他の国に行くのが怖いぐらい

「分かりません。でも、どうしても来たかったんです! あんまりインドのことは詳しくないし、どうしてだか良く分からないけど、どうしても来たくって……。あっ、そうだ! テレビを見たからかも知れません。ガンジス川の夜明けをたまたまテレビでやってるのを見て、それを見てたら、何だかその景色のあまりの迫力に動けなくなっちゃったことがあって……。こんな景色を見てみたいなあ、なんて思ったんです。私、朝日すらまともに見たことがなかったから……。そうですね。良く考えたらそれからかも知れません」

またガンガーだ、智は思った。俺は、一ヶ月もの間ガンガーのほとりで生活していたというのに、一体何を見ていたんだ? その時はあまりにも当たり前に河が流れ、人々は沐浴し、朝日は昇っていた。俺は、全く何気なくそれらを見過ごしていた。今になってようやく本当にそれらの風景を眺めることができるような気がする。だが、今、俺はデリーにいて……。今さら戻る訳にもいかない……。

「じゃあ、智さんはどうしてインドを旅行してるんですか?」

智を見て奈々はそう言った。

「俺は、特別インドに来たい訳ではなかったんだよ。ただ、俺の旅がどうしてもインドを通らない訳にはいかなかったんで……。むしろインドなんて嫌いだったぐらいさ」

奈々は、驚いた表情で智を見た。

「へえ! じゃあ何でそんなに長くインドにいるんです?」
「インドに入るまではね、そう思ってたんだけど、入ってみたらやっぱやられちゃってさ。色んな意味で。それに地域によって全然感じが変わるからね。旅をしてても、なかなか飽きないんだよ。こんな所もあって、あんな所もあるのか、みたいにさ。毎日が発見の連続だからね。もう今となっては他の国に行くのが怖いぐらいさ。ところで、奈々ちゃん達はインドに来てどれぐらいになるんだっけ?」

少し考えてから奈々は言った。

「そうですね……。三週間ぐらいですね。一か月の予定だから、もう旅も終わりです」
「来てみて、インドはどうだった?」
「はい、とても楽しかったです。バラナシの朝日も見られたし、本当、来て良かったです。それに私、以前までの私とは変わったと思うんです」

微笑みながら奈々はそう言った。それは、すっきりとした清々しい笑顔だった。

「私、日本にいる時はあんまり人と接することができなくって、友達も少なかったんです。特に、男の人と話をすることなんてもってのほかで、学校もずっと女子高だったし、こんな風に二人きりで男の人と歩いたことなんて数える程しかないんです。だけど旅に出て、色んなものを見たり、色んなことを経験したりしているうちに、自分の殻に閉じこもっていた自分自身が凄く窮屈なものに思えてきて、それで積極的に人と話すようになったんです。そうしたら、何だか世界が変わったように明るく感じられて……。何だ、生きてるっていうのはこんなにも楽しいことなんだ、って思えるようになって。だからインドに来て、私、本当に良かったと思ってるんです」

しみじみとその話を聞きながら、智は建のことを思い出していた。奈々のその話は、何となく建の言っていたことを思い出させる。

「バラナシの朝日は本当に凄かったです。テレビで見るのとは全然違うんですよ! だって、世界が真っ赤に染まるんです! 全部。そしてだんだん太陽が昇り始めると、今度は河が金色に輝き始めて……。朝がこんなにも素晴らしいものだなんて、私、初めて知りました!」

会えると良かったんだけど

「あっ! そういえば言ってましたよ」

智は、祈るようにして次の言葉を待った。

「建さんって人も智さんと一緒だって」

ほっと智は胸を撫で下ろした。どうやら幸恵はあのことを言わないでおいてくれたらしい。しかしすぐさま、谷部には言っているかもしれないと思い、二人がベッドの上でそんな話をして笑い合っている所が自然に想像され、智は、再び激しい嫉妬に襲われるのだった。

「建さんはどこにいらっしゃるんですか?」

クリクリとした丸い瞳を輝かせながら、奈々は智にそう尋ねた。

「建さんは、もう、行っちゃったんだ。幸恵ちゃんが出た後すぐにね」
「そうなんだあ、残念。建さんって人も、長く旅行してる人だって聞いてたから、色々お話ししたかったのになあ」  
「そうだね。会えると良かったんだけど。面白い人だよ。中々ああいう人には出会えないからなぁ……」

そう言いながら智は、ヤスとゲンのことを思い出した。そうなのだ。大半はああいう下らない奴らばかりなのだ。

「そういえば智さん、昨日はごめんなさい。私達が誘ったばっかりに、あんなことになっちゃって。嫌な思いしたでしょう?」

智の気持ちを察したのか、奈々は昨日のことを持ち出した。

「いや、いいんだよ。何にも言えなかった俺も悪いし。それよりも、奈々ちゃんだってひどい目に遭っただろう?」
「私は……、大丈夫でっす! 姉さんがついてますし!」

そう言うと奈々は再び敬礼した。

「でも、そんなに安代ちゃんに頼ってばかりもいられないだろ?」
「そうなんですけど……」

俯きながら奈々はそう言った。

「安代ちゃんとはどういう知り合いなの?」
「バイト先の先輩なんです」

奈々は、智の顔をサッと見上げた。黒縁眼鏡の奥から眺める奈々の瞳は、少し潤んでつやつやと輝いている。

「そっかあ。成る程ね。それで奈々ちゃんは安代ちゃんに誘われてインドに来たんだ」

納得したように智はそう言った。

「違うんです。私が言い出したんです」

智は、驚いて奈々を見返した。どうみても安代が奈々を誘ったとしか思えない。

「私、どうしてもインドに来たくって。でも、こんなだから、皆にやめとけ、やめとけって言われ続けて。そしたら安代姉さんが、一緒に来てくれるって言ってくれて……。そのおかげで私、何とかインドに来ることができたんです。もう、嬉しくって嬉しくって。姉さんとは一生友達です!」
「そっかぁ……。俺は、てっきり安代ちゃんに誘われて来てるのかと思ってたよ。でも、何でそんなにもインドに来たかったの?」

智がそう尋ねると、奈々はしばらくの間考え込んだ。そしておもむろに智の顔を見上げ、言った。

疲れ切ってる所

「見ないんですか?」

奈々がそう尋ねる。

「何だか、機会を失ったというか、噂を聞いてたら気が重くなって行きそびれたんだよね。見たいとは思うんだけれど……。聞く所によると、タージ・マハルは確かに素晴らしいそうなんだが、そこにいるインド人が鬱陶しくて仕方ないらしいね。もう俺は、今、インド人には疲れ切ってる所だから、そういう所にはなるべく近寄りたくないんだよ」
「そんなにひどい所なんですか?」

智は無言で頷いた。

「あくまでも聞いた話だけどね。もう四六時中ひっきりなしに、怪し気なインド人達につきまとわれるという……。考えただけでも、ゾッとするよね」
「いやぁぁ!」 

わざとらしく耳を押さえながら、奈々はその場にうずくまった。

「でも、安代姉さんがいるから大丈夫でっす! 姉さんがきっと皆やっつけてくれまっ
す!」

奈々は、再び姿勢を整えると智に敬礼しながらそう言った。奈々のいきなりの行動に少しうろたえながらも智は、まあ、安代ちゃんがいれば何とかなるだろうな、と思い、それに同意して微笑んだ。

「そういえば、幸恵ちゃん達とはどこで知り合ったの?」

智は、そのことをふと思い出して、奈々にそう尋ねた。奈々は、にこにこ笑いながらそれに答える。

「えっとお、バラナシのスパイシー・バイツっていうレストランです。そのお店で一人で座ってる所を、私達、ナンパしちゃったんです。ウフフフフ」
「谷部さんは? 一緒じゃなかったの?」

冷静さを装って智はそう尋ねた。

「はい。その時は一人でした。でも、夜にまた会うと、今度は谷部さんと一緒でした。何だかすごく打ち解けた感じで、仲良さそうでしたよ」

智は嫉妬に身を焦がした。頭がフラフラした。

「私、幸恵ちゃんのこと凄く好きなんです。幸恵ちゃんって、かわいいですよね。女の子っぽくって。一緒に何枚も写真撮っちゃいました」

奈々はウキウキしながらそう言った、と、その時、電流のようにあることが思い出された。智の部屋でのことだ。まさか幸恵は、奈々達にあのことを言っているのではあるまいか。

「あのさ、奈々ちゃん、ひょっとして、幸恵ちゃんから何か聞いてない?」

智は、探るように奈々にそう尋ねた。奈々は、しばらくの間何かを考えるような素振りを見せていたが、急に思い出したように手を打った。奈々のその様子を見て、智は心臓が凍る思いをした。

ビザの申請

次の日、智は、パキスタン大使館へビザの申請をしに行った。もう、一刻も早くデリーを出たかったからだ。昨日の一件が相当堪えた。デリーに着いたばかりの頃は、しばらくのんびりしていようと思ってはいたものの、どうやらデリーは智には合わないようだった。どうもここに来てからというもの、精神的にも肉体的にも不安定な状態が続き過ぎている。これ以上いると、ますます気が滅入っていきそうな気がした。しかし、ビザの申請はしたものの、発給までは一週間程時間がかかる。こんなことならさっさと済ませておけば良かった、と智は心底後悔した。その間にどこかへ行ってまた戻って来るという手もあったが、先日現像した膨大な数の写真を日本に送ってしまわなければならないし、その料金を支払うため、銀行へ行ってお金を両替えしておかないといけない。その手間を考えると、そこまで十分な時間がある訳ではなかった。インドの銀行では外貨を両替えするだけのことでも、恐ろしく時間がかかる。下手すると、それで一日が潰れてしまうこともあるのだ。智は、それらのことを考えるとほとほとうんざりした気分になった。

「サートーシさん」

いきなり名前を呼ばれ、驚いて振り返ると奈々がいた。

「何してるんですかぁ?」

智は、メインバザールの土産物屋の軒先を何となく眺めていた所だった。

「ああ、奈々ちゃん。いや、別に何してるって訳でもないんだけどね。ちょっとぶらぶらしているだけで……。安代ちゃんは? 一緒じゃないの?」
「ええ。安代姉さんはチケット買いに行ってます」
「何のチケット?」
「電車のです」
「どこ行きの?」
「アーグラーです」
「ああ、タージ・マハルを見に行くんだね」

奈々は笑顔で頷いた。

智と奈々はしばらくメインバザールを練り歩いた。といっても智は、もうメインバザールには何の興味も無くなっているので、奈々に付き合っていただけのことなのだが。奈々と安代のこれまでしてきた旅の話を詳しく聞いてみると、彼女達は、日本からまずカルカッタに飛行機で入り、それからバラナシを経て、デリーへと来たらしい。そしてこれからアーグラーでタージ・マハルを見るのだそうだ。

「俺、タージ・マハル、見たことないんだよね」

智が、ちょっと照れながらそう言った。インドを長期で旅している者なら、大体、タージ・マハルぐらいは見ているものなのだ。

「えっ、そうなんですか?」

黒縁眼鏡越しに奈々が、クリッとした黒い目で智を見返した。智は、自嘲的な笑みを浮かべながら頷いた。

冗談、冗談

結局その後は、ヤスの巻いた一本のジョイントを四人で回し終えた所で終了した。ヤスが大口を叩いて作ったそのものは、雑で、巻き方が悪いため途中で何度も火をつけ直さねばならないようなものだった。やはりガンジャそのものの質もそんなにいいものではなく、いくら吸っても智はあまり効き目を感じることができなかったが、ヤスとゲンの二人は、大げさに、ああ、キマッた、ああ、ブッ飛んだ、を繰り返し、ゲンなどは、露骨に奈々を欲望の混じった目で見つめ、どさくさに紛れて時折肩に手を回したり、足に触ったりしていた。その度に奈々は、身を縮め助けを求めるように安代の方へ擦りよった。安代は、やんわりと、ゲンさん、だめだよ、とゲンを戒めるのだが、ゲンは、冗談、冗談、と、例の奇妙な笑顔を見せるだけで一向に止めようとはしなかった。ヤスはヤスでいつのまにか安代の隣に移動しており、ぴったりと彼女に密着して、いかに自分が精神的に追い詰められていて、こういったものに頼らざるを得ないかということを蕩々と説いていた。安代と奈々の二人も何となくガンジャが効いてはいるらしく、たまに辻褄の合わない受け答えなどしていたが、本人達にその自覚は無いようで、あんまり分かんない、だとか、ちっとも効いていない、だとかを繰り返していた。するとゲンが、もっと吸いなよ、とパイプにガンジャを詰めて吸わせようとするのだが、二人は、気味悪がってもうそれ以上やろうとはしなかった。恐らく彼らは、初めから彼女達をガンジャで酔わせてどうにかするつもりだったのだろう。だから入ってきて智を見た時、あんなにも落胆していたのだ。

その様子をしばらくぼんやりと見ていた智は、さすがに馬鹿らしくなって、悪いけど俺、先に帰るよ、と席を立とうとした。すると、もうさすがに我慢できなくなっていたらしい安代と奈々の二人が、私達もそろそろ寝ようと思うんで、とこの下らない宴を強引に終わらせた。ヤスとゲンの二人は、まるで智のせいでそうなったとでも言うように、非難のこもった目付きで智をしばらく見つめていたが、もうこれ以上の進展は望めそうにもないことを悟ってか、渋々それを受け入れた。ゲンは、興奮して顔を真っ赤にしながら舐め回すようにいつまでも奈々を見ていたが、ヤスになだめられると仕方なく部屋を出た。ヤスは、一通り片付けを済ませると智を一瞥し、もっと巻く練習しといた方がいいですよ、と言い置いて去っていった。智は、笑って二人を見送ったものの、内心は、内臓がひっくり返る程燃え盛る怒りでいっぱいだった。
ようやく悪夢のような時間から解放された智は、自分の部屋に戻ると勢い良く扉を閉め
てベッドの上に体を投げ出した。げんなりした思いで目をつぶる。すると先程のことが色々思い出され、智は、それらを振り払うようにして体を丸めた。するとその時、ふいに扉をノックする音が聞こえた。最初は気のせいかと思ったが、しばらくすると確かにまた聞こえてくる。智は、重たい体を無理矢理起こして、はい、とそれに返事をした。扉の向こうから女の声が聞こえてくる。智が扉を開けると、そこには奈々が立っていた。何か言いたげな様子でこちらを見ている。智が、どうしたの、と尋ねると、奈々はようやく口を開いた。

「あの、智さんに悪いことしちゃったなって思いまして……。楽しくなかったですよね? 私達のせいで嫌な思いさせちゃったから、だから、これあげます! 食べて下さい!」

そう言って奈々の差し出したものは、日本製の梅干しだった。カリカリの小さな梅干しが一粒ずつパックされたものだ。智は、しばし呆気にとられていたが、ありがとう、と言ってそれを受け取った。すると奈々は、嬉しそうに微笑んで、おやすみなさい!、と元気良く言うと走って部屋に戻っていった。智は、気を使われた自分が少し情けなく思えたが、素直にありがたくそれを貰っておいた。

注目された状況

部屋にいる四人全員が、無言で智の指先に注目している。特にヤスは喰い入るようにして見入っている。部屋の中はしんと静まり返っており、智は、緊張して背中に冷や汗が流れるのを感じた。悪戦苦闘しながら、ようやくジョイントペーパーを一枚取り出して、さあ、巻こうというその時、指先が震えているのに智は気が付いた。ヤバイ、と思い、何とか抑えようとするのだが、そうすればする程指先は震えて言うことをきかない。二つ折りにされたペーパーは小刻みに震え、そこに乗せられたガンジャはベッドに敷いた紙の上に全て落ちてしまった。それを見ていたヤスは鬼の首でも取ったかのように、智に向かってわざとらしい大きな声で言った。

「あっれえ、どうしたんですか、智さん? こぼしちゃあマズイじゃないですか。それ、いいネタなんだから大事に扱って下さいよ。いつもジョイント巻いてるって言ってたじゃないですか。しっかりして下さいよ、全く」

智は、決してジョイントを巻くのが下手な方ではなかったが、もともと人前で何かをやるということが得意ではないため、こんなに注目された状況では緊張してしまってどうも上手くいかないのだ。苦笑いをしながら何とか巻こうとするのだが、どうしても手が震えてしまって結局巻くことができなかった。諦めて智はヤスにそれらを手渡した。

「ごめん。ちょっと緊張しちゃって上手くできないから、代わってくれるかな……」

ヤスは、智のそのセリフを聞くと精一杯侮蔑の表情を顔に浮かべて、大きな溜め息をわざとらしく一息ついた。

「なあんだ。自信が無かったんなら最初から言ってくれればいいじゃないですか。みんなが見てるからって無理しなくたっていいのに。分かりましたよ。俺が代わりにやりますから、ちょっと良く見ておいて下さいよ」

智は、頭に血が逆流していくのを実感として感じることができた。こんなに腹の立つ思いをしたのは、インド人以外では本当に久しぶりだった。しかし、結局何も言い返すことができずにそのまま下を向いた。悔しくて、涙がこぼれ落ちそうだったが、智は必死に我慢した。

勘弁してくれよ

「智さん、って言うんですか。俺、ヤスって言います。で、こいつは、ゲン」

角刈りは、最初に会った時と同じように顔をひくつかせる妙な笑い方をした。

「まあ、ちょうど良かったですよね。また今度、って言ってた所ですから。じゃあ、早速始めましょうか。マリファナ・パーティを!」

マリファナ・パーティ! おいおい、勘弁してくれよ、と智は心底げんなりした気分になった。しかしそれは表に出さずに、笑顔を作ってその気持ちを何とかごまかした。ヤスは、手に持っていた小さなポーチをベッドの上に置くと、智の隣に腰かけた。ゲンは、どちらのベッドに座ろうかちょっと迷っている様子だったが、結局、奈々の横に腰を下ろした。顔をひくつかせながらゲンは奈々を見た。奈々は、安代の腕にしがみつき、こわごわゲンを見返している。

「さあ、じゃあここは、旅の先輩の智さんにジョイントを巻いてもらおうかな。智さんもよくガンジャやるそうだから、きっと巻くの上手いんでしょうね。年期が入ってて」
「いや、そんなことないよ。俺、巻くのはそんなに上手い方じゃないし……」

智は、一刻も早くこの状況から抜け出してしまいたかった。こんなことなら独りぼっちの自分の部屋の方が何倍もマシだった。

「またまた。そんな謙遜しないで下さいよ。よく見てますから、智さんのテクを是非、伝授して下さい。お願いしますよ」

智は心の底からヤスを軽蔑した。この厭味な態度と口のききかた。智にプレッシャーを与えようとしているのだ。そして、出来上がったジョイントに難癖つけてけなし、みんなの前で恥をかかせようとしているのだ。ヤスが何とか智を陥れようとしていることは、部屋に入ってきた時から智を見るその目付きですぐに分かった。智は、そういうことに関しては人一倍敏感なのだ。

ヤスは、智の言うことなど全く無視して、ポーチからガンジャの入ったパケットやジョイントペーパー、フィルター用の厚紙などを次々と取り出していく。

「じゃあ、智さん、ひとつお願いします。このネタ、中々いいんですよ。初めて吸った時はあんまりキマるんでびっくりしちゃいました。しばらく動けなかったぐらいですよ。ハハハハハ」

ヤスは大きな声でわざとらしく笑った。智は、そんなヤスを後目に渋々それらを受け取った。

まず、パケットからガンジャを取り出して紙の上でほぐし始めるのだが、良く見てみるとそれらは、殆どがカサカサの葉っぱの部分ばかりで一番良く効くバッズの部分は無いに等しく、とても上物と言うには程遠いような代物だった。おまけに種だらけで、それを選り分けるのにはかなりの時間を要した。ヤスが、早くしてくれよ、と、言わんばかりの表情で智を見ている。智は、種が多くってさ、と少し皮肉を込めてヤスに言い訳がましく言ってみたものの、ヤスはその皮肉には全く気が付いていないようだった。

「ちょっとぐらい、種、混じっててもいいですよ」
「でもさ、吸ってるとパチパチ弾けるだろ?」
智がそう言うと、ヤスは、まあ、どうでもいいから早くして下さいよ、という風に肩を
すくめて天井を見上げた。智は、再び愛想笑いでごまかすと作業を進めた。

我慢

「智さん?」

下を向いて顔を引きつらせている智に向かって安代が声をかけた。智は、怒りに燃えながら顔を上げた。そして精一杯穏やかに、ああ、たまにね、と言った。

「そうですか……。やっぱり長期で旅してる人は、みんなやってるものなんですね」

安代が言った。

「どうして? 何かあったの?」
「いえ、特に何かあった訳ではないんですけど、あの人達が、やったことないんなら絶対やった方がいいって言うから……。それで今晩、一緒にマリファナをやるということになったんですよ」
「えっ!」

智は愕然とした。

「今晩って、もうすぐ来るってことなの?」
「ええ。多分、もう来る頃だと思います。だから智さんがもしドラッグとかやる人なら、一緒にどうかなと思って」

冗談じゃない! 智は、自分がここにいることを激しく後悔した。もう今さら用事ができたから帰る、というのもあまりにも不自然だし、そんなことが奴らの耳に入ろうものなら、あいつ、やっぱりビビって逃げてたんだ、と思われるに決まっている。奴らにそんな風に思われるのだけは、どうしても我慢できなかった。

「ああ、成る程ね……。それならちょうどいいかもね……」

何がちょうどいいんだか全く意味が分からなかったが、混乱した頭で智はそう答えた。

「良かった! 智さんがいてくれればね、安心だね!」

智の何をそんなに信頼しているのか、奈々が安代にそう言った。安代は、奈々の肩を抱きながら、うん、うん、と笑顔で頷いた。

しばらくすると、タンクトップと角刈りがノックもせずに部屋に入ってきた。安代は、キャッ、と言って入ってきた二人を見た。奈々は、ポカンと口を開けながら呆然とその様子を見守っている。一方侵入者は、満面の笑みを浮かべて部屋に入り込んできたものの、智の姿をそこに発見すると、一気に落胆とも憤慨ともとれぬ複雑な表情に変わった。角刈りは、パーティ、パーティ、と言いながら小躍りしていたのを、智の姿を見た途端、即座に止めた。智は、引きつった作り笑いを浮かべながら、二人に挨拶をした。二人は、しばし呆然と智の顔を見つめていたが、気を取り直して、ああ、昼間の、とだけ言った。

「こちら、智さん」

安代が二人に向かって智を紹介した。

「さっき、この部屋の前で知り合って。でも、二人とも智さんのことは知ってるんだよね」 タンクトップがちょっと気取った表情でそれに答える。

「ああ、まあね。下の階でちょっと喋っただけだけどね」

角刈りはニタニタ笑っている。

一年ぐらい

智は深い絶望を感じた。谷部さんが幸恵のあの肉体を……。そう考えると、いても立ってもいられなくなり、智は狂おしく煩悶するのだった。

「智さん、智さん、一体どうしたんですか?」

放心状態の智を安代は現実の世界へと呼び戻した。

「良かったら、お部屋に入りません?」

智は、何だか良く分からないまま二人に連れられて部屋の中へと入っていった。一昨日の晩、皆でボンをしたこの部屋だ。建や、ジョージ、谷部や君子の面影がここそこに残されている。智は、亡霊のようなそれらの面影を敏感に感じ取った。しかし谷部のことを考えると、途端に気が重くなった。

「どうしたんですか? 智さん。座って下さいよ」

あ、ああ、と智が我に返ると、彼女達はすでに片方のベッドに二人並んで座っていたので、智は反対側のベッドに腰を下ろした。黒縁眼鏡の奈々は、相変わらずニコニコ笑いながらこちらを見つめている。

何だか取り調べみたいだな、心の中で智はそう思った。

「幸恵ちゃんに聞きましたよ! 智さんはとっても長く旅行されてるって。一体、どれぐらい旅行されているんですか?」

奈々が、好奇心に満ち満ちた目で身を乗り出しながら、今まで何百回とされてきたその質問を智に向かって投げかけた。もう、今日で既に二回目だ。しかし、タンクトップと角刈りの二人組のような暑苦しい男達に聞かれるのと、ちょっと騒々しくもないが若い女の子に聞かれるのとでは、こうも印象が違うのは何故だろう?
「一年ぐらいだけど……」

むしろ智は、先程まで展開していた”旅の長さで人の価値など決まらない”という自説を自ら覆して、自分のその答えに得意にすらなっていた。長く旅行しておいて良かった、とさえ思った。智がはやる気持ちを抑えながら控えめな調子でそう言うと、彼女達は顔を見合わせながら智の期待通り、きゃあ、一年だって、と大げさに驚いた。

「さっきの人達は三ヶ月って言ってたから、智さんの方が断然長いね!」

智は、奈々がそう言うのを聞いて、思わず、さっきの人達って?、と聞き返してしまった。

「ひょっとして……、色が黒くて、タンクトップ着てる坊主の人と、ちょっと背が低くてがっしりめの……」
「そうです、そうです! 智さん、知ってるんですか?」
「いや、知ってるって訳じゃないんだけどね……」

智は、二人との接点ができてしまったような気がして、とても憂鬱な気分になった。それに、彼女達の好奇心の目が決して自分だけに注がれている特別なものな訳ではない、ということに気付かされて軽い失望を覚えるのだった。

「実はお昼過ぎぐらいにあの人達とご飯食べに行って、旅のことを色々教えてもらってたんです。何でもあの人達、かなりのジャンキーらしくって、ドラッグを中々止められなくて困ってるって言ってました。智さんもそういうの、やったりするんですか?」

かなりのジャンキー。何故だか分からないが智はその言葉に反応して、あの二人に対する殺意すら覚えた。メラメラと怒りが込み上げてくる。

どういう手

智は、半ば呆れ気味にその様子を眺めながら言った。するとその二人は、お互い顔を見合わせて手に手を取り合ってはしゃぎ始めた。

「きゃあ、もう出会えたよ。智さんだ、智さんだ!」

どうやら二人は自分のことを知っているらしく、智はとても不可解な気分になった。

「俺のこと知ってるの?」

安代は、気持ちを落ち着かせてから智の目の前に顔を近づけて言った。

「ええ、幸恵ちゃんから聞いたんです! あと、谷部さんも!」

智は、一瞬驚いたがすぐに全てを理解した。

「えっ、じゃあ、君達、バラナシから来たんだね? 幸恵ちゃんと谷部さんに会ったんだ」 二人は顔を揃えて頷いている。

「そっかあ、それで二人は? 元気そうだった?」
「ええ、もう。あ、でも、幸恵ちゃんはお腹壊してるって言ってましたけど。でも、谷部さんが一緒だったから安心ですよね」

安代が言った。

「一緒って? あの二人、一緒にいるの?」
「詳しくは分からないけど、多分一緒なんじゃないですか? 同じゲストハウスに泊まってるって言ってましたから」
「え、だって、君子さんは?」
「キミコさん? 誰ですか、それ」

智は愕然とした。いくら谷部が手が早いと言ったって、もう幸恵と一緒にいるとは……。それは、部屋をシェアしているということだろうか……。恐らくお互いが出会ってからそんなに時間なんて経ってはいないだろうに、一体どういう手を用いればそんなにすんなりと女の子と同じ部屋に泊まることができるのだろう。それに、君子はどうしたんだ。一緒にいる筈ではなかったのか……? 

谷部の神業のようなテクニックに、智は戦慄すら憶えた。

――― ひょっとして、もう…… ―――   

智は、二人の肉体関係について考えた。いいや、そんなことはあり得ない、と、何とか否定しようとするのだが、どう考えても、それは起こり得るとしか思えなかった。現時点でならまだしも、これから先一緒にいるであろう数日間、ひょっとしたら何の予定も無い谷部のことだ、幸恵が帰国するまでつきまとい、その機会を窺い続けるということもあるかもしれない。ふいに建の言葉が脳裏をよぎる。

――― 谷部君は智みたいにがっついていないからな。もっとこう、ジワッジワッと時間をかけて追い詰めていくんだよ。大抵の女の子はそれで落ちちゃうんだよな ―――