夢の内容

「ハハハ、食べてたじゃない。俺も。何、何にも憶えてないの? そうとうブッ飛んでたみたいだね。俺も智と一緒に食べてて、智は、俺が食べてる間中、これ、おいしいですね、って何度も俺に言い続けてたよ。ハハハ。俺も智ほどじゃないけど、相当飛んでたよ。ようやく今落ち着いてきた所さ。効きが長いからね。腹に入れると」
「何だ、そうだったんですか。しかし、俺、ひどいですね。岳志さんにそうやって言ってたことすら憶えていないなんて……。いやあ、あんな風になったのは初めてでしたよ……。視界はチカチカ小刻みに揺れ続けるし、音は何かに反響してるみたいに何もかもグワングワンいってるし。多分、話しかけられても何言ってるかまるっきり分かってなかったんだと思いますよ。それで何だか意識失ったみたいになっちゃって……。何か不思議な体験をしていたような……」

智は、先程見ていた夢の内容をすっかり忘れてしまっていたようだった。頭を捻って必死に思い出そうとするのだが、何も出て来ない。そんな智に岳志がぼそっと声をかけた。

「確かさっき、婆ちゃんのチョコレートケーキがどうとかって言ってたみたいだったけど……」
「婆ちゃんのチョコレートケーキ? えっ? ああ、それは……、確か……、昔住んでた家の近くにあったケーキ屋さんのケーキのことなのかな。凄くおいしくって、婆ちゃんが生きてた頃、よく俺に買って来てくれてたんですよね。それがどうかしたのかな?」

智は再び首を捻った。

「さあ……。どうか分からないけど、確かそうやって言ってたと思うよ。プレマの作ってくれたスペースケーキがチョコレート風味だったんで、昔食べてたそのケーキのことを思い出したんじゃない?」

岳志は、チャラスを乗せたジョイントペーパーをくるくると器用に巻きながらそう言った。

「ああ、きっとそうですね。久しぶりにチョコレートケーキなんて食べたから、それで思い出したんでしょう、きっと。しかし、本当においしかったんですよ。婆ちゃんのチョコレートケーキは」

智は、何とかしてそのことを表現しようと力を込めて岳志にそう言った。岳志は、分かった、分かった、という風に頷きながら、笑顔で、巻き上げたジョイントに火をつけた。

「そういえば、さっきまたババが来てたんだよ」

岳志は、ジョイントを一服大きく吸い込むと、思い出したようにそう言った。

「え、ババって、昨日のクレイジーなシークのババですか?」 

岳志は、ジョイントを手渡しながら意味ありげな微笑みを智に向かって投げかけた。

「やっぱり憶えてないんだ。智がブッ飛んでいる間に来てたんだよ。智も喋ってたんだぜ、ババと」
「俺が? ババと喋ってたんですか?」

智は、少しの間考えを巡らせるように目を閉じた。

「駄目だ、全く憶えていない……」

正気を取り戻そうと

――― 俺は、あの場面を憶えている! あの後買ってもらったチョコレートケーキも! 確かあの頃近所にできたばかりのケーキ屋さんで、あのとき初めて買ってもらったんだ。そしたらそれが凄くおいしくって、俺はえらく気に入ってしまって……。俺の喜ぶその様子を見た婆ちゃんは、それからことあるごとにそのチョコレートケーキを買ってきてくれるようになって……。それ以来俺の大好物になったんだけど、その後、高校生になったとき、婆ちゃんが亡くなるのと同じ頃に店が潰れてしてしまって……。そうだ、今までずっと忘れてしまっていたけど、俺は、あのチョコレートケーキが大好きだったんだ。それに、あの場面! そう、あの店に婆ちゃんと行く前、俺は、公園で不思議なものを見てたんだ。それが何だったのかずっと思い出せなかったのだが、あれは、今現在インドにいるこの俺自身だったんだ! そうだったのか! でも、そんな不思議なことが…… ―――      

智は、地面に腰を下ろしたまま二人の立ち去った後をじっと眺め続けていた。しばらくそのままの姿勢でずっとそうしていると、ふいに意識が遠のいていき、それと共に体全体がふわふわと宙に浮かび始めた。智は、恍惚とした気分となって再びその波に身を任せていった……。

気が付くと、辺りは妙に静かになっていた。薄暗く、窓の外は深い闇に覆われており、部屋の中は、幾つかのランプの灯りによって頼りなく照らされていた。色彩が、変に色濃く智の目の中に飛び込んで来る。智は、自分の体が椅子からずり落ちそうになっていることに気が付き、慌てて体勢を整えた。すると、頬杖をつきながら窓の外をぼんやりと眺めていた岳志が、智の方を振り向いて言った。

「よお。目、覚めた?」

智は、正気を取り戻そうと左右に激しく頭を振った。

「あ、あれ、オレ……」

不安そうに智が周りを見回していると、岳志が、智に何か説明するように話し始めた。

「ああ、よく眠ってたよ。三時間ぐらいかな? 机の上に突っ伏したり、そのままベンチに寝そべったり。もっと楽な所へ動かしてやろうと思って声をかけると、ああ、いいです、いいです、ってそればっかりで結局ずっとそこにいたんだよ。全く。食べ過ぎだよ、智。あんなに食べたらそりゃブッ飛ぶさ」

岳志は、ポーチからチャラスを取り出しながらそう言った。

「食べたって? チョコレートケーキを? 婆ちゃんのチョコレートケーキを俺は食べたんですか?」

智がそう言うのを、岳志は怪訝な表情で見つめ返した。

「え? 婆ちゃんのチョコレートケーキ? 智、何言って……、ああ、夢でも見てたんだな。違うよ。智が食べたのは、プレマが焼いたスペースケーキだよ」
「スペースケーキ?」

智は、ポカンと口を開けたまま岳志の顔を眺め続けた。そしてしばらくして、ようやく思い出したように手を打った。

「ああ、そうだ。俺、チャラスのケーキ喰ったんですよね。思い出した。思い出した。すいません、何か夢見てたみたいで……。俺、そんなに長く眠っていたんですか? 岳志さんは、見たところ大丈夫そうなんですけど、食べなかったんですか?、スペースケーキ。もうジョイントなんか巻いてるし」

智は、ココナッツの中でチャラスと煙草の葉を混ぜ合わせている岳志の指先を見つめながらそう言った。

サッちゃん

智は、真っ白な世界にただ一人立っていた。自分の周りには、子供用の木製の積み木がまるでたった今まで誰かがそれで遊んでいたかのように、乱雑に散らかされている。智は、その一つを拾い上げてみた。するとその途端、その、青い三角形の積み木は、砂のように崩れ落ち、さらさらと智の指の間からこぼれていった。驚いて顔をあげると、風景は、夕暮れの公園に変わっていた。どこからか、練習中のピアノの拙い旋律が微かに聞こえてくる。それと共に、ほのかに温かい夕餉の香りが漂ってくる。周りには誰もおらず、智は、一人、取り残されたようにぽつんと公園の真中に立ちすくんでいた。ブランコが静かに揺れている。誰かが今までここで遊んでいた形跡が、確かにここに残されている……。

すると突然、小さな男の子が、嬌声を上げながら公園の中に駆け込んできた。その後を誰かが声をかけながら追って来る……。

「サッちゃん、サッちゃん」

公園の入り口の植え込みを曲がって姿を現したのは、智の祖母だった。

「婆ちゃん……」

智は、ぼんやりとそう呟いた。気が付くと小さな男の子は、智のすぐ目の前にまで迫っていた。男の子は、まるで智が見えていないかのように、きゃあきゃあ騒ぎながら走って来る。男の子とぶつかりそうになったので智は思わず両手でその子を支えようとしたのだが、その瞬間、男の子の体は、智を通り抜けて向こう側へ突き抜けてしまった。思わぬその出来事に、勢い余って智はそのまま前方へ倒れ込む。しかし、不思議と体は痛みを感じなかった。驚いて自分の手足を見返していると、今まで騒ぎながら走っていた男の子がふいに立ち止まった。そして振り返って智の方をじっと見つめている。その子の顔を見た時、智は、ハッ、と息を呑んだ。それは、幼い頃の智自身だった。智は、思わずその子に触れようとして手を伸ばした。男の子は、不安そうな顔をしたまま少し後ずさりをした。

「俺が、見えるの?」

智がそう語りかけたとき、男の子を追いかけてきた智の祖母がようやく追いついて彼を抱きかかえた。そして顔を覗き込みながらこう言った。

「危ないから勝手に走っていっちゃだめだって、言ったじゃない。ほら、お車がいっぱい走ってるでしょ。轢かれたらサッちゃん、ぺしゃんこになっちゃうのよ」

祖母にそう話しかけられている間も、男の子はじっと智の方を見つめ続けていた。祖母は、男の子のその様子が気になったらしく、どうしたの、何かいるの? と智の方を振り返ったが、祖母には智が見えないらしく、何よ、何もいないじゃない、さあ、チョコレートケーキ買ってあげるから、もう行きましょう、と言って男の子の手を引いて歩き始めた。男の子は、祖母に手を引かれながら何度も智の方を振り向いた。

「チョコレートケーキ…あっ!」

智は、声を上げて手を打った。

チョコレートケーキそのもの

智は、岳志のその話を聞きながら、誰かも以前、同じような話を自分にしていたのを思い出した。それは建だった。デリーのゲストハウスの屋上で智と谷部を前にして、建がとうとうと自分の昔のことを話していた時のことだった。確か建は、お婆さんに命を救われたというようなことを言っていた。

智の中で二人の話が何となく重なり合い、智は、その偶然性を不思議に思った。そして建の話を聞いていた時と同じように、今回も、優しかった自分の祖母のことを思い出し、ふいに胸が熱くなっていくのを感じた。この何気ない偶然を智は、死んだ祖母が自分に対して何かを伝えようとしているのだ、と、何となく心の中で思った。一体それは、何なのだろう?

そんなことを黙って考えていた智と、それを何となく見つめていた岳志の二人を包んでいた沈黙を破るように、アナンとプレマが、とびきり明るい表情で、ヒア・カムズ・ザ・ケイク!、と言いながら、大きなケーキを手に持って運んで来た。二人は、ケーキのことなどすっかり忘れてしまっていたので、呆気にとられてぼんやりとアナン達に目をやった。

「ヘイ、二人とも、何ぼんやりしてるんだよ! お待ちかねのスペース・ケーキが出来上がったんだよ!」

アナンは、岳志と智の肩を両手で抱きながらそう言った。

「あ、ああ、ケーキね。ハハハ、何だ、遅かったから忘れちゃってたよ」

岳志が、アナンに皮肉っぽくそう言うと、アナンは、ウィンクをしながら岳志の肩を軽く小突いた。智は、先程までの深刻な雰囲気がアナンとプレマの二人によっていっぺんに打ち消されてしまったのを見て、何か、心地良い感動のようなものを覚えていた。暗闇を吹き飛ばしてしまう程明るい、人間的なエネルギーに、智は、人生という困難な道のりを生き抜いていくためのヒントのようなものが隠されているような気がした ―――   

プレマの焼いたスペース・ケーキは、チョコレート仕立てでとてもおいしかった。今まで智が味わってきたバング・ラッシーなどのマリファナの入った飲食物は、一つとしておいしいものに当たった試しがなかったので、今回のこのスペース・ケーキもかなりの覚悟を持って智は試食に臨んでいたのだ。それが意外にも、ふつうのチョコレートケーキのようなしっとりとした風味豊かな味わいに、智は拍子抜けしてしまった。チャラスは、黒い粒状になってケーキのスポンジの中にしっかりと含まれているのだが、その存在は、うまくカカオの香りによって打ち消されており、味は、全くチョコレートケーキそのものだったのだ。しかしいくら味がチョコレートケーキだといっても、ちゃんとチャラスは含まれているので、食べれば食べる程、その作用は大きなものになってくる。ただ、煙を吸うのとは違って、飲み込んで胃から吸収されるまでには時間がかかるので、実際に効いてくるのはしばらく後になってからのこととなる。だから、自分が現在どれぐらいの量のチャラスを体内に取り込んでいるかということを正確には把握しきれず、ついつい食べ過ぎてしまうのだ。しかも徐々に効き始めてくるチャラスの作用によって味覚が刺激され、それはますますおいしいもののように感じられていく。マリファナの効いている時に食べる甘味は、普段の数倍の刺激でもって舌を刺すのだ。気付かない内にそんな状態に陥っている智は、うまい、うまい、と言いながら次々とケーキを口に運ぶ。繰り返されていく見えないそれらの循環によって、気が付いたときには智は、ケーキ全体の四分の一程を一人で食べ尽くしてしまっていた。

その後の智は、とんでもない酩酊状態に陥ることとなる。まるで上下左右逆さまになったような世界の中で、智は、難破した漂流者のように、ただひたすら波に身を任せ続けていた。誰が何を智に話しかけようと、全くもって理解することができず、ただただ笑顔で、はあ、はあ、と頷き続けるだけだった。目の前にいて、自分に話しかけているその人が、一体誰であるかということすら全く分かっていなかった。そして風景は、自分を中心に円を描きながら、ぐるぐるぐるぐる回り続ける……。

アナンの友情

岳志が俯きながらそう言うのに、智は何も声をかけることができなかった。何て言えば良いのか分からなかったのだ。ただ、何故この話を岳志が今したのかが、何となく分かったような気はした。

「だから、俺は何とかして罪滅しがしたいんだよ。俺を助けてくれたことによって人生を台無しにしてしまったアナンに対して。一生をかけてでも償いたいと思う。下らない俺の虚栄心や行動が、アナンとプレマの人生を台無しにしてしまったんだ。俺は、償い切れない程の罪を背負っている。何とかして責任を取らなきゃいけない。だから、このマニカラン・コーヒーショップを何とかして大きくして、アナン達に報いてやりたいんだよ」

岳志は、真剣な眼差しで智を見つめた。智は、その視線から目を逸らすように下を向いた。

――― 岳志がまるでマニカラン・コーヒーショップの営業活動をしているかのようなあの行動の裏には、そんな思いが秘められていたのだ。そんなこととは露知らず、自分は、まるでがめつくずる賢いインド人のように岳志のことを想像してしまって…… ―――   

智は、自分の卑屈な精神を呪った。

「そうだったんですか。そんなことがあったなんて……。でも、岳志さん、そんなに思い詰めることはないと思いますよ。全部岳志さんの責任だという訳じゃあ……」
「ありがとう、智。でも、このことに関しては俺も随分考えたんだ。悪いのはやっぱり俺だ。それにアナンには命まで救ってもらってる。あの時もし、アナンがそこいらの売人と一緒のような奴であのまま俺は置き去りにされていたとしたら、今頃、生きてはいなかっただろう。あれがアナンだったからこそ、今の俺がここにいるんだ……。アナンに対する罪悪感など、もちろん口では言い表わせない程胸の中に詰まってはいるが、それよりもむしろ、俺はアナンの友情に感謝しているんだ。アナンが俺にしてくれたことに。命を救ってくれたことはもちろんだし、だめだ、と言いつつも、俺の為にヘロインを持って来てくれたことにすら、俺は感謝している。俺の願いに首を振ったことはないんだよ、アナンは。まるで、優しかったお婆ちゃんのようだった。俺が子供の頃生きてたお婆ちゃんがちょうどそんな人で、わがまま放題の俺の言うことを何でも聞いてくれたんだ。どんなに無茶を言っても聞いてくれた。石がごろごろしてる土の上でお婆ちゃんを四つん這いにして、馬乗りになって歩かせたり、わざとそんな風に嫌がらせをしたりなんかもした。何でも言うこと聞いてくれるから。でも、お婆ちゃんはそんな俺の為にどんな無茶なことだって嫌な顔一つせずに、全部応えてくれた。今思えば、俺は試してたのかな、お婆ちゃんの気持ちを。いつになったら首を振るだろうって。俺を見捨てるだろうって。でも、お婆ちゃんは決して首を振ることはしなかった。絶対に俺を見捨てなかった。だから、そんなお婆ちゃんが死んだとき、俺はとても後悔したんだよ。愚かな自分の行動に。もっと大事にしておけば良かったって。何であんなにひどいことばかりしたんだろうって。もうずっと忘れていたそんな記憶が、アナンと会ったとき無意識の内に甦ってきてたのかな。俺は、まるで昔お婆ちゃんにそうしていたように、アナンにも同じような態度で接していたのかも知れない。アナンが何でも言うことを聞いてくれるから、調子に乗っちゃってさ。だから後々アナンが刑務所に入ることになって、俺は、もう一度同じように後悔することになったんだ。まるでお婆ちゃんが死んだ時のように……。でも、お婆ちゃんは死んじゃったけど、アナンはまだ生きてるだろ? だから、何とかして償いたいんだ。あの時の過ちを。もうお婆ちゃんの時のような思いをするのはご免なんだよ。だから俺は、俺のことを思ってくれたアナンに対して、できる限りのことをしてやりたいんだ。死んでしまったお婆ちゃんの分も含めてさ」

ハメられた

岳志は、もう一服深く煙を吸い込んだ。そして目を閉じると、しばらくその煙を肺に留めた。智は、息を呑んで話の続きを待っている。

「病院の先生によると、俺は、大変危険な状態だったのだが、病院に運び込まれたのが早かったので奇跡的に一命を取り留めることができたらしい。後一歩遅かったらどうなっていたか分からないということだった。話によると、俺に注射を打ったパキスタン人は、俺が倒れた途端さっさと行方をくらましてしまったようで、アナンが、一人で俺を病院まで担ぎ込んでくれたんだ。当然アナンは警察で取り調べを受けることになったんだが、前科もなく、所持していた麻薬もチャラスぐらいだったので、すぐに帰ることができたらしい。この辺ではチャラスなんて持ってても別に何の罪にもならないからな。アナンは、ついでに俺の持ってたアシッドやエクスタシーなんかも全部処分してくれていたみたいで、おかげで入院している間に俺が持ち物を検査されても罪に問われることはなかった。ただ、ヘロインを注射したということは事実なんで、ポリス達には百ドルぐらいずつ払ったけどさ。でもそれだけ渡したら、奴ら大喜びで解放してくれたけどね。それで一応何ごともなく終わったんだけど、アナンの仲間内での評判が物凄く悪くなってしまったんだ。普通、ディーラーがドラッグで昏倒した奴なんて助けちゃいけないんだよ。だって、すぐに足が付いちゃうだろ? そこから芋づる式に皆捕まることになってしまう。それは絶対に侵してはならない不文律なんだ。だからそれを侵してしまったアナンは、必然的に仲間内から狙われるようになった。だけど実際、その時のアナンは、警察にマークされていた訳ではなかったんだ。ちゃんと自分の店を持ってるし、結婚もしてるし、アナンは、典型的なドラッグディーラーという訳ではなかった。ただ、店だけではやっていけないので、補助的な収入源としてチャラスを売ったりしている程度のことだったんだ。だから警察もその事件によってアナンやその仲間達を疑うということはしなかったのだが、何せドラッグで生計を立てているような奴らは、そういうことに対しては常にナーバスになっているものだから、そのことでアナンに報復のような行動を取り始めるようになったんだ。例えば、店に大勢で押し掛けて嫌がらせをしたり、店の物を壊したり。最初の内はそれぐらいのことで済んでたんだけど、だんだんとエスカレートしていって、挙げ句の果てにアナンは警察に捕まることになってしまったんだよ」

岳志は、吸い終わったジョイントを灰皿で揉み消した。

「えっ、じゃあ、アナンは……」

そう言ったまま智は、ポカンと岳志の顔を見つめた。

「そう。恐らく、そいつらにハメられたんだ」

智は、岳志がそう言うのを聞いたとき、何となく、アナンのあの、暗い眼差しの理由が分かったような気がした。アナンの、様々な思いが複雑に絡み合った胸の内を垣間みたような気がした。

「はっきりしたことを聞いた訳ではないんだけど、多分、捕まったその事件というのはでっち上げだったと思うんだ。アナンは、ヘロインの不法所持で逮捕されたんだよ。あんな風に俺にヘロインは止めておけと言っていたアナンが、そんなもの扱う筈がない。あいつは、ヘロインやコカインはもちろんのこと、アシッドやエクスタシーですら売るのを嫌がってたぐらいなんだ。アナンが売っていたのは、もっぱら、ナチュラルなキノコやチャラスだけだったんだよ。だからヘロインの不法所持なんてのはどう考えてもおかしいんだ。恐らくそいつらと、あと、そいつらとグルになった警官がアナンをはめたんだな。腐ったポリスにいくらかバクシーシを払ってさ。とにかくその罪で、アナンは三年も刑務所に入ることになったんだ。アナンがそうなった後、何回かプレマに会いに行ったんだけどプレマも事件の真相は話そうとはしないし、アナンももう、今となってはそのことには触れたがらない。だから細かい経緯は俺の推測に過ぎないんだけど、どれもこれも全部、元を正せば俺がヘロインなんかを欲しがったのが原因なんだ。俺の軽率な行動のせいなんだよ、全部」

注射針

岳志は、チャラスの味を噛み締めるように、ゆっくりと煙を呑み込みながらそう言った。

「俺は、その時まだヘロインをやったことがなかったんだ。ヘロインっていえばドラッグの王様みたいなものじゃない? だからその時の俺は、どうしてもヘロインがやってみたかったんだ。いや、やらない訳にはいかなかったんだ。最高の物を知らずに、ドラッグやってる、なんて言えないと思ってたからさ。でも、この辺りじゃヘロインなんて誰も持ってないし、当然アナンも持っていなかった。どうしてもやってみたいから探してみてくれって頼み込んでも、アナンは、ヘロインはこの辺じゃあ手に入らないし、それに絶対に体に良くないからやめておけ、と言うばっかりで取り合ってくれなかったんだよ。でも、毎日毎日そう言ってるうちに、とうとうアナンが折れてヘロイン持ってる奴を探し出して来てくれたんだ。たまたまパキスタン人のディーラーがいて、そいつがパキスタンのペシャワールから大量にインドにヘロインを運んできたっていうんだ。俺は、もう嬉しくって、すぐにそいつと会わせてくれってアナンに頼んだんだけど、アナンは、買うのはこれ一回きりにしてくれ、でないと奴とは会わせない、と何度も何度も俺に約束させようとするんだ。俺は、そんな約束なんてする気はさらさらなかったけれど、あんまりしつこいもんだから、もちろん後で破るつもりで、その時はアナンと約束したんだよ。分かった、これっきりにするからって。そしたらアナンも折れて、とうとう俺はそいつと会うことになったんだ。アナンと俺は指定された部屋へと赴いた。もう胸は、張り裂けんばかりにドキドキしてたさ。ようやく探し求めていたものが手に入るんだからな。そして、そんな風に緊張しながら、待ち合わせをしていた部屋でそのパキスタン人と対面したんだ。そしたらそいつ、実際ヘロインを持って来てたのはいいんだが、取り引きの後に、試してみろって注射器出してきやがってさ。注射器なんて出されてさすがに俺はビビったんだけど、そこで引いたら負けだ、みたいに思っちゃって、やってやろうじゃんってことになったんだよ。それで、いいぜ、じゃあ打ってくれよ、ってパキスタン人に言ったら、アナンが、タケー、頼むから打つのだけは止めてくれ、お願いだから注射だけはやらないでくれ、と、何度も俺を止めようとするんだ。だけど俺は、全く聞く耳なんて持っちゃいなかった。大丈夫だから、と言って、俺が強引にアナンを退けてると、パキスタン人はスプーンの上で水に溶かしたヘロインの溶液を、ニタニタした表情で俺達の方を眺めながら注射器で吸い上げ始めた。そしてそいつは、差し出された俺の左腕に注射針を差し込んだんだ。その間中アナンは、何で注射なんてするんだ、売るだけでいいだろ、そんなことしなくたっていいじゃないか、みたいなことを何度もそいつに向かって言ってたんだけど、そいつは手っ取り早く俺に次のヘロインを買わせたかったんだろうな、アナンのそんな言葉など全く無視して一番効きの強い静脈注射という方法で俺に試させたんだ。そうすれば効率がいいからな。実際その一発は物凄かったよ。温かいヘロインの感覚が、腕の皮膚を突き刺した注射針の先から血管を通って全身に拡がって行くのが分かるんだ。そして次の瞬間、猛烈な快感が俺の全身を襲った。これは口では上手く言えないけれど、今までまるで味わったことのないような、衝撃的な快感だった。しばらく俺は、夢見心地でその感覚を味わっていたんだが、次の瞬間、急に心臓の鼓動が速くなっていくのを感じた。それはまるで胸の肉が盛り上がるぐらい激しい動きで、時間が経つにつれてどんどんどんどん速くなっていく。そしてだんだん息苦しくなってきて、気が付いたらまるで首の辺りを誰かに思いっ切り絞めつけられているように、全く息ができなくなっていたんだ。その時、俺は、軽はずみだった自分の行動を猛烈に後悔したんだが、既に遅かった。それから先は何にも憶えちゃいない。意識を失ったんだ。きっとパキスタン人の奴が、俺が初めてだっていうのを知らなくって、ヘロインの溶液を濃い目に作ってたんだろうな。もう、ものの数分で気を失ってしまった。それでその後、気が付いたら病院にいたって訳さ。後でアナンに聞いたところ、その時の俺の顔は、みるみるうちに青ざめていって、顔が真っ青になってしまうと、そのまま真後ろへブッ倒れたらしいんだ。とにかくかなりひどい状態だったらしい」

どんなに頑張っても

「その時のゴアは、かかってる曲もトランスからロックからレゲェから、何でもあったし、そこにいる奴らのファッションだって本当に多種多様だった。だからDJや会場によって雰囲気が全然変わるんだ。踊ってる奴らも色んな国の奴がいてさ。まあ、欧米人が殆どなんだけど、日本人は数えるぐらいしかいなかったかな。皆好き勝手やってて、今みたいにあんまりベタベタしてなかったんだよ。皆同じものを聴いて、同じものを目指して、みたいな取り決めがなくって、音楽でも何でも全く別のものが好きで考え方なんかも全然違うような奴らが自然な感じで一体化していくような、そんな自由な雰囲気だったんだ。だから人間見てるだけで面白かったんだよ。モヒカンのパンクスがドレッドのラスタマンとチラム回しながら話し込んでたり、もうイッちゃってる宇宙人みたいな風貌のレイヴァーがサドゥーみたいなヒッピーとひたすら踊り狂ってたり。もう、無茶苦茶だったよ。本当に」   そう言われてみると智の知っているゴアは、画一的で、どこか秩序立っていたような気がしないでもなかった。もっと色々なジャンルのパーティがあってもいいのではないかとは、智もゴアにいたときから思っていたことだ。

「そうなんですか……。話を聞いてると、何だかその方が面白そうですね」
「だろ? そう、本当に面白かったんだ。この世界にこんな土地が本当に存在するのだろうか、なんて、自分がそこにいるのにそのことが信じられないぐらい楽しかった。本当に夢みたいだったんだ」

智は、うっとりとその状況を思い浮かべた。そしてそんな体験をしている岳志をとても羨ましく思った。

「まあ、ゴアの話はいいんだけどさ、とにかく俺は、機会さえあればどんなドラッグでも貪欲にやりまくったんだよ。俺は何摂っても大丈夫なんだ、って調子に乗ってたんだな。全く馬鹿だったよ。それでゴアの後、マナリーに来たとき、チャラス売ってたアナンと偶然知り合ったんだ。たまたま知り合いのツーリストから紹介されてさ。それでちょくちょくアナンからチャラスやキノコ買ったりしてるうちに、アナンにマニカランを紹介されて、アナンの経営してるこの店へ連れて来られたんだ。それからしばらく、俺はこの町で色んなドラッグをやりまくっていたんだけど、それまでどんなに頑張っても、どうしても手に入らなかったものがあったのさ」

岳志は、そこまで話すと眉間に皺を寄せながらジョイントを深々と吸い込んだ。智は、岳志のその様子を眺めながら催促するようにこう言った。

「一体それは、何だったんですか?」 

智は緊張して岳志の次の言葉を待った。

「ヘロインだよ」

レイヴァー

「四五年前かな? まだゴアが今みたいにきちんとしてなくって、もっとぐっちゃぐちゃだった時。俺、すっごくトランスにハマッててさ。ゴアのシーズンが終わると、やっぱりみんなみたいにレイヴを追いかけてマナリーまでやって来たんだ。その時アナンと初めて知り会ったんだけど……」
「えっ、岳志さん、レイヴァーだったんですか?」

智は、今の岳志の落ち着いた様子からは岳志がパーティーで踊り狂ってる所など想像もつかなかったので、驚いてそう聞き返した。

「ああ、もう、ブリブリだったんだぜ」

そう言うと岳志は、席を立ってカウンターの裏辺りから古い写真ファイルを一冊引っ張りだしてきた。そしてパラパラとページをめくると、ああ、あった、あった、と言って智に一枚の写真を示した。示されたその写真を見て、智は思わず我が目を疑った。

「ええっ、これ、岳志さんなんですか?」

その写真には、蛍光色のベストにこれまた蛍光色のネクタイを締めて陶酔しながら踊り狂う岳志の様子がしっかりと写されていた。

「ああ。凄いよな。オレ」

かなり恥ずかしそうに岳志はそう言った。智は、吹き出しそうになるのをこらえながらその写真を眺め続けた。岳志は、もういいだろ、という風に写真を閉じると再び話し始めた。

「まあ、当時はそんなだったからドラッグに対しても見境なくって、もう何でもかんでもやってたんだ。手に入るものを片っ端から試していくっていう感じで。でも、ゴアで手に入るものっていったら、やっぱりアシッドとかエクスタシーばっかじゃん? だから毎日朝から晩までその二つばかり喰ってたんだよ。いい加減、喰い過ぎてアシッドが効かなくなってきたらエクスタシー喰って、とかね。ひたすらそれの繰り返しだった。もう、本当、無茶苦茶だったよ。当時のゴアは今みたいにちゃんとしてなかったからさ。本当におかしな奴ばっかりだったから、自分がそんな風になってたって良く分かんないんだ。普通の奴がいないから。それが普通なんだ、って思っちゃう。分かるかなあ? この感じ。俺達みたいにブッ飛んだ奴らの世界が、まるで常識としてまかり通っていたんだよ。本当、狂ってた。あんな経験はもう二度と無いんだろうけど……」
「今よりもっと凄かったんですか?」

智は、自分が見たゴアでさえ、十分色んな奴がいて何でもありだったと思っていたので、少し意外に思って岳志にそう尋ねた。

「今のゴアはトランス一色で、そこにいる人間もイスラエリーと日本人が殆どだろ?」
「ええ、まあ……」

疑念が確信に

目のきれいな人になら、智は今まで何人も出会ったことがあった。しかし、岳志のような目をした人に出会ったことは一度もなかった。一見清々しいその瞳の輝きは、見る者にこの世の明るさや美しさだけを感じさせるのだろうが、智は、その瞳の奥に潜む果てしない暗さのようなものの存在を敏感に感じとっていた。それは、心に同じ暗闇を持つ者同士だけが分かり合うことのできる、暗号のようなものなのかも知れなかった。欠落した智の心と同じように、岳志の心もどこか欠けているのかも知れない。

暗さを孕んだ岳志の明るい眼差しは、ある種独特の輝きを放っていた。決して深くはなく、暗くもない。浅く、川底の小石が臨める程に透明で、真夏の太陽に照らされた木々の若葉を反射する、山奥の清流の涼やかな輝き。しかし、表面的には全く暗さを感じさせないその爽やかな輝きこそが、反対に、岳志の胸の内の果てしない孤独を逆接的に表しているようであり、それが智の胸を強く打つのであった。智は、何故だか目頭が熱くなっていくのを感じた。

岳志の問いに智が無言で頷くと、ゆっくりと岳志は話し始めた。

「まあ、そっちのアクセサリーの方のビジネスは順調なんだけど、今回俺は、個人的にこっちの方でビジネスを展開しようと思うんだよ。アナンと組んで、この店のようなカフェを北インド一帯に広めていこうと思うんだ」

あっ、と、智は、我に返ったように心の中で小さく叫び声を上げた。

――― やっぱりだ! やっぱり俺はカモられていたんだ! ―――   

「この辺りはトレッカーが多いだろ。だから、そういう人達の中継点みたいな感じで、主にトレッカーをターゲットにしてやっていこうと思うんだ。もちろんガイドや何かも同時にやってさ。その辺はアナンが詳しいから心配ないし。店鋪をいくつ作っても対応できるように、何人もインド人雇ってどんどん店を増やしていって……。結構儲かると思うんだよな」

岳志がそう言うのを聞いて、智は、やはりか、と疑念が確信に変わっていくのを感じた。

――― やはり自分はお客の一人としか思われていなかったんだ。何が「清々しい瞳の輝き」だ! すっかり俺は騙されていた! ―――    

「へえ、そうなんですか。それは儲かりそうですね」

智は、少し皮肉のこもった言い方でそう言った。

「だろ? だから是非チャレンジしてみたいんだよ。まだこの地域はツーリスト達にとってもそこまでメジャーになってる訳じゃないからさ。やるなら今の内だと思ってるんだ」 岳志は智にジョイントを渡した。智は無言でそれを受け取った。プレマがアナンを呼ぶ声がして、日本語で話す二人の会話をずっと頬杖をつきながら訳も分からずただぼんやりと聞いていたアナンは、立ち上がってプレマのいるキッチンの方へと歩いていった。岳志は、アナンが席を外すのを確認すると、智の方へは視線を向けずにゆっくりと話し始めた。

「実は俺さ、あいつに命を助けてもらったことがあるんだよ」

そう言うと岳志は、アナンの歩いていった方へちらりと視線を向けた。

「え? あいつって、アナンのことですか?」
「ああ」

岳志はゆっくりと頷いた。