キャメルサファリ

智は、それまで全く興味のなかった、キャメルサファリに出かけることにした。それは宿のインド人達がしつこく付きまとってくるというせいもあったが、やはり、理見と一希の一件が頭から離れなかったからだろう、無意識の内に智は気分転換を図っていたのかも知れない。

初めて間近で見るラクダはさすがに大きかった。そしてその生き物は、極めて自己中心的に己だけの世界に没頭しているかのように見えた。眠そうな瞼の下から覗くその瞳の鈍い輝きは、とても智の存在を認知しているようには思えなかった。そのせいか智は、ラクダに乗ること自体に抵抗も恐怖も無く、意外にすんなりとその数日間を過ごすことができたのだが、しかし、ラクダよりもむしろそれを操っている老人の方に辟易させられた。出発して早々、以前ガイドした日本人はこんなにいい物をくれただの、幾らくれただの、金や物の催促をえんえんと繰り返すのだった。老人の格好を良く見てみると、恐らくそれも旅行者から貰った物なのだろう、ターバン姿の砂漠の民にはおよそ不釣り合いな真っ白いスニーカーを履いていた。 

何もない見渡す限りの土漠の果てを眺めながら、ラクダの歩む単調なリズムに乗って、まるで終わることのない念仏のように金の話を聞かされ続ける。智は、ラクダの背にまたがった十分後にはこのキャメルサファリという二泊三日の小旅行に出てしまったことを、激しく後悔していた。ほぼ真上から照らしつける真っ白な太陽熱線は容赦なく地上を焦がし、このように何もない砂漠の上ではそれから逃れられる術は何もなく、智は、どうすることもできないままラクダの背の上で太陽を浴び続ける。流れ落ちていく汗はすぐさま乾いて蒸発し、そのせいで肌は白っぽく塩化する。智は、もう金はいらないから帰らせてくれ、と言おうとしたが、智の心が何故かそれを思い留まらせた。もしかするとそれは、一度向き合った困難な状況を乗り越えずに回避してしまうことへの脅迫的な恐れの感情、言ってみれば智の旅に対する向き合い方や、智の旅自体をも否定してしまうことに繋がりかねなかったからかも知れない。それにもし仮に今帰ったとしても、あの穴蔵のようなジャイサルメールの宿でたった一人、何の目的もなく過ごさねばならず、その状況は、自動的に、来る保証の何も無い理見の到来を期待させることだろう。そんな辛い状況よりは、まだこのキャメルサファリの方がましな筈だった。

智を乗せたラクダは、ただひたすらに、命ぜられるがまま歩き続ける。ラクダ遣いの老人は、時折、ピシッ、ピシッ、と鞭を打ち、口の奥の方で鳴らす、ギギギッ、ギギギッ、という特殊な音でラクダを操る。そしてそれらの音だけが、ラクダの刻む単調なリズムと共に、広大な土漠の上へと広がっていく。それが何の変化も無く延々と続く。

智は、揺れる視界の中で再び理見と一希のことを思い出し始めていた。紡ぎ出されていくイメージは徐々に智を取り込んでいき、そして智の周りに広がっている現実世界はどんどん意味を失っていく。智は、暑さもラクダの臭気も感じずに、ただ、イメージの世界へと没頭していった。今や捨てがたいものとなっている理見ヘの憧憬、一希に対する強烈な嫉妬心、劣等感、どうすることもできない、否定しようのない、視界に焼き付いた光景……ベッドに埋もれた理見の白く光る肉体、空ろな眼差し、笑い声……、妄想は膨張し、二つの絡み合う火照った肉体を思い出させる……。

吸引

智は、今、自分が一体どこをどう歩いているのか全く分からない。周囲の現実は最早智から分離し、留まるところを知らない妄想が、次から次へと智を襲う。

数時間後に辿り着いた自分の宿で、智は、従業員達のしつこく誘うキャメルサファリの話を全く無視して部屋に入ると勢いよく扉を閉めた。智は、しばらくの間放心してその場に立ちすくんだ。窓の外からは、通り過ぎてゆく人々のヒンドゥー語の会話が聞こえてくる。それは静寂の中に穏やかに響き渡った。

智は、突然素手で壁を殴り始めた。何発も殴った。壁の一部は剥げ落ちて、智の拳は傷ついた。血の滲んだ拳は智を余計惨めな気分にさせた。泣きたかった。でも、泣けなかった。どうしても涙が出てこなかった。泣くことのできない自分は、不幸だと思った。もやもやした胸の内は、対象となるはけ口を見つけることができないまま、智の体内で鬱屈していった。頭の中で理見と一希が裸で抱き合っている様子が、次から次へと浮かび上がって来る。

智は、バックパックの中からブラウンシュガーの紙包みを取り出すと、耳かきですくって鼻孔から一息に吸引した。鼻の粘膜に付着したそれは、毛細血管の壁を通り抜け、血球に溶け込み、脳細胞に到達した。頭のてっぺんから目頭を通り、重たい感覚の波が足先にまで下りていく。肉体は重力に反発せずに沈み込み、対照的に意識は冴え渡って、軽やかに浮遊する。智の心は、しだいに柔らかくほぐされて痛みを忘れてゆく。

――― 何だよ、結局あいつらやっちゃってたんじゃないかよ、ハハハ、俺は、一人で勝手に盛り上がってただけか、ハハハ、遊びに来てくれる、って言うから真に受けて馬鹿みたいに部屋の中で何時間も待っててさ、何を期待してたんだろう、一体? ハハハハハ―――   

智は、自分を嘲りながら退廃的な気分に身を任せていた。暗く、寂しい悦びが、智の心を薄らと支配する……。

薄暗い部屋の小さな窓から、微かに陽が差し込んでくる。智は、大きく息を吸い込んで目を閉じると、緩やかに吐き出した。肺が燃え、循環する血液によって全身が振動するのを感じた。

智は、今、自分と現実の世界との間の距離を意識し始めている。その距離は、見えない透明な膜のように智を包み込み、徐々に彼を世界から遊離させていった。

彷徨

「彼ね、一緒の宿に泊まってる子なの。宿出る前に少し話してたんだ」

智が、ああ、そうなんだ、と頷いていると、智に向かって一希は初めて口を開いた。

「夕方、会ったよね」

智は、夕方彼と出会った時のことを思い出し、あのときの卑屈な気分がまざまざと蘇って来るのを感じた。そして今、ようやく彼のことを思い出したという風に、ああ、あの宿の前にいた……、理見ちゃん、あそこに泊まってるんだ、と言った。一希は、そんな白々しい智の演技を見抜いているかのように、はぁ、と小さく溜め息をつきながら智を見返した。智は、恥ずかしさで顔を真っ赤に火照らせながら、ぐっと唇を噛みしめた。

「一希のこと知ってんだ」

理見がそう言うと、一希は、いや、ちらっと見かけただけだよ、と言い、早く帰ってボンしようぜ、と理見を促した。理見は、一希に促されるがまま後ろ目で智を見つつ、智も来る?と尋ねたが、智は、卑屈な笑みを浮かべながら、いや、今日はもう帰るよ、と言って視線を逸らした。理見が智を誘ったので一希も振り返って智の方を見ていたが、智がそれを断ると、無言で踵を返してスタスタと歩き始めた。理見は、また遊びに行くから、と智に言いおいて、一希と共に、城壁へと向かう坂の向こうの暗闇に姿を消した。智は、二人のその様子を不自然な微笑みで顔を強張らせながら、ずっと眺め続けていた。

その後三日間、智は、部屋で一人理見の来るのを待ち続けた。無論その間も偶然を装って、彼女の泊まっているゲストハウスの周辺をうろうろ偵察したりはしている。しかし智は、理見に出会うことはなかった。智は、理見が自分の部屋の扉を、コンコン、とノックしてくれることを期待して、一日中ずっと待ち続けていた。四日目の今日も、いくら待っても彼女の訪れる気配が全く無いので、仕方なく、偶然出会うことを期待して再び小都市の中を当てもなく彷徨していた。そうして理見の泊まっている宿の前を通り過ぎようとしたその時、智は、自分の意志とは全く無関係に、ふらふらと、その中へまるで引力に引き寄せられるかのように吸い込まれていった。そして気が付くと、レセプションに座っているインド人に向かって、理見という名のジャパニーズガールはいるか、と尋ねていた。智にそう尋ねられたレセプションのインド人は、宿帳をパラパラとめくり、彼女なら二○一号室に泊まっている、と智に答えた。智は、礼を言って宿の階段を上った。

二階には二部屋しか部屋が無く、智は、その内の「201」と書かれたプレートが掛けられている部屋の前で立ち止まった。そしてその扉をノックした。しばらく間があって、ハイ、という男の声が聞こえた。男?、と智が思っていると、目の前のドアノブが回り扉が開いた。

そこに立っていたのは一希であった。智は、当惑してしどろもどろになりながら、あの、理見ちゃんっていますか?、と間の抜けた声でようやくそれだけのことを言った。一希は、攻撃的な視線で智を見つめ、顎をしゃくって部屋の中を指し示した。指されたその先には、半裸で下着姿の理見が、安っぽいベッドの上にぐったりと横たわっていた。理見は、空ろな瞳で、誰か来たの、と言いながら入り口の方を振り返る。智の姿をそこに認めた理見は、ああ、来たんだ、と呟くと、薄らと微笑みを浮かべながら再びベッドの中へと沈み込んだ。

智は、茫然として、目の前の現実を頭の中で整理することができないまま、ああ、また遊びに来てよ、と変に明るい声でそう言ってその場から立ち去った。立ち去り際、扉の閉まる音と共に背後から、何だよあいつ、という一希の声と甲高い理見の笑い声が聞こえてきた。その声は、智の心臓を冷たく貫き、秘かに抱いていた甘い期待を粉々に打ち砕いた。

ガンジャ

智達は、坂を下り丘のふもと辺りまで来ていた。昼間、あんなに騒がしかったバスターミナルも、今では嘘のように静まり返っている。うるさい客引き達は通りに一人もおらず、二人はしばらく無言で歩いた。薄暗い景色の中に虫の声が聞こえてくる。静かな夜だった。

「あの角のところが、俺の泊まってるゲストハウスなんだ」

智は、暗がりの向こうを指差して言った。理見は、その方向を目を凝らして窺って、ああ、あの赤い看板のところ?、と言った。それに対して智は、うん、そうそう、と相槌を打ちながら、今から自分の言わんとしている言葉の内容に胸を高鳴らせていた。果たしてそれを理見に言うべきかどうかしばらくの間迷っていたが、思い切ってこう切り出した。

「あのさ、理見ちゃん、ちょっと俺の部屋で一服していかない?」

それを聞いた理見は、眉間に皺を寄せ、探るように智を顧みた。智は、理見と目を合わせられなかった。

「一服って何、ガンジャのこと?」

智は、顔中を火照らせながら上ずった声でそう答えた。

「ああ、そうだ」

理見は、ふぅん、と、智を横目で流し見た。

「いいの持ってるの?」
「いや、そんなにいいものではないんだけど、ゴアで買ったやつがまだ残ってるんだ」

理見は、少しの間考えながら黙って歩き続けた。そして、しばらくしてからこう言った。

「今日はやめとくわ。着いたばっかりでまだ落ち着いてないし、何か疲れたし。智もまだ、しばらくの間ここにいるんでしょ? また遊びに来るわ。あの赤い看板の所なんだよね。泊まってる場所も分かったし、私もチャラス持って行くからさ、またにしましょうよ。今日はもう遅いしね」

と、理見が言い終わったちょうどその時に、ヤァ、という呼び声が突然背後から聞こえてきた。智が振り向くとそれは、昼間、城壁の中の小都市にあるゲストハウスで見た長髪の日本人だった。彼は、智を全く無視して理見に向かって声をかけた。

「ヤァ、リミ、どこ行ってたのさ、今日、ボンしようって言ってたじゃない」
「ああ、カズキ、何してるのよ」
「何って、理見がなかなか帰って来ないから、その辺探し回ってたんだよ」
「彼と御飯食べてたの」

理見が、智の方に目をやりながらそう言うと、一希は、初めて智の存在を認識したかのように、智の方へと目を向けた。智は、少し微笑みながら挨拶をしたが、一希は、にこりともせずに、嫌な目つきで智を見返した。

「へぇ、そうなんだ、何、友達?」
「さっき、町で出会ったの」

一希はしばらく無言で理見を見つめていた。理見は智に言った。

レイヴ

「それってどんな人? 男? 女?」

理見は、智の方には目を向けずに、ちょっと落胆したように俯きながら歩いている。

「男、なんだけどね……」

全身に軽い衝撃が広がっていくのを智は感じた。半ば予想していた返答ながらいざ実際に聞いてみると、やっぱりそれは智をがっかりさせるのだった。

「会う約束でもしてたの?」

沈んだ声で智はそう聞いた。理見は、智のそんな気持ちの変化など知る由もなく、安易にこう答えた。

「ええ、一応ね。随分前の話になるんだけど、そのパーティーのことは噂で聞いていて、じゃあその辺で落ち合おうかっていうことになってたの。だけど私、ちょっと間に合わなくって行けなかったのよ。南インドのビーチでだらだらしてたら、知らない間に日にちが経っちゃってて……。ハハハ、だからもし智が行ってたらな、と思ったんだけど、駄目ね、私、いつもこうなのよ。まだ大丈夫、まだ大丈夫って思ってると、いつの間にか間に合いそうのないところまで来ちゃってるの。学校行ってた時も、そうやって遅刻ばっかりしていたわ」

そう言いながら理見は自嘲気味に笑った。

「智は、レイヴとかパーティーってよく行くの?」
「そうだね、最近行くようになったかな。最初はインドに対して持ってた反感と同じようなものをやっぱりレイヴにも持っていて、トランスミュージックなんて聴くもんかってずっと思ってたんだけど、初めてゴアでパーティーに行ってハマッちゃったよ。何これ、凄ぇって。それでそのままゴアに三週間ぐらいいたんだ。その時に結構行ってたよ。毎日あったら、ほぼ毎日行ってた。何か、ドキドキするよね。夜中、会場に行く時って。みんなバイク借りてさ。派手な格好して……。プシュカルのもね、ちょうどその時いたんだけど、ちょっと事情があって行けなかったんだ」

智は、再びあの夜のことを思い出した。直規と心路と三人でブラウンシュガーを買いに行った夜……。様々な光景が、懐かしさと共に思い出される。三人で過ごした時間のことを思い、少し胸の熱くなるのを智は感じた。

「そっか、智もゴアにいたんだ。私も去年のクリスマスから一か月ぐらいいたのよ。ひょっとしたらパーティーで会ってたかもね」
「でも、俺が行ってたのは三月の頭ぐらいからだからもうちょっと後だよ。クリスマスから年末にかけてのゴアは凄かったらしいよね。ニューイヤーなんて本当、盛り上がってたって」
「そうね、確かに人は凄く集まってた。宿も全部埋まってて、テント張ってる人達もいたぐらい」
「そんなに人いたんだ。じゃあ俺が行った時は、もうそれの半分ぐらいだったんだね……。理見ちゃんは、やっぱりレイヴとか好きなの?」
「ううん、そうでもないよ。確かにパーティーに行き始めた頃はハマッちゃってバカみたいに行ってたけど、最近はね……。クリスマスに行ってたっていうのも、その人に会うために行ってたようなものだから……。特にレイブに行きたくって行った訳じゃないんだ。まぁ、結局会えなかったんだけどね……」
「その人とはいつ別れたの?」
「半年ぐらい前になるのかな? 別れる時に、ゴアかプシュカルでってことだったんだけど、そんなにはっきり決めてたわけじゃないし、しょうがないんだけどね」 

パーティー

「私、そろそろ帰るわ。もう大分暗くなったし、ほら、あの壁の中って暗いでしょ。だからもう行かないと」

理見は、食べ終えたカレーの皿にスプーンを置いて、グラスの水を一口飲んだ。

「そうだね、送って行くよ、確かにこの町は何か嫌な感じがする」
「いいわよ、一人で帰れるわ、大丈夫よ」
「でも、俺だってどうせ暇だし、やることもないし、送っていくよ」

理見は、少し考えた後、そう、ありがとう、じゃあそうしてもらうことにするわ、と言って智と共に店を出た。

暗い夜の町を照らすのは、青白くぽつりぽつりと光っている例の街灯だけで、他に照明といえば、たまに開いている店から洩れる頼りない灯りぐらいのものである。しかし夜のジャイサルメールは、砂漠地帯の夜らしく、冷んやりと涼しかった。あの、肌を焦がすような太陽さえ出なければ、不毛に乾燥した大地と空気が残されるのみで、町は冷たく冷却されるのだ。その点が、この町において唯一救いと言えば救いだった。

「夜は涼しいね」

理見は、そう言うと夜風を全身で受け止めるかのように両腕を広げた。

「そうだね、湿気も少ないし、いい気分だ。俺も今日、プシュカルから来たばっかりなんだけど、あそこはもっと蒸し暑かったような気がするよ。やっぱりこっちの方がより一層砂漠地帯だからかなぁ」

理見は、急に智の方を振り向くと、智、プシュカル行ってたの?、と驚くように言った。
智は、理見のその反応に少し戸惑って、ああ、行ってたよ、と答えた。

「智って、パーティーとか行ったりする?」

理見は、唐突に智にそう尋ねた。智は、理見の突然のそんな質問に、少し狼狽した。

「ああ、何回か行ったことはあるよ」
「あのさ、プシュカルでパーティーがあったっていうのは知ってる? 結構最近のことなんだけど、智、ひょっとしてそれ行ってない?」

智は、クリシュナ・ゲストハウスのタンクトップが言っていたパーティーのことを思い出した。恐らく理見はそのことを言っているのだろう。

「いや、行ってはいないけど、パーティーがあったっていうことは知ってるよ。でも、何で知ってるの? そんなに大きなパーティーだったの? それって」

理見は、智のその言葉を聞いて大袈裟にその場に屈み込んだ。

「そっかぁ、行ってないかぁ……。いえ、ただね、私の知り合いがそのパーティに行ってたかも知れないのよ。それでひょっとしたら智、会ってないかな、と思って……」
「知り合いって?」
「一緒に旅してた人」

智は、理見が誰かと一緒に旅をしていたと聞いた時から、その相手のことがずっと気になり続けていた。理見にとってそれは全くいわれのない嫉妬心のようなものなのだが、その相手は、果たして男なのか女なのか、そしてその相手と理見との関係は、一体どうなっているのか、そんなことが智は気になってしょうがなかった。できればそれが女であってほしい、と秘かな願いを智はずっと胸に秘めており、今、理見がその相手について語り始めたので、そのことを聞き出すのであれば今しかない、と瞬時に判断し、思い切って聞いてみることにした。

無性に

「ハハハ、そうか、似合ってないか」
「ついでに言うと、こういう食堂のそういう汚いコップに入った水なんかも飲みそうにない」

智は、テーブルの上のさっき理見が飲んだグラスを指してそう言った。理見は、そのグラスを右手で持ち上げて軽く揺すった。そして一息つくと智に言った。

「私ね、日本では女優をやってたの」 

智は、驚いて食べていたカレーを思わず吐き出しそうになったが、理見は、相手のそんな反応には慣れてでもいるのか、智のその様子を軽く受け流した。

「いや、女優って言っても全然売れない女優でね、だって、知らないでしょう? 私のこと。だから、そんなに大それたものではないんだけど、一回、映画の撮影でインドのバラナシに来たことがあったの。それは私達みたいにインドを自由に旅する人達のそれぞれの人生を題材にしたお話なんだけど、その撮影のために初めてインドに来たのよ。でもその時は、あなたの言うように、インドなんて全然興味なかったし汚そうだし、正直言って行くの嫌だったわ。そして実際来てみても全然好きにはなれなかったし、日本に帰りたくて仕方がなかった。早く撮影が終わればいいのにってずっと思ってた。でもそれから何年か経った後、無性にインドのことを思い出すようになったの。何でか分かんないけど日本で生活しててふとしたきっかけで、バラナシの町の風景なんかが鮮明に思い出されるの。それでもう一回インドに行ってみようと思って来てみたら、今度は一年もいちゃった、というわけ」

智は、理見の歩んできた人生の道のりと自分の送ってきたごくごく平凡な生活とのあまりの違いに、とても彼女の話が現実的なことのようには思えず、ただただ茫然とその話を聞いていた。

「ちなみに、理見ちゃんって幾つなの?」
「幾つに見える?」
「俺と同い年か年下ぐらいに見えるけど、でも話聞いてると年上でもおかしくないし……」

理見は、少し笑いながら言った。

「三十よ、もう三十。去年の九月で三十になっちゃったわ、とうとう」
「マジで? 全然見えないよ。年上っていったって、三十代にはとても見えない」
「ハハハ、ありがと、嬉しいわ、そんなこと言ってくれると」

智は、理見のことを美しいと思った。あらゆる美しさの前に、理性とは、従順にそれに隷属する無意味な概念に過ぎなかった。感性は、美しさに感応して暴走し、理性は、感性の暴走を抑止することがなく、智は、最早自分の感情をコントロールできない。彼女の美しさの前に自分の全てを投げ出してしまいたい、智はそんな衝動に駆られた。理見は美しかった。

反発心

「ふうん、そうなんだ」

理見は、運ばれてきたカリフラワーとじゃがいものカレーをスプーンですくいながらそう言った。

「どう? インドは好き?」

そう聞かれて智は、少し迷ってからこう答えた。

「そうだね、好きかな、今となっては。でも色んな人がインドの話をするとき、決まって人生が変わるだの、凄い国だ、だの言うでしょう? 俺はそんなのが嫌で、始めの内は変な反発心からインドに対する敵愾心に燃えていたんだ。何だよ、そんな大したもんかよ、俺は絶対変わんねえぞ、ってね。けど実際来てみると、だんだん呑み込まれていった。やっぱり強烈な国だね、この国は。色んな面があって決して一つじゃないから飽きない、というか。ちょっと考え方とか変わったかな? 変わるもんかって思ってたけどまんまとやられたよ」

理見は、大きな黒い瞳で智をじっと見つめている。智は、そんな理見の視線に少しまごついた。

「理見ちゃんはどうなの? どれくらいインドにいるの?」
「私も二三ヶ月よ、それぐらい。だから、インドに入国したのは智と同じぐらいかな、時期的に」
「やっぱりインドは好き?」
「そうね、好きとか嫌いとかいうよりは、何かに惹かれてるんだと思うの。私、これが三回目のインドで、前回来たときは一年ぐらいいたのよ。この国にね。何でだろう? 今日みたいに腹立つこと多いし、インド人なんて全然好きじゃないし、むしろ私、ああいう暑苦しい顔嫌いなのよ。でも、そんなに長くいられるってことは、やっぱり好きなんだってことなのかなあ。嫌なこともいっぱいあるけど、何故か来てしまう、そんな感じかな」
「三回目、ね……。ところで理見ちゃんって、日本では一体何してたの?」
「何って?」
「仕事というか、日本での生活というか……」
「どうして?」
「だって気にもなるよ。もう三回もインド来てるんでしょ? それに前回の滞在は一年で、今回の旅行期間も、もう…一年半? 日本では一体何してんのかなって思うよ。それに理見ちゃんは、そんな風にインドだとかアジアの国を長く旅してるようにはとても見えない」

智の顔を見ながら理見は少し微笑んだ。

「じゃあ、どういう風に見えるの?」
「一人旅してるようには見えないし、もし旅してるんだとしても、ヨーロッパだとかアメリカだとか、もっとこう、小綺麗な所を旅してそうだ」

理見は、スプーンを置いてコップの水を一口飲むと、声を押し殺すように笑いながら言った。

「私、インド似合ってない?」
「うん」

理見は、大きな声で口を開けて笑った。

スキンヘッド

「髪が今、中途半端な長さだからとても気になるの」

髪を掻き上げながらその沈黙を破るように理見がそう言った。

「伸ばしてるの?」

理実のその様子を眺めながら智が尋ねる。

「まあ、ね。伸ばしてるって言えば伸ばしてることになるんだけど、あんまり気にしてないわ。実は、私、ちょっと前までスキンヘッドだったの。だから、ほったらかしって感じ」

理見は、少し照れながら自分の頭を撫でた。

「スキンヘッド? 一体どうして?」 

驚いて智は聞き返した。

「どうしてって言われても特に理由は無いんだけどね。ミャンマーにいた時に一緒に旅行してた人がそうするって言うから私も一緒にしてみたの。思い切って。でも暑かったから、涼しくなってちょうど良かったわよ」

両手で髪を後ろに束ねながら、理見はそう言って笑った。無造作に伸ばされた髪を後ろにまとめた理見のその姿は、彼女の白い肌と形の良い額とを際立たせた。そして黒く大きな瞳は、中性的な輝きを放ち彼女を一人の美しい青年のように見せていた。

「スキンヘッド、ね……。理見ちゃんって、一体どれぐらい旅してるの?」
「一年半、ぐらいかな? 途中で何度か日本に帰ったりしてるから、正確には良く分からないけど……」
「ミャンマーってことは、東南アジアの辺りからずっとこっちに向かって旅してきたの?」
「まあ、そうね、そんな感じ。それより、ちょっと何か注文しない?」
「ああ、そうか、そうだよね」

智は、思い出したようにウェイターを呼んだ。どこの町でも、こういったツーリスト向けの安レストランで出されるものは同じような物ばかりだ。理見も智も、やはり何度も食べたことのあるようなありきたりの物を注文した。

理見が少し横を向いている間、智は理見の顔をまじまじと眺めた。そうして今、強く理見に引き込まれている自分を発見した。理見の持つ強烈な印象に圧倒され始めていた。理見のような女に智は今まで出会ったことがなく、彼女の口ぶりや動作などの全てが智を惹きつけた。

「サトシ、だっけ」

理見はそう言った。

「そう、サトシ、一ノ瀬 智」
「智は? インドは長いの?」
「二ヶ月、いや、三ヶ月ぐらいかな。旅自体は、もう一年ぐらいしてるんだけど」

智は、旅経験の豊富そうな理見に対し劣等感を感じ、聞かれてもいないのに自分が一年以上旅しているということをアピールした。

城壁の中

「御飯は、下、で食べましょう。この中は暗いし、私、あんまり好きじゃないの……」

表情を曇らせながら女はそう言った。

「そうだよね、俺もそう思った。この中はあんまり好きじゃない。でもそれならどうしてこの中に泊まることにしたの?」
「それがね、ここに着いてバスを下りた途端、インド人の客引き達に取り囲まれて、必死になってそれを断ってたら、腕とかバックパックだとか色んなとこ引っ張り回されて、挙げ句の果てにドサクサ紛れに体中触られまくったんで逃げてきたのよ。あいつら本当腹が立つ。アッタマ来て二三人蹴飛ばしてやったわ。それで、奴らのいない所までとにかく歩きまくって、気がついたらこの城壁の中だったのよ」

少し興奮しながら女は激しい口調でそう言った。

「ああ、あの客引きの奴らね。俺も着いた途端に同じような目に会ったよ。やっぱり誰にでもそうなんだ。ひどいよね、あれは」

そう言いつつ智は、あの客引きのインド人達に彼女が体を触られまくっている光景を想像して、嫉妬に似た妙な感情を覚えるのだった。そしてその男達が非常に腹立たしく思えた。

「本当、腹が立つ」

独り言を言うように彼女はぽつりとそう言った。

二人は、丘から伸びている坂道を下って行き、白い街灯の細々と灯る下の町へ下りてきた。人通りは少ない。ブーンという音を立てている街灯に向かって小さな蛾の群れがぶつかっては落ち、落ちた先の砂の上で羽をばたつかせてもがいている。

悪質な客引きの多い騒がしいこの町もさすがに夜はひっそりとしており、ついている灯りといえば、街灯と、何軒かのツーリスト向けのレストランがクリスマスツリーに飾る安っぽい豆電球のようなものを侘びしくカラフルに点滅させているだけだった。その内の一軒に智達は入っていった。店内では薄い緑色の壁が青い蛍光灯の灯りで薄らと照らし出され、その蛍光灯は、路傍の街灯と同じように、ブーン、ブーン、と断続的に耳障りな音を立てている。ベンチのように横長の木製の椅子にビーチサンダルを脱いで膝を立て、しきりに蚊が停まるのを気にしながら智は、女に向かって話しかけた。

「そういえば、名前は何ていうの?」

女は、店の中を何となく見回していた視線を智の方へ向けた。

「理美、よ」
「ふうん、理美ちゃんかぁ」

頷きながら智はそう呟いた。理美は、そう言う智にちらっと目をやって、再び店の中を見回し始めた。しばらくの間、沈黙が続いた。