれていた。
そして、荷台にはスペアのタイアが1本、ごろんと転がっていただけだ。
ドライバーのほかに、数人のケニア人も乗る予定らしかった。
しかし、そんななかに、ちょっと身なりのいい中年男が、何かドライバーと話している。
内容はわからないが、あまり楽しい話ではなさそうだ。
そしてそのドライバーと中年男が荷台に乗り込んできた。
中年男は荷台の中を見渡し、たたまれた幌のなかに手を突っ込んで、なにかをひっぱりだした。
その手にあったのは、ビニールに入った衣服であった。
さらにスペアタイアのチューブをひっぱりだし、そこからも同じものを見つけ出した。

彼はどこかで見たことがあると思ったが、税関の職員だった。
昨日エチオピアからケニアに入国したとき、そこにイミグレにいた男だ。
つまりは密輸の抜き打ち検査だ。
他の男たちがエチオピアから運んできた物資を、トラックでイシオロに輸送すると踏んで検査に来ていたのだ。
まったくプロの目というのはすごいものだ。

しかしまたそうやって、違法ではあるが少しでも生活ために金をかせごうとする輩を私はたくましいと思う。
トラックは一度イミグレまで行き、全て検査され、そしてドライバーは税金を払わされたようだ。
税関の職員の仕事もなれたもので、ものの10分で終わってしまった。
ドライバーは大して落込んだ様子もなく、今回は税金がかかってしまったが、今度はうまくやってやるくらいの感じだった。
密輸なんて書くと大げさに聞こえるが、税金を払わずに商品を運ぶのは、いつものことで、今回はたまたま税金を取られてしまったというところだろう。

そんなことをしていて、出発は大幅におくれたが、私として急ぐ旅でもないので、問題ない。
逆に庶民の生活の知恵というのか、生活向上の努力というのか、とにかくちょっと面白いものを見ることだできた。

そして私は、空の荷台に乗って、やっと出発した。
他のケニア人は何故か、トラックの荷台に幌をかける骨組みに器用に座っている。
その理由はすぐにわかった。
走り始めて30分もすると私は、全身茶色になり、埃にまみれ、ひどいことになった。
かるく服をたたいだけで、砂が舞うのが見える。
しかし荷台の屋根の骨組みに乗れば、かなり高いところになるので、車輪が巻き上げる砂埃がかからないのだ。
エチオピアでは、トラックの荷台にのっても、そこまでひどくなることはなかった。

しかしその埃にまみれると、いよいよ乾燥したサバンナにやってきたという気になる。

そして私もケニア人と同じように、トラックの屋根の骨組みに乗ってはみたものの、凸凹道の振動がもろに伝わり、全身の筋肉をフルに活用して骨組みにしがみつくはめになった。
それは体力的に30分ともたず、その日は砂埃を選んだ。
ケニア人は慣れているもので、器用にバランスをとっている。
骨組みのバーとバーを布で結んで、そこに体を沈めて居眠りする人もいる。
いってみればハンモックみたいな要領だ。

そして1日目は夕方まで走り、安宿で1泊し、朝になると、トラックの荷台には、ヤギが満載していた。
40頭ほどのヤギのおかげで、荷台はもう足の踏み場もないほどだ。
私はといえば、やはり屋根のフレームにしがみついて、何時間移動する自信はないので、ヤギとの一緒に荷台にいたいとドライバーに申し出たが、断られた。
ヤギが興奮するらしい。
しかたなく、屋根にのぼってみる。
トラック後方は振動が激しいので、前のほうのスペースをくれた。
とはいえ、やはり振動の度に全身の力を込め、骨組みにしがみついていたが、1時間もすると慣れてきた。
振動がきても力を抜いたまま揺れに任せると、不思議と自然にバランスがとれて、案外平気だ。
最初は怖かったが、落ちることはまずなさそうだ。

それにしても疲れるのは人間だけではないようだ。
ヤギも振動のなかの移動で疲れるらしく、たまにぐったりと倒れこむヤギもいる。
そうすると荷台に一人だけのっている、係りのおやじが、やぎの耳を引っ張って、強引に起こすのだ。
荷台には余分なスペースがないから、ヤギが倒れこむと、他のヤギに踏まれてしまい、商品としての価値が下がるらしい。
荷台に一人だけのっているおやじは、それを防ぐのが役目なのだ。

トラックは国立公園の敷地内の道路を走っていたので、キリンでも通らないものかと期待したが、残念ながらそれはなかった。
しかし、装飾品を身につけ、槍を持ち、上半身裸で歩く民族を、よく追い越した。
そして家畜のラクダもいた。

エチオピアと違い、この辺は一面サバンナが広がっている。
なにより、2mほどの高いところから見るそれは、地面に立って見るそれよりも、より広大に見える。
そこに土色の道が地平線に向かって一直線に伸びている。
まるでそれは終わりがなくどこまでも続いているようにさえ思えている。
そして私もどこまでも行けるのではないかと。
そんなとき、この壮大な景色が自分のものになったような気がする。
それはもちろん気がするだけなのだが、そんな気になれる移動というものが私は好きだ。

旅は街から街への移動の繰り返しだ。
移動して飯を食い、宿を探し、また移動する。
そしてその移動は、苦しければ苦しいほど後になると、なんだか甘美な情景とともに心に蘇ってくる。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

コンソの少年

視界に入る景色は緑に満ちていた。
太陽の光が山々に横たわる木々に反射してまぶしいくらいだ。
頬に当たる風もまた心地いい。
こういうなんでもないような時間が、旅をしているなかで至福の時である。

私は久しぶりにトラックで移動をしていた。
それはチベット以来のことだ。
エチオピアの首都アジスアベベからバスで南下し、アルバミンチまで来たが、そこから先は雨季のためにバスの通行ができなくなっていた。
かといって全ての交通が遮断されたわけではなく、地元の住民はイスズのトラックの荷台に乗って移動をしている。
要は、雨季によって道が悪くなり、バスでは行けないが、トラックなら通れるというわけだ。
私もそのトラックに乗っている。

それにしても、この緑豊かな風景のなかを走っていると、この国どうして飢餓があったのかが、不思議に思えてくる。
素人目に見ても、肥沃な大地という表現がぴったりくるような景色だ。
私が小学生のときに、アフリカの飢餓がよくニュースになった。
ユニセフの公共CMなんかもテレビで流れていたと思う。
そのときに必ず出てきたのがエチオピアだったと記憶している。
私のなかで、飢餓といえば、エチオピアだった。
しかし実際にこの景色を見ていると、どうも信じられない。
聞いた話だが、当時のエチオピアの飢餓は、旱魃などの自然災害によって起こったというより、そのときの政権が、国家予算のほとんどを軍事費につぎ込み、農業政策を怠ったために起きた、いわば人災だという。
現在の北朝鮮にそっくりで、ありえそうな話だ。

トラックは山を抜け、小さな川をいくつか渡った。
浅い川だが、トラックは渡れても、バスでは無理だろう。
そして着いたのは、コンソという小さな街だ。
いや村と言ったほうがいいかもしれない。
宿も食堂も商店も2,3件しかなく、5分も歩けばそれらが並ぶメインストリートからはずれてしまう。
銀行などはもちろんない。
電線は通っているが、何故か電気はいつも通っていない。
宿などは、発電機をもっていたりするが、夜はロウソクの明かりで過ごすのは普通だ。
要するに全てこじんまりとしているのだ。

コンソについて、宿に荷物をおき、遅い昼食をとった。
ティブスというマトンの焼肉とパンだ。
エチオピアに入ってからこればかり食べている。
別にそれが大好きというわけではなく、私にとって、それしか食べられるものがないのだ。
エチオピアといえば、インジェラが有名である。
見た目はクレープに似ているが、その色は食欲の減退する灰色がかっているそれは麦を発酵させてつくった、湿ったパンみたいなもので、すっぱいような臭いがして、食べると実際非常にすっぱい。
要するにまずい。
これを評して「見た目雑巾、嗅いで雑巾、食べて雑巾」と言った旅行者がいたが、私もその意見に賛成である。
これを「案外いけますよ」と言った旅行者はいたが、「おいしい」と言った旅行者には会ったことがない。
そのインジェラを主食に、野菜や肉を煮込んだスープをおかずにして食べるのだ。
これも辛くて、私は食べられなかった。
アジスアベベなどの都市を除くと、ほとんどこれらの組み合わせしか食べるものがない。
ライスはアジスアベベ以外で、食べた記憶がほとんどない。
しかし、幸いパンは比較的どこでも手に入るので、残された選択肢は、ティブス(マトンの焼肉)とパンということになり、私はひたすらこればかり食べていた。
だいたい朝食はビスケットで、昼食と夕食はティブスとパンである。
しかし、田舎に行くほどパンもあまりなく、あったとしても、数日前に焼いたようなものであったが、それでもないよりはましだ。

食については苦労したエチオピアだが、この国はコーヒーがうまい。
さすがにコーヒーの発祥地と言われているだけのことはある。
どこに行ってもコーヒーだけは飲めた。
このコンソでさえ、宿の食堂兼バーに、旧式ではあるがコーヒーマシーンがあり、マキヤートが飲める。
もっと小さな村に行くと、コーヒー豆をフライパンで炒って、それを杵と臼に似た道具で、ザクザクつぶし、コーヒーを入れてくれた。
少数民族の家を訪ねたときでも、椰子の実に似た、フルーツの殻に、冷めていたがコーヒーを入れてもてなしてくれた。
これだってなかなかいける。

私がこのコンソという小さな村にやってきたのは、この周辺に住む少数民族を、カメラに収めるためである。
コンソはその入り口ともいう場所なのだ。
そして、その手始めに、コンソの村で開かれるマーケットに行くことにした。
そのマーケットに少数民族がやってくるのだ。

お目当てのマーケットは明日なので、昼食のあとは、なにもやることがなくなってしまった。
散歩しようにも、5分もあるけば、村から出てしまい、あとは畑と森が続いているだけだ。私はチャットをやって時間をつぶした。
チャットというのは、どういう種類に属するのかは知らないが、見た目は普通の葉っぱである。
それを生のまま口に入れ、クチャクチャとやる。
そのままだと苦いので、砂糖も一緒に口に入れる。
そして飲み込むことはせずに、ひたすら噛みつづけると、葉っぱがだんだん口のなかでなくなっていくので、また新しい葉っぱを口に入れる。
これをやると、リラックスするらしい。
最初大麻などの一種かと思ったが、全然違うらしく、効き目もそれほどあるわけではない。
ただ、ずっと噛み続けていると、ボーっとする程度だ。
この辺りでは、タバコは高価だが、このチャットは安く、庶民の嗜好品としてやる人が多い。
私もこのチャットが気に入り、何時間もやっていた。

夜になり、今度はタッジを飲みに出かけた。
タッジというのは、蜂蜜からつくったお酒で、エチオピアでお酒といえばタッジというくらい飲まれている。
夜になると、街灯など一つもないので、道を歩くのも苦労する。
そんななかで、タッジ屋を探したが、やはり見つからなかった。
そうやって、ウロウロしていたときに、少年がたどたどしい英語で声をかけてきた。

『May I Help You?』
という、発音はともかく教科書どおりの英語だった。
私はタッジが飲みたいのだが、と言うと案内してくれた。
タッジ屋の入り口には、看板の一つもなく、まして電気もなく、これでは見つかるわけもない。
たとえ昼間でも見つからなかったかもしれない。

少年は私にタッジを注文してくれて、隣に座った。
タッジはオレンジジュースのような色をしている。
そして、どういうわだか三角フラスコの形をしたガラスのコップに入れられて出てくる。それが習慣だ。
私その小さな口からタッジを飲んだ。
口当たりがよく、なかなかうまい。
私は少年が『なにか飲ませてくれ』というのではないかと思っていたが、彼はただ静かに座っていた。
そしてソウソクの灯りで少し話しをした。

少年の家族は両親と弟が二人に妹が二人。
少年は長男だ。
年は13歳。
両親は米をつくっていて、それで生活している。
少年は学校へ行っているがよく休み両親の仕事を手伝うことが多いらしい。
教科書、ノート、ペンにお金がかかるのが大変だと話していた。
どこにでもある苦労話ではあるが、少年の話し方には全く同情をひくような様子がなく、それが気持ちよかった。

少年の将来の夢を聞いてみた。
『先生になりたい』
とはっきり言った。
『だったらちゃんと学校へ行かないとね』
と私が言うと、少年の顔が笑っていた。
学校へ行き、両親の手伝いをやめると、家計が苦しくなり、学校にかかるお金を稼ぐことができないという矛盾があるのだろう。

私は、ありふれてはいるが、その少年の夢を聞いて嬉しくなった。
エチオピアの少年には、いままでうんざりさせられた事が多かったからだ。

どこの街に行っても、バスを降りると子供らが集まってきて、
『ユー、ユー』
と連発する。
おそらくはYOUという意味で使っているのだと思う。
しかし、YOU以外は何も言わず、そればかり繰り返すので、なんだかバカにされている気分になる。
一度どういう意味で使っているのか聞いたことがあるが、ただの挨拶らしい。
どういうわけか、ここではハローではなくYOUなのだ。
しかしあまり歓迎の意思は伝わってこず、直訳どおりの『お前!』に聞こえる。

そしてそのYOUの後にくるのだマネーだ。
そしてマネーがダメなら次にペンがくる。
YOU、マネー、ペンという単語は子供が最も初めに覚え、かつ実用的な英語なのだ。
これは子供らが自発的に言っているというよりは、親にそういうように教え込まれているらしい。

そして年長の少年は勝手に宿まで案内してくれて、宿からマージンを貰う。
このあたりは慣れたもので、旅行者はそれと気付かずにチェックインし、案内してくれた少年に感謝さえしてしまうことも多い。
さらに大人はこれまた頼みもしないのに、ガイドをやるといって、けっこうな値段を請求してくる。
これはエチオピアのラリベラという世界遺産のある街でひどい。
10分街をあるけば、必ず3人以上のガイド志願者に会うことになる。

エチオピアという国は、アフリカの国のなかでは歴史が長い。
アフリカというのは部族単位での歴史はあるが、国という概念があまり育たなかった。
そのために植民地化は容易であり、現在の国のほとんどは第二次世界大戦後に独立したものだ。
そんななかで、エチオピアは古くから国家として発展してきて数少ない国なのだ。
しかしそのエチオピアもここ数十年は先進国からの援助に頼らざるを得なかった。
もちろん必要な場所や時期に、援助は必要である。
しかし、援助の行き過ぎは、悪影響があるという批判もある。
つまり、外国人=何かくれる人、という図式がすっかり浸透してしまったのだ。
彼らは対価を払わずに何かを貰うことに何も抵抗がなくなってしまったのだ。
それを表しているのが、YOU、マネー、ペンという単語だと思える。
そんなわけで、エチオピアはアフリカのなかでも最も人気がない国の一つである。
要するに人がうざったいのだ。

話がそれたが、そんなエチオピアのなかで、そのタッジ屋を案内してくれた少年のその態度と、教師になりたいという言葉は、素直に嬉しく感じた。
私はエジプトで友人からもらったお菓子を、彼と一緒に食べた。
そしてこういう時のお酒は、格別においしい。

次の日、朝からお目当てのマーケットへ行って写真を撮った。
意気揚揚と写真を撮っていると、
『入域許可と撮影許可は取っているのか?』
と警官に聞かれ、そこで警官と口論になり、事務所まで連れていかれ、払わされるはめになった。
本来払うべきお金ではあったが、その警官の態度はあまりに高圧的で腹立たしかった。
さらにお目当ての民族の写真も、撮るには撮ったが、やはりお金を要求され思うようには撮れなかった。

すこし、落ち込んだ気分で宿にもどり、私はまたチャットをやった。
宿のレストランのオープンスペースで、旧式のコーヒーマシーンでつくった上等のマキヤートを飲みながら、チャットをする。
このコンソではそればかりやっている気がする。

するとそこへある少年がやってきて、私に話しかけてきた。
誰だろうと思っていると、昨日タッジ屋を案内してくれた少年だった。
昨日は、真っ暗のなか、ロウソクの灯りで話をしていたので、ほとんど顔を見ていなかったため、思い出せなかった。
私は嬉しくなって、
『こっちへ来て座りなよ』
と声をかけた。
そして少年がレストランの入り口に差し掛かったとき、宿のオーナーがすっとんできた。
30歳くらいの彼は英語もうまく、このあたりではインテリであろうと思われた。
そして、オーナーはいきなり少年の頭をひっぱたいた。

私はびっくりして、
『彼は昨日会った友達なんだ』
と言うと、
『君は騙されている。
彼はこの辺では有名なワルガキだ。
泥棒だってしょっちゅうやってる。
この辺の連中なら誰でも知っている。』
とはっきりと言った。
少年はそのまま走るように、逃げて行ってしまった。

オーナーの言ったことは本当なのだろうか。
私には信じられなかった。
昨日の少年は独立心があり、お金や物を要求することもなかった。
しかし、私は少年と昨日あったばかりなのだ。
オーナーの言うことのほうが正しいのかもしれない。
それにしても、やりきれない気分だ。

それまで青かった空が急に暗くなり、雨雲がたちこめてきた。
ここへ来て、雨も少なくなったが、まだ雨季なのだ。
あっという間にスコールがやってきた。
宿の従業員は奥からいくつもバケツもってきて、水を貯め始めた。
屋根からは滝のように、雨が落ちてくる。
オーナーはその水をコップにため、飲み干した。
そしてまた水をため、それを私にくれた。
その水は衛生面はともかく、味がやや苦いのは感傷的なためだろうか。

私はただの旅行者だ。
国から国へと、街から街へと移動を繰りかえる。
そこで、ちょっとした友人ができたとしても、そんなに長い間一緒にいられるわけでもなく、その人の全てを理解できるわけでもない。
だからオーナーの言うことを否定する気はなかった。

しかし、少年が話してくれたように、教師になる夢を持ち続けて、そして実現してくれればいいと願うだけだ。
それは彼の状況を考えると、私の想像する以上に難しいことなのかもしれないけれども、頑張って欲しいと思う。
人間は過去によって現在の自分があることに変わりはないが、過去によって未来を制約する必要はないはずだから。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

ヨーグルトにあたる

いつかはそういう時がくるとは思っていたが、実際になってみると、一体なにが原因で、よりによってこんなところでなんて思ってしまう。
私はこの旅が始まった以来、大きく体調を崩した。
場所はエチオピアのゴンダールという場所だった。
スーダンは別に見たいものもなく、南部では内戦をやっていた。
おまけに日中は40度を越す暑さで、ひたすら水とジュースを飲んでやり過ごした。

ハルツームで2泊した私は、暑さから逃れるように、すぐにエチオピアに向かった。

バスを乗り継いで国境を通過し、最初の大きな街が、このゴンダールだ。

村と呼べるほど小さくはないが、いかにも地方の街という感じでこじんまりしている。
とはいえ、銀行もあるし、そこそこの宿もあるので、一息つくにはいいかもしれない。
世界遺産にも登録されているファシリダス王宮もあり、観光地ではあるが、観光客はまれにしか見ない。
たまに西洋人は見るが、東洋人はもうほとんど見なくなる。
エジプトを出ると、観光客はめっきりと減る。

その日ゴンダールのファイサルホテルというところへチェックインすると、偶然エジプトのカイロでもホテルが一緒だった日本人カップルに会った。
偶然といってもエチオピアでは、まともな宿は少ないので、旅行者は必然的にだいたい同じような宿に集まる。
私もそのとき、エジプトで会ったA君と行動を共にしていて、その夜は4人で食事をし、再会を祝してビールで乾杯した。
このエチオピアはアフリカのなかでも物価が安く、生ビールが17円だ。

そのカップルの男性のほうは酒がつよい。
そして私が一緒に行動しているA君もつよい。
私は飲まないではないが、2杯も飲めば十分だ。
ここまでイスラム圏が続き、お酒もほとんど飲めなかったが、ここはキリスト教なので、お酒も自由に手に入る。
女性にしても、スカーフで顔を隠している人もいない。
私たちは少し開放的な気分になり、飲み続けた。
レストランで飲んだ後、部屋の前のロビーに場所を移し飲んでいたら、いつのまにか夜の12時をまわっていた。

私は突然のだるさを感じた。
きっとお酒と疲れのせいだろうと思い先に休ませてもらうことにして、ベッドに入った。
すると、すぐに便意が襲ってきて、トイレに駆け込んだ。
下痢をしている。
別にめずらしいことではない。
きっと疲れているのだろうと思い、またベッドに入った。

それからがひどかった。
やっと眠ったと思った頃にトイレに行きたくなる。
また行くと下痢をしている。
そしてまた眠りにつくと、もよおしてくる。
回数を重ねるほど、下痢はひどくなっていき、そして倦怠感があった。
上体を起こすだけでもひどく疲れる。
部屋のドアを出て、廊下にあるトイレに行くだけでも、はるか長い移動に思えた。

そんなことを6、7回ほどくりかえし、また便意が来た。
やっとの思いでトイレまでたどりつき、限りなく水に近い便を排泄し、また壁にもたれながら部屋にもどると、もう動けない。
しかし、やっとの思い出バックパックから体温計を探し出し、測ってみると、40度を越えている。
これは尋常ではない。
私の記憶のあるなかでは、人生最高の高熱だ。

私はなるだけ冷静に自分の症状を分析してみた。
まず、下痢は相当にひどい。
ほとんど水便だ。
昼食のときに食べたヨーグルトがどうも怪しい。
今日の朝食、昼食、夕食ともA君と一緒に食事をしたが、私が食べて、彼が食べていないものはそれしかない。
食堂のメニューにヨーグルトを発見し喜んで注文した。
見た目は普通だった。
食べてみると妙にすっぱかったが、ヨーグルトはすっぱいのものだと思い、砂糖を入れて食べた。
思い当たるのはそれしかない。

そして熱であるが、40度を越えているとなると、これはもう風邪などのレベルではない。
まっ先に頭に浮かんだのはマラリアである。
ここはアフリカだ。
いつどこにマラリア蚊がいても不思議ではない。
アフリカを旅行する人は、たいていマラリアの予防薬を飲んでいる。
以前のものは副作用が強く、それで失明したという話もある。
現在はコテクシンという名前の比較的安全なものが出回っていて、それを購入しようかとも思った。
しかも発病したときに服用すると治療薬にもなる。
とはいえ、人にもよるがコテクシンでも、頭痛やだるさなどの副作用は起こる可能性が高い。
マラリア蚊にさされ、且つ発病する可能性よりも、予防薬を飲んで、副作用に苦しむ可能性の方が高いと考え、飲んでいない。
それに予防薬も完璧に予防できるわけではない。
だったら、蚊に刺されないような工夫をしたほうがよっぽどいい。
だから予防薬は飲まずに、いざというときの治療用として、コテクシンを購入する予定だった。
私はそれをスーダンで探したが、運悪くどこも売り切れでまだ買っていなかった。

40度を越える熱は、私を非常に不安にさせた。
しかし、飲む薬もなければ、何を飲むべきかもわからない。
それに、時間は深夜の2時くらいだ。
病院もやっていない。
しかもあまりの高熱のため、正確な判断力さえなかったと思う。
そのときに私のしたことは、下痢を止めるために正露丸を飲み、熱を下げるためにバファリンを飲んだ。
とにかく一晩寝て、それから考えることにした。
しかし日本の薬は全くといっていいほど、効果がなかった。
私は翌朝までに20回ほどトイレとベッドを往復し、体力だけを消耗していった。
熱も下がることはない。
ほとんど眠ることなく朝を迎えた。

朝になっても、私の症状はまったく変っていない。
熱も39度から40度の間をいったりきたりしている。
体はひどく衰弱しているように思えた。
体温計を振って、メモリを35度以下にする動作でさえ、ままならなかった。
そんな状況ではあったが、このままではどうにもならないと思い、アフリカのガイドブック引っ張り出し、病気の項を開いて見る。
それを読むと、細菌性の下痢では高熱を伴うことがあると書いてあった。
これかもしれない。
下痢によって、熱を出したのかもしれない。
できればそうであってほしい。
マラリアよりはだいぶましだ。
そう思うと少し気が楽になった。

細菌性の下痢であれば、こっちで売っている、シプロキサンという薬がよく効くと書いてある。
私は自力でそれを買いに行く体力はないが、幸いA君がとなりのベッドに寝ている。

しかし、彼を起こすのは気がひけて、起きるのを待つことにした。
やっと10時くらいにA君が起き出し、事情を説明し、薬を頼んだ。
だが薬局が閉まっていると言ってすぐに戻ってきた。
この辺りでは、昼前後には休憩する店が多い。
その時間にあたってしまった。

仕方ないので、病院へ行くかどうか迷ったが、やはりやめた。
おそらくは細菌性の下痢だ。
だとしたら、薬で治るはずだ。
薬局が開くまで待てばいい。
その後も下痢は続いたが、さすがに出るものがなくなり、完璧な水便だ。
前の夜には、20分に1回だった下痢も、今はなんとか1時間に1回程度になってきた。
私は脱水症状を避けるために、水だけを飲んだ。
普通の水ではなく、水1リットルに対し、砂糖小さじ4杯、小さじ2分の1杯を混ぜたものを飲み続けた。
これはORS(経口補水塩)と呼ばれるもので、普通の水よりも25倍も体の吸収率が高い。
私は幸い砂糖と塩を持っていたので、これをつくった。
もちろん割合なんて適当であるが、ただの水よりはいいだろう。
体力は消耗しきっていたが、これで脱水症状にはならないはずだ。

夕方になりA君がやっと薬を買って戻ってきた。
それを飲み、2時間もすると、下痢は嘘みたいにおさまった。
熱は37度まで下がった。
私はようやく眠ることを許され、次の日の朝まで睡眠をむさぼった。

そして次の日、体力はすっかりなくなっていたが、やっと食事ができるようになった。
とにかく、マラリアでなくて良かった。
それ以来ヨーグルトは食べていない。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

ジャンピングバス2

イミグレーションを出て、乗合トラックで街まで行く。
そこから首都のハルツームまで列車が出ている。
私の目的地もそこだ。
列車が出るのは、次の日である。
この列車が相当つらいという話であった。
炎天下の中を列車は走るが、信じられないほど車内は暑くなる。
当然冷房はない。
1等車両でも冷房はなく、しかもベッドもないという話だ。
かといって、窓を開けると、砂漠の中を走っているので、砂が入ってきてそれもできないらしい。
そして砂にレールが埋もれ脱線も日常茶飯事。
その度に、どうやるのかは知らないが、職員が脱線をなおすらしい。
ハルツームまでうまく行って2泊3日。
遅いと3泊4日になる。
ここもムスリムの国なので、みんな到着時間はインシュアッラーだという。
アッラーだけが知っているという意味だ。
つまり何時着くか誰もわからないということである。

そんな列車にのっても話のネタくらいにしかならないので、あえて乗りたいとは思っていなかった。
とはいえ前に進むには、他に選択肢はないと諦めていた。
しかしフェリーで知り合ったスーダン人たちは、バスでハルツームまで行くという。

そう、バスという選択肢があったということを、私は初めて知った。
バス乗り場に行くと、列車が脱線するのと同じがそれ以上の確率で故障するであろうことは、そのバスの外観をみるとすぐにわかった。
とはいえ、地元の人はほとんどがバスを使っているという。
ということは、少なくとも列車よりはましなのではないだろうか。
私はバスで行くことに決めた。

バスは夜出るのでまだ時間がある。
食事を済ませて、バスの発車を待った。
バスの料金は、アトバラというハムツールまでの中継地点まで4200スーダンディナール、
ざっと1900円ほどだ。
他のスーダン人をよく観察しても、その額を払っているので、ぼられているというわけではなさそうだが、物価を考えると結構高い。
ダメもとで一応値切ってみると、すぐに4000スーダンディナールになった。
90円ほどのディスカウントだ。
しかし、それが間違いだったのかもしれない。

夕食後、7時30分くらいにバスに乗り込んだ。
日本のどんなローカルな路線でも走っていないであろうこのオンボロバスは、以外にもチケットにシートナンバーが書いてあり、どこに座ってもいいというようなものではなかった。
私は周りの人にチケットを見せ、自分の座席を確認すると、一番後ろのシートであった。
バスは左側が3列シート。
通路をはさみ右側に2列シートがある。
シートといっても限りなくベンチに近い。
クッションなんてあってないようなもので、すぐにお尻が痛くなりそうな代物だ。
背もたれは当然背中の所までしかなく、頭をもたれかける部分はない。
これがあるとなしでは、寝るときの快適さがかなり違う。
頭を固定できないと寝るのは非常に難しい。
そしてこれも当然だが足元のスペースもとても狭い。
さらに、私の割り当てられた一番後ろの席は、他の席と比べても、それよりも劣るものなのだ。
とにかく足元が狭く、だらりと浅くすわると、膝が前の席にぶつかる。
常にしっかりと深く座っていなければいけないほど狭い。

いったいこのシートはどうやって決めたのだろうか。
早いもの順であるなら、私がチケットを買ったタイミングは、決して遅くないほうであった。
だとしたら、値切ったからこのシートになったとしか考えられない。
値切るくせがついていると、こんな目に遭うこともある。
たかだか90円のために、このあと20時間、このスペースでひたすら耐えなければならないことになる。
こんなことならば4200スーダンディナール払って、普通のシートにすればよかった。

8時すぎにやっとバスは走り出した。
シートは全て埋まり、通路にはズタ袋やらダンボールやらで一杯になり、その間に立っている乗客もいて、山手線のラッシュアワーに近いものがある。

灯りなど一つもない完璧な砂漠の闇をバスは走った。
真っ暗なので、よくはわからなかったが、思いのほかスピードを出しているようだった。
『これならば、列車よりは早く着くだろう。』
自分の選択が正しかったと確信が持てたのは、わずか数分であった。
その思いはすぐに疑問に変わった。

砂漠のなかに舗装された道路などあるわけもない。
ただ、本当に純粋な砂を上を走っているのだ。
それも明かりなど一つもない、完璧な夜の闇を走っている。
砂漠の砂にも、盛り上がっているところもあれば、凹んでいる部分もある。
そこを通過するたびにバスは跳んだ。
揺れたとかそういう感覚ではなく、跳ぶのだ。
とうぜん、そういったバスの振動は乗客にもつたわってくる。
バスが跳ぶたびに、私の体もまた中に浮く。
そしてバスが着地して、その後、私もまた着地する。
その度に内臓をうちつけらるような感覚を受ける。
私は必死につかまりながら、耐えているが、他の乗客は案外平気だ。
別に慣れているというわけではない。
車の跳ねというのは、後方に行くに従ってひどくなる。
前方の乗客は案外平気なのだ。
私のシートは最後列である。
私はたかが90円を値切った自分を恨んだ。

跳ねる前に、もっとスピードを緩めてくれればいいのにと思うが、そうはいかないらしい。
ここは砂漠の中だ。
スピードを緩めればたちまち砂にタイヤをとられ、スタックしてしまう。
つまりは、ジャンプしようが、振動がひどかろうが、私の内臓が痛くなろうが、そんなことはお構いなしに突っ走るしかないのだ。
私はこのバスを「ジャンピングバス」と呼ぶことにした。

とはいえ、いかにジャンピングバスがジャンプして走っても、砂にタイヤと取られ、スタックすることはめずらしくない。
バスのタイヤが砂に埋まり、発進できなくなると、屋根にいた二人の男がバス後方の梯子から素早く降りてくる。

いったい彼らはこの悪路で、どうやったら振り落とされないで、バスの屋根に乗っていられるのだろうか。
そしてその梯子にはさんである、直径10センチくらいの2本の丸太を引き抜く。
長さは3メートルほどはある。
それを砂に埋めるように、スタックしているタイヤに噛ませる。
しかし、それで脱出できるとは限らないから、彼らはまだそこにいる。
そしてドライバーが一気にアクセルを踏み込み急発進する。
タイヤが丸太を踏むときに、ガタン、ガタンという振動があり、バスが発進する。
驚いたのはそれからだった。
せっかくうまく発進できたのに、その丸太の男たちを待つために、バスが止まると、またスタックする恐れがある。
だからバスはそのまま走り続ける。
その瞬間、二人の男は素早く丸太を拾い、走ってバスに追いつき、もとあった梯子のところに丸太をひっかけ、そしてバスにしがみつき、また屋根に登っていく。
職人技だ。
そしてバスは砂漠の闇を、また走り続ける。

このバスは一応夜行バスではあるが、そんなことが続くから、寝ることなんて不可能だ。
数分眠ったかと思うと、また例のジャンプで起こされる。
明け方、まだ暗いうちに、ある村で休憩し、チャイとビスケットを食べた。
食べている間に夜が明けた。
砂漠に昇る朝日というのは初めて見たが、何もないシンプルな美しさがある。
しかし、ここからが、また別の苦難の始まりだった。

砂漠は日差しが強い。
つきささるようだ。
日が昇るにつれ、気温はぐんぐん上がる。
息苦しいくらいだ。
温度計をもっていたので、見てみると、なんと45度だった。
車内は蒸し風呂みたいになり、窓を開ける。
それで気温が下がるわけではないのだが、風が入ってきて、少しは暑さがやわらぐ。

しかし、そうすると、バスの前輪で舞い上がった砂が、窓から吹き込んでくる。
5分もすると、まるでスライディングした高校野球児みたいになる。
髪の毛もまるで1ヶ月洗っていないような色になり、顔を触っても砂でざらざらす
る。
服は言うまでもなく、ちょっとたたいただけで、砂が舞い上がる。

窓を開ければ、風は入るが、一緒に砂も入る。
閉めればサウナ状態である。
どちらもつらい。
私としてはもう、一度砂だらけになってしまえば、もう関係ないので、窓を開けたかったが、現地の人たちは、暑さに慣れているらしく、すぐに窓を閉めたがった。
私の近くの窓では、私が開け、またしばらくすると、現地の人が閉め、また私が開けるということを繰り返している。

この暑さでは、当然咽が渇いている。
用意していた1リットルの水もすでに飲んでしまった。
こんなバスでも水の支給のサービスがある。
しかし、それはペットボトルの水なんかではなく、バケツでまわってくるのだ。
現地の人は、それについているコップでゴクゴクと飲む。
しかも、凍らせている状態でバスに積み込み、それが溶け出したところで飲むので、
実に冷えていて、うまそうだ。
『これはナイルの水だ。まずいわけはないだろう』
と誰もが言う。
ナイル川の水を、そのまますくってきたという。
そんな水が果たして私に飲めるのだろうか。
私は、自分の水があるうちは、どんなに薦められても、ナイルの水は遠慮した。
しかし、45度の暑さで自分の水はすぐになくなり、咽の乾きには勝てない。
ナイルの水で病気になるのも怖いが、このまま水を我慢して脱水症状になるのも怖い。
『えーい、ままよ』
とそのバケツのナイルの水を飲んでみる。
とにかく冷えている。
味は、うまい。
少し飲んでも、大量に飲んでも、病気になるときはなるのだと割り切って、何杯もおかわりしてしまった。
結局その水で腹を壊すことさえなかったが。

振動と熱気の苦痛は、その後も続いた。
それは移動というより、ただ耐えているというだけのものだった。
もちろん一睡もできない。
そしてバスが出発してから20時間後、やっとアトバラに着く。
そこで1泊し、次の日バスを乗り換えハルツームに着いた。
アトバラからハルツームは、道路が舗装されていた。
旅をして、辺境の地などに行き、道路が舗装されていると、勝手な話しではあるが、なんとなくイメージと違い少しがっかりしたりするが、このときほどアスファルトの道路をありがたく思ったことはない。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

ジャンピングバス1

アフリカは魅力的だ。
しかし同時につらい。
アフリカに行ったことのある人は誰もが言う。
何がつらいのか。
食事か、移動か、あるいは現地の人との交渉か、マラリアか。
まあ、そのどれもあてはまるだろう。

エジプトのカイロから、ルクソール、アスワンと南下し、私はスーダンに入った。
アフリカの魅力はその後の国々でたっぷりと味わうことになるであろうが、とりあえずはそのつらい部分をさっそく体験しなければならなくなった。

エジプトのアスワンハイダムから国際線のフェリーに乗って、スーダンの玄関口であるワディハルファという街に行く。
国際線のフェリーといってもいたって小さい。
神戸から上海まで出ている鑑真号などとは比べ物にならない程小さい。
日本でいえば、海沿いの観光地などにある、定員60名くらいの高速艇くらいの大きさだ。
しかしこちらは、もちろん高速ではなく低速である。
ベッドなんてものはなく、全てシートである。
それもリクライニングなどもなく、一応固いクッションのついたベンチである。

エジプトのイミグレを通過し、船内に入ったのはその日の午後1時くらいだった。
すでに席は埋まっていた。
埋まっているといっても、全ての席に人が座っているわけではない。
乗客の荷物が大きく、そして多すぎて、そのためにスペースが埋まっているのだ。
でかいスーツケースは許せるとして、ずた袋、10キロはあるだろう洗剤の袋、大きなミルクの管、バケツ、そしてダンボールの山である。
それをシートの下、網棚はもちろん、通路にずらりと並んでいる。
荷物の山と乱雑さは、市場がそのまま引越してきたようだ。
その持ち主はといえば、荷物のそばのシートを一人で3、4人分占領して横になっている。
あるいは、わざと荷物をシートにおいて、席を確保している。
この船がスーダンに着くまでに一晩はかかる。
夜になって足を延ばして眠れるように、場所を確保しているのである。
それにしても、一体何時から乗船しているのだろうか。

通路にも荷物があふれていて、天井まで重なった卵の箱。
そして冷蔵庫には恐れ入った。
いったいどうやって運ぶのだろうか。
どれもスーダン人がエジプトで買い物してきたものなのだろう。
エジプトのほうが物価も安く、なにより物が多い。
といってもエジプト人もスーダン人も外見上の違いはなく、見分けはつかないが。

席は指定ではない。
早いもの勝ちだ。
彼らのずうずうしさ、いやたくましさに感心している場合ではなく、私もここはずうずうしく自分の寝床とまではいかなくとも、せめて座れる席くらいは確保せねばならない。
一人で3、4人分のシートを占領している人に片っ端から声をかける。
『ここ座っていいですか?』
英語が通じてないかもしれないが、バックパックを背負って、席を指させば意味は絶対に通じる。
『ノー、ノー』
それが3、4人は続いた。
『そりゃないだろ、あんたらいったい何人分のシートを取れば気が済むんだ。
俺だって同じ料金払ってんだよ』
思わず、日本語で愚痴ってしまう。

しばらく途方にくれていたが、私を見て、心配してくれたスーダン人の男性が、他の客と話をつけてくれて、なんとか座ることができた。
あとはそこを死守するだけだ。
しかし、客は後から後からやってくる。
さすがに全員体を伸ばすスペースを確保できるわけもなく、人口密度は上がる一方だった。
後から入ってきた客は、私と同じように誰彼構わず声をかけて、シートと、荷物を置くスペースを確保していく。
そのために言い争いも何回かあった。
そして、通路はほとんどダンボールなどの荷物で埋め尽くされ、シートは人で埋まり、結局体を伸ばして寝るスペースを確保できた人はいなくなった。
だったら初めからそんなことしなければいいのに。

船は私が乗船してから6時間後の午後7時にやっと動き出した。

動き出してすぐに支給された食券で夕食を食べた。
一応食堂があるのだ。
といっても豆とパンだけで、とても足りなかったが、エジプトポンドを使いきってしまっていたので売店で何も買うことができない。

夕食後、9時になるとなぜか人がはけて、全ての人が体を伸ばして寝始めている。
不思議に思ったが、半分ほどの人が食堂に行き、そこで寝ているのだ。
あとは、通路の荷物の隙間などに器用に寝ている。
救命ボートの下にまで人が寝ていた。
おかげで私も体を伸ばしてぐっすり眠ることができた。
シートはベンチみたいに固いが、体を伸ばせるのは何よりありがたい。
そして翌日の午後3時に、ワディハルファに到着した。
しかし本当につらかったのはここからだ。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

エジプトで騙される

誰が言い出したのかはわからないが、バックパッカーの間で語られる「3大バカ民族」というのがある。
あくまで、噂話の域を出ないものであり、あまり上品な言い方ではないし、言われた方はいい迷惑どころか激怒しそうなものだ。
しかし、平たく言えばそれらの民族の国は、旅行の行き先としては人気があっても、旅をする上ではトラブルも多いということだろう。
そしてトラブルに巻き込まれ、しまいには、彼らに対する反感がつのり
『奴らバカなんですよ』
ということになる。

その3大バカ民族は中国人、インド人、そして私のいるエジプト人である。
もちろん、私もそう思うかと言われれば、そんなことはないと思うが、私自身の旅を振り返っても、なるほどと思わないでもない。

まず中国であるが、ここはほとんど英語が通じない。
私の訪れた国々のなかでもだんとつである。
「one two three」さえ通じない。
都会ならともかく、地方に行くともう絶望的である。
彼らは漢字を使うので、筆談という手もあるが、これは思っているほど通じず、なにより誤解が生じる危険もある。
従って、中国を貧乏旅行するには、片言の会話を覚え、数字を覚え、旅に臨むことになる
私も、これが欲しいとか、どこに行きたいとか、それくらいの中国語は覚えた。

しかし、やはり通じないことの方が多い。
これは私が実際に実際に体験したことだが、マクドナルドでハンバーガーを中国語で注文した。
覚えてたての中国語で恐る恐る喋る。
すると、店員は私の言っている意味がわからずに、
『アー?』
と言う。
その『アー?』は普通の『アー?』ではなく、「何だお前は中国語も喋れずに中国にいるのか」という風に聞こえる『アー?』なのだ。
はっきり言ってしまえば、非常に不愉快に聞こえるのだ。
恐らくは「何て言ったの、もう一回言ってくれる?」という意味を込めた『アー?』
だと思うだが、何度聞いても不愉快に聞こえてしまう。
頭ではわかっていても、感情的はやはり腹立たしい。
これは慣れるまで時間がかかった。

さらに中国人はマナーが悪く、道端やバスや列車のなかでも痰ははくし、列には並ばない。
バスのなかで親が子供に小便をさせている。
女性は大股を開いて座る。
一度列車で、すごい美人を見たが、その股を大いに広げて座る姿に、心も萎えた。
とにかくマナーの悪さは、指折りであろう。

次にインドである。
この国もトラブルの宝庫である。
まず、タクシーやリクシャの類は、ひたすらぼったくろうとする。
特にひどいのが、デリーの空港からプリペイドタクシーである。
まず、空港のプリペイドだからといっても、安心できない。
ぼったくろうとするので、あらかじめ料金を知っていないといけない。
そしてやっかいなのは目的地に行ってくれないということだ。
特に深夜にデリー空港の到着した場合は要注意だ。
たいていの旅行者は安宿街のあるメインバザールへ行ってくれと言いタクシーに乗るが、深夜でゲストハウスは閉まっているとか、最近テロがあったとか、なにかと理由をつけて、高級ホテルへ連れていって、マージンをもらおうとする。
しかも200ドルのホテルに連れていかれたが、実際はせいぜい30ドルほどのホテルだったりする。
さらには、偽者の政府ツーリストオフィスに連れていき、法外な値段のツアーを組まされたりする。
特に女性の一人旅などでは、数人に囲まれてしまえば、詐欺だとわかっていても、やはりお金を払わざるを得ないことも多いと聞く。

そして最後が私のいるエジプトである。
タイプとしてはインドと似ている。
物の物価がないのだ。
土産屋などで、外国人と見ると10倍くらいの値段は言われることも少なくない。
さすがに日用品では、そこまでの値段を言われることは少ないが、それでも水1本買うにしても、せこくぼってくる店があるのも確かだ。
だからゲストハウスの情報ノートには、「正直屋を発見 ここならぼりません」なんていう情報まである。
正直屋というのは、適正な値段で買える雑貨屋という意味だ。
しかもやっかいなのは、地元の住民までがそのツーリストプライスというのを認めている節があるということだ。
それは特に観光地がひどい。
例えばアブシンベル神殿で有名なアスワンでのことである。
その街から、ナイル川を渡るとヌビア人の住む村があり、私は何度かそこへ写真を撮りに行った。
ナイル川を渡るには、対岸まで乗合ボートが出ていてそれに乗らなければならない。

たいてい1エジプトポンドで乗れる。
これで約20円だ。
こんなに安いのかと思ってしまうが、実は地元の人は0.25エジプトポンドで乗っている。
日本円に直すとわずか5円である。
私も最初にこのボートに乗るときに1ポンド払ったが、その後、他の旅行者と話していて、実は0.25エジプトポンドであることを知った。
しかしこの手の本当の値段を知るのはかなりやっかいだ。

後日ボートにのって、0.25ポンドきっかりのコインを出すとなにも言われなかったが、帰りに1エジプトポンドを出し、お釣りをくれといっても、なかなかくれなかった。
私がもめていると、他の乗客までが、1ポンド払えと言う。
つまりは、決められたツーリストプライスというわけではないが、地元の人と、ボートの職員暗黙の了解のもとに成り立っている外国人料金というわけだ。

同じようなことは、ここらで食べることのできる、ファラフェルというサンドイッチを買うときや、チャーハンとパスタをトマトソースで味付けしたような、エジプトの国民食であるコシャリ屋に入ったときにもあった。
カイロでそういうことは、まずないが、観光地ではひどい。

シリアからエジプトまでのルートは、南下するほど人が悪くなり、エジプトでピークを迎えるとよく言われる。
とはいえ、私はそれほど心配してはいなかった。
今までの旅でも、物価の決まっている国ほうが少なかったし、初めての国であっても、何かを買う前に、いくつかの店で値段を調べてから買えは、おおよその物価もつかめてくる。
それに、私としては、ぼったくろうとする連中がそれほど嫌いではなかった。
もちろんぼられると、腹立たしい。
しかし、お金を払うときは、納得して払うわけだから、こちら側の責任もある。
また、持ってる奴からは一円でも多く取ってやるといって、彼らのパワーみたいなものも、まんざら嫌いではないし、彼らとの交渉も旅でしか味わえないものである。

しかし、旅行者のなかには、徹底的に、そして頭からエジプト人は信用していない人もいた。
『あいつら、頭おかしいんですよ』
とまで言う人もいた。
旅をする上で警戒心とは、ある程度必要だが、そこまでいくと見苦しい。
だったら、エジプトに来なければいいのにと思ってしまうのは、余計なおせっかいだろうか。

さて、前置きが長くなったが、その3大バカ民族のエジプト人に、私もまんまとやられたのである。
別に巧妙な手口だったわけはなく、今考えると私が間抜けすぎた。
あるいは、旅慣れているという油断があったのかもしれない。
この旅で知らず知らずのうちに、小銭をぼられていることは、いくらでもあっただろうが、やられたと実感したのは、これが初めてであった。

その日、次の目的地、ルクソールまでの夜行列車の時間まで、カイロの街をふらふらと歩いていた。
もう夕方に差し掛かった頃だ。
その男が声をかけてきたのはそんな時だった。

宿の近くの交差点だった。
『ハロージャパニーズ、どこへ行くんだ?』
と声をかけてきた男は、50歳くらいのメガネをかけた中年で、片足をすこし引きずって歩いていた。
『シャイをご馳走したいんだ』
という唐突な誘いに対し、
『これからジュースを飲みに行くんだ』
と無表情に答えた。
どうせこの手の輩は、結局は土産物屋の客引きだったりする。
しかも初対面の、最初の言葉が、シャイを飲もうだなんて、どう考えても怪しすぎる。
それでも彼は、
『だったら待っているから、少し話をさせてくれ』
とめげない。

私は彼を無視して、いつも飲んでいる生ジューススタンドに行き、オレンジジュースを飲んだ。
この時期のカイロは、暑くも寒くもなく、日本の春先みたいな気候だが、目の前でオレンジを絞ってつくる新鮮な生ジュースは、体に吸収されるような感じで旨い。
しかも約20円と安い。
もちろん、椅子なんてないから、路上でグビグビと飲む。
そしてきた道を引き返すと、彼は同じ所で待っていた。
『約束通り待っていた、シャイをおごるよ』
『約束なんてした覚えはない。
あなたが勝手に待っていただけだ』
と我ながら冷たい言い方をした。
『5分でいいんだ。5分間だけ話をさせてくれないか』
『なんでそんなに私と話がしたい。盗られるような金は持ってないぞ』
と私が言うと、彼は続けた。
『そんな気はない。
今度娘が日本へ行くことになったんだ。
だから日本のことを少し教えてほしいんだ。
君は日本人だろう』
当然、そんな話を私は信用しない。
『だったら他をあたってくれ、今は時間がないんだ』
実際に時間がなかった。
列車の時間まではまだずいぶんと余裕がるが、宿に帰ってパッキングをしておきたかった。
私が、立ち去ろうとすると、彼はメモに自分の住所を書いて私に渡した。
『暇なときに、手紙をくれないか。何でもいいから日本のことを教えてほしい』
会って、数分しか経っていないこの男に、手紙を出すはずもないのだが、私は彼の住所の書かれたメモをうけとり、もしかしたら彼の言っていることは本当かもしれないと思い始めた。

もしこの男に、例えば土産物屋に連れて行き、何か買わせてマージンをもらうだとか、人気のないところに行き、仲間を呼んで金を奪うだとか、そういった目的があるとしたら、私をその目的の遂行できる場所へ連れていかなければならない。
ここで私が無視して立ち去ってしまえば、その時点で彼にとって私は無用の存在になるのだ。
つまり、手紙なんてもらってしょうがないのである。
ところが、彼は手紙でもいいから日本のことを知りたいという。
それで彼の言っている、娘が日本に行くというのは本当の話かもしれないと思ったのだ。

『わかったよ。でも私は今日の夜行列車でルクソールに行くから、あんまり時間がない。
でももちろんシャイを飲むくらいの時間はある。
シャイだけ付き合うよ』
そういうと、彼は握手をして、
『ムハンマドだ』
と名乗った。
ムハンマド。
イスラム圏ならどこにでもいる名前だ。

5分ほど歩き、路地裏にあるシャイ屋に案内された。
エジプトではチャイではなく、シャイという。
といっても他のイスラム圏同様、ミルクは入れない。
たっぷりの砂糖と、ミントを入れたりする。
そのシャイ屋の場所は、外国人は寄り付かないような雰囲気ではあったが、近くの通りは良く歩く道なので、全く知らない場所というわけではなく、特に不安もなかった。
彼はシャイを飲み、私はコーヒーを飲んだ。
挽いたコーヒーと、砂糖をグラスに入れ、コーヒーの粉が沈むのを待って、上澄みを飲む。
アラビアコーヒーだ。

『オリビアは日本へコンピューターの勉強へ行くんだ。
場所は長崎だ。
ビザを取るのに苦労したよ』
オリビアというのは、ムハンマドの娘の名前だ。
そして彼女の行き先は長崎だ。
この時に気付くべきだった。
いや、その長崎とう地名にピンとこなかったわけではなかったが、そのときはそんなに深く考えなかったのだ。
日本のなかで、最もよく知られている地名といえば、なんといっても東京である。
首都であるから当然だ。
その次は大阪。
大阪には国際空港もあるし、バックパッカーには大阪出身の人が多いというのも理由の一つかもしれない。
そして、横浜もワールドカップで有名になった。
その三つを除いて有名な都市名というと、広島と長崎がくる。
特にイスラム圏では反米感情も手伝って、アメリカの悪行が行われた場所として、驚くほど広島、長崎という街の名前が知れ渡っている。
街を歩くいていると、
『コンニチハ、サヨウナラ、ヒロシマ、ナガサキ』
と、とりあえず知っている単語だけを並べて、挨拶してくれる人もいるが、日本のコンニチハに匹敵するくらい、ヒロシマ、ナガサキは、ここでは知れ渡っている単語なのだ。
そして日本人を騙す連中は、きまって日本に友人がいるという。
当然嘘であるが、その友人が東京に住んでいると言うと、騙す相手である旅行者も東京出身の可能性が高く、つっこまれて嘘がばれる危険性があり、東京、大阪などの地名は避ける。
そして、彼らが良く知っていて、あまりバックパッカーの出身地でない地名として、広島、長崎はちょうどいいのだ。

だからムハンマドが、娘が長崎に行くと言ったとき、おやっと思ったが、それ以上気に止めなかった。
この時点で私は彼を信用しきっていた。
彼が娘の話をするときの、嬉しそうな、でれっとした顔が、私を信用させた。

私は長崎のことはわからないが、と断ってから、簡単に日本のことを説明した。
『人口は約1億2千万。
比較的内気な国民性だと言われるけど、親切な人が多い。
戦争が終わり50年以上たち、反米感情などはない。
宗教については、大半は仏教徒であるが、あくまで形式的なものでしかない。
結婚はキリスト教式であげるのが一般的だ。
国民の大部分が無宗教といっても差し支えない。
それから一応言っておくけど、日本はフリーセックスではない。
もちろん、ムスリムほど厳しくはないけどね』
セックスのことをあえて言ったのは、以前、日本はフリーセックスで羨ましいと言っていた男性に何人も会ったことがあるからだ。

一通り私が話し終わると、彼はシーシャ(水タバコ)を注文し、吸ってくれという。

彼がトライ、トライ、と薦めるので、私は何度もやったことがあると断わったが、結局はその薦めにまけて、アップル風味に煙を楽しんだ。
『そうか、やっぱり日本は人も親切で、いい所みたいだな、安心したよ』
と彼も満足そうだった。

そして今夜ルクソールに向かうという話をすると、あそこは旅行者を騙す連中が多いから気をつけてくれという。
『両替がすんでいないなら俺がいい店を紹介しようか。
ルクソールはレートがよくない』
しかし、両替は残りのエジプトの滞在日数を考え、すでに済ませていた。
サファリビルの入り口に、ヘチマを売っている老人がいて、彼の耳元で、チェンジマネーというと、奥へ連れていってくれ、両替してくれるのだ。
銀行よりもかなりレートが良く、ちょっとした名物だおやじだ。
その彼のところですでに両替はしていたが、50エジプトポンド(約1000円)の高額紙幣しか持っていなかった。 
今泊まっているベニスホテルが、1泊7エジプトポンド。
国民食のコシャリが2エジプトポンド。
つまり、50エジプトポンドは、かなりの高額紙幣で、嫌がられることも多い。

それをムハンマドに伝えると、くずしてくれるという。
私は彼自身がくずしてくれるのかと思い、50エジプトポンドを渡した。
それを受け取った彼は、すくっと立ち上がり、くずしてくるといって通りに消えていってしまった。
私は、あまりに突然だったのと、彼の行動を予想もしていなかったので、引き止める言葉も出ないうちに、彼は消えていってしまった。
待っている間不安だった。
これで彼が帰ってこなかったら、私はただのお人好しである。
シーシャを吸いながらそんなことを考えていてが、10分ほどでムハンマドが帰ってきた。
『何件かの店でことわられたけど、やっとやってもらえた』
と言って、10エジプトポンド札を5枚出した。
これで私はこれでムハンマドを完璧に信用した。

『私の家はこのすぐ近くなんだが、よかったら家内とオリビアを連れてきていいか?

親の私が言うのもなんだが、オリビアはすごい美人だ。
鉄郎と一緒にみんなで記念写真をとりたいんだ』
私に断わる理由もない。
そして、ムハンマドは、
『頼むからオリビアにキスはしないでくれ』
と言う。
『日本人にそんな習慣はない』
と説明すると笑っていた。
そして彼は、オリビアを呼んでくると言い、一度家にもどり、すぐにまた現れた。
しかし、ムハンマドの娘の姿はなく、彼一人だ。
『家内もオリビアもとても喜んでいた。
日本人のフレンドができたってね。
今からシャワーを浴びて、それから化粧をしてくるから、もう少し待ってくれ』
化粧はともかく、シャワーとは大げさだが、悪い気はしない。

私もその美人だというオリビアを見てみたかった。
それに彼女たちと一緒に写真を撮るといことは、その後で私が彼女の写真を撮っても問題ないだろう。
イスラムの女性は写真を嫌う。
カメラを向けるとまず、ラー、ラーを言われる。
ノー、ノーという意味だ。
しかし、今回は思いっきり撮れるし、しかも美人ときている。
ぜひとも彼女をフィルムに収めたかった。
一緒に写真を撮った後に、彼女一人の写真を撮りたいとムハンマドに確認すると、別に問題ないという。
これはついてる。

奥さんとオリビアを待っている間、ムハンマドは、私がテーブルの上に無造作においたタバコを指差して、いくらで買ったかを聞いた。
それはクレオパトラというエジプトのタバコで、決して旨いわけではないが、最も安い。
『1.75エジプトポンド(約36円)だ』
と言うと、それならローカルプライスだという。
『でも私の友人の店で1カートン(10個入り)で、13エジプトポンドだ。
1箱1.3エジプトポンド。
どうだ安いだろう。
ルクソールは高いから、ここで買っていったほうがいい。
どうする?』
『それじゃ1カートンたのむ。
お釣りは細かいのでくれ』
と私は50エジプトポンド札を彼に渡した。

そしてムハンマドは、
『そろそろオリビアたちが来る時間だから、行こう』
と言って、席を立ち上がった。
ここに来ると思っていたので、そのことを彼に言うと、
『ここじゃまずい、わかるだろう。
カイロはムスリムの街だ。
そのカイロの路地裏のシャイ屋に女性が来るなんてことはできないんだ。
近くの公園に行こう。
そこなら大丈夫だ』
なるほど、もっともな話である。
カイロは都会であり、女性もよく出歩いているいる。
しかし、マクドナルドや喫茶店に入る女性は多いが、さすがに路地裏のシャイ屋では、女性はあまりに目立つ。
いつもシャイ屋は男性でいっぱいで、それぞれにシャイをすすったり、水タバコをふかしている。
そのなかに若い女性が入ってきて、外国人と写真を撮るというのは、あまりよろしくないというのは、私にもわかった。

ムハンマドは会計をすませた。
もちろん奢ってくれた。
そして通りに出て、公園は近いが安いからタクシーで行こうという。
タバコ屋はその公園の近くらしい。
タクシーに乗っている時間はわずかだったが、その間もモスクが見えるとその説明をしてくれたり、通りの名前を教えてくれたり、ちょっとしたガイド気取りだった。
5分ほどでタクシーを降りたが、そのときに彼が、細かいお金がないので立て替えてくれという。
私はさっき彼に両替してもらった10エジプトポンド札があったので、それを渡した。
タクシーを降りたところは、以前歩いて来た場所で見覚えがあった。
土産物屋が並び、野菜や果物を売る屋台があり、ごちゃごちゃしたマーケットになっている。

『あと5分もすれば家内とオリビアが来る。
公園はすぐそこだ。
その間にタバコを買ってくるよ。
ちょっと待っていてくれ』
ムハンマドは言い残し、車の往来の激しい道路を、すいすいと器用にわたっていった。
そして、マーケットの中に消えていった。
確か、初めてムハンマドと会ったときに、彼は片足をひきずって歩いていた。
しかし、その彼がすいすいと道路をわたっている。
これはどういうことなのだろうか。

彼が消えてから5分ほどたっても、まだムハンマドは戻ってこない。
『これで彼が帰ってこなかったら、俺もただの間抜けだ』
などと冗談半分に考えていたが、10分たった頃から不安に思ってきた。
さすがに15分たつとあせってくる。
『俺は騙されたのだろうか、しかしまだ15分じゃないか。
タバコ屋が見つからないのかもしれない。
いや、友人とばったり会って話しこんでいるのかもしれない』
と自分に言い聞かせる。

20分たった。
30分たったら諦めようと決めて、私は彼が現れることを祈った。

人が悪いといわれるエジプトだが、そうでない人だってたくさんいる。
私はそういう人と出会い、短いが貴重な時間をすごした。
そんなことを、エジプト人を頭から信用せず、そして馬鹿にする旅行者に言ってやりたかった。
しかし、時間は虚しくすぎ、30分たった。
私は彼の消えたマーケットの方へ足を運び、一応は捜してみたが、見つかるわけもない。
仕方なく宿の方向へと歩き出した。

ムハンマドに渡したお金はタバコ代と、タクシー代で、60エジプトポンドである。

日本円になおすと1250円くらいだ。
別に金額としては惜しくない。
結果からみると私が恥ずかしいほど、うかつすぎた。
しかし後味が悪い。

旅行中に人を信用することができずに、頭から疑ってかかり、最終的には彼が信頼できる人物で、こちらのことを親身に考えてくれたことがわかったときほど、嫌なものはない。
はじめから疑ってかかるのは簡単なことなのだ。
しかし、人に信頼されるのも、人を信頼するのも、なんと難しいことか

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

伝説のゲストハウス

ダハブからの乗合ワゴンは、カイロ市内の地下鉄の前で停まり、私はそこで降ろされた。
朝方だったので、通勤や通学の人たちで地下鉄は込み合っている。
そこが一体カイロのどのあたりなのかよくわからなかったが、私は地下鉄に乗り、人に尋ねながら、ナセル駅へまでたどりついた。

目的の通称サファリビルは駅からすぐだと聞いていた。
そこのなかに私の目指すゲストハウスがある。
しかし、人に聞いても誰もわからず、地図と照らし合わせて歩いても、それらしいものは見当たらない。
ようやくそれは市場の前にあると教えられ、そこを歩いたが、やはりそれらしいものは見当たらない。
その通りを歩きながら、サファリビルはどこなんだろうかと思いながらうろついていると、ヘチマを売っている老人がこっちを見ている。
そして『お前の探しているのはここだ』
と目で合図してくれた。
なるほど、老人の座っている奥には、通路が続いている。
そしていかにも年代ものの、ビルが建っている。
そこがサファリビルの入り口である。

その老人は、通称「ヘチマ屋」と呼ばれている人だとすぐに気がついた。
彼のことは他の旅行者から聞いていた。
老人の見かけの商売は、彼の目の前に置かれたヘチマを売ることである。
しかし、彼の本当の商売は闇両替である。
老人の耳元で、
『チェンジマネー、プリーズ』
とささやくと、黙ってビルの奥につれていかれ、ドルのキャッシュをエジプトポンドにしてくれる。
レートは銀行よりはるかにいい。
100ドル両替すれば、銀行でやるより6ドルほどの得をすることになる。
このサファリビルの名物的な老人である。

そしてそのサファリビルに足を踏み入れると、ここが本当にゲストハウスなのとかと思う。
まず、階段が薄暗い。
そして壊れたエレベーターが1階のところで止まっている。
もう何年も動いていないうようだ。
そのまわりにはゴミが散乱して悪臭が漂っている。
そして猫が住み着いている様子で、誰かがエサをやっているようだった。

そのサファリビルには、2階にスルタンホテル、4階にベニスホテル、6階にサファリホテルとスルタン?がある。
どれも安宿であり、値段もそうは変わらなくて、140円前後だ。

そして、その6階にあるサファリホテルは、世界一濃いバックパッカーが集まる所として有名だった。
聞いたところでは、そこに4年間住んでいる日本人を筆頭に、1年以上の長期滞在者が数人いるということだった。
はたして、そこで彼らは何をやっているのかといえば、それぞれに事情があるのかもしれないが、はたから見ると何もやっていないに等しい。
いわゆる沈没である。
それにしても長すぎる沈没だ。
彼らが1階まで降り、外へ行くことを、「下界へ行く」と言うらしいが、それだけでも宿にこもっていることがわかる。

私はその手の日本人と、溜まり場的な宿が好きではなかった。
もちろん全ての人がそうだとは言わないが、その人たちの発する、どこか人を寄せ付けないような、それでいて長期滞在、あるいは長期旅行をどこかで誇っているような、そういう臭いが嫌いだった。
彼ら一人一人に個別に会えば、普通の人だったりするが、それが集団になってしまうと、なんとなく中に入りづらい。
しかし一方で、一度溶け込んでしまえば、居心地がよく、抜け出せなくなるのも確かだ。

私は一人で旅をしている。
誰かと行動を共にすることも多いが、基本は一人だ。
人と接するのは好きだし、誰かといることで、いろんな話が聞けたり、情報をもらえ
たりということはよくあることだけど、あえてわざわざ集団に入ることはしないこと
にしている。
日本で働くことになれば、多かれ少なかれ集団の中に入り、誰かに気を使うことにな
る。
だから旅の間だけは、そういう余計な労力を使いたくなかった。
だから今回もそのサファリホテルは避ける予定だった。

しかし、その世界一濃いバックパッカーが集まる宿には、世界一使える情報ノートが置いてあるはずだった。
そこには、これから行くアフリカの情報が大量にある。
広いアフリカに対して、一冊のガイドブックしかもっていない私は、その情報ノートを見なくては、とてもアフリカ縦断などできないと思っていた。
しかし、それは宿泊客しか見ることができないと聞いていたので、最初にそこで2、3泊して情報ノートをチェックし、それから別のホテルに移ろうと思っていた。

ところがそのサファリホテルは、私がヨルダンにいる時に、崩壊したと聞いた。
かといって本当に建物が崩れたわけではない。
ましてホテルがつぶれたわけでもなく、崩壊なのだ。

そこに4年間住んでいた日本人がいた。
その彼は、そこではボス的な存在であったらしい。
ボスというのは、どういうものかわからないが、ゲストハウスのルールなどを説明するのは、従業員ではなくその彼だったという話だ。
あとは、宿泊客で手分けして、自炊をすることが多いが、それを仕切ったりしていたらしい。
その彼が今年の3月に帰国し、それを機にオーナーは、他の長期滞在者も追い出しにかかった。
サファリホテルの長期滞在者たちは、毎晩マージャンとガンジャで時間をつぶす。
その雰囲気の悪さから、日本人以外の旅行者が来ないのと、日本人でも彼らについていけない旅行者は他に行ってしまうというのが理由らしい。
そしてサファリホテルから長期滞在者は消え、情報ノートはどういうわけだか、ヒルトンホテルの旅行大理店に預けられ、しかもそこへ行っても見ることはできない。
さらには宿の料金が上がった。

とにかく私がサファリホテルに行く理由もなくなり、4階のベニスホテルに宿をとったのだ。

ベニスホテルに泊まっているとき、同じビルにあるので、サファリホテルの宿泊客と知り合いになり、彼らが自炊するというので、一度そこに招かれたことがある。
ドミトリーは狭い部屋の中に、ベッドがいくつもおしこまれ、洗濯ものが室内の至るところにぶらさがっている。
ガンジャをやっている人もいた。
それくらいなら、どこのゲストハウスも同じである。
しかし以前のように、沈没する人はいなくなり、旅行者は次々と他の目的地へ行き、滞在者の入れ替わりも多い。
サファリホテルが溜まり場的な宿だという印象は受けなかった。
そして、宿泊客も減っていた。
値上げしたため、サファリビルのなかでは料金は一番高くなり、なおかつ最上階にあるので、そこまで階段で上がるよりは、2階のスルタンホテルや4階のベニスホテルに客は流れるのは当然だし、ベニスホテルなどのほうが清潔だった。

そして何より、情報ノートがないために、日本人は来なくなった。
かといって外国人の利用が増えたかといえば、そういうわけでもない。

私もその情報ノートをあきらめるしかなかった。
そしてカイロの街で、エッセイの原稿を書いたり、街を歩いたりした。
しかし、カイロの街並みは大して興味を持てなかった。
どことなくデリーに似ていて、発展はしているが、高層ビルが連なるというほどでもなく、ダウンタウンにしても悪くはないが、シリアのダマスカスや、イスラエルのエルサレムに比べると、どうしても色あせてしまう。
私はそこで、ピラミッドや国立博物館などの観光を一通り済ませ、アルジェリアとの国境近くにあるシーワ・オアシスという泥の街まで足を延ばしたりした。
そして、スーダンやエチオピアのビザと取ったりして、南下の準備を整えた。

ゲストハウスというものは、世界中に存在するが、そのなかにも日本人の溜まり場となり、名を馳せているものがいくつかある。
インド、バラナシの久美子ハウスであったり、トルコ、イスタンブールのコンヤペンションであったりする。
もちろんカイロのサファリホテルもそうだった。
それぞれのゲストハウスが、特有の匂いみたいなものを発していて、なかなか面白い。
旅行者も自分と同じような匂いを発する所を求めるのか、宿泊客もどことなく似たような長期旅行者が集まり、そして沈没していく。
サファリホテルには、そういう匂いはなくなってしまい、したがって、そういう匂いを発する宿泊客も、そこに溜まるということもこれからはなくなるのだろう。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

ダハブの休息

エジプトのカイロの東、シナイ半島にダハブという街がある。
比較的物価の安いそのビーチリゾートに特に興味があるわけではなかった。
ただ、なんとんとなく足を運んだ。

ヨルダンのアカバからフェリーで、紅海のアカバ湾を渡り、ヌエバに着く。
そこはもうエジプトだ。
そこから直接カイロに行くこともできたが、フェリーが一緒だった日本人が、ダハブに行くというので、私もなんとなくそこへ寄ることにした。

今までビーチリゾートの類に行ったことはない。
一人で行ったところで、まわりはカップルだらけだろうし、かといってドラマのような出会いがあるとも考えられず、きっと寂しい思いをするだけだという先入観があった。
タイには何回も行ったことがあるし、インドネシアにも行ったこともある。
しかしビーチリゾートは未経験だった。
一度だけバリ島に、当時付き合っていた人と行ったことがあるが、そのときでさえ、ビーチへ行ってみたものの、なぜか泳ぐこともせず、さっさと内陸部のウブドへ向かってしまった。

今回もそういう場所に行く予定もなかったし、魅力も感じなかった。
そんな私であるから、ダハブに来てみたのは、まさになんとなく通り道にあったから立ち寄ったというだけのものだった。
しかし、どういうわけだか、その後そこで2週間滞在することになる。

ヨルダンのアカバから、エジプトのヌエバに向かうのフェリーの出航は午前11時予定だったが、実際に出航したのは午後の9時で、ヌエバ着いたのは深夜2時である。

とはいえ、この数時間の遅れは別に驚くことではなく、この路線では当たり前であった。
ヌエバでフェリーを降りた後、深夜なのでバスはなく、そこからダハブまではタクシーを他の旅行者とシェアした。
ダハブのセブンヘブンというゲストハウスに着いたときは、午前3時をまわっていたが、オーナーは深夜にもかかわらず、快く迎えてくれた。
私が部屋の料金のことを口にすると、
『まずはチャイでも飲んでくれ』
と言って、ロビーに案内してくれた。
イスラム圏ではめずらしくない、こういう親切が、私は好きだった。

翌朝ゲストハウスの門を出ると、目の前は深い青のブルーが広がっていた。
着いたときは深夜であったのと、タクシーで裏手から入ったの気がつかなかった。
ビーチに沿って、レストランやゲストハウス、土産物屋が続いている。
うるさい客引きもいるにはいるが、そこは雑踏だとか喧騒だとかとは無縁の世界だ。

時間の流れもゆったりしているのではないかなんて、柄にもないことを考えたりする。
私はその中にしばらくの間、自分の身を浸すのも悪くはないと思い始めていた。

その後の何日間かは、フェリーが一緒だった日本人と、サザエを捕ったり、シュノーケルをしたりした。
この海では漁が禁止されているため、当然サザエを捕るのも違法だが、私は簡単に欲望に負けてしまい、サザエ漁に精を出した。
シュノーケルをつけ、海に入ると岩にしがみついているサザエが、案外簡単に捕れる。
といっても、私はどんなにがんばっても結局1匹も捕まえることはできなかった。
海育ちの友人はいとも簡単に捕ってきたが、私には最後の最後まで、そのコツがわからなかった。
そして捕ったサザエをガソリンコンロで焼き、しょう油で食べると、とにかく旨い。

サザエを抜きにしても、ただシュノーケルで潜るだけでも楽しかった。
沖へ向かって30メートルも泳げば、そこから先の海は、断崖絶壁のようになっていて、一気に深くなっている。
そこにではサンゴ礁も見ることができるし、黄色や青色の派手な色をした魚が歓迎してくれた。
そういう世界を私は見たことがなく、砂浜からたった数十メートルのところに、そうした世界があることが驚きであった。

ゲストハウスも快適だった。
私の泊まっているドミトリーの部屋はハットという、植物の茎を縫い合わせた小屋ではあったが、その日本の昔の家を思わせる部屋は悪くなかった。
値段は1泊、約100円だ。
ただ、部屋はとにかく狭く、小さなハットにベッドを強引に3つ入れているので、暇なときはロビーにいた。
ロビーの椅子に座っていると、オーナーが、
『チャイをのまないか?それともコーヒーがいいか?』
と声をかけてくれる。
もちろんフリーだ。
ゲストハウスの中に、レストランもあり、そこでチャイやコーヒーを飲むと、けっこうな値段をとられる。
セブンヘブンはゲストハウスであり、私の部屋は安いが、もっといい部屋もあり、客層はいろいろだった。
いい部屋に泊まる欧米人たちは、ちゃんとお金を出して、チャイなり、コーヒーなどを飲んでいた。
しかし私は、我ながらせこいが、それをただでそれを飲むために、よくロビーに顔を出した。
それでもオーナーは嫌な顔もしないで、チャイを振舞ってくれる。

オーナーはサミールという。
アンマンのクリフホテルのサミールとは違い、太っていて、40代半ばの中年だ。
気のいい人物であり、日本びいきであった。
ただ、日本の女性を妻に迎えたいらしく、事あるごとに
『日本の女性を紹介してくれないか』
としつこい。
この話が出る度に、私は曖昧に返事をして、笑って聞き流していた。

しかし、あまりにしつこいので、何故そんなに日本人と結婚したいのか、一度聞いたことがある。
『日本人は勤勉でよく働く。
女性もそうだし、きれいだ。
我慢強いし、優しいし、なにより教養もある。
だから結婚したいのだ。
できれば若い女性がいい』
と彼は真剣だった。
『エジプトにもそういう女性はいるでしょう』
と私が聞くと、
『エジプトの女性は教養もないし、優しさが足りない』
と彼は答える。
そんなことはないと思うし、日本女性にしたって、全ての女性が我慢強くて、優しくて、教養があるはずもないが、彼のなかで日本女性のイメージはすでにできあがり、それはゆるぎないものになっているようだった。
どうやら、彼は「おしん」の見過ぎなのではないだろうか。

彼には離婚暦がある。
40代で離婚暦のあるエジプト人の彼のところに、若い日本人女性が、はたして嫁に行くとも思えないが、何が起きるかわからないのが恋愛だ。

『とにかく、そんなに素敵な女性がいたら、サミールに紹介する前に、俺がその人と結婚したいよ』
と言うと、
『OK、鉄郎が結婚したら、その女性の友人を紹介してくれ』
と彼はどこまでも、真剣だった。

私はこのダハブでゆったりとした時間の流れに身をおいた。
ずっと戦争のことを考えていたヨルダンとは対照的だ。
とはいっても、まだそう遠くない場所で、戦争は続いていた。

ダハブに着いて数日して、私は何を思ったか、突然ダイビングのライセンスを取ることにした。
ここでライセンスを取る人が多い。
何より安い。
世界中見渡しても、かなり安い部類に入る。
それに日本人のインストラクターもいるので、言葉の問題もない。

しかし、正直に言ってしまうと、特にやりたいというわけではなかった。
今までは、どちらかというと、ダイビングを避けていた。
以前お付き合いをしていた女性が、ダイビングのライセンスを持っていて、何度も一緒に潜ろうと誘われたが、私はその度に、
『人間は陸で生きる動物だからなぁ』
などと、訳のわからない言い訳をして、やろうとしなかった。

しかし、ここへ来て数日たち、やることもなくなり、少し暇を持て余し始めた。
そしてここなら格安でライセンスが取れる。
私は、彼女が海に潜る度に、癒されると話していたことを思い出し、何となくやってみる気になった。
仮にここでライセンスを取った後、一生潜る機会がなかったとしても、それはそれでよかった。
ただ、彼女が癒されると言っていた世界を、ちょっと覗くだけでも悪くはない。
インストラクターに話をすると、ちょうど他の客もいないということで、その次の日からすぐに講習が始まった。

講習は予想以上に新鮮で楽しかった。
まったく未知の分野であるし、決められた時間に起きて、人から何かを教えてもらうなど、ここ何ヶ月もやったことがない。
ビデオを見て、テキストを読み、説明を受けて、質問を、小テストをする。
けっこう真面目にやらないと、テストで落ちてしまうので、私は真剣だった。
それを二日ほどやり、海に入った。
そして海中でいろいろな実技をやり、水泳テストもやった。
シュノーケルをつけての300mは、自信がなかったが、やってみると案外簡単だった。

一番簡単なオープンウォーターと、その次のアドバンスという資格まで取った。
最初の頃は、潜るだけで一杯一杯だったが、慣れて余裕が出てくると、今まで知らなかった世界を楽しむことができた。
色とりどりの魚が見ることができた。
ナポレオンフィッシュも見た。
海テングという珍しい生物もいたし、サンゴ礁も美しい。
ブルーの小魚たちが、何百匹も群れをなしていて、彼らの体に光があたり、それがキラキラ光る様子には、思わずため息が漏れた。
このダハブの海には、ブルーホールというポイントがあり、海岸から一気に300mほど落ちている。
つまり、海中の崖だ。
そこの水深30mのところを泳いだときには、異次元空を飛んでいるみたいな感覚だった。

料金は全部で290ドルかかったが、それ以上の価値があったと思う。
しかし、水中で耳の中の空気の圧力を調整する耳抜きがあまりうまくできずに、よく鼻の粘膜が切れてしまい、鼻血を出した。
陸に上がっても、いつも耳がおかしく、よく聞こえない状態が続いた。
ダイビングの講習が終了してもそれは1週間ほどつづいた。
あまり体質的には合ってないのかもしれないが、ダイビングが今回限りになってもそれはそれで構わないと思った。
とにかく、今まで全く知らなかった世界が見れたのだから。

1週間の講習が終わっても、私はまだそこを動かずに、シュノーケルをしたり、ビーチで日光浴をしたりして過ごしていた。
ここで知り合った人たちも、次々に次の目的地へと旅立っていった。
インストラクターも、学生の春休みが終わり、客が来ないという理由で、休暇をとり、ヨルダンへ旅行に行ってしまった。
とうとう一人になり、私もようやく重い腰を上げることにした。
いよいよアフリカ大陸に入る。
次はエジプトの首都カイロだ。
最終目的地はその大陸の先端にある。

ゲストハウスを出るときも、オーナーのサミールは気持ちよく送り出してくれた。
『鉄郎、約束を忘れないでくれ』
『約束?』
『あぁ、日本人の女性を紹介してくれる約束だよ。忘れたのか?』
『その話か。俺が結婚したらな』
『OK、グッドラック。気をつけて行けよ』

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。

そして戦争は始まった2

戦争が始まって二日後に、私はアンマンを出た。
ペトラという遺跡を見るためだ。
それはナバテア人という、アラビア半島からやって来た民族が、紀元前1世紀頃に造ったといわれる遺跡だ。
そして、伝説と化していたその遺跡が、世界に現れたのは、1812年に英国系スイス人の探検家ヨハン・ルートヴィヒ・ブルックハルトに発見されたためである。
映画「インディージョーンズ・最後の聖戦」のロケにも使われ、今ではすっかり有名になった。

そのペトラ遺跡を見学するために、基点となるのが、ワディー・ムーサという街である。
そこのバックパッカーの集まる、バレンタインホテルは、女主人がいることで有名だった。
「ターミネーター」のサラコナーに似ていると評判であったが、また性格が悪いとも言われていて、かつてはよく客との間に、金銭的なトラブルがあったらしい。

実際、彼女は中年の域に達していたが、美人であった。
顔立ちはやはりヨーロッパの血が入っているらしく、イタリア系という噂もあった。

その宿には3泊ほどしたが、特にトラブルもなく快適だった。
しかし、いつも、胸の谷間を見てくれてと言わんばかりの格好には、少し辟易した。

ペトラ遺跡そのものも、申し分なかった。
崖の隙間にある細い道を通り抜けると、エル・ハズネという大きな神殿が見える。
岩をくりぬいて造ったそれは、陽が当たると、ピンク色に染まる。
その後も墳墓後などを見てまわろうと私は歩いた。
しかし、ろくな地図も持たなかったため、その広大な荒野ともいえる風景のなかで、私はすっかり道に迷ってしまった。

いつのまにか、メインルートからはずれ、だいぶ遠くに来てしまったようで、そのあたりにベドゥインの家が見えた。
彼らは砂漠の遊牧民族である。
しかし今はほとんどが定住生活をしている。
彼らは私をミルクティーでもてなしてくれた。
家は板をつなぎ合わせただけのもので、当然電気もない。
遺跡の跡と思われる洞窟に住んでいる家族もいた。
子供らは靴もはいていなかった。
全身ほこりだらけで、体には羊に臭いが染み付いていた。
水を手に入れるのはきっと大変なのだろう。
水で体を洗うことは、めったにないように思えた。

彼らとは全く言葉が通じず、意思の疎通はとれなかった。
しかし、私を歓迎していることだけは、伝わってきた。
彼らに戦争のことを聞いてみたかったが、それは無理な話だった。
きっと、彼らにとってはアメリカが勝とうが、イラクが勝とうが、羊を育て暮らしていけさえすれば、どうでもいいことなのかもしれない。

一日歩き回って、宿に帰るとロビーのテレビではニュースを流していた。
時期が時期だけに、いつもそこではニュースを流している。
欧米人の客がいるときには、CNNを流し、彼らが寝ると、スタッフがアルジャジーラに変える。
アルジャジーラとはアメリカでのテロのときに、ビン・ラディンの映像を流したことで有名になったカタールの衛星テレビ局である。
今でも、イスラム過激派が、声名を出すときなどは、まずここが使われる。
つまりはアラブよりなのである。

しかし、CNNとそのアルジャジーラの報道の仕方が、全く別のものであり、それはそれで興味深かった。
CNNはレポーターが話しをしているはるか後方で、空が光って、空爆中だということがわかる。
報道の形式としては見慣れているものである。
一方アルジャジーラのカメラは、バクダッド市内にあり、爆撃の度に画像が揺れ、地響きのような音がし、人々の悲鳴や、パニックになった叫び声なども聞こえる。
それを空爆が続くかぎりずっと流し続けていた。
その途中途中に、けが人が病院に運び込まれる様子や、あるいはその中が移される。

映し出されるそのほとんどが、女性と子供である。
そして、米兵を捕らえたニュースなどは、これでもかというくらい繰り返し伝えられる。
まさに、被害者意識と、反米を前面に押し出している。

現在、戦争が行われているというのは、紛れもない真実である。
しかし、それを見る角度によっては、正義というのは何通りもあるのだと感じた。
そしてそれは、メディアによって、操作されかねない。
何も知らない人が、ずっとアルジャジーラを見続けていたら、それでだけで簡単に反米の人間になってしまう恐れがある。
また、日本での報道は当然アメリカ寄りであることも忘れてはならない。

私は戦後の物質文明にどっぷりつかって育った。
別にそれが悪いとは思わない。
貧困や飢えと戦いながら、あるいは戦下で育つよりはよっどいい。
そしてアメリカの置いていった憲法のもとで、民主主義と資本主義を教えられ、それについて大して疑問を持つ事なく成長した。

私はこの時期にここにいることで、私は新しい視点を持つことができたということだけでも、この旅は価値のあることのように思う。
そして、きっとあのベドウィンたちにとっては、アメリカやイラクよりも、明日も羊がミルクを出してくれるかどうかが、切実な問題なのかもしれない。

戦争が始まって二日後に、私はアンマンを出た。
ペトラという遺跡を見るためだ。
それはナバテア人という、アラビア半島からやって来た民族が、紀元前1世紀頃に造ったといわれる遺跡だ。
そして、伝説と化していたその遺跡が、世界に現れたのは、1812年に英国系スイス人の探検家ヨハン・ルートヴィヒ・ブルックハルトに発見されたためである。
映画「インディージョーンズ・最後の聖戦」のロケにも使われ、今ではすっかり有名になった。

そのペトラ遺跡を見学するために、基点となるのが、ワディー・ムーサという街である。
そこのバックパッカーの集まる、バレンタインホテルは、女主人がいることで有名だった。
「ターミネーター」のサラコナーに似ていると評判であったが、また性格が悪いとも言われていて、かつてはよく客との間に、金銭的なトラブルがあったらしい。

実際、彼女は中年の域に達していたが、美人であった。
顔立ちはやはりヨーロッパの血が入っているらしく、イタリア系という噂もあった。

その宿には3泊ほどしたが、特にトラブルもなく快適だった。
しかし、いつも、胸の谷間を見てくれてと言わんばかりの格好には、少し辟易した。

ペトラ遺跡そのものも、申し分なかった。
崖の隙間にある細い道を通り抜けると、エル・ハズネという大きな神殿が見える。
岩をくりぬいて造ったそれは、陽が当たると、ピンク色に染まる。
その後も墳墓後などを見てまわろうと私は歩いた。
しかし、ろくな地図も持たなかったため、その広大な荒野ともいえる風景のなかで、私はすっかり道に迷ってしまった。

いつのまにか、メインルートからはずれ、だいぶ遠くに来てしまったようで、そのあたりにベドゥインの家が見えた。
彼らは砂漠の遊牧民族である。
しかし今はほとんどが定住生活をしている。
彼らは私をミルクティーでもてなしてくれた。
家は板をつなぎ合わせただけのもので、当然電気もない。
遺跡の跡と思われる洞窟に住んでいる家族もいた。
子供らは靴もはいていなかった。
全身ほこりだらけで、体には羊に臭いが染み付いていた。
水を手に入れるのはきっと大変なのだろう。
水で体を洗うことは、めったにないように思えた。

彼らとは全く言葉が通じず、意思の疎通はとれなかった。
しかし、私を歓迎していることだけは、伝わってきた。
彼らに戦争のことを聞いてみたかったが、それは無理な話だった。
きっと、彼らにとってはアメリカが勝とうが、イラクが勝とうが、羊を育て暮らしていけさえすれば、どうでもいいことなのかもしれない。

一日歩き回って、宿に帰るとロビーのテレビではニュースを流していた。
時期が時期だけに、いつもそこではニュースを流している。
欧米人の客がいるときには、CNNを流し、彼らが寝ると、スタッフがアルジャジーラに変える。
アルジャジーラとはアメリカでのテロのときに、ビン・ラディンの映像を流したことで有名になったカタールの衛星テレビ局である。
今でも、イスラム過激派が、声名を出すときなどは、まずここが使われる。
つまりはアラブよりなのである。

しかし、CNNとそのアルジャジーラの報道の仕方が、全く別のものであり、それはそれで興味深かった。
CNNはレポーターが話しをしているはるか後方で、空が光って、空爆中だということがわかる。
報道の形式としては見慣れているものである。
一方アルジャジーラのカメラは、バクダッド市内にあり、爆撃の度に画像が揺れ、地響きのような音がし、人々の悲鳴や、パニックになった叫び声なども聞こえる。
それを空爆が続くかぎりずっと流し続けていた。
その途中途中に、けが人が病院に運び込まれる様子や、あるいはその中が移される。

映し出されるそのほとんどが、女性と子供である。
そして、米兵を捕らえたニュースなどは、これでもかというくらい繰り返し伝えられる。
まさに、被害者意識と、反米を前面に押し出している。

現在、戦争が行われているというのは、紛れもない真実である。
しかし、それを見る角度によっては、正義というのは何通りもあるのだと感じた。
そしてそれは、メディアによって、操作されかねない。
何も知らない人が、ずっとアルジャジーラを見続けていたら、それでだけで簡単に反米の人間になってしまう恐れがある。
また、日本での報道は当然アメリカ寄りであることも忘れてはならない。

私は戦後の物質文明にどっぷりつかって育った。
別にそれが悪いとは思わない。
貧困や飢えと戦いながら、あるいは戦下で育つよりはよっどいい。
そしてアメリカの置いていった憲法のもとで、民主主義と資本主義を教えられ、それについて大して疑問を持つ事なく成長した。

私はこの時期にここにいることで、私は新しい視点を持つことができたということだけでも、この旅は価値のあることのように思う。
そして、きっとあのベドウィンたちにとっては、アメリカやイラクよりも、明日も羊がミルクを出してくれるかどうかが、切実な問題なのかもしれない。

鉄郎の軌跡
鉄郎 初めての海外旅行は22歳の時。大学を休学し半年間アジアをまわった。その時以来、バックパックを背負う旅の虜になる。2002年5月から、1年かけてアフリカの喜望峰を目指す。