世界一高品質

智は、ジョイントを一服吹かした。煙が智の体を循環するにつれ、音が一際大きなものとなって体内に飛び込んでくる。その度に智は、何か物理的な衝撃を受けたかのようにいちいちそれに反応する。青い壁や、その上に蛍光色で描かれた文字や絵が、智の目の中に飛び込んでくる。まるでケタミンの効果が再び表れ始めたかのようだ。

「サトシサン、マタ、ブリブリネ。イイカンジデスネ」

アリが、チャイのグラスを二つ手に持って笑顔で智の方にやってきた。そして智の正面へ腰を下ろすと、グラスを置いた。

智は、礼を言ってそれを一口啜った。熱い液体が口の中に注ぎ込まれると、物凄い甘さが智の味覚を刺すように刺激した。更に、ジンジャーやマサラの芳しい香りがそれに加わり、智の鼻腔は痺れるように感応した。智は、思わず朦朧として目を閉じた。

「オイシイデスカ?」

アリの問いかけに智はハッと我に返った。

「いや、このチャイ、おいしいなんてもんじゃないよ。おかしいな。こんなに甘いなんて。キマッてるからかな?」

智は、グラスの中の薄茶色の液体を繁々と眺め回した。

「ねえ、アリ。ひょっとしてこのチャラス、凄くいいやつなんじゃない?」

智は、もう一服大きくジョイントを吸い込むと、それをアリに手渡した。

「ソウデスネ。マアマアデスカネ。これは去年とれたクリームなんですけど、昨年はそんなに質が良くなかったし、もうとれてから半年ぐらい経っちゃってますからね……。その分少し劣化はしているでしょうし……」

智は、アリのその言葉を聞いて、今自分がどこにいるかということを改めて思い返した。

――― そうだ。俺は今、マナリーにいるのだ。世界一高品質のチャラスのとれる、マナリーにいるのだ。ヘロインばっかりやっててそのことをすっかり忘れてしまっていた! アリの言うクリームとはガンジャフリーク達にとっては夢のような存在で、その中の最高の物は世界中の裏世界のバイヤーが買い付けにくると言う……。そうだ! 確か理見がそんな風に言っていた……。ああ、理見か……。一体今頃どこで何をしているのだろう……。まだ一希と一緒にいるのだろうか…… ―――   

普通のジョイント

――― 昼頃、智は、アリに会いにカフェへと向かった。アリは、相変わらず仕事をする風もなく、ただボーッと、特大のジョイントを吹かしながら店のテーブルに腰掛けていた。智が声をかけると、アア、サトシサン、と智の方を振り返った。

「サトシサン、ダイジョブダッタ?」

アリは、とろんとした目で智を見つめる。

「大丈夫じゃなかったよ、まったく」

アリは、ホワイ?、と言って両手を広げる。

「ケタミンって、あんなに効くものなの? 滅茶苦茶ブッ飛んじまったよ……」

智がそう言うと、アリは、きょとんとした表情で智を見つめながら言った。

「ホワイ? そんなことないと思うけど……。ワタシはいつも吸ってるからかな?」

そう言うとアリは、手に持ったジョイントを智に差し出した。智は一瞬身を引いた。

「それ、普通のジョイント?」
「イエス、イエス、ノー・プロブレム。ダイジョブ、ダイジョブ、モンダイナイヨ」

智は、慎重にそれを受け取ると、確認するようにそれをジロジロと見回した。

「ダイジョブヨ、サトシサン」

アリの方を怪訝な表情でちらっと伺いながら、智はジョイントを吸った。巻き方が太いので大量の煙が入り込んでくる。思わずむせ返りながら智はもう一度アリにそれを手渡した。アリが心配そうに智の顔を覗き込んだが、智は心配ないという風に手を振った。実際このジョイントは普通のチャラスだったようだ。

咳が収まると、智はアリに言った。

「そう言えばさ、アリ、俺、この間のチャイのお金払ってなかったよね。返しとくよ、ほら」

そう言って智が十ルピー札をテーブルに置くと、アリは、慌てて、ノーノー、と言いながら智の手にそれを返した。

「いいですよ、サトシサン。あんなことになってしまったんだから、ワタシの奢りです。気にしないで下さい」

智が何度渡そうとしてもアリは頑なにそれを受け取ろうとしないので、智は、礼を言いながら手の中の五ルピー札をポケットに仕舞い込んだ。

「本当にいいんですよ、サトシサン。気にしないで」

智は、もう一度礼を言うと、改めてチャイを注文した。アリは、OK、とそれに応えて智にジョイントを手渡すと、キッチンの中へと消えていった。

相変わらずカフェではトランスミュージックが大音量で響き、店内は、真っ青に塗られた壁やテーブルによって、真っ昼間だというのにどこか薄暗い。天井からは、奇妙な形をした蛍光色のオブジェがいくつもぶら下がっており、それらはブラックライトに照らされてぼんやりと淡い輝きを放っている。

宇宙のパーツ

まるで自分が地球と一体になったような感覚。全ての物はひとつの所から発し、そしてまた、ひとつの所へ帰っていくという永劫の輪廻。自分の属する国や社会、世間、更には、人間という範疇からも解放された完全に自由な状態。自分と異なるあらゆる物を理解し、お互いを認め合う。自分との違いをそれらとの差として差別するのではなく、ただ、違いとして認識し合う。そこには最早、憎しみも争いも生まれない。あらゆる種類のあらゆる物が溶け合って、融合した、完全な世界。たったひとつの世界。

智は、そんな世界へ全てのものが飛翔していくさまを夢想していた。全てのものが、ただ、お互いを理解することだけを覚えれば、この世からあらゆる悲劇は霧消する。そしてその先で地球規模でのユニットは完成し、同時に、繋がり合った様々なものの精神や意識は、そのまま宇宙と直結して、宇宙そのものを形成する。

――― そうだ、俺達は宇宙なのだ。俺達一人一人、それぞれが宇宙のパーツであり、また、宇宙そのものなのだ ―――   

智は、指先でつまみ続けていた枝先の若葉に再び目をやった。それは、太陽の光を一身に集め、溢れんばかりの生命力を漲らせながら眩く輝いていた。突ついたらはち切れそうな程、命に満ちていた。

この若葉は、これから世界の恩恵を受けながらどんどん成長し、枝となり、そして木となる。そしていずれは朽ち果てて土となり大地となって、あらゆる生命を育んでいく……。それは紛れもない自然の摂理だった。完全で、美しい、自然の姿であった。

――― 世界は美しい。こんなにも美しい。普段見逃してしまっている、こんな近くのこんな簡単なところに、全ての答えが示されているということを、今、俺は初めて知ったのだ。どうして今まで気が付くことができなかったのだろう? あまりにも当たり前すぎて、すっかり見過ごしてしまっていた。あんな何でもない小さなものが、この世に生まれ、そして太陽を浴びて成長していくというたったそれだけのことに、俺の求めている全ての答えが詰め込まれていた。生命の神秘が表現されていた ―――   

智は、自分の探していた答えをこの小さな生命の中に見つけた気がした。

艶やかな葉の表面を、智は指先でそっと撫でた。指先は、冷たい朝の雫によって濡らされ、透明な日光を反射して眩い輝きを放った。見上げると、ヒマラヤ山脈は、朝日によって銀色に輝きながら天を真っ二つに切り裂き、真っ青な空は、そこから洩れだす青い血液のように世界全部を覆っていた。智は、それらをまるで自分の一部のような、とても近しいもののように感じると同時に、自分が、それら全てを統括する宇宙と一体化しているような、そんな感覚に捕われ始めていた。

智は、静かに目を閉じ心地良いその感覚を存分に楽しんだ。智の心は、とても平和で穏やかな感覚によって満たされていた ―――   

凝り固まった頭

数時間後、夜が明けた。小鳥のさえずる声と、カーテンの隙間から洩れてくるかすかな日光が、智に朝の到来を告げていた。智は、もう怖くはなかった。すっくと立ち上がると、勢い良くカーテンを開けた。

冷え切った窓ガラスの向こうには、未だ完全に明けやらぬ夜のとばりがここそこに残され、弱々しい朝の光が、か細く辺りを照していた。しかし、しばらく見ていると、みるみるうちに景色が金色に輝き始めた。夜露に濡れた木々の葉や、白く塗られたテラスの柱、高くそびえる針葉樹林の隙間から覗く民家の屋根々々、尖った仏塔の立ち並ぶヒンドゥー寺院、それらが眩い輝きを放ち始めたのだ。

智は思わず目を細めた。光が目の中に飛び込んでくる様子が、ありありと感じられたからだ。手を翳してその光を避けるように遠くの方に目をやると、敢然とそびえ立つヒマラヤの山々の裂け目から、まっ白く燃えた太陽がゆっくりとゆっくりと、まさに姿を現しつつあるところだった。太陽は、最上級の輝きを放ちながら、夜の闇をどんどんどんどん急速に景色の彼方へ追いやっていった。そして数分後には、そこから見える全ての景色が静かな朝の輝きの下に照らしだされ、鳥達はその時を待っていたかのように、一層声高にさえずり始める。朝もやは、繊細な日光をその体の一粒一粒に反射させながらゆっくりと景色の中へ溶け込んでいく。

智は慌てて窓を開けた。朝の冷たい空気と細かな霧の粒子とが、サッと、智の体を撫でていく。その感覚を目を閉じてゆっくりと味わうと、新鮮な空気を智は胸一杯に吸い込んだ。凝り固まった頭の中が解きほぐされ、どんどん真っ白になっていく。その空気をもっと味わおうと、智は、外へ出てテラスにある椅子に腰掛けた。

目の前には朝日に輝いた森林の景色が広がっている。ヒマラヤ山脈は、すっかり昇り切った太陽によってその頂きを銀色に輝かせ、背の高い木々達は心地良い朝風にその体をゆっくりと揺らしている。テラスの近くに突き出した枝に生える数枚の若葉が、露に濡れながらキラキラと輝いていた。智はそっとそれを引き寄せる。輝くような黄緑色の葉に、水晶玉のように光り輝く水滴が乗っている。それは朝日を屈折させ、周りの景色を明るく輝かせていた。その明るさに智は思わず目を覆った。そしてそれと同時に、若葉の緑の純粋で清い美しさに心を打たれた。それは、生命の美しさであった。混じりけのない、シンプルな、ほんとう真実の美しさ。智は、そっと唇を近づけて葉に乗った露を吸った。

それらの若葉は、智に向かって語りかけてくるようだった。智は、おや?、と不思議な気分になった。

風にそよめく木々の枝々はまるで何かを表現しようとしているようで、智には何故だかそれが分かるような気がした。智も心の中で木々に向かって言葉を返す。すると木々達は、再びサワサワサワ、と体を揺らしてそれに答えた。智は、まるで木と会話しているようだった。自分が目の前の木と同化したような感じで、たくさんの木々達の中で会話を交わしていた。植物というものは活発に動くことがないため、普通に見ているだけでは生きているということをあまり実感させない。それが今、まるで自由に動き回れる自分と近しい生き物のように感じられる。智は、そのことをとても不思議に思ったが、何となくそれが当たり前のことのようにすんなりと受け入れることもできた。恐らく智は、目の前のその木を理解しつつあったのだ。

そう感じ始めるとそれは、木々達だけに留まらず、飛び交う小鳥達、道端の小石から、そびえ立つ山々、空から大地に至るまで、この世の森羅万象全ての物に及んでいった。それらに対して限りない共感を智は覚え始めるのだった。

連呼

直規の声がいつまでも頭の中で反響し続ける。

智は、ふと我に返って、ナイフを放り出した。そして冷静に自分のやろうとしていたことを振り返った。

――― 駄目だよ、俺のやろうとしていたことは、まるで自殺そのものじゃないか。こんなところで、手首を切るつもりだったのか。そんな、死んじゃうよ、そんなことしたら、俺、死んじゃうよ。死んでしまったら、もう、日本にも帰れない。母さんにも会えない。友達にも、旅で知り合った奴らにも……。ああ、直規が助けてくれた。俺を、呼び止めてくれた。死の淵に引き込まれそうになっていた俺を、直規が、呼び止めてくれた……。ああ、ナオキ、ナオキ ―――   

智は、枕に顔を埋めて号泣していた。直規の名前を何度も呼びながら、声が嗄れるまで泣き続けた。

――― 美しいじゃないか、ちっぽけな人間。あんな汚い世界で一生懸命生きている、たった一人の人間が俺のことを助けてくれた、神に刃向かって、死神から救ってくれた。そうだ、人間こそが美しいのだ、あんなどぶ川みたいにドロドロに汚れ切った人間社会で、もがきながら何とか生き方を模索している人間こそが、美しいんじゃないか。あんな光の向こうの清潔な場所で世界を見下ろしている奴ら。奴らこそが、死だ。死神なのだ。神はあんな所にはいない。人間界にこそ存在する。生きている人間こそが神なのだ。だって、あんな風にもがき苦しみながら、何とか生きていこうと必死にあがいている直規のようなちっぽけな人間が、まるで神様のように俺の背中を叩き、死の世界から引っ張りだしてくれた。幻惑する光の罠から目を覚まさせてくれた。奴こそが、神だ。そして俺を思うその気持ちこそが、愛なのだ。ああ、愛、愛だと? 俺が使うことを拒否してきた言葉達。愛や、友情といった、ひどく胡散臭い匂いのする言葉達……。違うのだ。胡散臭くなど無い。胡散臭いと思うのは、臆病な俺の心が原因なのだ。ああ、愛なのだ。愛こそが人間を救うのだ。そして、愛があるからこそ、こんなにも不完全な人間が、神をも超越する眩い輝きを放つ一瞬が存在するのだ……。そして、愛があるからこそ、人間は貴いのだ……。あんな光の中に神はいない。神は、人間界の汚泥の中にこそ存在する。もう、俺は、騙されはしない。ああ、直規、俺は愛を知ったよ。ありがとう。直規のおかげで、分かることができた。俺は、生まれて初めて、愛するということを知ることができた ―――    

智は、両手を頭の上で合わせ、祈るように直規の名前をひたすら連呼し続けた。

死神

智は、右手の人差し指の爪を立て、左手の手首の内側の血管の浮き出ているところを、水平になぞった。皮膚には、軽い痛みと、血管を寸断するように一本の赤い筋が残された。そして、ナイフの入っているバックパックのポケットに目をやった。するとその時、ふとある光景を思い出した。この光景は、智が初めてLSDをやった時とまるで同じものだった。バックパックのポケットを眺める智の視線は、あの時と全く同じものだった。

――― 駄目だ、死んでしまう。そんなことをしたら、死んでしまう ―――    

智は、今、自分のしようとしていることがとても恐ろしいことだということに気が付き、慌てて手を引っ込めた。しかししばらくすると視界は、再び、今まで出会ってきた様々な人達の顔によって占領されていく。何とかそれらを消してしまいたくて、智は、両の手の平で目蓋を強く押さえた。すると様々な色彩の光の束が、ある一点を中心に、智の方に向かって眩く輝き始めた。智は、しばらくの間その光の源を眺め続ける。すると、何かこの世のものではないような崇高な存在が、智に、何かとても平和で穏やかな言葉を語りかけて来るように感じた。智は、とても優しい気分で満たされて、まるで神の国にいるかのような平穏な感覚に包まれ始めた。そして光の中心の向こうには、更に明るく、清潔な世界が広がっているような気がして、どうしてもそれを確かめずにはいられないような気持ちに捕われ始めた。自分の今見ているこの世界に比べたら、人間のいる現実世界は、あらゆる有機物が腐敗して作り出すヘドロによって覆われながら、絶えず腐臭を放ち続ける、見るに耐えない地獄のような有り様だった。更には、有機物としての自分の肉体さえも、それと同様にどんどん腐敗していきつつある、とても不潔で不完全なものに思われた。智は、いっそのこと、この腐りゆく全身に爪を立て、皮膚を破り、肉を抉り、肉体全部を捨ててしまって、清浄な、精神だけの存在になってしまいたい、と、そう願った。

――― ああ、神様、俺はこの薄汚い肉体を捨て去って、あなたの所へ、あなたの所へ…… ―――   

再び、バックパックのポケットに視線を移した。そしてファスナーを開け、複合型のナイフを取り出すと、その中から一番刃渡りの長いものを引き出した。そして、ゆっくりと右手に持ち替えると、左手の手首の動脈に刃の縁を当てた。冷やりとした金属の冷たい感触が、薄い皮膚の上に感じられる。

――― ああ、これで、あの光の向こうへ…… ―――   

すると突然、頭の奥の暗い部分で、誰かの声がした。

――― サトシ、そいつは神様なんかじゃない、死神だぜ ―――   

直規だった。それは以前、ジャイサルメールで直規が智に言った言葉だった。智は、素早く後ろを振り返ったが、もちろん直規の姿はそこにはなかった。ただ、直規の微笑んだ顔が、目の前一杯に広がった。

――― 死神だぜ 死神だぜ 死神だぜ 死神だぜ 死神だぜ 死神だぜ 死神だぜ 死神だぜ ―――   

欲望や憎しみ

やっとの思いで部屋に辿り着くと智は、世界が自分を追って外から迫って来るのを何とか部屋の壁や扉で遮断しようと、扉という扉や窓という窓を閉め切り、片っ端から鍵をかけ始めた。そしてカーテンを引いて、完全に外から部屋の中が見えないようにすると、ベッドの上に倒れ込み体を丸めてひたすら目を閉じた。すると様々な風景が、まるでスライドフィルムを映していくように目蓋の裏側に次々と浮かび上がってくる。それらは、子供の頃一人で公園で遊んでいるところだったり、何もないチベットの荒野をバスに乗って走っているところだったり、学生時代、友達と一緒に遊んでいるところだったり、場所も時間も全く無関係の脈絡の無い物だった。それらの映像が、次々に浮かび上がっては消えていく。

智は、次から次へと溢れだしていく自分の記憶を止める手立てを知らなかった。このまま頭の中の記憶が全部流れ出し、空っぽになってしまうのではないか、という気さえした程だ。そう考えると、それは随分恐ろしいことのように感じられた。

ふいにヤスとゲンの顔が浮かんだ。その瞬間、智はパッと目を見開いた。しかしそこには、映るはずの部屋の中の風景は何も映らず、ヤスとゲンの二人の顔だけが、視界に停滞し続けた。慌ててもう一度目を閉じてみたが、結果は同じことだった。要するに目を閉じていても開いていても、智の目の前には、ヤスとゲンの二人の顔しか映らないのだ。それらをいくら振り払おうとしても、二人のにやけた表情が消えることはなかった。

あの時のことがまざまざと甦ってくる。デリーの路地裏。背中に感じたざらついた壁の感触。腐臭を放つ地面を舐めさせられた、屈辱的な記憶。踏みにじられた母親の愛情。体を押さえ付けられ身動きが取れないまま、貴重品袋から金を抜き取っていく時の、恍惚としたヤスのその表情。顔中に憎悪を湛えながら智の顔面を殴りつけるゲンのその表情。思い出したくもないそれらの出来事が、心の奥底からまるで枯れることのない泉のように
次々と溢れだしてくる。

頭を抱えて智は身悶えした。谷部の顔、幸恵の顔、建や、奈々の顔、そして、ジャイサルメールで出会った理見の顔。智の視界は、たくさんの顔によって埋め尽くされていった。

「ああ、もう、助けてくれ、お願いだから、消えてくれ……」

智はベッドの上で激しく体を捩った。ヤスとゲンに殴られていた時の感覚が、体に甦ってくる。ないがしろにしてしまった奈々のことや、欲望の対象としか見ていなかった幸恵のこと、ナイフを出して心路を脅している直規のこと、それらが、罪悪感や嫌悪感の入り交じった複雑な感情となって、智の胸に渦巻いている。

「どうして何もかも、こんなに、欲望や憎しみという感情で彩られているのだろう? 何で人間の世界というのはこんなにも汚れ切っているのだろう……。神は何故、人間の世界をそんな風に創造したのだろう……」

智は死のうと思った。今なら簡単に死んでしまえそうな気がした。

――― ナイフで切り裂く手首の痛み? そんなものあの光の向こうに行けるのなら、気にもならないことだろう。そうだ。俺は死ねるのだ。ここをナイフで切り裂いてしまいさえすれば…… ―――    

「ケタミン」

アリの鼻と口からもうもうと煙が吐き出される。アリは、目をしばたかせながら智にジョイントを手渡した。それを受け取ると智は大きく煙を吸い込んだ。

最近はヘロインばかり吸っていて、ほとんどチャラスをやることがなかったからか、そのひと吸いは極端に智の脳を刺激した。途端に目の前のチャイのグラスが歪み、青く塗られた壁が流動し始める。まるでLSDをやったときのようだ。智は、思わずぐったりとテーブルに体を預けた。

するとその様子を見ていたアリが、ニヤニヤしながら智に言った。

「サトシサン、ブリブリデスネ。実は、このジョイントペーパーには”ケタミン”が染み込ませてあるんです。どうですか? 調子は。なかなかいいでしょう?」

智は驚いてアリを見上げた。

「えっ、”ケタミン”!? マジで? どうりでおかしいと思ったよ……、頼むよ、アリ、そうならそうとひとこと言ってくれよ……、ケタミンだなんて……、ちょっとマズイよ、これは……」

「ケタミン」とは智達の周りでは「象の麻酔薬」として恐れられていたドラッグで、LSDよりも更に強烈な幻覚作用が得られるというものだった。少し前までなら、インドの町の薬局で気軽に買えたらしいのだが、どうやら最近では規制が厳しくなってなかなか手に入りにくくなっているようだ。ケタミンを持っているという人間に智はあまり出くわしたことがない。しかし、ゴアにある、ある薬局では依然販売中だったようで、そういえば直規と心路はゴアにいる時に、買って試してみたことがあるというようなことを言っていた。彼らの話によるとやはりその作用は強烈で、二人とも、あんなのはもう二度とごめんだ、と下を巻いた程だった。直規と心路でさえ音を上げるようなそんなドラッグは、たとえ手に入ったとしても絶対にやらないでおこう、と智は、その時固く心に誓った筈なのだが、まさか、こんな風にしてやる羽目になろうとは思ってもみなかった。

アリは、そんな智の様子をきょとんとした表情で眺めながら、両手を広げて、ホワイ? ノー・プロブレム、と言った。

智は、だんだん歪んでいく視界の風景を何とか冷静にコントロールしながら、体勢を立て直した。トランスミュージックの単調なリズムが、直接智の脳に働きかけ、脳波を乱して行くように感じられた。

智は、一刻も早くそれから逃げ出したく、チャイの料金を払って部屋に戻ろうとしたのだが、どうしてもポケットからお金を取り出すことができない。智は、諦めてアリに、また後で払いにくるからちょっと貸しといて、と言ってフラフラと立ち上がった。アリは、呆然と、OK、と言ってふらつく智を見送った。

「ダイジョブデスカ?」

頭の中で反響するアリの拙い日本語に答える余裕もなく、智は一歩一歩必死に足を進めていった。

ムスリム

智は気の遠くなる思いがした。ヘロインが切れてきているのかも知れない。

いつものように白い粉を耳かきですくうと、智は鼻から吸入した。心路に貰った分は、もう残り少なくなってきている。後は、ブラウンが少しあるだけだ。智は、これが無くなりそうになったら心路の所へ会いに行こう、と、そう思った。

更に一週間程が過ぎた。今までこの町ではあまりツーリストには出会わなかったが、最近、良く見かけるようになった。しかし、彼らはいわゆる普通のバックパッカー達とは違い、明らかにパーティを目当てにやって来たレイヴァー達だった。そろそろ本格的にマナリーでパーティが始まるのかもしれない。何となく、町全体の雰囲気がざわめきだっている。

しかし智には、そのことが今いちピンと来なかった。それは、ゴアとの極端な雰囲気の違いから来るものなのかも知れなかった。あの、海や椰子の木の茂る南国の風景、だだっ広いパーティ会場で砂を蹴りながら踊る解放感、それらが智にとってのパーティのイメージだったので、こんな山奥でやるのはかなり窮屈なことのように思えたのだ。生い茂る針葉樹林の間のわずかなスペースで踊りながら夜を明かすのは、何か、とんでもなくストイックなことのような気がした。それにこの寒さだ。かなり防寒用品を持って行かなければならないだろう。ゴアの焼き尽くすような太陽のもと、裸で踊り狂っていたレイヴァー達がそんな環境に適応できるとはとても思えなかった。もしかしたらレイヴァーにも、山派と海派がいて、マナリーに来ている連中は、きっと山派のレイヴァーなのだ、と、そんなどうでもいいようなことを、智は、行きつけのカフェでチャイを啜りながらぼんやりと考えていた。

するとそこへアリという、カフェで働いているインド人が智に声をかけてきた。アリはパキスタン系インド人で、もともと両親は、パキスタン北部出身のパキスタン人なのだが、ジャンムー・カシミール州でのパキスタン・インド間国境紛争の際、インドの北端の町スリナガルに移り住み、そこでアリを産んで育てたのだ。だからアリは、一応インド人ということになっている。

“アリ”という名からも分かるように、アリはムスリムなのだが、ムスリムにとっては欠かせない筈の、日に五回のお祈りをしている所など見たこともないし、平気な顔をして酒まで飲んでいることもあるので、アリは、あまり熱心な信者という訳ではないのだろう。第一、ここはヒンドゥー教の聖地である。そこで「ムスリム」のアリは、いつもチャラスを吸って、トランスミュージックを聴きながらヘラヘラ踊っているのだ。

今日もカフェでは昼間からトランスミュージックが鳴り響いていた。

「サトシサン、ゲンキデスカ?」

アリは日本語で声をかけてきた。ああ、と智が答えると、スッと、特大サイズのジョイントを差し出した。

「ボン・シャンカール、シマショウ」

にっこりと白い歯を光らせながらアリはそう言った。

「ボン・シャンカール、って、アリ、ムスリムだろ? それはヒンドゥーのマントラだぜ」 智は、アリを咎めるようにそう言った。

「ノー・プロブレム」

アリは肩をすくめると、太いジョイントの先に火をつけた。

何ヶ月ぶりかで浴びるお湯のシャワー

しばらく山道を行くと、ようやく建物が見え始めてきた。質素なヒンドゥー寺院群を通過すると、ゲストハウスやレストランがあちこちに姿を現し始める。しかしそれらは、メインバザールの物とは違って、体力を吸い取ってしまうようなドギツさはまるでない。むしろ、チベットの田舎の小さな村というような印象だった。

智は、少し値段は高めだが部屋から山々を見渡せる景色の良いゲストハウスにチェックインした。この辺り一体のゲストハウスがそうなのか、見て回った所はどこも今まで泊まってきた所より値段は少し高めだが、部屋の中は清潔で、トイレもシャワーもついており、しかも、お湯が出た。汗や埃でベトベトになった体をとにかくさっぱりさせてしまおうと思い、智は温かいシャワーを浴びた。もう、何ヶ月ぶりかで浴びるお湯のシャワーだ。もっとも、今までのあんな暑さの中では、仮にお湯が出たとしても水を使っていただろうが、ここではお湯が出ないとシャワーを浴びるにはちょっと辛いだろう。タオルで体を拭きながら部屋に戻ると、やはり肌寒さを感じた。

智は、バックパックの底の方に仕舞い込んであるスウェットを引っ張りだした。汚れた服を脱ぎ捨てて、全て新しいものと取り替えてしまうと、随分とすっきりした気分になった。おまけにベッドには少し厚手の掛け布団がかけてあり、すかさず智はそれに潜り込んだ。そして新しいシーツの感触と布団の程良い冷たさを肌に感じながら、そのままウトウトと眠ってしまった……。

智は、その後数日をヴァシストで過ごした。温泉は少々ぬるかったが、久しぶりにゆっくりと浸かる湯舟は格別のものだった。智は、何もせずに部屋の窓から見える山々をぼんやりと眺めながら毎日を過ごした。マナリーの地は、とても静かで空気も冷たく、静養するのにはもってこいの土地柄だった。そしてやはり聖地らしい厳粛さをたたえており、常に空気が張りつめたような緊張感が心地良かった。

智は、相変わらずヘロインのもたらす陶酔に溺れていた。背の高い針葉樹林を膝元にたたえ遥か彼方にそびえ立つ氷の山々を一日中眺めながら、ひたすら粉を吸引し続けた。

何を考えていたのだろう? 智は、ただ漠然と、旅をした風景や、今まで出会った旅人達、それに日本のことなどを思い返していた。不思議と、懐かしさのようなものはあまり感じなかった。それらはただ、智の目の前を平面的に左から右へ通り過ぎていくだけだった。

何故だろう? 何故、懐かしさが込み上げてこないのだろう?  

智は、自分の中のどこか敏感な部分が、知らない間に磨耗してしまっているのを感じた。

いつからそうなってしまったのだろう?

限りない倦怠感が智を襲った。何を見ても興味を示せない自分を感じた。退屈で退屈で、時間が途方もないぐらい溢れている。

未来に広がっているこの膨大な時間をこれから先、一体どう使えばいいのだろう? 旅の終わりは果てしなく遠い。後どれだけ旅すれば、この旅を終えることができるのだろう? —–