俺の友達

――― バラナシ? ガンガー? 日本人? それがどうしたって言うんだ? 死んだ? 一体、一希は何を…… ―――   

智は、一希が何を言おうとしているのか良く理解することができなかった。恐らく心路も同じ気持ちなのだろう、眉間に皺を寄せ、怪訝な表情で一希を見つめている。

「死んだって、誰が? いつ? 何? 何言ってんだよ、お前。一体、何の話をしてるんだ?」

一希は、なかなか理解しようとしない心路にイライラしながらこう言った。

「あのさ、キヨシっていう、俺の友達が死んだの。日本人。つい最近のことだよ。ガンガーで泳いでて、俺の目の前で死んだんだよ。河に流されてさ!」

一希は、そう言うと、薄らと微笑みを浮かべながら大きな音を立てて壁にもたれかかった。

――― えっ、キヨシ? キヨシって言ったら、あの…… ―――   

智は、一希の口から発せられたその名前を聞いて、全身からスーッと体温が抜けていくような感じがした。

「ねえ、ひょっとしてそのキヨシって、二十歳ぐらいで背の高い……、ちょっと頭のカールした……」

智がそう言うと、一希は、少し驚いたように智の方を振り返った。

「ああ、そうだよ。バラナシにずっといたキヨシだよ。何、智、知ってんの?」

智は、急に目の前が暗くなっていくような気がした。眩暈がして、思わずその場に座り込んだ。清志とはそこまで親しく付き合いがあった訳ではない。しかし、バラナシでは同じ宿の同じドミトリーでしばらく一緒に過ごしていた間柄だ。共にボンをしたり、メシを喰いに行ったりしたことも何度かある。その清志が死んでしまってもうこの世にいないとは……。智には俄に信じ難いことだった。屈託のない清志の笑顔を、智は良く憶えていた。

「そんな……、あの清志が死んでしまったなんて……。一体、どうして……」

智は、我を忘れて独り言のようにそう言った。一希は、智のそんな独り言に答えるかのように静かに話し始めた。

「清志はさ、その時アシッド喰ってたんだ。初めてのアシッドだったらしい。みんなで一緒に摂ったんだ。あいつ、俺らがやるものはみんなやりたがったし、ボンしてたって絶対最後まで、たとえ潰れたってついて来たぐらいだから、勧められて断るなんてことはまずなかった。フラフラになりながらさ、何でそこまでして、やってたんだろうな。まるでいつも何かと闘ってるみたいだった。ハハハハハ、かわいい奴だったよ。真っ直ぐで、熱くって……」

一希は、シャツの胸ポケットから煙草を一本取り出すとそれを口にくわえ、ライターで火をつけた。吐き出された煙が、ゆっくりと一希の全身を取り巻いていく。

「あいつにアシッド喰わせたのは、俺なんだ。ハハハハハ」

酩酊

「ああ、分かってる、分かってるよ、止めろよ、もう……」

おどける一希をなだめるように、心路はそう言った。一希は、ニヤニヤと意味ありげに微笑みながら、テーブルの上の灰皿に灰を落した。灰皿の横には、ヘロインの粉が散らばっている。心路は、横目でちらりとそれを見ながら一希に言った。

「一希、何摂ってんだ? ちょっと、トゥーマッチじゃねえか?」

一希は、その言葉を聞き返すように心路の方へ耳を傾けた。

「え? 何言ってんの、心路、トゥーマッチ? 誰が? この俺が? そんな訳ねぇじゃん? 平気だよ、だってこの俺だぜ? 大丈夫に決まってんじゃん、何言ってんだよ、心路? ハハハハハァ」

一希は、両手で心路の肩を掴むと軽く揺さぶりながらそう言った。心路は、鬱陶しそうに、ふざけんなよ、と言いながらその手を振り払い、一希の体を突き飛ばした。突き飛ばされた勢いで、一希は、どん、と音を立てて壁に当たると、声を出して笑いながら床に倒れ込んだ。そしてそのままの姿勢でポケットの中をごそごそと探って、何か小さな赤い紙片のようなものを取り出した。更にそれを一欠け切り取ると、人差し指の上に乗せ、ペロリと舌を出して舐め上げた。床に捨てられた残りの紙片には、赤い下地に、黒く、肖像画のようなものがプリントされていた。一希の舐めたそれは、どうやらLSDらしかった。

「おい、一希! 何やってんだよ、それ、”ゲバラ”じゃねえかよ! お前、そんなにキマッてんのにその上そんなもん喰うんじゃねぇよ、やめとけよ、一希!」

心路は、とっさに一希に飛びかかり、舌の上のアシッドを奪い取ろうとした。しかしそんなことができる訳もなく、一希は、難無く舌を引っ込めて心路の鼻先で、残念でした、と言わんばかりに人差し指を左右に振った。

一希の摂ったアシッドは、キューバ革命の英雄「チェ・ゲバラ」の顔がプリントされた、最近出回り始めたばかりの新作で、それはまだ、ごく一部の者しか手に入れることのできない貴重な代物だった。心路ですら試したことがなく、話に聞く所によると効き目はかなり強いらしい。一枚丸まるいっぺんにやると大変危険なことになるという噂だった。一希は、様々なドラッグでかなり酩酊した状態で、更にそれを一枚摂ったのだ。心路が心配するのも無理はなかった。しかし一希は、心路のそんな心配をよそにニコニコしながらそのアシッドを舐めている。心路は、諦めるように首を振った。

「一希、お前、一体どうしたんだよ……。最近、ちょっとおかしいぜ? 何があったのか知らないけど、そんな無茶ばっかりしてんじゃねえよ。もし何かあるんだったら、話してみろよ。一人で抱え込んでいないでさ。そんな自棄になってても仕方ないだろ?」

心路が諭すようにそう言うと、一希は、いきなり飛びかかって心路の胸ぐらを掴んだ。

「自棄? 自棄になんてなってないぜ、俺は、ヨウ、心路。昔からこうじゃん? 俺はさ、だろ? 何にも変わっちゃいないぜ、何にもな」

一希は、そう言うと心路の頭を両手で固定して突然唇にキスをした。ふいを突かれた心路は、慌てて一希の腕を振り払って、何すんだよ!、と言いながら、袖口で大袈裟に唇を拭った。一希は、大きな口を開けてケタケタと笑いながら、後ろ向きに倒れ込んだ。そして灰皿の上で燃え尽きようとしている煙草を手に取って、満足そうに片肘をつきながら横になった。そして、殆ど燃えかすのようなその煙草を一服大きく吸い込んだ。

「あのさ、人が死んだんだよ。バラナシで。ガンガーに流されて」

突然の一希のそのセリフに、心路と智は驚いて一希を振り返った。

「えっ、何だって?」

心路がもう一度そう聞き返すと、一希は再びゆっくりとこう言った。

「だからぁ、バラナシで、日本人が、ガンガーに流されて、死んだんだ」

正反対

そう言うと心路は、智の方にちらりと目をやった。智は、仁に、初めまして、と小声で言って会釈をした。智は、仁のことはゴアにいる時から良く知っていたが、話をするような間柄ではなかったので、一応そのように挨拶をしたのだ。すると仁は、ああ、智だろ?、知ってるよ、ゴアにいたじゃん、と、思いがけず気軽な調子で智にそう言った。智は、予想に反して仁が自分を知っていてくれたことに何だか嬉しくなって、はい、そうです、ゴアにいました、と笑顔で答えた。仁は、微笑みながら何度か頷くと、心路の方に向き直って話し始めた。

「俺も、最近の一希はちょっと変だなって思ってたんだよ。心路、俺のことはいいから、一希の所に行ってやりなよ。きっと何か胸の中に溜め込んでるものがあるに違いないぜ。あいつもああいう性格だから、素直に他人に話すことができないんだよ。だから心路が行ってそれとなく聞いてやりな。話を聞いてやりさえすれば、多分、一希もすっきりするんじゃないのかな」
「ひょとしたらそうなのかも知れませんね。あいつ、何か人には言いにくいようなことを抱え込んでるのかも……。分かりました。俺、今から一希の所へ行って、ちょっと話をしてきます。何となくあのままだとあいつ、どうにかなっちゃいそうで……」
「それがいいと思うぜ、心路。そうしてやりな」

仁は、心路を眺めながら何度か頷いた。智は、その風貌とは全く正反対に優しい言葉を発する仁に、少し意外な印象を受けた。仁のことを、もっと冷たく、寡黙な人間だと思っていたからだ。心路は、早速立ち上がると、智、行こうぜ、と智を促し、仁に挨拶をして部屋から出ていった。智も、仁に軽く会釈をすると部屋を後にした。仁は、右手を上げてそれに応えながら二人を見送った。仁のその姿は、相変わらず亡霊のようにぼんやりと闇に浮かび上がっていた。智は、仁のその冷たい外見と意外にも温かいその内面との正反対のギャップに戸惑いながら、不思議な気分で心路の後を追った。そして、人間、見た目だけでは分からないものなんだな、と心の中で改めてそう思った。

部屋に戻ると、一希は、これまで見たことがないぐらいの酩酊状態に陥っていた。一体何を摂ったのか知らないが、四肢は方々に乱れ、頭をぐったりと壁にもたれかけながら天井を仰いでいる。心路と智は、顔を見合わせると静かに一希に近寄った。そして心路が、一希の肩を揺らそうとしたその時、心路は、反射的に素早く手を引いた。眠っていると思っていた一希が、おどけて心路の手を噛もうとしたのだ。

「ハハハハハァ、ヤァ、心路、どうしたの、何驚いてるの?」

一希は、定まらない視線を泳がせながら、大声で心路にそう言った。

「何だよ、驚かせるなよ、お前! 眠ってるかと思ったじゃねえかよ!」

一希は、凝り固まった筋肉をほぐすようにグルグルと首を回した。そしてテーブルの上に散らばっていた煙草を一本手に取ると、ライターでそれに火をつけた。そして深々と煙を吸い込み、目を閉じて溜め息をつくようにしながらゆっくりと吐き出した。

「起きてたぜ、ちゃんと。ホラ」

一希は、目を剥きながら心路の方へ顔を突き出した。

隙間もない程

心路は、そう言うと人混みを掻き分けて一希の方へと駆け寄った。そして、一希、何してんだよお前、やめろよ、と一希の肩を掴んだ。一希は、そんな心路を振り返ると、うるさいよシンジ、ちょっと黙ってろよ、と言ってその手を振り払う。その一希のあまりの形相に、心路はたじろいだ。何も言い返すことができなかった。すると仁が、いいんだよ、心路、と言いながらゆっくりと立ち上がった。仁のその立ち方は、まるで亡霊のようで、そこに人間としての存在感を全く感じさせなかった。智は、目を擦って、仁が本当にそこに立っているかということを確かめるように、もう一度見返した。仁は、確かにそこに立ってはいたものの、その姿は、まるで向こう側が透けて見えそうな程、薄く、透明だった。

「ほう。何、ジンさん。タトゥー、見せてくれるの?」

一希の挑むようなその問いかけに、仁は、ああ、と小さく頷くと、着ていた真っ黒のロングスリーブシャツを、その場で脱ぎ捨てた。薄暗がりの中で、窓の外から降り注ぐ微かな月光によって照らし出された仁の青い肉体に、皆、息を呑んだ。その体は、タトゥーの青いインクによって肌の色が判別できない程ぎっしりと埋め尽くされていたのだ。全身が、呪術的な楔形の紋様で隙間もない程覆い尽くされている。それは、スタイリッシュであるとかないとかいう次元の問題ではなく、もう、見る者に嫌悪感すら抱かせるような気味の悪いものだった。何か、土俗的な怨念が沸々とその青い肌の下から湧き出てくるようで、とても長い間正視できるような代物ではなかったのだ。見ている者に呪いをかけるような邪悪な瘴気が、全身から吹き出しているようだった。智は、それを見て少なからず衝撃を受けながらも、ああ、仁は、これを抑えるためにいつも黒い服で全身を覆っているのだ、と、仁の今までのその行動をようやく理解した。

さすがの一希も、目の前でそんなものを見せつけられて、たまらず目を背けた。隣にいた心路も含め他の者も皆、目を伏せ沈黙してしまった。仁は、静かにシャツを着直すと、どうだ、これでいいのか、と一希に尋ねた。一希は、フンッ、と鼻を鳴らすと、肩をすくめながら白け切ったような表情でさっさと部屋から出ていってしまった。残された他の者達も、何だか居心地が悪くなったのか、時間が経つにつれて一人、二人、と部屋から立ち去った。そしてとうとう、智と心路と仁の三人だけが部屋の中に残されることになった。 心路は、気まずい沈黙を持て余して仁に話しかけた。

「あの……、仁さん、すいませんでした……、一希が、失礼なことしてしまって……」

仁は、衣服を整えながらその場に胡座をかいて座り直した。いつも黒い服を着ている仁は、暗い部屋の片隅に腰かけると、まるで闇の深部に同化しているようだった。全く日に焼けていない青白い肌だけが、月や星の光を反射して闇にぼんやりと浮かび上がっている。

「何だよ。心路が謝ることないさ。それに一希のことだって、俺は、全然気にしてないんだぜ。ほら、そんなとこ突っ立ってないで座りなよ」

仁にそう言われて、心路と智は仁の前に腰を下ろした。

「でも、仁さん。あいつ皆の前で仁さんに恥かかせるような真似して……。あいつ、この頃何があったのか知らないけど、ちょっとおかしいんですよ。急にあんな風に他人に対して挑発的になったり、まるで自分のことをコントロールできてないみたいなんです。それが、何だかだんだんエスカレートしてきてるみたいで……。ここにいる智も、つい先日、似たような目に合ってるんですよ」

異変

「おい、智、大丈夫かよ?」

心路が、倒れている智を抱きかかえながらそう言った。智は、心路の腕の中で、ああ、シンジ……、と、ゆっくりとまどろみの世界から立ち返りながら微笑みを浮かべた。心路は、智のその様子を見て少しホッとしたように溜め息をついた。

「全く一希の奴、やり過ぎなんだよ。智の後、あいつ自身も自分でバケボンやって、もう、今、訳分かんなくなってんだよ。付き合ってられねぇぜ、本当に。それより智、大丈夫か? 意識あるか?」

心路のその問いかけに、智は、朦朧とした表情で答えた。

「ああ、何とか…ね。大丈夫だと思うよ、多分……」
「そうか。良かった。いくらバケボンって言ったって、あんなに一気にやることないのにさ、一希の奴、智に無茶させやがって……。まあとりあえず、智、これで顔拭きなよ」

心路は、そう言って持ってきたトイレットペーパーのロールを適当に伸ばして智に与えた。智は、礼を言いながらそれを切り取って、涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭った。するとその時、部屋の中から一希の怒号が聞こえてきた。心路は、驚いて智と顔を見合わせると、ごめん、ちょっと中見てくるわ、と言って急いで部屋の中へと戻っていった。

心路の後を追って、倒れ込むように危うい足取りで智が部屋の中へと入っていくと、中はしんと静まり返っていた。異変を感じて周囲を目を凝らして良く見てみると、皆、一定の方向をじっと無言で眺めていることに気が付く。更に皆の眺めている視線の先を追ってみると、そこでは一希が、仁の目の前で仁王立ちになって無言で仁を見下ろしていた。皆、息を呑んでその様子を見守っている。

「おい、智、あれ……。何してんのかな……、あいつ……」

呆然とした様子で、心路が智にそう言った。

「さあ……」

智は、全く事情が飲み込めず、ゆっくりと首を左右に振った。

「ねぇ、仁さんさぁ。あんた、ホフマン五枚摂って平気だったって、皆言ってっけど、それ、本当?」

一希が、唇の端を歪めて微笑みながらそう言った。しかし、その鋭い視線は決して微笑んではいなかった。

「ああ……」

仁は静かにそう答えた。

「じゃあさ」

そう言いながら立ったまま膝に手を突いて、一希は仁の鼻先に顔を突き付けた。

「あんたの体に彫ってあるタトゥー、見せてよ。皆、気になってんだぜ」

一希がそう言うと、周りからどよめきが起った。

「あいつ、仁さんに何言ってやがんだよ、ちょっと俺、止めてくる!」

拍手や歓声

一希は、仁の手首のタトゥーにちらりと視線を落すと、仁にこう言い返した。

「ビビったんすか?」

鋭い視線で仁を見下ろしながら、あの、赤い蛇のような舌で、一希は唇を舐めている。ざわついていた部屋の中が、一希のその一言によって一瞬にして静まり返った。

「あいつ……、何言ってんだよ?」

一希のその一言に、心路が、驚いたようにぽつりとそう呟いた。 

しかし、仁は、少しも動じることなく、表情を全く変えずに一希を一瞥すると、再びもとのように目を閉じた。一希のすぐ横に座っていた男が、おい、一希、お前、仁さんに何言ってるんだよ、ほら、謝っちまえよ、と一希の腕を掴みながらしきりに小声でそう囁いた。一希は、その男の言うことを全く無視して腕を振り払うと、フン、と鼻を鳴らして、ヨウ、みんな、智の持ってきたクリームでバケボン始めようぜ、ビビってる奴は放っといてさ、と大きな声でそう言った。皆は、仁を中傷するような一希の言動に戸惑いながらも、その場の雰囲気に呑まれてしまい、控えめにその言葉に賛同した。 

部屋の真中に、水を張ったポリバケツと底の部分を切り取ったミネラルウォーターのペットボトルが用意された。一希は、誰かから借りてきたチラムに智のクリームを詰め込むと、自分でそれに火をつけて、水の中に半分程沈めてある底の無いペットボトルの口に差し込んだ。そしてゆっくりとペットボトルを水の中から引き上げていく。すると、内部の気圧の変化でチラムの差し込まれた口の部分から、大量の煙が、ペットボトルの中へと入り込んでいった。さらにそれを、切り取られた底の部分すれすれまで引き上げていくと、ペットボトルの中は、もう、真っ白になる程チャラスの煙で充満していた。

一希は、満足そうにその様子を眺めると、群集の中から智の姿を探し出し、にっこりと微笑んで手招きをした。

「やっぱり一発目は、このクリーム持ってきた智でしょ? ほら、智、こっち来いよ!」 突然一希の指名を受けた智は、えっ、オレ!?、と戸惑いながら我が身を振り返ったが、周りから沸き起こる拍手や歓声のせいで、もう既に引くに引けない状態になっていた。智が渋々一希の方へと近づいていくと、一希は、早く、早く、と手招きして智をポリバケツの方へと促し、煙のいっぱい溜まったペットボトルの口から素早くチラムを引き抜いた。

「ほら、サトシ、口つけろよ!」

智は、一希に言われるがままそこへ口をつけたものの、それからどうすれば良いのか分からずにその姿勢のままボーッとしていると、一希が、馬鹿、何やってんだよ、そのままボトルを沈めるんだよ!、と言って強引に智の後頭部を押さえ付けた。いきなり頭を押さえ付けられた智は、ペットボトルが沈んでいくにしたがって、中にいっぱい詰まった濃いチャラスの煙を否応無く口から吸い込んでいく形となった。智は、必死になって抵抗を試みたが、一希が更に力を込めて押し付けてくるので、最後にはバケツの水を誤って飲み込んでしまう程深々と、ペットボトルを水の中へと沈め切った。要するに智は、ペットボトルの容量二リットル分のチャラスの煙を一気に吸い込んだということになる。

智は、濡れた顔をバケツの中から勢い良くあげると、目を白黒させながら喉を抑えて部屋の外に駆け出していった。そんな智の背後から、一希や皆の笑い声が響いてくる。外に出ると、木製のテラスの床に智は倒れ込んだ。そして激しくむせ返った。むせ返る度に、涙や鼻水が顔全体から吹き出してくる。乱れる視界の中で、遠くの山々が星の輝きによってぼんやりと照らされているのが見えた。背の高い針葉樹林達が、何本も、うねるように絡まり合っていく。智は、不思議と祖母のことを思い出していた。いつも祖母と一緒だった、懐かしい幼少の日々……。ああ、あの頃の俺は、一体どこへ行ってしまったのだろう……。 

彫りの練習

そんな伝説の男、仁が、まことしやかにそう言うので、その場にいた全員は、まるで高名なチャラス評論家から発せられたありがたい御託宣のようにその言葉を賜り、更に輪をかけて智のチャラスを賞賛するのだった。しかし、いくらそのチャラスが上質のものであろうとも、四六時中アシッドやエクスタシーなどの向精神薬でぶっ飛んでいる彼らのようなパーティーフリーク達が正確な判断など下せられる筈もなく、智は、皆いいかげんなものなんだな、と幾分呆れながら、ギンギンにキマッている彼らをなだめるようにしてあしらっていた。  
「しかし、智がこんなの仕入れて来てたとはな。知らなかったよ。何だよ、もっと早く教えてくれれば良かったのに」

心路は、智を責めるようにそう言った。

「ごめん、ごめん。別に隠してる訳じゃなかったんだけど、心路達といるといつもジョイントが回ってるからさ。ついつい出しそびれちゃって」

智は、申し訳なさそうに心路に詫びた。心路は、嘘、嘘、気にしなくていいんだよ、と笑いながら首を振った。するとその時、仁達が座っている所から一希が大声で何か喋っているのが聞こえてきた。

「仁さん、バケボンやりましょうよ、バケボン! こんな、いいクリームがあるんだ。バケボンでやったらきっとブッ飛んじゃいますよ!」

一希は、仁の鼻先で挑発するようにそう言っていた。

「いや、俺はもう十分キマッてるからいいよ。一希達でやってくれ」

仁は、胡座をかいた姿勢のまま背筋をしゃんと伸ばして、薄目で一希を見ながら物静かにそう言った。

薄暗い部屋の中で、仁の青白い肌がぼんやりと浮かび上がっていた。長袖を着た腕の先からトライバルのタトゥーを覗かせている。きっと服で隠された全身にはおびただしい数のタトゥーが彫り込まれているに違いない。多くのタトゥー職人がそうするように、仁も、自分の体を使って彫りの練習をしていたという噂を聞いたことがある。しかし仁は、ゴアのようにどんなに暑い地域でも必ず長袖を着ていたため、誰も彼の上半身のタトゥーを見たことがなかったのだ。ただ、太腿から膝下にかけて一面に彫られた、美しい原始的な幾何学模様は、仁がよく膝丈のパンツを履いていたせいもあって、皆知っていた。そして仁が自分で彫ったというその彫りの見事さに惚れ込んで、たくさんのレイヴァー達が仁にタトゥーを依頼した。そして噂が噂を呼んで、それらの者は、今もなお後を絶たない。

それほど仁が有名なだけに、仁の上半身のタトゥーがどれだけ凄いものなのか皆こぞって知りたがったが、仁は、決してそれを見せようとはしなかった。人前で肌を露出するのを仁は極端に嫌ったのだ。ただ、手首の辺りに袖の裾からちらりちらりと覗かせている青いタトゥーが、皆の想像力をふんだんに掻き立てていた。しかし、口の悪い一希などは、仁さんがタトゥー見せないのはさ、あれ、きっと自分で彫って失敗してるんだぜ、だから誰にも見せられないんだよ、などと陰で冗談まじりに揶揄していたのを、智は、今、向き合っている二人の様子を眺めながら何となく思い出していた。

タトゥーイスト

「よお、どう、調子は。元気?」

智は、少し緊張して微笑みながら、ああ、まあまあだよ、と答えた。小さく頷きながら一希は、そう言えば、と何か思い出したように話し始めた。

「明日、パーティがあるって」

心路は、瞳を輝かせながら一希の方を振り返った。

「マジで!?」

一希は、顔をしかめて小刻みに何度もジョイントを吸い込みながら、小さく頷いた。それは、一希の特徴的な吸い方だった。一希は煙草もそうやって吸う。

「それ、どこからの情報なの? 確かなんだろうな?」

一希に詰め寄りながら心路はそう言った。一希は、心路に煙を吐きかけながら、まあ落ち着きなよ、となだめるように言った。心路は、目を細めながらその煙を払った。

「オーガナイザーのイスラエル人に聞いたんだよ。ゴアから知ってる奴さ。DJもそろそろ集まってきたし、明日の晩なら大丈夫だって。今頃、会場組んでるところじゃないかな」「マジかよ!? やったぜ! この一週間、どんだけ首を長くして待ってたことか! やったな、おい!」

心路は、興奮しながら智の肩を叩いた。

「でも待ってよ、心路。パーティって言ってもまだそんなにでかいやつじゃないぜ。集まっても二三十人ぐらいの小さなものさ。まだここもそんなに人が集まってきてる訳じゃないから……」
「馬鹿、いいんだよ、そんなことは。少ないって言ったってこの前ぐらいのもんだろ? パーティさえあればそれでいいんだよ」

そう言いながら心路は一希を抱きしめた。一希は、呆れた様子でそんな心路を尻目に天を仰いだ ―――   

その晩、同じ宿に宿泊しているタトゥー職人の仁の部屋に、心路や一希の仲間が集まってボンをした。仁は、ゴアやマナリーだけに限らず、世界中のパーティプレイスをタトゥーマシンを携えながら旅をしているタトゥーイストだ。そこに集まってくるレイヴァー達にタトゥーを施しながら生計を立てている。そんな仁の部屋に皆が集まったその晩は、智がマニカランで手に入れたフレッシュクリームの話題で持ち切りとなった。皆、その効力に心酔してしまったのだ。

「これ、凄いね」

目を閉じて瞑想するような姿勢で仁がそう言った。

仁は、当時、その効きの強さと手に入りにくさで伝説となっていた「ホフマン」というLSDを続けざまに五枚摂っても意識を喪失することなく、三日三晩続いたパーティをぶっ通しで踊り続けたとして、最早伝説となっている程の男だった。その伝説は、コアなレイヴァー達の間では既に語り草となっており、当時ゴアにいた者なら大抵その話を知っていた。

おかしな奴

「サトシ、サトシ」

ウトウトしかけている智に、心路が、巻き上がったジョイントを差し出しながら声をかけた。我に返って智はそれを受け取った。

「ああ、ごめんごめん。あんまり気持ち良かったんでつい……」

心路は、軽く智に微笑みかけた。

「しかし、あれだね。デリーではあんなに憎らしく思っていた太陽が、ここではこんなに清々しいものに変わってしまうなんて。同じインドとは思えないよね。本当に」

そう言いながら智はジョイントに火をつけた。煙の作用が全身に広がって智の視界を歪ませる。するとその歪んだ景色の奥から、金髪をくりくりにカールさせた背の高い欧米人が、智の方へ近寄って、強いイギリス訛りの英語で智に向かってまくしたてた。

「この辺でトリップを見なかったか? 昨日ここで二つ落したんだけど……。君達見なかったか?」

智は、その問いの内容に少し戸惑いながらも、いいや、知らないよ、と首を振った。彼はすかさず心路を見返したが、心路も同じように首を振ると、途端に落胆したような表情で、智達の周りの芝生を這いつくばって探し始めた。しばらくそうしていたが、とても見つからないと悟ると、彼は、ようやく立ち上がって残念そうに首を振り、名残惜しそうに去っていった。彼の去った後、智と心路の二人はお互い顔を見合わせながら笑い合った。

「ハハハ、おかしいよね、あいつ。アシッドなんてこんな所で落して見つかる訳ないじゃん。あんな小さなもの。しかも、昨日だなんて。ハハハハハ」

智がそう言うと、心路も笑いながら言った。

「クックック。かなりイッちゃってるよな、あいつ。きっとさっきも何かキマッてたんだろうよ。それで昨日ここでアシッド落したことを思い出して、それが気になって気になってしょうがなかったんだろ。ハハ」

二人がそうやって笑っている所へ、突然一希が顔を出した。

「ヤァ、何だよ二人とも。楽しそうじゃない」

心路は、笑いながら一希の方を振り返った。

「ああ、一希。来たのかよ。まあ、座りなよ」

一希は、椅子を引いて心路の横に腰を下ろした。

「何、どうしたの?」
「いや、ちょっとおかしな奴がいてさ」

心路は、一希にジョイントを渡しながらそう言った。一希は、それを受け取ると一服大きく吸い込んで、一息に煙を吐き出しながら心路に尋ねた。

「おかしな奴って?」

笑いながら心路はそれに答える。

「ハハ、変な外人がさ、昨日ここでカミを落したんだけど見なかったか、とか言って俺達に聞いてくんの、クッククク」
「へえ、それで?」
「それでって? ある訳ないじゃん、そんなの。こんな芝生の上だぜ?」

一希は、心路の話にあまり興味なさそうに頷くと、灰を芝生に落しながら智の頬を軽く叩いた。

臨界点

心路の宿泊している宿には、日本人ばかりが五六人宿泊していた。大体がゴアからパーティを追って流れてきた旅人達だ。智が知っている者も何人かいた。しかし、そもそもこのオールド・マナリーという小さな村全体が、ほぼ、ゴアにいた人間で占められているため、智は、心路の宿の人間だけでなく、この村に滞在しているツーリストの殆どの顔を知っていた。話をしたことはなくとも、少なくとも顔ぐらいは見たことがあった。ゴアにいたイスラエル人のドラッグディーラー達に至っては、ほぼ全員ここにいる。一本しかない村のメインストリートを歩いていれば、嫌でも顔を合わせる。中には智の顔を覚えている者も何人かいて、声をかけられることもままあった。

そんな村なので、しばらく滞在しているとまるでゴアの日々が戻ってきたかのような錯覚を感じることがあるのだが、ただ、決定的に違うのは、ここが山の中であるということでゴアのようなビーチの開放感や気軽さといったものは一切無く、一歩間違えたら確実に命を失いかねないようなストイックな緊張感を絶えず感じ続けていなくてはならないということだった。それが、ゴアとマナリーの、唯一にして最大の違いであった。

毎日の生活は何も変わらない。起きてから眠るまで何らかのドラッグで酔っ払い、パーティの始まるのを待つ。そしてパーティが終わると次のパーティまでを、またそのように生活しながら待ち続ける。それの繰り返しだ。他には何の目的もない。ただそうやって毎日を過ごし続ける。ただ、今の時期は、マナリーのシーズンとしては少し早い時期に当たるため、そう頻繁にパーティがある訳ではなかった。つい一週間程前、初めてのパーティが開催されたところで、もう二三日後に次の二回目のパーティがあるという噂だった。ただ、こういう予定も流動的で、それらはあくまでも噂に過ぎず、はっきりとしたことはその当日になってみないことには誰にも分からない。オーガナイザーやDJ、はたまた警察の都合によってコロコロ変えられてしまうのだ。オールド・マナリーに滞在しているレイヴァー達は、当てにならないそれらの情報に一喜一憂し、また、翻弄されながら、今か今かとひたすらその日を待ち続ける。そして散々裏切られ続けてきた彼らの期待はしだいにフラストレイションへと変わり、そのフラストレイションも、先のパーティが終わって一週間が経とうとしている今、そろそろ臨界点に達しつつあった。村全体が、ピリピリとした不穏な緊張感で満たされていた。

「今度のパーティって、いつになるの?」

智は、カフェの中庭にあるオープンテラスでジョイントを巻いている心路に向かって声をかけた。心路は、智の方へは顔を向けずに手元に神経を集中させながらそれに答えた。

「さあ…な。多分、明日か明後日ぐらいになると思うんだけど……。最近、色んな情報が錯綜してて、良く分かんないんだよ。この前のパーティだって、その日の夕方になってようやく分かったぐらいなんだから」

心路は、シガレットペーパーの縁をツーッと舌の先で舐めていく。智は、その様子をぼんやりと眺めていた。

心地良い日光が、テラスにはさんさんと降り注いでいる。それは、肌寒いマナリーの空気をとても気持ちの良いものに変えていた。チャラスの十分に回っている智は、そうしているだけで思わず居眠りしてしまいそうだった。