ティッシュ

智は、勢い良く煙を吐き出した。そして新鮮で冷たい山の空気を再び胸いっぱいに吸い込み目を閉じた。光の残像が、目蓋の裏側に絡み合うようにいくつも残される。智は、それに翻弄されながらフラフラと岳志の所へジョイントを渡しに行った。 
「大丈夫かよ、智?」

智のその様子を見ながら岳志が心配そうに声をかけた。

「ええ、大丈夫です……。けど、ヤバいですね、これはちょっと。キマり過ぎていることは確かです」

岩の上の岳志にジョイントを渡しながら智はそう言った。するとその時、智は、突然激しい便意を催した。じっと立ち止まったまま自分の今の状況を把握しようとしたが、すぐにこれは耐えられるものではないという判断を下し、どこか適当な岩影を探し始めた。

「岳志さん、俺、ちょっとヤバそうです。あの……、ティッシュ持ってませんか?」

ジョイントを吸っていた岳志は驚いて智の方に目を向けた。

「ティッシュって、何がヤバいの? 何、トイレ?」

苦しそうな表情を浮かべながら智は無言で頷いた。

「ちょっと、もう、漏れそうなんです……」
「え! ちょっと待ってよ、少し我慢して」

そう言うと岳志は慌ててバッグの中を探り始めた。そしてポケットティッシュを取り出すと、急いで智に手渡した。智は、それを受け取ってあらかじめ目星をつけておいた岩影に、早足で駆け寄った。

何とか事無きを得た智は、岳志に礼を言ってティッシュを返そうとしたのだが、岳志は、そんなのいらないから取っときなよ、と言って受け取ろうとしなかった。智はありがたくそれを貰っておいた。インドではポケットティッシュはなかなか手に入りにくいものなのだ。智は、アジアを旅行し始めてからというもの、用足し後は水で洗うのがすっかり習慣となっていたため紙を使ったのは随分久しぶりのことだった。それにポケットティッシュなんてものはもうずっと目にしておらず、その背の部分に挟まっている日本語で書かれたローンの案内文句でさえ妙に懐かしく感じられた程だった。

「こんなの久しぶりに見ましたよ。岳志さん、よくポケットティッシュなんて持っていましたね」
「ああ。俺、インド来るときはいつもたくさん持ってくるんだよ。だって日本みたいに道端でティッシュ配ってる人なんていないだろ? こっちにはティッシュって言ったらトイレットペーパーぐらいのもんだし、あったら便利じゃん?」
「そうですね。ありがたいです」
「そんなので良かったら、幾らでもあげるよ。それより大丈夫なの、お腹?」
「ええ。何とか。最近あんまり体の調子が良くなくて……。キノコ食べたからかも知れませんけど……」
「そうかも知れないな。確かにお腹の辺りが重くなるような感じはするし。多分キノコ食べたからだろ」

そう言うと岳志は、短くなったジョイントをアナンに手渡して岩の上から飛び下りた。

「じゃあ、そろそろ戻ろうか。あんまりゆっくりしてると日が暮れちゃうから」 

アナンは、渡されたジョイントを一口吸うとそれを智に手渡した。智は、それを一息に吸い切ってしまうと地面に落して揉み消した。

自然な音階

ゴツゴツとした岩肌が、自らを覆う氷の岩石を砕かんばかりに雪を侵食し続けている。その光に吸い寄せられるように智はいつまでもそれを眺め続けた。しばらくすると周りの景色は全て消え去り、世界は、智とその雪山の二つだけとなっていた。まるですぐ目の前に山がそびえ立っているようであり、氷河に走る亀裂の一本一本を、智は、はっきりと目視することができた。更には、そこに積もっている雪の一粒一粒までもが、冷たい輝きを放ちながら結晶となって智の眼前に迫ってくるようだった。

智が、放心してその様子を眺め続けていると、アナンがポンポンッと智の肩を叩いた。智が振り向くと、アナンは、すっと、火のついたジョイントを差し出した。

「どうしたの? サトシ? ほら、ジョイントだよ」

アナンが、智を見つめながらそう言った。智はようやく我に返った。気のせいか周りの空間が歪んで見える。口の中がネバネバして落ち着かず、奥歯の辺りに力が入る。どうもおかしい気がする。

「岳志さん、俺、キノコ、キマッてるかも知れません」

先程から自分の様子がどこか普通でないのを智は訝しんでいた。何か一つの刺激に遭遇すると、そのことばかりに集中してしまって他のことが全く目に入らなくなってしまう。それにアナンの顔がゆらゆらと揺れているようで、はっきり見えない。これは恐らく何かが自分の体に作用しているせいだろう、智はそう推測した。

岳志は智の方に顔を向けた。やはり岳志のその顔は、どこか普通でないように見えた。

「あ、やっぱり? 俺もそうじゃないかなって思ってたとこなんだよ。確かにキノコキマッてるわ。ハハハ。一個しか食べてないのにな。アナン、さっきのキノコ凄くいいよ。いい具合にキマッてる」

岳志は上機嫌でアナンにそう言った。するとアナンは、それを否定するように岳志に言い返した。

「こんなのキマッてるうちに入らないよ、ちゃんと食べればもっとエクセレントな世界へ行けるのに……。こんなもんじゃあないんだよ。今日見つからないのが本当に残念だ……」 アナンは、再び肩を落して落胆した。

「だから、いいってば、アナン。そんなにキマッちゃってたら、こんな所とても歩いてられないだろ? これぐらいがちょうどいいんだよ。な、サトシ」
「はあ。俺は、これでも十分過ぎるぐらいだと思いますけど……」

智は、渡されたジョイントを一口吸った。

鳥のさえずる声が心地良く響く。それは本当に心地良く、耳から体全体に直接染み渡って行くような、自然な音階だった。

ヒマラヤの氷の頂き

「こんなの一つぐらい、どうってことないよ。試しに食べてごらんよ」

アナンもニコニコしながら智の方を見つめている。

「そうですか……。じゃあ……」

智は、アナンの手から一つそれを手に取ると口の中に放り込んだ。そして乾燥してシャキシャキとした歯ごたえを確かめるように噛み続けていると、しだいに強い苦味が智の口の中いっぱいに広がった。

「うわっ、これ、苦いですね!」

智が顔をしかめながらそう言うと、驚いている智を見て、キノコっていうのはこんなもんだよ、と岳志が愉快そうに笑った。

アナンは、残った一つを自分の口の中に入れて、イッツ・ベリー・グッド、と二人に向かって微笑みかけた ―――   

岳志とアナンと智の三人は、もう、一時間程山の中を歩き回っている。しかし探しているマッシュルームは一つも見つけることができず、アナンは、時間が経つにつれて徐々に焦りを露にし、申し訳なさそうに二人に謝り続けた。

「ソー・ソーリー……。だめだ、見つからない……。ここらに生えている筈なんだけどな……」

アナンはがっくりと項垂れた。

「いいんだよ、アナン。そんなに責任感じなくたって。こんなに景色のいい所、散歩できただけでも良かったよ。ほら、ちょっと休もう」

岳志は、アナンを慰めるようにそう言うと、岩の上に登って腰を下ろした。アナンは、がっかりとした表情で肩をすくめながら、力なくその場に座り込んだ。岳志は、ここまでの道中で摘んできた薄い赤色の花を手にたくさん持っており、それを足下に置くと、バッグの中からチャラスを取り出してジョイントを巻き始めた。

背の高い針葉樹林で山は覆われ、その隙間から太陽の光が、矢のように細く、鋭く、地面を突き刺している。木々の葉の明るい緑が、あちらこちらで眩く輝きながら風景全体を優しく彩っている。そんな明るい景色の中で岳志は、大きな岩の上に腰を下ろしジョイントを巻いている。心なしかその表情は微笑んでいるようにも見えた。足下には、摘んできた薄赤の花の固まりが、太陽のスポットを浴びながら、周りの風景とは異彩を放つ自らの肉体を懸命に外に向かって開いている。岳志の黒い服と輝くような緑の色彩、炎が揺らめいているような花の赤とは、まるで良くできた一枚の絵のように風景に溶け込んでいた。岳志は、まさにその森に棲む住人のように違和感なく、主の体の一部である岩の上に腰かけている。そしてそんな岳志を歓迎して、花は、その風景に色彩を添えていた。アナンは、膝を抱えて座りながらその全体をボーッと眺め続けている。音は無く、あるのは風にそよぐ微かな葉音だけ……。

智は、夢を見ているような心持ちでそれらの光景を眺め続けた。ふと視線をずらすと、遠く、ヒマラヤの氷の頂きが眼前に臨まれる。それは、木々に覆われた緑の山々の裂け目から、白く、目を射るような輝きを放っていた。

智は思わず目を細める。

キノコの種類

右手の親指を突き立ててアナンがそう言った。智は微笑んでそれに応えた。

「サトシ。これ吸っちゃったらさ、キノコ採りにいかない?」

もう殆ど終わりかけのジョイントを智に手渡しながら、唐突に岳志がそう言った。突然の岳志のその言葉に、智はちょっと面喰らった。

「へ? キノコ? キノコなんか採ってどうするんですか? 晩ごはんのおかずにでもするんですか?」
「ハハハ、何言ってんだよ。キノコって言っても、マジック・マッシュルームのことだよ」「えっ? ああ、マジック・マッシュルームのことですか。そんなのが生えてるんですか? この近くには?」
「アナンが言うには、ここからちょっと行った山の中に生えてるんだって。アナンは、トレッキングのガイドもやってるからこの辺りの地理には詳しいんだよ」

そう言って岳志は、向かい側の壁に貼られた手書きの大きなトレッキングルートマップを指差した。

「成る程ね。でも、キノコの種類なんてどうやって判別するんですか?」
「アナンができるよ。俺には分かんないけど」

岳志は、そう言うとアナンにマッシュルームのことについて尋ねた。アナンは、イエース、イエース、と大きく頷きながら智の目の前に手をついて話し始めた。

「山にはマッシュルームがいっぱい生えてて、食べられるものから、食べられないもの、トリップするものに至るまで、ボクには大体見分けがつくんだ。今の時期はまだちょっと早すぎるから分からないけど、マジック・マッシュルームなら多分生えてると思うんだ」 アナンは、にっこりと智に微笑みかけた。

「だろ? アナンは詳しいから大丈夫だよ。だからちょっと行ってみない? 散歩がてらにさ。今日はこんなに天気もいいことだし」

岳志もニコニコしながらそう言った。実際今日は雲が見えない程いい天気で、真っ青な空をバックに、日差しが窓ガラスを眩しく乱反射させている。

「どう? きっと気持ちいいよ」

岳志がそう言うと、アナンが、思いついたように棚の上に並べられたスパイス保存用のパックの中から何かを取り出し、それを手の平に乗せて智達に示した。手の平の上に乗せられたそのものは、灰褐色のカリカリに乾燥した小さなキノコのようだった。それが二三個あった。

「アナン、これ何? マッシュルーム?」

興味深そうに岳志がアナンにそう尋ねた。

「そう。これが今から探しに行くマッシュルームだよ。これは去年採ったものだけど、残念ながらもうこれだけしか残ってないんだ」
「へえ、食べられるの?」
「オフ・コース、ノー・プロブレム。でも、これだけしかないから食べたって効かないだろうけどね」

岳志は、その内の一つを手に取ると、アナンに食べてもいいか、と尋ねた。アナンは、もちろんいいよという風に首をかたむけた。岳志は、サンキューと言ってそれを口に放り込み、その味を確かめるようにしばらく噛みほぐした後、智に言った。

「智も貰ったら?」

岳志が智にそう言うと、アナンは、どうぞ、という具合に智に手を差し向けた。

「いや、俺、キノコやったことないから……」

少し躊躇しながら智はそう言った。

ワン・トラ

岳志がそう言うのを聞いて、智は少し安心してジョイントに火をつけた。

「それと、智。後、もうワン・トラずつあるらしいんだけど、どう?」

岳志のその言葉に、智は、自分が吐き出した煙を煙たそうに手で仰ぎながらこう言った。

「えっ、まだあるんですか? もうワン・トラって言ったらさっきのと合わせてツー・トラで、全部で二十グラムってことですよね? でも、俺、お金そんなに持ってる訳じゃないし、もう七百五十も出せませんよ。それにさっきのクリームぐらいの質のものだったら、十グラムもあれば充分過ぎるぐらいです。だから、もうワン・トラっていうのはちょっと……」
「違う違う。あのクリームはもうあれで終わりさ。もうワン・トラっていうのは普通のチャラスのことだよ。でも、マナリーのものだから十分質はいいんだけどね。トラ、二百五十だって。さっきのお釣りでちょうどいいじゃん。どう?」

もう一口ジョイントを吸い込むと智は岳志にそれを渡した。岳志は、ボン、ボン、と言いながらそれを受け取った。

「そうなんですか。でも俺にはあれだけあれば十分のような気もするんですけど……」
「まあ、無理にとは言わないけどね。せっかくだから、と思って。これだよ、一応見てみなよ」

岳志は、ポーチからビニールのラップに包まれた円筒形のチャラスを取り出すと、智の前にポンッと置いた。チャラスは、木のテーブルに当たってカタンと音を立てた。

「これは結構固いんですね」
「ああ、それはクリームじゃないからな。普通のチャラスだよ。でも、普段やる分にはそれで十分さ。クリームばっかりやってたらもったいないもの」
「そうですか。まあ、岳志さんがそう言うのなら……。じゃあ、これも貰いますよ。トラ二百五十だったらどちらにしろお値打ちですもんね」

智は、岳志が妙にその話をプッシュしてくるのが気にならない訳ではなかったが、あまり深くは考えないでそれを買うことにした。智の返事を聞いた岳志がアナンにそのことを伝えると、アナンは、席を立ってチャラスを取りに店の奥へと入っていった。その間にプレマが智にチャイを運んで来た。智は、サンキュー、と言ってチャイを受け取ると、一口啜った。熱いチャイからは湯気が立っており、ミルクと紅茶と香辛料の混じったかぐわしい香りが智の鼻腔を柔らかに刺激した。

しばらくすると満面の笑みを浮かべながらアナンが戻ってきて、チャラスを智に手渡した。智は、さっきポケットの中に仕舞い込んだ二百五十ルピーを再びアナンの手に戻した。アナンは満足そうに一枚ずつ札を勘定した。智は、何だか自分が店員の言いなりになって品物を買わされている、いいお客さんになったような気になっていた。しかし、自分の目の前に転がっている二つの黒い固まりが、智のそんな気分を既にどうでもいいものにしてしまっているのもまた、事実であった。智は、自分の物となったそれらのクリームを再び手に取って、愛おしそうに何度も何度も揉みほぐした。

「イッツ・ベリー・ナイス!」

ジョイント

「よく千ルピー札なんて持ってたね」

岳志が、二人のやりとりの様子を眺めながらそう言った。

「たまたまですよ。デリーで荷物を日本に送ったときにちょっと多めにお金が必要だったんで、千ルピー札で両替えしてもらったんです。それがまだ何枚か残っていて……。でも、僕もその時が初めてでしたよ。千ルピー札を見るのなんて」

岳志は、テーブルの上のそのお札を手に取ると、珍しそうに眺め回した。

「そうだよね。インドで普通に生活してたら、こんなの全く見ないもんな」

智は、もっともです、という風に首を縦に振った。そして、お札を光に翳したりしながら何度も何度も見返している岳志を、ぼんやりと見つめながらこう言った。

「昨日は何だか凄かったですよ。もう、昨晩のことあんまり覚えていなくって……。一回吸っただけであんな風になるなんて初めてのことでしたよ」

岳志は、ふと我に返ってお札をアナンに手渡しながらそれに応えた。

「そうだろ? 俺も昨日は結構凄かったもん。やっぱりこれぐらいのものになると、直接ここまで来ないと無理だよな。手に入らないもん。絶対」

智は、ふと理見が言っていた世界中から買い付けに来るバイヤーの話を思い出し、それを岳志に尋ねてみることにした。

「そういえば岳志さん。俺、聞いたことがあるんですけど、マナリーのトップクリームは裏の世界の売人が世界各国から買い付けに来るっていうのは本当の話なんですか?」

智がそう尋ねると、岳志は事も無げに、ああ、本当だろ、と言った。智は、理見の話していたことがあまりにもあっさり肯定されてしまったことに、少々驚きを憶えた。

「じゃあやっぱりシーズンになると、スーツ来てアタッシュケース持ってサングラスなんかかけてるような裏世界の売人達が、次々と何人もこの地を訪れるっていうことなんですね?」

岳志は、驚いたように智の方を振り返った。

「は? 何言ってんだよ、智。そんなんじゃないだろ? 昨日アナンが言ってたように、殆どはイスラエル人のバックパッカーだよ。奴らが大量に買い占めてそれをゴアに持ってったり、ケツの穴に隠して他の国に持っていったりして売り捌くんだよ。智が考えてる、いかにも映画に出てきそうなマフィアなんていないよ。大体、マフィアはマリファナなんて扱わないだろ。もっとコンパクトで客単価の高いヘロインとかコカインだよ。それに比べたらグラスとかチャラスなんてリスクが高いばっかりで割に合わないもん」
「何だ……。でも、考えてみたらそうですよね。こんな所、スーツなんかで来る訳ないですよね……」

智は、少し拍子抜けしてがっかりしたように肩を落した。

「まあ、そんな人達が来てたら、それはそれで面白いんだけどね」

岳志は、笑いながら出来上がったジョイントを智に手渡した。

「はい、智。これもそのクリームで作ったやつだよ。試してみな」

少し緊張しながら智はそれを受け取った。

「これ、大丈夫ですかね。また、昨日みたいにブッ飛んじゃったりしません?」
「大丈夫だよ。今日はそんなに入れてないから。昨日はかなりキツ目に作ったし、それにチラムだったから。これはもっと軽いよ。大丈夫、大丈夫」

クリーム

翌朝、岳志が智の部屋の扉をノックした。智は、昨晩のチャラスのおかげでぐっすりと眠りこけており全くその音に気が付かなかったのだが、岳志がしつこく何度も扉を鳴らし続けるので、ようやくそれに気が付いて目を覚ました。岳志は、起きたばかりの智の寝呆けた表情を見て笑いながら、昨日は突然いなくなっちまったからびっくりして慌てて俺も帰ってきたんだぜ、と智に言ったが、智は、ぼんやりとした様子で、はあ、すみません、と、何を話しても全く無駄な様子だったので、先にアナンの所へ行っておくからクリーム買うお金持って後でおいで、と言い置いてその場を立ち去った。智は、はあ……、と曖昧な返事をして岳志のその様子を見送ると、再びベッドに潜って眠ってしまった。そして次に目を覚ました時にはもう、太陽が明るく部屋の中を照らす昼過ぎだった。智は、昨日と同様に、いけない、またやってしまった、と呟きながら慌ててマニカラン・コーヒーショップへと向かった。

店の中ではアナンとプレマと岳志の三人がのんびりと談笑していた。岳志は、話をしながらジョイントを巻いている。智が店の中に入っていくと、岳志がそれに気が付いて、よう、と声をかけた。

「やっぱりまた寝てたんだ?」

岳志は、まるで智が遅れて来るのを予想していたかのようにそう言った。智は、ばつが悪そうにポリポリと頭を掻きながら、ええ、すみません、と岳志に謝った。

「いいよ、そんなこと。それよりこっち来て座んなよ」

そう言われて智は岳志の横に腰掛けた。

「ハロー、ウェル……」

アナンは、智の名前を思い出せないらしく、何とか思い出そうと必死に首を捻っている。

「サトシ」

智は、それを見兼ねて自ら自分の名前を名乗った。

「オー、サトシ、ハロー、ナイストゥーミーチュー」

アナンは、まるで智と初めて出会った時のように、智の手を握りながらそう言った。

「智、お金持ってきた? ほら、これが智の分だよ」

岳志は、そう言うと昨日のクリームと全く同じものを智の前にポンッと放った。智は、それを拾い上げ、感触を確かめるようにじっくりとこね回した。

「えっと、七百五十で良かったんでしたっけ?」

岳志は無言で頷いた。智は、腰に巻いた貴重品袋の中からデリーで両替えしたばかりの千ルピー札を一枚取り出した。それを取り出すとき貴重品袋が泥で汚れているのが目について、ふいにせせら笑うヤスの顔が浮かんできたが、智は、それを振り払うように強く首を振った。

「じゃあ、これで。お釣りあります?」

智からそれを受け取った岳志がアナンにそのお札を手渡すと、アナンは、OH、とその千ルピー札に少し驚いた表情を見せた。そしてポケットの中からくしゃくしゃの百ルピー札を二枚と五十ルピー札一枚とを取り出した。智は、サンキュー、と言って皺を伸ばしながらそれらを受け取った。

ジャイプル

岳志が指を差したその先では、控えめそうな若い二人がはにかみながらこちらの様子を窺っていた。彼らは、どうもあまり英語が話せない様子で、こちらの方には近寄ってこようとしない。代わりにアナンが岳志と彼らの間を行ったり来たりしていた。

「ほら、まず試してみなよ」

そう言いながら岳志は、チラムを取り出して智に手渡したのだが、智がいざそれを手に取ってみると、何と、そのチラムはクリスタルでできていた。智は、ゴアにいた時にクリスタル製のチラムというものがあるということは噂では聞いていたが、実際それを見るのは初めてのことだった。今まで旅で出会って来た人でそんなものを持っている人など誰もいなかったのだ。

「岳志さん、これ、凄いじゃないですか! 一体どこで手に入れたんですか?」

智が、チラムを岳志の鼻の先に突き付けながらそう言った。

「ああ、それね。それは今回ジャイプル行って手に入れたんだよ。高かったけどね。まあチラムはいいの持っておいた方がいいだろ? 常に持ち歩いてるし、言ってみればサムライの刀みたいなもんだからさ、ステイタスだよ。ハハハ」

岳志の話を聞きながらクリスタルの感触を確かめるように、智はチラムを撫で回した。

「そっかあ、ジャイプルか……。俺も行ったのになあ……」

智が繁々とチラムを眺め回していると、岳志が、ホラホラ、もうチラムはいいから早くボンしちまいなって、と智を急かすようにマッチに火をつけた。慌てて智はチラムを構えると、岳志がそこに点火する。智は大きく息を吸い込んだ。すると煙がチラムの中をすらすらと通って行く様子が、チラムの透明なクリスタル越しに透けて見えた。智は、それに驚いて思わずチラムから口を離してしまった。火が消え、岳志が、何やってんだよ、と智を責めるようにそう言うと、智は、だって煙が入ってくるのが見えたから驚いちゃって……、と、岳志に言い訳をした。そしてもう一度火をつけてもらい、今度は途中で口を離さないようにしながら再び勢い良く煙を吸い込んだ。大量の煙が智の肺を巡っていく。すると体全体が痺れるように重くなり、智は、まるで体が地面に吸い込まれていくのではないかというような感覚に捕らわれた。しばらくそのまま悶え続けた後、やっとのことで智は岳志にチラムを返した。

「どう? 凄いだろ?」 

チラムを受け取りながら岳志は言った。空ろな眼差しで、智は、ええ、凄いです……、と言うのがやっとの状態だった。それから先は何があったのかあまり覚えておらず、ただ、急に便意を催したので外の暗闇の中でこっそりと用を済ませ、そのまま揺れる視界の中をふらふらと一人で自分の部屋へ帰ったことだけは覚えていた。その時あんまり視界が揺れるものだから、よく例えなんかで天と地がひっくり返っただとかそういう表現を使うことがあるけれど、あれは本当に世界全体が揺れて逆さまになってしまっているからそう言うんだな、ということをはっきりとしない頭で考えていた。何故か次の日になってもそのことだけは、まるでその部分だけ切り取られパッケージされた記憶のように智の頭の中にしっかりと残されていた。

その感触の柔らかさ

月明かりに助けられ、智はようやくマニカラン・コーヒーショップに辿り着いた。暗闇の中で、その建物だけは明るく光を灯していた。店の中にある人の気配に、何故だか智は安堵する。中に入ってみると、店の中はたくさんのインド人で溢れ返っていて、それはまるでパーティでも開かれているような光景だった。その中に、何とか岳志の姿を見つけると、智は、手を振りながら岳志の名を呼んだ。

「タケシさん!」

岳志は、声の主を探すようにキョロキョロと周りを見回していたが、ようやく戸口の所に智の姿を認めると、おお、智、入って来いよ、と随分機嫌良さそうに智を手招きした。どうやら完全にキマッているようだ。人混みのあちこちからまるで汽車が煙を吐くようにシュポシュポと白煙が立ち昇っている。智は、人混みを掻き分けながら岳志の方に近寄った。

「よう、智、遅かったじゃん」

岳志は、智の肩をポンポン叩きながらそう言った。

「すいません、ついウトウトしてしまって……」

申し訳なさそうに智はそう言った。

「まあ、いいよ。それより、かなりいいクリームが手に入ったんだよ。ほら、これ見てみて」

そう言って岳志は、丸くて平べったい黒い固まりを、ポンッとテーブルの上に投げ出した。智は、それを手に取ると、その感触の柔らかさに驚かずにはいられなかった。以前、ジャイサルメールで理見に見せてもらった物と同じぐらいかそれ以上の物だった。ビニールラップを少し剥がして鼻に近づけると、それだけで鼻腔を刺激する強烈な匂いが漂ってくる。

「うわっ、これ凄いですね。チャラスだっていうのにこんな匂いがするなんて……。まるで以前嗅いだことのあるオランダ製のスカンクみたいだ。天然物でもこんな匂いがするものなんですね」

智がそう言うと、岳志は得意そうに微笑んだ。

「なんたってこれは、採れたてのマナリー産のガンジャをいち早くチャラスにして保存しておいた”ファーストクリーム”なんだもの。ちょっと時間は経ってるけど、チャラスはもともとガンジャを保存するために作るものなんだし、保存の仕方もこの辺りのプロ中のプロがやってたものだから、折り紙付きだよ。そこらの物なんて比べ物にならないよ」

岳志は、再びチャラスを手に取ると、その香りにうっとりとして目を閉じた。

「ワン・トラ、千だってさ。ちょっと高めだけど、この質だったら全く問題ないでしょ。俺、この近くにあるマラナって言う村で採れる、有名なマラナ・クリームもやったことあるけど、ものとしては全然引けは取らないよ。むしろこっちの方がいいぐらい。こんなの日本に持って帰ったら、一体幾らになるか分かんないぜ?」

岳志のその口ぶりで、余計にそのチャラスが物凄いもののように智には思えてきた。

「はあ……。凄そうですね、それは……。欲しいのはやまやまなんですけれど……。俺の分もあるんですかね?」
「ああ。ちょうど後ワン・トラ残ってるってよ。それで、俺達でツー・トラ買うなら一つ七百五十にまけてくれるってさ。アナンが友達に声をかけまくって探してくれたんだって。ほら、あそこにいるだろ? あの若い夫婦がそうで、二人ともグロワーらしいよ。生産者直売だから絶対お得だぜ」

川のせせらぎ

ぼんやりとそんなことを考えながら、智は、後で岳志とマニカラン・コーヒーショップで落ち合う約束をし、一旦別れてそれぞれの部屋へと入っていった。どうやら岳志は、一人の時間を過ごしたいタイプのようだった。どうも、誰かと長く一緒にいると落ち着かないらしい。智は、マナリーからマニカランまでの道のりで薄々それを感じとっていた。だから部屋もシェアするのではなく、わざわざ別々に取ったのだ。

部屋の中は思っていた程悪くはなかった。窓のすぐ外には川の流れを眺められ、その背景には深い緑の山々がそびえている。そして何よりも川のせせらぎが聞こえてくるのが智の気に入った。周りは静かで何の物音もしないし、ここでならくつろいでゆっくりと過ごすことができるだろう。何となく浮き浮きしながら、智はベッドに仰向けに横になった。

どうやらそのまましばらく眠ってしまっていたようだ。目を覚ますと、すっかり辺りは暗くなっていた。窓の外は、ぼんやりとした街灯によって照らされ、川の水面が時折キラキラとその光を反射させている。あまりに熟睡していたせいか、智は、一瞬自分がどこにいるのか判別できなかったが、体を起こして周りを見渡すと、徐々に今日一日の出来事を思い返していった。そしてふと岳志と待ち合わせていたことを思い出し、慌てて身の回りの用意をして部屋を飛び出した。その前に一応、岳志の部屋もノックしてみたが返事はなく、やはりもう出かけてしまった後のようだった。智は、急いでマニカラン・コーヒーショップへと向かった。

日の暮れた夜の町に殆ど灯りはなく、ツーリスト向けレストランの灯すか細い光が、ポツポツと闇を照らすだけだった。道は、町を抜ける細い道が一本だけだったのでいくら暗くとも迷うことはなかったが、橋の手前まで来ると激しい川の流れが闇の中からザアザアと音を立てて響いており、その音はさすがに無気味だった。暗い橋を渡る時、闇の中に潜む得体の知れない何かに引きずり込まれそうな気がして、智は早足で橋を渡った。

それから店へと向かう坂道は、更に真っ暗で、灯りという灯りは殆ど無いに等しく頼りは月灯りだけだった。智は、何となく空を見上げた。するとみるみるうちに雲が消えていき、今まで曇り気味だった夜空が、瞬く間に満点の星空に変わった。そして驚く程、辺りが明るく照らし出された。智は、こんなにも月や星は明るいものかと、まるで初めてそれらを見た子供のように強く感銘を受けた。智の生まれ育った都会では、最早そんな当たり前のことすら知ることはできなかったのだ。