くさみ

智は、その女の美しさに心を奪われていた。胸がどきどきしていた。彼女には、普通の女には無い、何か特別な魅力が秘められているように感じられた。智が今まで出会ったことのないタイプの人間だった。

「本当に綺麗ね、この夕陽。綺麗っていうか、圧倒的よね、こんなにも太陽が大きいと」

その女は、沈んでいく太陽に再び目をやった。太陽は、既に半分以上、地平線の向こうに隠れている。日没はあっという間に進行してゆく。

「今日はこれから何か予定でもあるの?」

智は、彼女に向かって語りかけた。

「これから? いいえ、何も無いわよ。もうすぐ暗くなるしね。することなんて何にもなさそうじゃない、この町」
「一緒に食事でもしない?」

少し緊張して智はそう尋ねた。彼女は、意外にもあっさりとこう答える。

「いいわよ、私も一人だしね、どうせ御飯食べに行くところだったし。行こうか」

今まで暗く沈み込んでいた智の心は、女のその一言で途端にパッと明るくなった。

二人は、沈む寸前の太陽に背を向けて歩き出した。周りにいた子供達は、そんな二人には目もくれず、まるで何ごとも無かったかのように、最後の日光を惜しみながら凧を上げ続ける。彼らの作るいくつもの長い影が、争うように熱い地面を駆け巡っていた。

その女がインドを一人で旅しているというのは、彼女の容姿からするとちょっと想像できなかった。海外を一人で旅している人間特有の、くさみ、のようなものを彼女は全く持っていなかった。垢抜けた、もっとさっぱりした印象があった。

「この町にはいつ来たの?」

智は彼女に尋ねた。

「さっき着いたばかり」

夕方頃になると決まって現れる小さな羽虫を、手で追い払いながら彼女はそう答えた。

「どこに泊まってるの?」
「この城壁の中よ」

智達は、下の町へと戻るため、城壁の中の小都市の細く曲がりくねった道を再び歩き始めている。まるでこの中だけは地表を覆う乾燥した砂地とは無関係であるかのように、でこぼこした石の地面は暗く湿っていた。

痩せた汚らしいヤギが、絞り出すような声でとぎれとぎれに鳴きながら、智達の横を通り過ぎて行く。その水平に切り開かれた瞳孔はまるで何ものをも映してはいないようで、ヤギは、周囲の状況とは全く関わり合いを持たず、ただただ陰鬱な鳴き声を響かせながら智達を黙殺する。智達は、細い路地をヤギを避けながら歩いた。

太陽の炎

中央に聳える城に智が近づいた時、もう既に門は閉ざされており人々の影もまばらだった。城はこの町の観光スポットの一つになっているらしく、観光を終えた旅行者達が、カメラやパンフレットを手にそれぞれ会話しながら坂道を下りてくる。先程の一件で神経の過敏になっていた智は、擦れ違い様に彼ら一人一人の視線を敏感に感じ、顔を伏せて歩いた。そうしていると智は、急に突発的な息苦しさを感じ、もうこれ以上ここを歩くのは無理だと思った。思い切り外の空気を吸い込みたかった。ぐるりと取り囲む城壁やひしめき合う建物群が、この空間の大気の循環を阻み、蒸れた、息苦しい空気をその体内に充満させ、自分を窒息させようとしているのではないか、智はそんな風に思った。外へ続く道を探し、何とか城壁の外へ出ると、丘となるその高みから、地上を焦がさんばかりに燃え盛る大きな太陽が地平線に沈んでいくのを真正面から見ることができた。一面の土色の風景は、その太陽によって照らし出され、燃えているように赤かった。太陽の炎は、それらの風景と同じように土色の乾燥した埃っぽい大気までをも、赤く染め上げていた。
智の周りでは小さな子供達が凧を上げている。それらの凧は、赤く小さな物で、空中をとても機敏に動く。数人がめいめい同じような物を持っていて、智の周りを駆け回っていた。

ふと気が付くと、子供達の向こうに女が一人、智と同じように沈みゆく太陽を眺めている。黒髪だが色白なので最初、欧米人かと思ったが、良く見ると日本人のようだった。智は、声をかけるかどうか少しの間迷った挙げ句、日本語で声をかけた。

「あの、すいません」

その女は、振り返ると大きな瞳で智の方を見つめ返した。

「あ、あの、日本人ですよね?」

端正な彼女の顔立ちはやはりどこか欧米人の顔付きを思わせるものがあったので、思わず智はそう聞き返した。

「ええ、そうですけど……」
「ああ、良かった、ちょっとどうかなと思って。ひょっとしたら外国の人かなって。夕陽を見に来てたの?」

智はそう尋ねた。何気ない表情で彼女は智の方を見つめている。

「この壁の中をぶらぶらしてたらちょうどここに出てきて、そしたら偶然太陽が沈んでいく所で凄く綺麗だったから思わず見とれてたの。たまたまよ、ここに来たのは」
「ああ、そうなんだ、俺もそこから出て来たらあんまり夕陽がきれいだったもんだから、思わず見とれてたんだ」

その女は、真っ直ぐ智の方を見つめていた。

「一人なの?」

智は尋ねた。

「ええ」
「一人でインドを旅してるの?」
「今は、ね。少し前に一緒に旅してた人と別れたの」

壁の中の小都市

智は、宿のうるさくつきまとうインド人達を尻目に、ぶらっと外へ出かけた。辺りは相変わらずの土色の風景だ。プシュカルとは趣が少し異なるが、バスの中から眺め続けてきた連続する土漠の色彩が頭の中に焼き付いて、眼前の同系色の風景が智にとって初めて見る物だとはとても思えなかった。ただ、空は綺麗に晴れており、夕陽が淡く辺りを染めているのを見ていると、少しだけ開放的な気分になった。

しばらく歩いていくと、町の真ん中の小高い丘に突然城壁が現われ、それは丘全体をぐるりと取り囲んでいた。町全体を見下ろしているその様子は、いかにも威厳に満ちており、それは智を驚かすのに十分だった。そんな景色はそれまで見たことがなかった。

城壁へと続く道を見つけると、ゆっくりと智はそこを上がっていった。急な斜面の先には門があり、どうやらそこから内部へと入り込んでいけるようだ。観光を終えた欧米人ツーリスト達が、何人か門から出てきて道の端の土産物売りと何か話をしている。智は、横目でその様子を流し見しながら、城壁の中にはきっと何か凄い物が隠されているのではないか、と、淡い期待を抱きながらその門をくぐった。

果たして智の目の前に開けたのは、壁の中の小都市であった。狭い敷地の中にひしめき合う、土壁の建物群。道は、曲がりくねって細く、汚れた子供達が裸足で駆け回っている。
そしてその奥のさらに小高くなった山の上に、同じような土色の城がそびえ立っている。緻密な細工が施された窓枠や繊細な装飾の数々が、町の猥雑な様子とは対照的にひっそりと佇んでいる。

智は、軽い興奮を覚えながらゆっくりと、一歩一歩、歩を進めた。湿った裏路地に、捨てられた果物などの腐臭を嗅ぎながら、夢の中を歩くようにゆっくりと歩いた。しんと静まり返った城壁の中の小都市は、外界とは隔絶された一つの空間と世界とを、そこに構築している。ジャイサルメールという町の名とは関係の無い、ある一つの地域がそこにはあった。建物群を慎重に眺めていくと、民家に混じってツーリスト用のゲストハウスがあることに気が付く。何となくその前を通った智は、そこにいた髪の長い日本人旅行者と目を合わせた。海外で見知らぬ日本人と出会う時特有の妙な気まずさを感じながら軽く会釈をすると、彼は、智のその様子をまるで見えていなかったかのように無視して周りの欧米人旅行者達と会話を続けた。智は、恥ずかしさと屈辱感の入り交じったような複雑な思いで顔を赤らめながら、自分のとったその行動を激しく後悔しつつ、彼らの脇を足早に通り過ぎた。智が横を通る時、その日本人は、いやにハキハキとした英語で欧米人旅行者達と会話しながらどこか優越感の籠った表情で智を黙殺した。智は、振り返ることもできずにそのまま歩き去った。頭の中は屈辱感で真っ白で、しばらくの間何も考えることができなかった。

砂漠の蠅

部屋に入りベッドに座り込んで、目を閉じた。静かな暗い部屋に町の喧噪が遠くから聞こえてくる。先程のインド人達の顔が次々と智の脳裏に甦っていく。いやに力の籠ったギラギラしたあの目付き、動物的な精力に溢れた顔付き、いかにも幼稚で野蛮なあの態度、それらの映像が言い様のない精神的な疲労を智にもたらした。

柵のはまった小さな窓から、薄らと夕陽が差し込んでくる。赤い夕陽だ。砂漠の不毛な風景を照らし、その様をますます荒涼としたものに見せている。智はベッドに寝転がった。
自分の肌から、汗の乾いた匂いが漂ってくる。静まりかえった部屋に、蠅の羽音が耳障りに響く。時折智の顔にとまったりするので、手を振って何度も追い払う。

砂漠の蠅は、水分を求めてか目や口の回りにたかってくる。水気のない部分には決して近づかない。顔だけにたかる。その事実を発見した時、過酷な環境における熾烈な生存競争が、こんな小さな生き物にまで及んでいるのかと思い、智は思わずゾッとした。これら砂漠の環境を統べる大自然は、まるでそこに生きている者達の存在を否定し、それらの存在そのものを許さず、更にはそれら全てを殲滅せん、とばかりに圧倒的な力で威圧しているようだった。ここで暮らす生き物達は決して存在を祝福されてはいなかった。

新しい町に来たからといって、智の心持ちがすっかり変わってしまったという訳では決してない。特に何かを求めてここに来た訳ではないし、ジャイサルメールというこの町やその周りの風景は、智の気分を明るくするには少し荒涼とし過ぎていた。不安や焦燥の入り交じった感覚は、なおも智の心をすっぽりと覆い尽くしている。

自分はどう考えても他の旅人のように旅を楽しんでいるとは思えなかった。また、その旅が充実しているとも思えなかった。確かに一年近い旅を経て、様々な国の人達や文化に出会い見識を広めることはできたかもしれないが、一体それが何になろう。自分自身は不安定で弱いままだし、この旅が自分の内面に反映されているとはとても思えなかった。その証拠に、やり切れない今の心境はその見識によって癒されることは全くなく、そのおかげで過去を振り返れば振り返る程、焦燥感はどんどん募っていった。変化が、自分の中にはっきりと見出せなかった。日本でのらくら過ごしてきた時と、何ら変わりのないように思われた。そういう立場から他の旅人を観察すると、随分と楽しく充実した旅をしているように思われる。他の旅人達と自分との差を、智はずっと感じ続けていた。

智は、日本を思いながら旅をしている。望郷しながら旅をしている。故郷という言葉は智の胸を激しく締めつける。温かさと切なさを智の心に同時にもたらす。そんな時、智は激しく孤独を感じる。日本では味わったことのない性質の激しい孤独を感じ、最終的に結局のところ世界には自分一人でしかあり得ないのだという、光の見えない結論に辿り着く。
そして智は、その度に深い絶望を感じた。

客引き

しばらくしてバスが止まりふと目を覚ますと、智の乗ったバスは、もう町中に入り込んでいた。それらしい風景がだんだんと広がってくる。大分疲れが溜まっていたのだろう、すっかり熟睡していたようだ。

バスは、そろそろと町を抜けバスステーションに到着した。すると突然、バスの窓を激しく叩く音が智の耳元で沸き起こった。見てみると、ホテルのネームカードを窓ガラスに押し付け、ジャパニ、ホテル、ホテル、と叫ぶインド人の客引き達が、何人も何人もバスの周りに群がっていた。驚いた智は、しばらく茫然とその様子を眺めていた。そして荷物を頭上の棚から下ろして、恐る恐るバスを降りた。するとバスを下りた途端に、それらの客引き達が、一斉に乗降口に走り寄ってきて智の腕を乱暴に掴んだ。始めの一人がそうすると次の一人はもう一方の腕を掴み、更に次の一人がバックパックを掴み、更に何人もが走り寄って来て、ついに智は、何十人ものインド人達に取り囲まれるような形となった。

突然のことでしばらく唖然として智は彼らのなすがままにされていたが、ハッと我に返ると、腕を振り払ってインド人達に向かって大声で怒鳴りつけた。群れるインド人達は、それを見て一瞬驚いて動きを止めたが、次の瞬間には再び、さっきよりももっと強い力で智を振り回し始めた。智は、何人ものインド人達の群れの中できりもみしている。

さすがにもう収拾がつかなくなってどうしようもなくなり、智は、あらん限りの力を振り絞ってインド人達を振り払った。そして勢い余って彼らの乗ってきたリキシャを叫びながら思いきり蹴飛ばした。

「いいな、お前ら、静かにしろ、静かにするんだ、一言も喋るなよ、分かったか、俺に触るな、絶対に触るんじゃないぞ」

智は興奮して息を弾ませている。たくさんのインド人達は、智のその様子をキョトンとした眼差しでじっと眺めている。

「お前らのところには絶対に泊まらない、絶対だ。ついてくるなよ、いいな、そこから一歩も動くな、絶対に動くなよ」

智は、彼らを睨みつけながらそこから立ち去った。取り残されたインド人達は、何やらざわざわ話し合っていたがさすがにそれ以上智を追ってくることはなかった。

いらいらしながら町を歩いていると、そこかしこから再びわらわらとネームカードを持った連中が途切れることなく近寄ってきて、くたびれ果てた智は、もう諦めて結局その中の一人の案内するホテルへとチェックインした。

ジャイサルメールにはキャメルサファリと呼ばれる観光資源があり、ほぼそれで持っているような小さな町だ。キャメルサファリとは要するに、ラクダの背に乗って何日かかけて近郊の小さな遺跡やら何やらを巡りつつ砂漠を冒険するというもので、いかにも砂漠の町にありそうな観光名物だ。ホテルの客引き達は宿泊料よりもそちらの方に重きを置いているので、何とかして自分の所に泊まらせてキャメルサファリに引き込もうという考えでいっぱいだ。従ってこのように熾烈な争いが絶えず繰り広げられることになっている。

智も他の例に洩れず、チェックインをして荷物を降ろした途端にホテルの従業員がキャメルサファリの話を持ちかけてくるという、ちっとも有り難くない待遇を受けた。智は、疲れているから後にしてくれ、としつこく擦り寄って来るのを強引に追い払った。

車窓から眺める移りゆく景色

旅をし始めた当初から、智にとってこの旅はまるで刑罰のようなものだった。世界各国の安宿のこの部屋は、孤独な牢獄に他ならない。智はそれらに捕われた囚人だった。常に不安や焦りを感じつつ、不快な気候の中を黙々と重い荷物を背負って宿を探し、道に迷い、飯屋を求めてくたくたになる。愉快なことなど何もない。日本が恋しい。日本語や、日本の風景や、自分の育った町、全てが輝きとともに思い出される。母親の手料理が食べたい……。智は、家を出る直前の家族の顔を、特に母親の顔を思い出した。出発の直前に母親が作ってくれたお弁当。それを一人、空港で食べた時のことを思い、いたたまれない気持ちになった。飛行機が飛び立ち、小さくなっていく自分の街、自分の国のことを思い出した。あんな思いをするのはもう嫌だ、あんな辛い思いをするのはもうたくさんだ……。この町のそこかしこに亡霊のように漂っている直規と心路の面影、楽しかった小さな冒険の思い出、笑顔、それら全てが智を苦しめる。

――― もう嫌だ、この町にいるのは嫌だ、耐えられない、早くここから離れよう、早く、早く…… ―――   

そう思った途端、智は荷物をまとめ始めた。幸い宿のチェックアウトの時間までは、まだ余裕があった。行き先はどこでもいい。懐かしさの余韻の漂うこの町から離れられさえすればどこでも良かった。智は、荷物をバックパックに詰め込むと、すぐさま宿をチェックアウトして足早にバスステーションに向かった。バスステーションで今から乗ることのできるバスの行き先を聞いていったら、ちょうど一時間後にジャイサルメール行きのバスがあるという。ジャイサルメールという町は、ここプシュカルから五、六時間ほどの距離で、ラジャスターン州の中でも有名な観光地だ。パキスタンとの国境に程近い砂漠の町である。どうせ智はそこへ行くつもりだったし、直規達の向かったジャイプルへ行って彼らとまた顔を会わすのも、何だか追いかけて来たみたいで気が引けたので、ちょうど良かった。

智は、チケットを買ってバスに乗った。バスに乗ると、ここから離れられるという思いと、新しい町に対する仄かな期待とで、沈んだ気分を少しだけ忘れることができた。特にバスの車窓から眺める移りゆく景色は何度見ても旅情を誘うものだったが、残念なのは、今、このバスから見える景色は、背の低い草と岩がまばらに散りばめられたつまらない土漠の連続だったということだ。その単調な風景を智はただぼんやりと眺めた。眺めながら次第に智の抱いていた砂丘のような美しい砂漠のイメージは、修正を余儀なくされていった。恐らくは、このような土漠のことを一般的に砂漠と呼ぶのだろう。智のような日本人の抱いている普遍的なイメージの美しい砂砂漠は、きっと世界でもかなり稀な物なのだ。
そして更に、ラジャスターン州に入れば見られると思っていた、ラクダで砂漠を旅する流浪の民には一向にお目にかかれないし、ただひたすらこんなつまらない景色の連続を見せつけられた智は、もうすっかり何もかも諦めることにした。何も期待しないことにした。
退屈な気分でそんな考えを巡らせていたら、いつの間にか眠ってしまっていた。

得心のいくまで

智は、再び深い溜め息をついた。そんな話を真剣に聞く気などはなからなかった。

「ああ、そうなのかもな」

議論をする気もなく智は聞き流していた。

「だから神はお前と共にいるのだ。神は、お前の胸の中に住んでいるのだ」

サドゥーは、そう言って智の胸をトントン、と突つきながら子供っぽい笑みを浮かべた。智は、訝し気な表情でその様子を眺めた。

「あのね、ババジ、俺もう行くよ。ほら、このサモサも食べなよ」

そう言って智は、もう一つ残っていたサモサを彼の方へ寄せると席を立った。サドゥーは、その姿勢のまま智をキョトンとした表情で眺めていたが、智は、そのままバイバイと言って通りに出た。ちょっと彼の寂しそうな表情が気にならない訳ではなかったが、あえて気に留めないようにして店を出た。疲れていた智は、もうこれ以上彼に付き合う気はさらさらなかった。

通りに出るとさっきより高く昇った太陽が、ジリジリと肌を焼くのを智は感じた。

――― 借りものの肉体ね…… ―――   

智は、何となくさっきのサドゥーの言葉を口に出して呟いてみた。

部屋に帰ると智はしばらくただぼんやりとベッドに座っていた。部屋の中はしんと静かで、異国の見知らぬ町にただ一人ということが、一際実感させられる。 

腕の中に顔を埋める。暗闇の中に様々な場面が断続的に浮かび上がってくる。今まで旅してきた国のこと、人々の顔、景色、無秩序に次々と思い出される……。日本での生活、家族のこと……。今ではもうずいぶん昔のことのように、遠いことのように思える、温かい思い出……。

――― 俺は一体何をしているんだろう? こんな所で、何をしているんだろう? 何でこんな所にいるんだろう? 一体いつになったら日本へ帰ることができるんだろう……
―――   

終わる気配を全く見せないこの旅は、智を不安にさせる。温かい故郷の思い出を呼び起こさせる。

帰る訳にはいかなかった。ヨーロッパまで旅をするという志半ばの今、旅を終わらせて帰る訳にはいかない。そんなことをすればきっと、取り返しのつかないことになるだろう。
自分自身に課した課題を満足にこなすことのできなかったという挫折は、自分に対して一生負い目を感じさせることになるだろう。この先、自分の心のどこかにどうしても信用することのできない部分が生まれてしまうことになるだろう、智はそんな風に自分自身を追い込んでいた。しかしその反面、もし納得する形でこの旅を終えることができたなら、ああ、もう満足だよ、と得心のいくまで旅をすることができたなら、それは他のどんなこととも較べ物にならないぐらいの自信につながると思う。他人に対して絶対の自信を持つことができ、きっと今までのような自分とは違った、強い自分になることができる、智は強くそう思っていた。だからこの旅は何としてでも成し遂げられなければならない目標であり、挫折は、そのまま人生における取り返しのつかない敗北を意味していた。途中で帰ることは許されなかった。

神の物

サドゥーの所にチャイが運ばれて来ると、彼は、子供のように喜んで智に、サンキュー、と礼を言った。智は、サドゥーのその様子を見ていると怒る気が失せてしまって、力の抜けた笑いを口元からこぼすだけだった。

「全く……」

サドゥーは、チャイの甘味を嘗めるようにゆっくりと味わうと、智に向かって唐突にこう尋ねた。

「お前はシバ神を知っているか?」

いきなりのその質問に、ちょっと驚きながら智はこう答えた。

「ああ、知っているよ」

するとサドゥーは満足気にゆっくりと頷いた。

「シバは至上の神だ。世界中で最も偉大な神はシバである。私はいかなる時も彼への祈りを怠らない。毎日祈りを捧げるのだ。シバは常に私を見ていらっしゃる。神の前で、人は謙虚にならねばならない。決して神を忘れ、奢り昂った態度をとってはならないのだ。神は全てを御覧になっているのだ。全てを知っておられる……。ところで、お前の宗教は何だ? お前はどんな神を信じているのだ?」

智は、インドを旅し始めてから何度この問いをインド人によって投げかけられたか分からない。初めの内は無宗教だと答えることにしていたが、するとたちまち相手の顔色が変わり、まるでこの世に生きている人間とは思えないというぐらいの勢いで、何故なんだ、どうしてなんだ、という問いが限りなく続くので今は仏教徒と答えることにしていた。インド人に現代の日本人の持っている宗教観やそれを作り出している社会状況を説明するのは、不可能であると智は既に諦めていたのだ。

智は、彼の口から出てきた、謙虚、という言葉に吹き出しそうになりながら、ブッディストだよ、と言った。すると彼はまた微笑みを返した。

「そうか、ブッディストか。ブッダもまた偉大なグルである。シバを体現した人でもあり、彼の教えは広大だ。私は、シバを崇めるのと同じぐらい、彼を敬っている。ブッダもヒンドゥー教の中では、重要な神の一人として位置付けられているのだ。ところで……、お前はこの肉体が誰の物か知っているか?」

そう言うと彼は智の腕を人差し指でとんとん、と突ついた。そんな問いに少し躊躇して智は小声で言った。

「いや、それは、俺の物だろう?」

すると彼は、意味ありげに智の目を覗き込みながらこう言った。

「そう思うだろう? それが間違いなのだ。お前のその肉体はお前の物ではない、神の物なのだ。この世の中にお前が存在するにあたって神から借りている物なのだよ。決してお前の物ではないのだ。精神がこの世界に存在するために神から借りている乗り物、それがお前の肉体なのだよ。だからお前は決してその肉体を粗末にしてはならない。大切に大切に扱わなければならないのだ。肉体を健康に保ち、それを最後に神にお返しする。それこそが神に対するお前の義務であり、そして敬意を払うということでもある。お前の肉体はお前の物ではない、神の物なのだ」

サモサ

「ジャパニ?」

サドゥーは言った。目の前に立つサドゥーを見上げて、智は、ああ、そうだよ、ジャパンから来たんだ、と面倒臭そうに、そう答えた。

「座ってもいいか?」

智は無言で頷いた。サドゥーは、智の横に腰を下ろすと、おもむろに智の顔を覗き込んだ。サモサを食べていた智は、一旦それを皿の上に置いて横目でサドゥーを見た。皿にはサモサが二つ乗っている。サドゥーは、それと智の顔を交互にせわしなく見やっている。智がしばらくそれを無視していると、サドゥーは、とうとう、それをくれないか、と智に切り出した。あらかじめ予測していたその問いかけに、智は、諦めのこもった口調で、ああ、いいよ、と、仕方なくサモサを一つ差し出した。するとサドゥーは、途端に嬉しそうな顔をして一言礼を言うと、それを食べ始めた。そして食べながら智に言った。

「インディアで何をしているんだ」
「旅行だよ」
「仕事か?」
「いや、ただの旅行」
「学生か? インディアで何か勉強しているのか?」
「いや、ただインドを旅行しているんだ」
「何故だ?」
「何故って、ただの観光だよ」

サドゥーは、智を真剣な眼差しでしばらく見つめながら少し間を置いて、そうか、と言った。

「インディア、グッド。サモサ、グッド、ナンバルワン」

アールの発音が必要以上に巻舌なインド独特の発音で、サドゥーは、ナンバーワン、とそう言った。サモサを口いっぱいに含んだまま、智に明るい笑顔で微笑みかけた。

智は、ぐったりと疲労が吹き出してくるような気分で、力の無い笑みを彼に返した。

「ババジは何してるの」

全く知りたくもないそんな質問を、気を遣って智はサドゥーに投げかけた。しかしサドゥーは、その言葉には耳を傾けず智の手元にあるチャイのグラスをじっと眺めている。サドゥーのその視線に気が付いた智は、わざとそれに気が付かないふりをして、もう一度大きな声で聞き返した。

「それで、ババジは何してるの?」

サドゥーは、そんな智を無視して智の目を見つめながら、チャイ?、と言った。サモサを食べて喉でも乾いたのだろう、チャイをよこせと言っているのだ。智は、大きな溜め息を一息つくと、叫ぶようにこう言った。

「嫌だよ、サモサあげただろ、何でチャイまで飲むんだよ!」

するとサドゥーは、お前のその言葉には全く持って驚かされた、と言わんばかりに、大きな目を剥きながらこう言った。

「マイフレンド、お前はジャパンから来たんだろ? ジャパン、ベリー・リッチ、メニー・マネー、チャイぐらいいいじゃないか」

智は、もうこれ以上こんなことでエネルギーを使うのはごめんだったので、仕方なく彼のためにチャイを一杯注文した。

「全く何なんだよ、何でこんなことしてんだよ、俺は」

日本語で智はそう呟いた。

サドゥー

朝日がジリジリと照りつけている。乾燥した空気は、青空とその周りの景色をくっきりと浮かび上がらせ眩しいぐらいだ。智は、宿の方へ向かってとぼとぼと歩き始めた。朝を迎えて町は慌ただしく動き始めている。掃除をする人達や、いそいそと行き交う人達、店のシャッターを開ける人達などが、朝日を浴びて輝いている。

それらの光景を目を細めて眺めながら智はひとつ欠伸をすると、通りに面した食堂でチャイを飲んでいる人の姿を見つけた。そしてそのチャイがとてもおいしそうに見えたので、ふらふらと引き込まれるように店に入っていった。そしてチャイとサモサを注文すると、陽の差し込まない店内から、強烈に眩しい外界を眺めた。色とりどりのサリーを身にまとった女性達が、頭上に果物や野菜のたくさん入った籠を乗せて通りを歩いてゆく。それらの色彩を眩しく照らしつけている日光は、これから訪れようとしている猛烈な暑さを予感させていた。

智は、ぼんやりと去っていった三人のことを考えた。直規達には、女のことでもちろん軽い嫉妬を覚えていたし、それに加えて、一人取り残されたような何とも言えない寂しさと、これからまた一人で旅をしていかねばならないという緊迫した焦燥感が、じわじわと智を襲っていた。智は、ひどく憂鬱な気持ちで熱いチャイを一口飲んだ。鼻からマサラとジンジャーの仄かな香りが抜けていく。それはほんの少しの間、智の重い気持ちをリラックスさせてくれるものだった。

一頭の大きな牛が、のっそりと、細い道を何の遠慮もなく歩いていく。牛は、地面にござを広げて売られている野菜をついばみながら進んでいく。するとその度に、店のおばさんに怒声を浴びせられ、木の棒で頭を叩かれる。叩かれるとのそのそと頭を上げ、また別の売り場へと頭を突っ込む。そしてまた叩かれる。ずっとそんなことを繰り返し続けている。そしてしばらくすると、牛は、智のすぐ目の前をゆっくりと通り過ぎていった。獣の放つ独特の臭気がぼわっと辺りに立ち込める。もともとは黄色だったのだろうが、長年の放浪の果てに染み込んだ泥や汗で茶色く変色したぼろぼろの僧衣をまとった、まるで物乞いのような出で立ちのサドゥーが、何ごとかを呟きながら歩いていく。菩提樹の実で作った数珠を幾重にも首に巻き付け、伸び放題で束になった髪と髭を気にする風もなく揺さぶっている。そしてシバ神の象徴である三つ又の槍を、杖代わりに使っていた。

智は、ぼんやりとそれを見ながらサモサを食べていた。と、その時、ふいにそのサドゥーが智と目を合わせた。彼は、しばらくじっと智を眺めると、ゆっくりと智の方へ近寄った。智は、まずいな、と思った。しかし智のそんな気持ちをよそに、サドゥーは、そのまま店の中に入ってきて智の目の前に立ちはだかった。