収拾

宿に帰ると、パキスタンから渡って来た一人の日本人旅行者がチェックインしていた。
国境を越えて、初めて訪れるインドに入国したばかりなので、彼は少々興奮しているようだった。智の発するどんな言葉にも常に過剰な反応を示していた。

「そうなんっすよ! 国境ではかなり入念に荷物チェックを受けて、入国までに随分時間がかかったっす!」

安岡というその青年は、流れる汗をタオルで拭き拭き興奮気味にそう言った。

「そっかあ。そんなに厳しいのかあ、パキスタンの国境は……。何か持ってたらヤバイかな?」
「えっ、何かって……。ひょっとして一ノ瀬さん、ドラッグとか持ってるっすか?」

智は、安岡には「一ノ瀬」と名字で自己紹介していた。サトシ、と名前を言わなかったのに他意はなく、ただ、安岡が、安岡です、と先に名字で自己紹介してきたからに過ぎない。

「いや、持ってるって言っても、チャラスぐらいだよ」

智は安岡に嘘をついた。もしヘロインだとか、LSDだとか、安岡にそんなことを言おうものなら、途端に収拾が付かなくなりそうだったからだ。

「チャラスって、何すか?」

智は、安岡のその単純な問いかけに、飲んでいたチャイを思わず吹き出しそうになった。しかし、考えてみればそれが普通なのだ。殆どの一般の人達は、「チャラス」などという特殊な単語とは関わり合いを持たずに一生を終える。むしろ知っている人達の方が断然少ないのだ。智は、気を取り直して安岡のその問いに答えた。

「チャラスっていうのは、言ってみたら…ううん、あっハッシッシみたいなものだよ。もっと簡単に言えば、マリファナね」
「ええっ! 一ノ瀬さん、マリファナ持ってるっすか!」

安岡のその驚きように、智の方が驚かされた。仮にもヨーロッパからインドまでユーラシア大陸を横断して来た、いっぱしの旅人である安岡が、まさかマリファナごときでこれ程驚こうとは思っても見なかったからだ。

「ひょっとして、安岡君、マリファナも吸ったことないの?」
「ないっすよ! でも俺、ずっとやってみたいって思ってたっす! 一ノ瀬さん、俺に是非マリファナをやらせて下さい!」

安岡は、目を爛々と輝かせながら、汗まみれの顔を智の目の前に突き出して来た。

「分かった、分かったから、ちょっと落ち着きなよ」

安岡のその勢いにたじろぎながら、興奮し過ぎて鼻息がヒューヒュー言っている安岡を智は何とかなだめようとした。

「じゃあ、じゃあ、いいっすか、いいっすか!?」

安岡は、そう呟きながら智に抱きつかんばかりの勢いで近づいてくるので、智は、いいよ、いいよ、やらせてあげるから、お願いだから落ち着いて!、と、とうとう叫び声を上げてしまった。

感情

シーク教の歴史について全く無知だった智は、シーク教徒に対するそんな迫害があったことなど当然知らなかった。それで、写真に添えられていた英語表記の説明文を読んでみるとどうやらそれは、かつての宗主国であったイギリスが彼らに対する反対運動を起こしたシーク教徒達に行った武力弾圧だったらしい。無抵抗、非武装だった市民に対し、一斉機銃掃射を敢行したという。しかも直接手を下したのは英国人ではなく、同じくイギリスの支配下にあったネパール人だということだ。長年の植民地支配に長けたイギリスという国は、そういった虐殺を行うとき、被支配民の怒りの鉾先を自分達から逸らすため、彼らに敵対している民族や、或いは全く無関係の第三国の人間を直接的な執行者として利用する。

智は、その文章を読んでやり切れない気持ちになった。人間の心の深部に渦巻いている憎悪や怒り、また、この世のものとは思えない程の悪魔的な残虐性、一体なぜ、人間はそんな感情を持っているのだろう。いくら穏やかでにこやかな人間でも、必ずそれらの狂暴性はどこかに秘められており、ほんの少し心のある部分を刺激するだけでいとも簡単に表出してくる。憎悪が憎悪を呼び、怨念は留まる所を知らず、怒りの炎は決して燃え尽きない。全く地獄のような有り様だ。インドには、世界的に有名な様々な聖人がいた。近い時代では、マザーテレサやガンジーといった、インドの優れた精神性を基盤に人生を正しく歩んだ人達がいる。彼らの魂には、それらのネガティブな感情は存在しなかったのだろうか? 智は、彼らのことを考えるとき、いつもそれが不思議でならなかった。目の前の残酷な写真達が示している現実は、単純なリアリティを持って醜い人間の性を、これでもかこれでもか、と言わんばかりに証明している。智は、そのことは簡単に納得することができた。自分の中に蛇のように巣食っている、残忍で卑劣な心の闇を少し覗いてみればいいだけのことだ。しかし、聖人と呼ばれる彼らのような「非人間性」を、智は、どうしても信じることができなかったのだ。そう、智は、彼らのような清い精神を「非人間性」と解釈していたのだ。虐殺する、憎しみに満ちた英国人達の心境は理解できても、どんなに卑劣で残酷な暴力を被ろうと、決して反撃せず、しかも、それに屈しない、ガンジーのような人間の心境は、とても智の理解の及ぶ所ではなかった。そんな非人間的に強靭な精神を、一体どうすれば獲得することができるのだろう? 智は、目の前に立ちふさがる巨大な灰色の壁の様なものに直面し、真っ暗な絶望を覚えずにはいられなかった。

――― 俺は、一生、卑小な心のまま人生を終えていくに違いない。決して怒りや憎しみといった感情から解放されることはないだろう…… ―――   

智の目には、涙が光っていた。シーク教徒の被ったこれらの残酷な歴史の示された写真の前で涙しているそんな自分に、周りにいる誰かがもし気が付いたなら、きっと何て心優しい青年なんだろう、と思われたことだろう、智は、そんな風に想像し自嘲気味に微笑みながらひっそりと涙を拭った。

祈りを捧げて

智は、アムリトサルに着いて二日目の夕方、この街のメインであるゴールデンテンプルへ観光に行くことにした。ゲストハウスから歩いて二三十分の道のりは、賑やかなバザールで埋め尽くされていた。マナリーやダラムサラなどの山間部とはまるで違った久しぶりの街の熱気に、智は少々戸惑いを覚えた。山の中の静謐とした感じはまるでなく、あるのは、猥雑とした人々の熱気ばかりだ。しかしその熱気は、デリーのものとは異なり、粘り着くようにつきまとう人々の煩わしさはまるでなく、それが観光客ずれしていないせいなのか、はたまたシーク教徒の資質であるせいなのかは分からないが、むしろさっぱりしたもので、皆、親切に智に接してくれるのだった。智は、軽い足取りで久しぶりのバザールを歩き、ゴールデンテンプルへと歩を進めた。

ゴールデンテンプルに入るには、シーク教徒と同じように履物を預け、足を洗い、髪を覆わなければならない。智は、持って来た少し大きめのハンカチで頭を覆った。寺の敷地内には、白い大理石によって囲まれた大きな池がありその中心に金色のお堂が浮かんでいる。あれがゴールデンテンプルなのだろう。そこへ通ずる一本の橋を巡礼者達が次々に渡っていく。更に、それを取り囲む池の周りにも、橋へと向かう長い行列が延々と続いていた。巡礼者達に混じって智もその列に加わった。

礼拝に向かう人、礼拝を終えた人、また、池で沐浴をしながら祈りを捧げる人、皆、静かに自分の行いに没頭していた。その静寂が、それらの人々の行いをとても神聖なものに見せている。智は、静かな気持ちで一歩一歩足を踏み出していった。冷んやりとした大理石の感覚が素足にとても気持ちいい。傾いた日差しが、寺院の金色の屋根に反射して眩く輝いている。そしてその光が、池のほとりで寺院に向かってひれ伏している信者の全身を照らす。男は、静寂の中、ゆっくりと額を地面につけると体を起こし、手を合わせながら天を仰いで祈りの言葉を捧げる。そして再び時間をかけて同じ動作を繰り返す。その男の足下には、彼の祈りを祝福するかのようにマリーゴールドの花弁が、幾重にも重なって取り巻いていた。水面は、昼間の太陽とはまるで正反対の穏やかな夕日を弾き、揺れながら、強い輝きを放ち続ける。智は、それらの光景をじっと見守った。

――― あの男は何を祈っているのだろう? 何に対して祈りを捧げているのだろう? ―――   

彼のその姿は、何か、とてつもなく大きなものと一体化しているように見えた。その大きなものとは一体何なのだろう? 智は考えた。宇宙だろうか? それとも、それこそが神と呼ばれるものなのだろうか? 神 ―――    

智は、見よう見まねで礼拝を終えると寺院の一画にある博物館へと入っていった。そこにはシーク教徒の迫害の歴史が、絵画や写真によって連綿と連ねられており、予期せぬあまりにも凄惨なその内容に、何となく入って来てしまった智は思わず目を覆った。中には、虐殺されたシーク教徒の、弾丸や殴打によって歪んだ顔の実物写真まで展示されていたのだ。

無料の巡礼宿

アムリトサルはシーク教の聖地である。シーク教徒にとって総本山となるゴールデンテンプルと呼ばれる黄金の寺院のある街だ。街往く人々は、皆ターバンを巻き仰々しい髭を蓄えている。いわゆる日本でのステレオタイプなインド人のイメージといったところだろうか。アムリトサルは更に国境の街でもある。バスで二三十分行った所にパキスタンとの国境があり、そのすぐ向こうにはパキスタンの主要都市ラホールが控えている。パキスタンはもう目の前だ。

智は胸の高鳴りを覚えた。パキスタンはすぐそこにある。行こうと思えば、今すぐにでも行ってしまえる距離なのだ。ようやくこれで心置きなく西へ向かえる。今までのように、北へ南へうだうだ蛇行する必要はなく、ここから先トルコまではただひたすらまっすぐに、西へ進んでいけばいいだけなのだ。智は、今、大きな山を登りきり、それを乗り越えようとしていることを実感しつつあった。

アムリトサルでの宿といえば、智達のようなバックパッカーにとっては寺院内に併設されている無料の巡礼宿が有名なのだが、智はあえて、バススタンドのすぐ近くにある一泊八十ルピー程のゲストハウスにチェックインした。

ゴールデンテンプルの巡礼宿と似たような所で、仏教の聖地ブッダガヤにある、ある寺院でも無料で宿泊できる施設があるのだが、そこでも智は、わざわざ町にあるゲストハウスにチェックインした。いくら節約して旅行しているとはいえ、インドの中でも最も貧しい地域にある寺院の恩情を利用してまで宿代を浮かそうというのは、智にはどこか浅ましい気がしたからだ。実際そういったあざとい旅行者は多く、智は、あまりそういった者達と関わりたくはなかったというのも理由としてあった。

智のチェックインしたゲストハウスは、英国統治時代の面影を残した造りになっており、広い中庭にテラスが面していてなかなか居心地の良い所だった。食事で出される食器類も英国式のもので、テラスのロッキングチェアでは白髪の老婆が、一日中腰かけて庭を眺めながら英国式のティーセットで紅茶を啜っていた。彼女はイギリス人らしく、たまに流麗なクィーンズ・イングリッシュでターバンを巻いた従業員のインド人と会話をしていた。 智は、いつも不思議な気持ちでその光景を見守っていた。ひょっとしたら彼女は、英国植民地下のインドで青春の日々を送っていたのかも知れない。そして近代インド独立の父、ガンジーの手によって独立が果たされた現代のインドにおいてもなお、本国に帰ることを拒否して、思い出深いインドでの美しい思い出を反芻しながら、今を生き続けているのかも知れない。どことなく存在感の薄い彼女の姿は、智にそんなことを想像させた。一体彼女は、毎日ああやってインド式のチャイではないイングリッシュティーを飲みながら、英国の気候とは程遠い灼熱の太陽で照らされた熱帯の中庭に、何を見ているのだろうか。彼女は、もうこの先故郷の地を踏むことはないだろう、と智は思った。このアムリトサルの地で、英国の生活様式を貫きながら一生を終えるという固い決意を、彼女の中に見たような気がした。

いちから

取り調べも終わり数日経ったある日、心路は、仁にタトゥーを彫ってもらっていた。アシッドペーパーから起こした「チェ・ゲバラ」の肖像を右肩に入れるのだ。タトゥーマシンの金属的な連続音を聞きながら、ひたすらジョイントを吸って心路はその衝撃に耐えていた。

「やっぱ、あれか。これは一希のために入れるのか?」

マシンを使う手を休めて仁が心路にそう尋ねた。心路は、顔をしかめながらひたすらジョイントを吹かしている。

「いいや、そんなんじゃないですよ、仁さん。ただ、何となく、です。まあ、実際これは一希が最後に摂ってたアシッドなんですけどね……」

心路は、そんな風に一希のことを話せるぐらいに落ち着きを取り戻していた。大使館員や警察官との事務的なやりとりが、心路の心をいくらか紛らわし、平常心に戻していたのかも知れない。

「革命をね、起こしたいんですよ……。俺ん中で、革命を起こすんです……」

心路は、そう言うと再び顔をしかめて短く何度もジョイントを吸った。紫の煙が、心路と仁の体にまとわりついては消えていく。

「革命、ね……。確か一希もよくそんなこと言ってたような気がしたなあ。まだゴアにいる時に……」

仁がそう言うと、心路は、ハハハ、バレました?、と言って照れたように微笑んだ。

「これ、一希の口癖だったんですよ」

心路のその言葉に、仁は、やっぱりな、と言いながら微笑んだ。

仁の部屋から覗く外の景色は、信じられないぐらい晴れ晴れとしていた。遠く銀色に連なるヒマラヤの山々が、真っ青の透き通った大気を貫いている。

部屋の窓から、タトゥーマシンの震えるような金属音と、仁と心路の笑い声とが、爽やかな風に乗って遠く山々の向こうへと消えていった。

それから一週間程経ったある日、マナリーを離れた智と心路はダラムサラのバス停で別れを告げた。ダライラマに会いに来た二人だったが、折しも彼は日本訪問中で、謁見することはかなわなかった。ダライラマのいないダラムサラなど、特にメディテイションやチベット仏教に何の興味も持たない二人にとっては、ただのインドにあるチベット村というぐらいの印象でしかなく、すぐにそこを離れることにしたのだった。智は、パキスタンへ向かうためにアムリトサルへ。心路は、日本へ帰るために再びデリーへと向かう。帰って一希の葬式に出るのだそうだ。そして、もう一度日本でいちからやり直してみるという。ドラッグも止めて、直規とも何とかやり直せるように努力してみたい、と言っていた。智は、その言葉、特に”ドラッグを止める”という所に深い疑念を抱いたが、心路のその決心を素直に賞賛した。素晴らしいと思った。そんな心路の心の変化のせいか、心路の表情に今までずっとつきまとっていた暗い影のようなものが、今ではきれいさっぱり消えていた。心路の表情は、今や力強い輝きを放つまでになっていた。

智は、心路に握手を求めた。心路は力強くその手を握り返した。二人とも笑顔だった。今度こそ本当の別れだ。次に出会うのはいつになるか分からない。ひょっとしたらこれが最後になるかも知れない。

「じゃあな、智。気をつけてな。これから先の長い旅、あんまり無茶しすぎないように」「心路もね。さっきの台詞、ちゃんと覚えとくから」

心路は、笑って智の体を抱き寄せた。智も心路の体を強く抱きしめた。もうこれで、本当にお別れだ。

「じゃあな、サトシ。楽しかったぜ。お前に会えて良かったよ」
「俺も」

二人は、もう一度強くお互いの体を抱きしめ合った。

バスに乗った智を、見えなくなるまで心路は見送り続けた。智も、窓から身を乗り出してそんな心路に手を振った。相変わらずの透き通った快晴に、全てのものは智の瞳に輝いて映った。智は、目を細めながら、それらの景色を様々な思いを込めて眺め続けた。

遺族

「キヨシ、キヨシ……」

担架に乗せられた一希が、何度もうわ言のように清志の名前を呼んだ。

「一希! 喋るんじゃねえって! もう少しだから! 絶対助かるから! 頑張れ、頑張れよ!」

心路は、泣きじゃくりながら血まみれの一希の手を握っている。担架を担いでいる者達の足並みが次第に速くなっていく。揺れる懐中電灯の光が漆黒の森を白く照らしだす。

「キヨシ、ごめん、ごめん……」

カズキの腹部からの出血はどんどんひどくなっていく。白い担架が赤く染まり、黒い地面に鮮血が滴り落ちていく。

「馬鹿、カズキ! もう喋るな! 分かったから、喋んじゃねえよ!」

心路は、祈るように一希の手を握り続けている。

「許して、キヨシ、俺は、俺は……、ハァ、ハァアアア」
「だから、喋んじゃねえって! 頼むから、カズキ! 頼むからもう喋らないでくれ!」「ハァ、ハァァァアア、キヨシ、キヨシ……」

一希の声はかすれるように消えていき、首が力なく横を向いた。一希の頭は、担架の振動に抗することなく、揺れるがままに揺らされている。一希の真っ直ぐな長い髪が一希の顔を覆い、薄く見開かれた目の中にその髪の先端が入り込んでいる。

「カズキ! カズキ! ワアアアアアア!」

心路は、一希に覆い被さって泣き崩れた。担架は、一希の死体もろとも地面に叩き付けられ、それを運んでいた者達はその勢いで激しく転倒した。心路は、そんな周りのことなど全くお構いなしで一希の胸にしがみついている。脱力した一希の肉体は、良くできた操り人形のように力なく地面に横たわっていた。誰もそんな心路に声をかけられず、皆、しばらくの間そのまま二人を見守った。

一希の遺体は、一度日本大使館に引き取られ、数日後、来印した遺族の手に引き渡された。加害者のイスラエル人ディーラーは、取り押さえたインド人達の手によってそのまま警察に引き渡された。日本大使館は、目下インド政府に加害者の身柄引き渡しを要求中だそうだ。

智と心路の二人は、証人として何度か警察で証言を求められた。それは数日間の長きに及んだが、二人にとって身の回りで起っていくそれらの事務的な出来事は、まるで他人事のように現実味に乏しく、その長さなど実感する暇もないぐらい、ただただ毎日が機械的に過ぎていった。

倒れている二人

「ちょっ、シッ、シンジ、あれ……、見える? あいつが手に握っているもの……」

心路は、智の指差すその先を首を伸ばしながら眺めると、それに気が付いたらしく、あっ、と大きな声を上げた。

「あれ、ナイフじゃねえかよ! 一希は!? 大丈夫か!? カズキ!、カズキ!」

心路がそう叫ぶと同時に、一希は前のめりに倒れ込んだ。反復するトランスミュージックの規則的なサウンドが、その動きのひとこまひとこまをなぞるように包み込む。断続的に放たれる照明の眩い閃光が、一希の苦悶の表情を、ときおり闇の中に白く映し出す。一希は、そのまま土の上へ顔から崩れ落ちた。

周りの嬌声は明らかに悲鳴に変わった。会場のその騒ぎに気が付いて、DJはプレイを中断し、照明をつけた。一瞬にして闇から眩い光の中へと投げ込まれた群集は、そこに血まみれのナイフと、腹から血を流してうずくまる一希の姿を目の当たりにした。一人の女が、甲高い悲鳴を上げながら失神した。動揺した群集は、恐慌状態に陥って我れ先にその場から立ち去ろうと、右往左往していた。誰も倒れている二人には近寄ろうとしない。その中で、オーガナイザーに雇われてスピーカーなどの機材を山の中まで背負って運搬してきたインド人達だけが、数人で、一希を刺したイスラエル人の体を取り押さえた。一希に蹴りあげられ、顔中血まみれになっているイスラエル人は、狂ったように叫び声を上げながらそれに抵抗したが、屈強な肉体を持つ彼らにとっては無駄なあがきでしかなく、難無く押さえ付けられた。男は、狂人のように目を剥いて笑いながら、屈辱的な罵声を倒れている一希に向かって浴びせ続けた。

心路と智は、人混みを掻き分けてようやく一希の下へと走り寄った。心路が声をかけると、一希は、苦痛で皺くちゃになった顔を心路の方へ向けた。

「痛ぇ、痛ぇよお、助けて、助けてくれよ、俺、死んじまうよ!」

一希は、血まみれの自分の腹を両手で押さえながらそう言った。

「馬鹿、お前、喋るんじゃないよ! 誰か、おい、病院! 病院連れてってくれよ!」

心路は大声でそう叫んだが、誰もそれに応える者はいなかった。色とりどりの奇抜な色彩で着飾ったレイヴァー達は、ただ、たじろぎ、うろたえるだけで、誰も心路の手助けをしようとはしない。一希の息遣いがどんどん荒くなっていく。

「サトシ! 頼む! 誰か呼んできてくれ!」

心路は、隣にいる智にそう言った。一希の手を握りしめている心路の手は、血にまみれてどろどろになっている。智は、横目でそれを見ながら、分かった、何とかしてみる!、と言って走り始めた。しかし、そうは言ってみたものの、智は、こんな山の中で何をどうすれば良いのかまるで見当も付かず、とりあえずオーガナイザーからDJを始め、パーティーを取り仕切っている主要な人物に、かけられるだけ声をかけた。そして彼ら数人が話し合った結果、担架で下山してマナリーの病院まで一希を運ぶことになった。こんな山の中では、もうそれしか方法はなかった。

言い争い

パーティの始まった直後の出来事だった。夜の山を小一時間程歩いたパーティ会場には、そろそろ人が集まり始める頃だった。深い森の中に設置された特大のスピーカーからは空気を揺るがすような大音量のトランスミュージックが吐き出され、すぐ隣にいる人間と会話することもままならない。街灯のように吊るされたブラックライトによって、一心不乱に踊り続けるレイヴァー達がぼんやりと淡く照らし出される。木々の間には、蛍光色のシバ神や幾何学的な模様の描かれた大きな布が何枚も張り巡らされ、それらは、ブラックライトに反射して妖しい光を放っている。

「サトシ、一希は?」 

心路が、智の耳元まで口を寄せて大きな声でそう言った。智は、大袈裟に首を振って、知らない、と答えた。するとその時、突然智達の近くの群集が騒然として、何かを取り囲むようにしながら大きな輪になった。智は、何だろうと思って中を覗き込むと、その中心で一希とイスラエル人らしい男が言い争いをしながら揉み合っているのが見えた。何か一言発するごとに、お互いがお互いを突き飛ばし合っている。良く見るとそのイスラエル人は、ゴアにいた時からあまりいい評判のなかったドラッグディーラーだった。その男の捌いているものは、皆、粗悪品ばかりだというのがもっぱらの噂で、智も、一度その男からエクスタシーを買ったことがあったのだが、それはやはり、まるっきり何の作用も及ぼさない全くの粗悪品だった。智は、その噂が本当であることを、既に身をもって証明していたのだ。恐らく一希は、そのようなことでその男にクレームを付けている内に、言い争いになったのではないだろうか。断片的に「ゲバラ」だとか「マネー」だとかという単語が聞こえて来る。智は、それを見て慌てて心路に報告した。

「心路、大変だよ! また一希が何か揉めてるよ!」

智が心路にそう声をかけると、心路は慌てて輪の中を覗き込んだ。そしてその中の一希を確認して、あいつ、また、と言って、すかさず二人に近寄ろうとするのだが、それを取り囲む群集や、それには全く無関心に踊り続ける人々に阻まれて、どうしても近寄ることができなかった。

「くそっ、頼むよ、中に入れてくれ!」

心路のその叫びは、スピーカーから波動のように流され続ける大音量によって空しく掻き消されていった。中心で揉み合っている二人の争いは、どんどん激しくなっていく。すると突然、一希が男の顔を殴りつけた。男の顔は一瞬横に揺れ、次の瞬間、膝が地面に落ちた。一希は、間髪入れずに跪いた男の顔面を蹴り上げる。男は、音もなく後方へ半回転しながらうつ伏せに倒れ込んだ。周りから悲鳴とも歓声ともとれないような嬌声が、サウンドの合間を縫ってとぎれとぎれに響きわたる。

一希は、膝に手を突いて肩で息をしながら、倒れている男をじっと見守っていた。気のせいか、一希の表情が苦痛に歪んでいるように見える。とその時、智は、倒れているイスラエル人ディーラーの右手に握られている物を見て目を見張った。銀色の閃光をチカチカと放ち続けるその物は、明らかにナイフであった。

智は慌てて心路の腕を引いた。

穏やかな表情

「俺は、慌てて走り寄って大声で清志の名前を叫んだんだ。そしたらあいつ、河の中程でこっちを振り返って、笑顔で手を振った。一希さあん、ってな。その時のガンガーは、雨の後でちょうど水かさが増してる時で、流れもかなり速かった。俺は、危ないから早く戻って来いよ、って言ったら、清志は、大丈夫ですよ、向こう側まで行くんです、って言って再び泳ぎ始めた。そしてその後すぐ、清志はガンガーの濁流に呑み込まれてた。俺の目の前でな。あっと言う間だったよ。流されてあいつが見えなくなったのは」

一希の全身は、わなわなと震えていた。涙がこぼれ落ちそうになるのを必死に我慢しているようだった。震える唇から涎が垂れている。声にならない声が、一希の喉の奥から間断なく吐き出される。心路は、無言でそっと一希の肩を抱いた。一希は、崩れ落ちるように心路の腕の中に体を預けた。そしてひたすら煙草を吸い続け、訳の分からない独り言を呟き続けた。一希は、泣いてはいなかった。何か強力な抗力でもって、涙を流すことを猛烈に拒み続けているように見えた。心路は、そんな一希を無言で見守った。

「何だろうな……。向こう側まで行くって……。清志、あいつ、一体何を見に行こうとしたんだろうな……。何を見に行くつもりだったんだろう?」

伸び切った煙草の灰が一希の足の上に落ちた。一希は、それに気が付いているのかいないのか、その灰を払おうともしなかった。心路は、それを丁寧に落してやった。すると一希は心路を見て言った。

「なあ、心路。俺達、何の為にこの世に生まれてきたんだろう……。何か意味なんてあるんかな。清志は、一体、何を分かったっていうんだろう? あいつは、自分の生まれてきた意味ってやつを、一体、どう理解したっていうんだろう……」

一希の目が爛々と輝いている。鈍い輝きを放っている。心路は、尋常でない一希のその表情にたじろいで、それに答えるともなく、ただ、黙って一希を見守った。

一希は、もう殆ど燃え尽きてしまった煙草を灰皿に押し付けると、子供のようににこやかな微笑みを浮かべて立ち上がった。

「ほら、もう陽が昇る……」

一希は、窓の外を指差しながらそう言った。そう言う一希のその表情は、とても穏やかなものだった。智は、人間のそのように穏やかな表情をそれまで見たことがなかった。それは、智がそれまで見てきた人間の、どんな表情にも当てはまらないものだった ―――   —–

普通じゃなかった

一希の瞳が力なく微笑んだ。心路と智は、一言も言葉を発することができなかった。

「ある日さ、いつものようにみんなでボンしてる時に、俺がたまたまアシッド持ってったんだよ。それで、みんなで一枚ずつ喰おうってなった時に、当然、清志もやるって言い出して……。もちろん俺は快く清志にあげたよ。どんどんやれよ、ってさ。それから後はもうみんなパッキパキにキマッちゃって、訳分かんない内に夜が明けてた。それでみんなそろそろ帰ろうかってことになって、それぞれの部屋へ帰り始めたんだ。清志と部屋をシェアしてた俺は、二人で一緒に帰ることになった。その帰り道、ちょうど夜明け頃のガートを歩いてたら、その時まさに、太陽が昇ってくる所だったんだ。景色が真っ赤に変わっていって……。ガンガーは、宝石をちりばめたみたいにキラキラと輝いて……。アシッドがまだ少し残ってた俺は、うっとりしながらその風景を眺めてたんだけど、ふと清志の方を見ると、あいつ、泣いてるんだよ。俺は、突然のことに何だか慌てちまって、まるで照れ隠しするみたいに、何だよお前、何泣いてんだよ、って笑ってごまかそうとしたんだ。そしたら清志の奴、一希さん、俺、何だか分かったような気がします、って静かににそう言うんだ。何か、凄く落ち着いた感じでさ。俺は、何でだか良く分からないけど突然清志が怖くなって適当にそれをあしらうと、疲れたからもう帰ろうぜ、って言ったんだ。だけど清志の奴、あともう少しだけここにいさせて下さい、なんて言うもんだから、俺は、勝手にしろよって言い置いてさっさと一人で帰ることにしたんだよ。だってあの時の清志は、何だか普通じゃなかったんだ。人間のあんな表情を見るのは初めてだった。まるで何かまるっきり別のものを見ているというか……。奴は、本当に違う世界に行っちまってるみたいだった。俺も色んな奴とアシッド喰ってきたけど、あんな風になった奴は一人もいなかった。いや、それだけじゃなくって、あんな不思議な雰囲気の人間をそれまで俺は見たことがなかった。何か得体の知れない胸騒ぎを感じながら、ひたすら逃げるようにして早足で俺は清志から遠ざかったんだ。一刻も早くその場から立ち去りたくってさ。だけど胸騒ぎは収まるどころかますますひどくなっていく。清志のことが気になって気になって仕方ないんだ。もう頭の中がはち切れそうになって、気が付くと俺は、慌てて今来た道を引き返していた」

一希は、そこまで話すと再び煙草を吸った。唇が乾くらしく、しきりに唇を舐めている。心なしか息遣いが荒い。

「それで、走ってさっきの所まで戻ってみたら、ガートの端に、清志の服が丁寧に畳んで置いてあったんだ。俺は、びっくりして周りを見回すと、あいつ、泳いでやがんだよ、ガンガーを。素っ裸でさ」

一希は、せわしなく煙草の煙を何度も呑み込んでいる。その手は小刻みに震えているようだった。