二人の旅人

ある種、悟りを開いたような気分で直規と心路を見下したような所が胸の内にあった智は、恥ずかしくて二人の顔を直視することができなかった。きっと心路も、直規ほど論理的ではないにしろ、感覚的に分かっているのだろう。智はそんな気がした。そして改めて自分の未熟さを恥じた。穴があったら入りたいとはこのことだった。

「いや、いいんだよ、直規、もう謝らないでくれ。心路も、俺、何だか恥ずかしいよ。俺の方こそ謝らせてくれ」

下を向いたまま智はそう言った。

「もう二人とも仲直りでいいじゃん? ほら、智も、その腰巻きつけとかないとまた忘れるぜ」

心路が、二人のじれったいやり取りを見兼ねてそう言った。

智は、照れ笑いをしながら貴重品入れを腰に巻いた。すると直規が、何も言わず横から手を差し出した。智が少し戸惑ってそれを見ていると、直規はニコッと微笑んで、がっちりと智の右手を握りしめた。直規の手の温かさと力強さが、智の手にしっかりと伝わってきた。二人のその様子を眺めながら心路は満足そうに微笑んだ。

翌朝、智は、バックパックを背負った直規と心路を見送った。突然出発することにしたのだそうだ。朝、部屋の扉を誰かがノックするので出てみると、二人が、別れの挨拶を言いにきた所だった。何でもゴアで出会った女と昨晩再会し、彼女が今日ジャイプルへ行くと言うので二人も一緒について行くことにしたのだそうだ。智は、昨日の今日でちょっと驚いたが、直規に、ごめん、かなり可愛い子なんだよな、と耳打ちされて引き止めようがなかった。智、どうせ、デリー行くだろ?、デリーでまた会おうぜ、と、強引に約束を交わさせられた後、バスステーションまで見送ることになったのだ。

朝日の中、バックパックを背負った二人の旅人が、小さなマイクロバスに乗り込んでいく。荷物をバスの天井に乗せる、乗せないで直規が車掌と揉めているのを、智は微笑ましく見ていた。心路は既にバスの中に乗り込んでいる。その隣には日本人の女が座っていた。ショートカットの金髪を所々グリーンに染め抜いて、蛍光色のラインの入った派手な服を来た、いかにもゴア帰りというような感じの女だった。ただ、顔立ちはとてもきれいで、例え濃いアイラインを引いて分厚くアイシャドウを塗っていたとしても、その整った顔立ちは少しも損なわれてはいない。彼女は、不吉さと清楚さの合わさったような、独特の雰囲気を醸し出していた。

しばらくすると、直規が、バスに乗り込んでいって彼女の隣に腰を下ろした。直規と心路は智の方に向かって手を振った。女は、こちらを見るともなく振り向いて、少し微笑んだ。そしてすぐに視線を逸らすと、町の景色を退屈そうに見回した。智はぼんやりとその様子を見守った。やがて車掌が人数を確認して運転席に乗り込むと、バスは白い排気ガスをもうもうと吐き出し始める。

「じゃあな、智、悪いけど俺らは楽しくやらせてもらうよ、デリーでまた会おうぜ」

直規がそう言った。智は、苦笑いしながら適当にそれをあしらった。バスが走り始める。直規と心路は再び智に手を振った。

「智、また会おうな」

智は、砂埃を立てて走りゆくバスを、見えなくなるまで眺め続けた。しばらくそうしていると、その姿は完全に見えなくなった。何だか突然周りが静かになったように智は感じた。

死に神の誘惑

しどろもどろになりながら、やっとそれだけのことを智は言った。

「そうだったのか、いたんだ、ハハ、分かんなかったよ……。でも何せ、ごめんな、智……」

少し照れ臭そうに直規はそう言った。

「いや、直規、俺の方こそ何か、いい加減なこと調子に乗ってべらべら喋っちまって……。多分それで怒ったのかなって……。悪かったよ……」

智が言った。

「いや、智は謝らなくていいんだ、あれは俺の問題だったんだよ。あのとき智の言っていたことは、何となく分かるような気がするんだ、俺も……。そういうことってみんな誰でも、何となくは分かってると思うんだ、多分。シラフだろうが、キマッていようが、心のどこかでそういう世界のことは意識してると思うんだよ。でもキマッてる時なんかは特にそうなんだろうけど、みんなそういうことにはあんまり目を向けないようにするんだ。どうしてって、怖いからさ。死んだりすることを考えるのが怖いんだ。俺もそうだった。智の話が、俺の見ないようにしてるそういう部分をあからさまに刺激するものだから、怖くってああいう態度をとってしまったんだ。みんな、怖いからアシッドとか喰って上っ面のいい所だけでトリップできるようにトランス聴いてガンガン踊るんだろ? 恐怖を忘れるために踊るんだ。止まっちゃいけない。追ってくる死に神から逃げ切るために、そいつを見ないようにするために、頭ん中空っぽにして踊り続けるんだ。それは……、祈りみたいなもんだろ? 原始的で、最も初歩的な。ちっぽけな人間が裸で泥だらけになって踊り狂って、昇りくる朝日に向かって祈りを捧げる。儀式みたいなものさ。ゴアで行なわれているパーティーっていうのはそういうことなんだよ、きっと。智が言ってたのはそういうことじゃないのか? だからみんなは、智みたいに立ち止まって死に神と対峙することをバッドって呼んでんだよ。そうだろ? 智、お前が見たのは神様なんかじゃなくって死に神だろ? お前はそいつと一晩中闘って生き延びたんだよ。だけどな、智、みんながお前みたいに死の恐怖と闘えるわけじゃないんだ。だから反射的に、あんなこと言っちまったんだよ、俺は。今はこうやって整理して話すことができるけど、あんときはブラウンキマってたし、良く分かんなくってビビってイライラしたんだと思う。ごめんな、智、許してくれ」

智は、直規の話に言葉が出なかった。そればかりか、ちょっと得意気に自分のアシッド体験を話していた自分に気が付いて、まるで自分が阿呆のように思えてきた。

直規は、自分以上に自分の一晩の体験を理解している。あの時見た極彩色の輝きは、神の光などでは決してなく、死の世界へと誘う死に神の誘惑だったのだ。今、直規に言われてようやくそれに気が付いた。

――― そうだ、もし本当に神の光に包まれて幸せに満ちているのであれば、生きていることに感謝こそすれ、死にたいなどとは思う筈がない。死の恐怖など、そう簡単に消える筈がない ―――   

腰巻き

直規達に対して抱いていた不安は徐々に憎しみへと変わっていった。そして一旦相手を憎み始めたら、心のどこかが少し楽になったような気がした……。

だんだんと直規の部屋に近づいていく。気持ちとは裏腹に智の両足は、機械的に歩を刻み、二人のいる部屋へと近づいていく。池の果ての暗闇に灯りが点っている。開け放たれた窓から生活の光が洩れている。心臓の鼓動が高まる。喉がカラカラで、とても緊張しているのが分かる。智は、何度もためらって池の周りを行ったり来たりした挙げ句、とうとう扉の前に立った。そしてしばらくそうしていた。静かな夜、虫の鳴く声だけが響いている。扉にそっと耳を寄せると部屋の中からは、低く、二人の声が聞こえてくる。

深く息を吸ってから軽く二三回扉をノックした。中の会話が一瞬途切れる。しばらくして、はい、誰?、と扉の向こうから声がした。

「智だけど……」

智は言った。しばらく間があった。

「ああ、智、今開けるよ」

心路の声だった。心路は、そう言うと鍵を外して扉を開けた。

「よぉ、智、忘れもんだろ?」

扉を開けるなり心路は笑顔でそう言った。

「入れよ」

智は、心路の予想もしなかったその態度に驚いて、おどおどしながら誘われるがまま部屋の中に入った。直規は、ベッドに寝転がっていたが、智が入って来るのを見ると慌ててその上に座り直した。そして智の方を見て、少し気まずそうに沈黙した。しばらくしてから顔を上げて智に言った。

「悪かったな、智、今日は……。あの後心路に叱られてさ。ああいうのは良くないって。何が気に入らないのか知らないけどあんな言い方はないだろって。気に入らないことがあったらあったで、はっきり言えばいいじゃん、ってな。俺も実際そうだなと思ってさ、あの後凄ぇ嫌な気分になった。あんな言い方するつもりじゃなかったんだ、本当は。悪かったなって……。そしたら智、この貴重品入れ忘れてったろ? だから届けに行ったんだよ、俺、部屋までさ。でも智、部屋にいなかったからまた持って帰ってきたんだけど、ヤバいでしょ? これ、こんなの失くしたら」

直規は、智に向かって腰巻きをポンッと放り投げた。予想もしなかった直規の対応に智は少し戸惑っていた。そして、内心彼らを疑い、貴重品の盗難の可能性を考えていた自分を激しく恥じた。二人のことを邪推し、彼らを心の中で侮辱してしまったことを、とても後悔した。二人に対して発する言葉が見つからなかった。顔が灼けるように熱かった。

「ああ、ありがとう、俺、部屋にいたんだけど、多分眠ってて気が付かなかったんだと思う……」

妄想

――― これから直規の部屋に行って、また同じような目に合ったら自分はどうなってしまうだろう。どうにかなってしまわないだろうか。いっそのことこのまま消えてしまえたら、どんなに楽なことだろう。そんな恐ろしいことのために、わざわざ自分から出向いて行かねばならない。何てエネルギーのいることなんだろう。人生とはそんなことの連続のような気がする ―――   

智の妄想は次第に深まっていった。ぐつぐつと焦げつかんばかりに煮詰まっていった。智は、一歩一歩、前へ前へと踏みしめていく足下を見ている。頭の中で考えていることとは無関係に、一歩一歩進んでいく。自分自身で進んでいる。まるで自分が二人いるようだった。肉体的で現実的な自分と、形の無い、内面的で精神的な自分。その両者が絶えず正反対の考えを持って、まるっきり逆の方向へ進んで行こうとする。そこから生ずる葛藤が智を苦しめた。

智は、町を抜け、直規達のゲストハウスへと続く野道にさしかかった。昨日と変わらない満月が辺りを照らしている。池の水面がさざ波だって輝いて見える。水辺の穏やかな感覚が空間に満ち満ちていた。昼間のことが思い出される。ギラギラした太陽の下で嘔吐している自分が客観的に映像化され、智の心を暗くした。

――― もしかしたら奴らは、貴重品入れのあるのを隠して知らない振りをするかも知れない。あんまり金が無いって言ってたからな。あいつら、日本でもかなりワルだったみたいだし、きっと盗難や恐喝まがいのこともやってたんだろう。直規は、ドラッグ捌いてたって言ってたし、ヤクザなんかとも付き合いがあったに違いない。そんな奴らがあんな大金目の前にしたら、放っとく訳が無い…… ―――     

妄想は、恐怖心を克服するために憎しみを育んでいく。対象の本質とは無関係に、イメージはどんどん暴走してゆく。

――― ちくしょう、しまった、何だって俺はそんな奴らの所にそんな大事な物を置いてきてしまったんだ……。そもそも、あんな奴らと付き合ったのが間違いだったんだ。もともと俺とは合わなかったんだよ、そうだ、きっとそうだ、奴らとでは住んでる世界が違うんだ、だから直規なんて俺の言ってることが分からずに、急に怒り出したりするんだ。
あいつらきっと高卒ぐらいだろ? いや、学校もろくに出てないかもな。所詮そんな奴らとは分かり合えないんだよ、俺の言ってることなんてレベルが高すぎて理解できやしないんだよ…… ―――   

どっちつかずの曖昧

ブラウンシュガーが効き始めてきたとき寝転んで、床が固いものだからそれが邪魔になって外したように思われる。はっきりと覚えている訳ではないのだがきっとそうだ。そんな気がする。

うんざりしてきた。貴重品入れの中には、パスポートも旅行費用も、ほぼ全額入っている。探さない訳にはいかないし、無くしたというだけでも大問題だ。更に落ち込んでいく精神を止める手だてを智は知らなかった。自分の不運を呪った。直規の部屋にはもう行きたくなかった。あんな思いを味わうのは二度とごめんだった。恐らく貴重品入れは直規の部屋にあるだろう。だとしたら、絶対に行かねばならない。行って直規と顔を合わさねばならない。今までしてきたようにそこから逃げて、避けて通る訳にはいかなくなってきた。

智は大きく長い溜め息をついた。そしてゆっくりと、あの時のいきさつを思い出し始めた。

――― 何となく直規が怒った理由は分かる気がする。浮ついた話をした自分に反射的に拒否反応を示したのだ。それは例えば神だの死だの、曖昧ではっきりしないテーマを分かったような顔で軽く話してしまった自分が気に入らなかったのだ。それは何となく分かる…… ―――   

しかし、智は、自分の感じたその感覚をどうしても人に伝えたいという気持ちが常にあった。特にドラッグによって開放的な気分のときには饒舌になった。それに関しては自分が悪いとは思わない。

それら二つの相反する思いが智を苦しめている。対人関係において、すんなり謝ったり突っぱねたり、というような割り切り方が智にはできなかった。結局どっちつかずの曖昧な態度になってしまう。いつもそうだ。矛盾している。そんな矛盾が智を苦しめる。

卑屈なおべっか笑いを浮かべて胡麻をすりながら他人と付き合うことはできても、自分の意見を相手に対してはっきりと主張することができなかった。それを弱さだと智は思っていた。はっきりできないのは確かな自分が無いからだ。自分というものがしっかりとありさえすれば、そんな思いに惑わされることも、苦しめられることもなくなるだろう。そんな強い自分が欲しかった。強くなりたかった。

外へ出ると、昼間の猛暑はもうすっかりとなりを潜めており、冷んやりと湿った空気が辺りを覆っている。しかし、そこいら中の熱せられた地面や建物が未だ熱気を放っており、ある種異様な気温になっている。

智は、ブラウンシュガーの余韻でこめかみに鈍い痛みを感じながら、うねる大気の中を重い足取りで直規達の部屋へと向かった。朦朧とした意識は、智から分離して頭の上の方に浮かんでいるように感じられる。それはまるで暗雲の立ちこめるように、智の意識を暗く重いものにしていた。目の前にある現実の実感が薄れ、頭の中で描くイメージと中和してひどく曖昧なものになっていく。それは智を不安にさせた。自分の内面的な部分が洩れていくのを止められないような、外の景色が夢の中の出来事であるかのような……。智の存在自体をも曖昧なものにしていった。

智は、考えを上手くまとめることができずに焦る。焦れば焦る程、意識の深みに落ちていく。誰かに会いたかった。誰かにしがみついて自分のことを認識して欲しかった。独りでいるのが不安だった。

自分を変えたくて出た旅

暗闇の中で智は目を覚ました。辺りは既に暗く静まり返っていた。今日一日の面影が、汚れた自分の顔や散らかった部屋のあちこちに残されている。ぼやけた頭に直規とのことが思い出され、目を覚ましてしまったことがとても恨めしく思われた。できることなら、ずっと眠ったままでいたかった。嘘であって欲しかった。とても嫌な感じが胸の辺りでもやもやしている。

智は、直規が怒り始めた時にはっきりとした態度を示すことができなかった自分がとても情けなかった。他人との争いを極力避けて通る心が、智をいつもそうさせていた。

直規のあの態度は理不尽だと思う。しかし、もしかしたら自分に非があったのではないか、とも思う。そんなとき智は、いつも消化不良のままそれらの感情を呑み込んで逃げ出していた。自分の殻の中に逃げ込んでいた。納得のいくまで闘うということをしなかった。他人と争うことへの恐怖心から、いつも、そのままその相手に対しては深入りをせず、ずっと引け目を感じつつ卑屈に接し続けるのだった。そしてそんな自分が心底嫌だった。それらの混乱した思いが、胸の辺りにどんよりと渦を巻いており、何もかも放棄してしまいたくなる。夢の世界に逃げ込んでしまいたくなる……。

このままではいけない、と智はずっと前から思い続けていた。そんな弱い自分が嫌で、そんな卑屈で情けない自分を変えたくて出たこの旅でもあった。しかし、旅を始めて一年近く経とうとしている今、何も変わっていない自分を目前に突き付けられて智は愕然とするのだった。またもや他人と対立することを恐れて逃げ出した。自分の気持ちを曖昧にぼかしたまま、帰ってきてしまった。そしてその行動の裏には、もう二人には会わないからいいだろう、という卑怯な考えが隠されているに違いなかった。実際お互いが旅をしている者同士なので、このまま別れてしまえばもう出会うことはないだろう。智は、これまでの旅の中でも誰かと関係がギクシャクし始めると、その場を離れ、別の場所へ移動して、その関係を清算するということを度々繰り返してきた。しかし、今回程露骨に敵意を見せつけられたのは初めてのことだった。直規のあの態度は一際智の心を傷つけた。自分を見る直規の冷ややかな表情がありありと蘇ってきて、智の心身に激しい疲労を与えた。

俯きながら智は身の回りの物を片づけ始めると、ふと、いつも腰に巻いている筈の携帯用の貴重品入れが無いことに気が付いた。その途端、全身から血の気が引いていくような悪寒が走った。

冷静になって周りを見回す。そこら中を隈なく探したが、どこにも見当たらない。それは寝るときも決して外さない物なので、どこかにしまいこんでいるというのはまずあり得ない。それに、それがあるかどうかというのは、常に手で触れたりして常に確認しているし、またその行動は、ほぼ習慣化して、無意識の内に行うようになっている。なので突然無くなるなんていうのはどう考えてもあり得ない。考えられるのは、直規の部屋から帰ってくる途中、酩酊している状態でどこかに落としたか、または直規の部屋の中なのだが、恐らく直規の部屋だろう。

ありもしない壁

翌朝、急に谷部と君子はデリーを発った。別れ際に谷部は、例のイタリアン・チラムを智に手渡した。智に譲ったのだ。智が遠慮して断っても、いいから、やるよ、の一点張りで、智は、大人しくそれを貰っておくしか選択肢がなかった。もちろん、前からそれを欲しがっていた建は谷部に猛抗議したが、谷部は、いいだろ、建はさんざんチラム使ってきたんだから、と、良く分からない理由で全く取り合ってもらえなかった。建は、渋々それを了解したものの、恨めしそうに智に何回も、ちょっと見せてくれよ、を繰り返した。もういよいよ建が鬱陶しくなって来たので、建さんにあげて下さいよ、と智が谷部に頼むと、谷部は、いい加減にしろよ、ケン、大人気ないぞ、と建を叱責した。建は、ちぇっ、と舌打ちしてようやく引き下がった。智は何度も谷部に礼を言った。谷部は、いいんだよ、その代わり大事に使ってくれよな、と笑いながら智に言った。とても大事にしていた物をすんなりと自分にくれた谷部のその気持ちを、智は素直に嬉しく思った。”ババ・ゲストハウスの人”ということで穿った見方をしていた自分を恥ずかしく思った。そうやっていつも自分でありもしない壁をわざわざ作っていたのだ、と今までの自分を顧みた。今の自分だったら、あの時、清志と一緒にババ・ゲストハウスへ遊びに行くことだってできていたかも知れない。

谷部は、バラナシに行くことにしたそうだ。君子と二人でしばらく滞在するという。またババ・ゲストハウスに泊まるのだろう。君子は、相変わらずニコニコしている。昨晩の笑顔も、必ずしもチャラスのせいばかりではなかったようだ。結局この女の表情は笑顔以外見ることがなかった。

智は、昨日の建の話が彼らをバラナシに赴かせた要因となっているのだな、と思ったが、それは言わないでおいた。大きなバックパックを背負った二人の旅人を、智と建は手を振りながら見送った。二人は、昨晩屋上に届いて来たのとは全く別物の、正真正銘の騒音の鳴り響くメインバザールの雑踏の中へと消えていった……。

「飯でも喰いに行くか」

建が言った。二人は、メインバザールの燃えるような暑気の中を全身から汗を吹き出しながら歩いていた。

「しかし、突然行っちまったよな」
「旅してる人なんて、みんなそんなもんじゃないですか」

智は、自分の足下を眺めながら歩いている。

「まあ、そうなんだけどさ……。智はどうすんだ? どれぐらいここにいるつもりなの?」

建のその問いに、俯きながら智は答えた。

「まだ当分いると思います。フィルムが溜まってるんでそれらを現像したり、日本に色々荷物を送ったりだとか、後、パキスタンのビザも取らなくちゃならないんで……。最低一週間ぐらいはここにいることになるでしょう。建さんは? どうするんです?」
「俺は、そうだな。明日か…明後日だな。明後日にしよう。明後日出るよ」
「ほら、建さんだって」
「何だよ?」
「すぐに出ちゃうじゃないですか」
「だって俺は、もう散々デリーにはいるんだよ。本当に飽き飽きしてるんだよ、この街には」
「言ってみただけですよ」

粘ついた汗

部屋の中は、蒸し暑く、しいんと静まり返っている。気まずい沈黙がしばらく続いた。
凍ったペットボトルの表面の水滴が、ゆっくりとプラスチックの曲面をなぞりながら垂れていく。灰色のコンクリートの床に染みを作っていく。湿った黒い染みは、徐々に大きくなっていく。

「直規……」

智がそう言いかけると、それを制するように直規は言った。

「いいからお前、もう帰れよ」
「直規君……」

心路がそう言いかけると、直規は心路を睨みつけた。心路は、何も言うことができずに下を向いた。智は呆然と直規を見つめた。

「帰れって」

直規は、じっと自分を見つめている智に向かってそう言った。智は、視線を逸らすと、ああ、と静かに言ってゆっくりと立ち上がった。心路は、俯いたまま上目遣いに智を見ている。智は、覚束ない足取りでジーンズについた砂を払うと、扉の方へ近寄った。そして扉を開けようとノブに手を伸ばしたとき、ちょっと振り返って、ありがとう、と言った。
自分でもどうしてそんなことを言ったのか良く分からなかったが、そう言いながら外に出た。扉を閉めた後、智は、ひょっとしたら二人の内のどちらかが自分を呼び止めてくれるのではないか、と期待して少し立ち止まっていたけれど、結局何の物音もしなかった。誰も呼び止めてはくれなかった……。

傾きかけてはいるものの、砂漠の日差しはいまだ強く照りつけている。朦朧とした智の頭に追い討ちをかけるように、容赦なく照りつける。智は、手の平で額の汗を拭うと、よろよろと歩き始めた。奥歯の奥の方から苦い物が口の中全体に拡がる。胃液の込み上げてくるような感覚。ねばねばした汗が全身から吹き出し、智の着ているTシャツやジーンズを湿らせた。サリーを着たインド人女性が何人か、池の畔の沐浴場に腰を下ろして雑談をしている。そのヒンドゥー語が、嫌でも智の耳に飛び込んできて頭の中で反響する。智は、その声音を振り払おうとするのだが、そうすればする程、それは増幅され頭の中に響き渡る。

智は、たまらずそのインド人女性達に目を向けた。すると偶然その中の一人と目が合った。彼女は笑っているようだった。他の何人かも智の方を振り返った。みんな笑っているようだった。

驚いて智は視線を逸らすと、早足で歩き始めた。鉛のように重たいものが、下腹部に沈澱している。重く苦しかった。黄色く照りつける太陽は、粘ついた汗を大量に吹き出させる。嫌な匂いのする汗だ。腰が重い。歩きたくない。

フッと、湿った草の匂いを嗅いだその瞬間、猛烈な吐き気が智を襲った。智は、考える間もなく目の前に嘔吐した。吐き出すものは体内に何もなく、薄いオレンジ色のドロドロした物が、喉の奥から溢れ出てきた。声にならない呻き声を上げながら、道の真ん中で嘔吐を繰り返す。苦しさで涙が溢れ、視界を曇らせる。ぼやけた視界の端の方で、サリーを着た女性達が近寄って来るのが見えた。智は、慌てて、ノー・プロブレム、ノー・プロブレム、と手を振って、急いでその場から立ち去った。

そこから先、どこをどうやって帰ったのか、智は全く覚えていなかった。混乱した意識と共に、ずっと宿のベッドにうずくまっていた。帰ってからも黄色い胃液のような物を二三回吐いた。そして汗や鼻水や、あらゆる体液でぐちゃぐちゃになった顔で再びベッドに潜り込んだ。そうやってただ時間が過ぎていくことだけを祈りながら、そのまま何時間もそうしていた。

やっぱ凄ぇよこれ

「ああ、いい匂い、キマッてる時いいよね、お香って。リラックスできる」
「やっぱ大事でしょ、こういうのって」

そう言って横になろうとした途端、心路は、ああ、ちょっと待って、マズイ、俺ちょっと吐いてくるわ、と言いいながら慌ててトイレに駆け込んだ。

扉の無いトイレの向こうで、心路が苦しそうに吐いているその様子がはっきりとイメージされる。呻き声や、唾を吐く音、鼻をかむ音、それらの音がはっきりと聞こえてくるのだ。心路は、朦朧とした表情でトイレから出てくると床に倒れ込んだ。

「ああ、やっぱ凄ぇよこれ、吐き過ぎで喉切れてるよ」
「うるせぇよ心路、お前の吐いてる音で気分悪くなるじゃねぇかよ」

直規は、心路に向かって強い口調でそう言った。心路は、突然の直規のその言葉に面喰らって驚いたように言い返した。

「ひでぇな直規君、自分だって吐いてるだろ、何だよ、何怒ってんだよ?」

直規に向かって心路はそう言った。

「何でもねぇよ、ちょっと黙ってろよ」

直規は、心路を睨みつけながらそう言った。心路は、何か言いたげだったが何も言わずに視線を戻した。直規の突然の変化に智は少し戸惑った。

「何、どうしたの直規、どうして怒ってるの?」

直規は智に視線を向けた。

「うるせぇんだよ、お前もちょっと黙ってろよ」

智は呆然と直規を眺めた。

「えっ、何?」
「だから、うるせぇって言ってんだよ」
「え、どうして? 俺、何か気に障るようなこと言った?」
「だから、とぼけたこと言ってんじゃねぇって、下らないこと言ってんじゃねぇよ、お前のそういう話はムカつくんだよ」

鋭い視線で直規は智の目を見据えながらそう言った。突然のことで智は、何が何だか訳が分からず、頭の中が混乱してしまって自分の置かれている状況が良く呑み込めない。顔から血の気が引いて、胸の辺りがムカムカする。

「えっ、どういうこと?」

混乱した頭で智は直規に問い正した。

「だから、ムカつくって言ってんだよ」

直規は、今までとは別人のような表情で智に向かってそう言った。

頭がふらふらした。胸が締め付けられるように苦しくなっていく。あとは何も言葉が出て来なかった。ただ、直規が自分にそんな態度を取ったという事実がとてもショックで、智の意識は朦朧としていた。

バッド

「出たよ、智の神様トーク」

直規は、薄ら笑いを浮かべながらそう言った。心路は、横目で直規を流し見ながら智に言った。

「凄い話だよなぁ、相当バッド入ってたんだろうな。でも、そうなるっていうのは何となく分かるような気もするよ。そういう感覚っていうのは気付かないだけで、きっといつもどこかに隠されてるんだろうな」
「本当に分かってんのかよ」

直規が、ぼそっと吐き捨てるようにそう言った。心路は、ちらっと直規の方に目をやったが、それを聞き流した。

「やっぱりそれってバッドってことなんだろうか」

智が尋ねた。

「死にたい、って思うんだったらバッドでしょ」

心路が言った。心路もブラウンが効いてきたらしく、しきりに首をまわしたり、瞬きをしたりしている。

「でも、俺にとっては凄くいい経験だったなって思ってるんだよ。確かに怖かったし、死っていうものを物凄く身近に意識したりはしたんだけれど、そのおかげで色んなことが分かったと思うし、成長したとも思ってる。だから、バッドっていうのとはちょっと違うと思うんだけどな」
「そういうのをバッドって言うんだよ」

直規は、横になったまま天井を眺めながらそう言った。心路は、直規を一瞥したがそれを無視して智に言った。

「その辺は俺には難しくて良く分かんないけど、やっぱり死にたくなるっていうのは良くないことなんじゃないのかな」
「そうなのかなぁ……」

曖昧な気持ちで智は返事をした。

「それより、これってやっぱすごいよな」

心路は、落ち着きなくそわそわしている。大分効いてきたようだ。

「直規君は、もう大丈夫? 吐き気とかしない?」
「ああ、大分楽になった……。ちょっとは慣れてきたみたいだ……」

直規はずっと天井を眺めている。

「智も、全然気持ち悪くなったりしない?」
「ああ、大丈夫だよ、吐き気はないし凄くいい感じ。音楽聴いてればもう幸せだよ」

うっとりと目を閉じながら智はそう言った。心路は、ベッドの下に転がっている香の束から一本香を引き抜いて、それに火をつけた。煙が、細く、ゆっくりと上がっていく。香の薫りが部屋中に広がる。