恐怖心を叩き込む

「でもな、智。もう、俺らが智を助けた時点で、この問題は智だけの問題ではなくなってるんだ。だって、実際こいつらボロボロにしたのは、俺達なんだから。だから今はもう、俺達の問題になってる。こいつらが目ぇ覚ました後、警察行ったりだとかしないように、徹底的に恐怖心を叩き込む。もちろん、こいつらの住所ももう控えてあるぜ。パスポートナンバーまでな。絶対に俺達には逆らわせない。日本に帰った後もな。大丈夫だよ。もうちょっとしたら、アシッドも切れてくることだろうし、逃がしてやるよ。だからもう、俺達に任しとけって。智にはもう関係ないんだよ」

直規は、ヤスの顔を踏みつけながらそう言った。ヤスは、直規のスニーカーと砂にまみれたタイルばりの床に挟まれて、ぜえぜえ喘いでいる。目から涙がとめどなく溢れている。ときどきしゃくりあげるように体を痙攣させた。よくは聞き取れなかったが、お母さん、お母さん、と言っているようだった。もうこれ以上、智は、そんな様子を見ていられなかった。

「分かった。じゃあ直規達に任すけど、そろそろちゃんと逃がしてあげてよ、頼むからさ」 直規は、分かった分かった、という風に手を振った。そして、良かったな、智が優しい奴でよ、と足の下のヤスに向かってそう言った。智は、その様子からは目を背け、飯喰ったらまた来るよ、それまでにはちゃんと帰してあげておいてね、と言い置いて部屋を出た。直規は、ああ、また後でな、と、去っていく智の背中に向かって声をかけた。

安代と奈々と共に食事に出かけたが、智は、ヤスとゲンの二人のことが気になって、半分上の空だった。度々二人に、どうしたんですか、智さん、と声をかけられ我に返った。彼女達に彼ら二人のおかれている今の状況を、言おうか言わまいか散々迷ったが、結局言わずにおいた。詳しい状況まではとてもじゃないけど話せなかった。

「大丈夫なんですか、あの人達……。かなりひどい怪我をしてたみたいですけど……」

奈々が心配そうに智に尋ねた。奈々が智にそう話かける時、彼女の視線には、明らかに智への特別な想いが込められていた。そのまま智に抱きついてしまいそうな勢いだった。それに気が付くと智は、再び奈々への情熱を甦えらせた。その濡れた唇に、今すぐにでも吸い付いてしまいたい……。

二人はしばらくの間、見つめ合う。その沈黙を、軽い咳払いによって安代が破る。

「ええっと、ヤスとゲンの二人は大丈夫なんですか?」

安代が、怒気の混じった声でそう言った。智は慌ててそれに答える。

「あ、ああ、まあ、ね。大丈夫とは言えないかも知れないけれど、何とかなるんじゃないかな。思ったより怪我も大したことなさそうだし……」

少なくとも嘘は言っていないつもりだが、実際のところ、怪我が大したことないかどうかということまでは定かではない。だが、あの状況をありのまま話す訳にはどうしてもいかなかった。

残虐な性格の持ち主

「い、いったい、それは何してるの? 俺と別れてから今まで、ずっとそうしてたの?」 直規は、リムカの瓶を置いてそれに答えた。

「ああ、こいつら二度と俺達に逆らわないようにな、徹底的に恐怖心を与えてやるんだよ。ここに連れてきて、早速”カミ”喰わせてやった。随分嫌がったけど、ぶん殴ったらあっさり言うこと聞いたよ。そしたら二人ともどうやら、カミ喰うの初めてだったみたいで、効いてきたらガタガタガタガタ震え始めてさ。すっげえ怯えた表情しやがるから服脱がせて縛ってやったんだよ。そしたら最初の内は滅茶苦茶暴れてたけど、ようやく観念したらしく、今じゃあこの通りさ。なかなか使い心地いいぜ、こいつら」

そう言うと直規は、足でヤスを小突いて智の方に顔を向けさせた。今まで気が付かなかったが、ヤスは猿ぐつわを噛まされていた。白目を剥いて涎を流し、声にならない嗚咽を洩らしながら、小刻みに体を震わせている。ゲンも全く同じ状態だった。

それを見て智は吐き気を覚えた。胃の中の物が溢れそうで、慌てて口を押さえた。

「あのさ、直規、それ、大丈夫なの? 死んだりしない?」
「ハハハ、大丈夫だよ。怪我だって別に大したことないし、喰わせたアシッドだって軽いやつを四分の一だけだぜ。ただ、すっげぇバッドな世界へ行ってるとは思うけどな。ハハハハハ」

智は、何となくヤスとゲンがどんな世界を見ているのかが想像できるような気がした。考えたくもない。アシッドでは智も散々辛い目を見てきたため、それがどのぐらいひどい状態なのかは何となく分かるのだ。しかし二人の今の状況は、智のそんな経験よりも遥かに悲惨なものなのだろう。

智は、何となく直規と心路の二人にはついていけないと思った。自分と彼らとの間には、決して分かり合えない壁のあることを認識した。いくら奴らが憎いとはいえ、自分はこんな真似はとてもできない。それは、確かだ。

「でも、そこまでやることもないんじゃないのかなあ……」

智は控えめにそう言った。すると直規は、なおも微笑みを浮かべながら智にこう言い返した。

「智、あのな、こういう奴らは徹底的にやっとかないと後が面倒臭いんだよ。ちょっとでも手加減なんかしたら、つけあがってまた同じようなことしてくるぜ。智との間に何があったかは良く知らないけど、智だってあれだけひどくやられてたんだ。あの時俺らが来なかったら、ヤバかったぜ。下手したら死んでたかもよ。こっちの豚が、あの勢いのまま智のこと殴りつけてたら、本当、どうなってたか分かんないぜ」

直規は、そう言うと心路の足の下のゲンの脇腹を思い切り蹴飛ばした。ゲンは、グゥエッ、という音を発して首を振って悶え、その体の振動で足を載せていた心路が少しよろめいた。心路は、てめえ、静かにしてろよ、とゲンの頭を踏みつけた。あの温厚そうな心路までもがこんなにも残虐な性格の持ち主だったとは想像もつかず、智はかなりショックを受けた。

「まあ、そうだけどさ……。でも、もし、俺の為にそうしてるんだったら、もう、勘弁してあげてくれないかな。確かに、俺もそいつらのことは凄くムカついてたんだけど、そこまでされると俺の方が何だか辛くなってくるよ。だからさ、もう、許してあげてよ」

智は直規と心路に懇願する。

扉の閉め切られているのはその部屋だけ

扉を閉めると智はベッドの上で狂おしくもんどり打った。

――― あと少しだったのに! ―――   

そして、厳格な保護者のような安代を呪った。あそこで彼女さえ来なければ、あのまま俺は…… 頭の中で、奈々の服を一枚ずつ剥がしていく。ああ、安代さえ来なければ…… そして曝け出された、奈々の乳房を、太腿を、ゆっくりと、一つ一つ丹念に味わっていく……… あいつさえ来なければ……… 奈々は、身をのけぞらせて智の舌の動きに敏感に反応する。安代さえいなければ、今頃、俺は……… そして清潔な奈々の性器に口づけし、固く閉ざされた扉をこじ開ける……… ちくしょう! あいつさえ! あいつさえ! 奈々は更に身を捩る。ああ、奈々! 奈々! 奈々! ―――   

智は、再びシーツの上で放出した。一体、こんなに傷ついた体のどこにそんなエネルギーが隠されているのか、智の体は、まるで海老のように前後に激しく鞭打ちながら精を放ち続ける。

「うぅあっ、うあっ、うあっ」

思わず智は呻き声を洩らした。智の下半身から、白い精が部屋の壁に向かって噴射する。壁に飛び散ると、それらは重力に従ってゆっくりと降下する。何筋もの精の軌跡が、染み跡として壁に残される。更にそれらは、智の顔面をも直撃し、偶然にも呻いている智の口の中に飛び込んだ。さすがに智も我に返って、口に入った塩っぱいような苦いような液体を、慌てて唾とともに必死になって吐き出した。そして自分がたった今行ったその行為を冷静に振り返り、再び、深い自己嫌悪に陥るのだった。またやってしまった……。ぐったりと項垂れて智は辺りを掃除し始めた。情けなさが胸の奥から込み上げてきて、もう、いっそのこと死んでしまいたかった……。

智は、安代と奈々に会う前に、直規達の所へ顔を出してみることにした。彼らの部屋はすぐに分かった。何故なら一階にある部屋で扉の閉め切られているのはその部屋だけで、後の部屋は全部開け放たれていたからだ。開け放たれたそれらの部屋には直規達はいなかった。

軽く扉をノックすると、中から返事があった。心路の声だった。自分の名前を告げると、ああ、智、入れよ、と心路が言うので、扉を開けて智は部屋に入った。そして部屋の中を見て、腰を抜かす程驚かされた。ヤスとゲンが、裸で直規と心路に踏み付けられているのだ。正座をして、そのまま上半身を折り曲げたような格好で二人の足台にされている。直規と心路は、ヤスとゲンの背中に足を乗せ、リムカの空き瓶にゴム栓とチューブの吸い口をつけた即席ボングでチャラスを回し吸いしている。ヤスとゲンの背中の高さは足を乗せるのにちょうど良く、二人は実に心地良さそうだ。更に良く見ると、彼らは、後ろ手で手首と足首の両方を縛り付けられており、これでは仮に逆らおうとしても全く身動きは取れないだろう。どうりで扉は開けられない筈だ。こんな場面を人に見られる訳にはいかない。智は、恐る恐る直規と心路の二人に聞いてみた。

腫れた顔

安代は、挨拶もそこそこに部屋の中を覗き込むと、すぐさま奈々の姿をそこに見つけた。

「ああ、やっぱり、奈々、探したんだからね!」

奈々は、母親に叱られている子供のような表情で安代を見ている。安代は、すいません智さん、いきなりお邪魔しちゃって、と言ったところで智の顔を見て言葉を失った。

「どうしたんですか、その顔……」

口に手を当てて安代は呆然と智の顔を眺めている。

「ああ、ちょっと、ね……」

とりあえず安代に部屋に入ってもらって、ことの成りゆきを智は詳しく説明した。そして奈々にも直規と心路の二人のことを詳しく話した。

「そうだったんですか……。確かに、あの二人はちょっとね……。でも、彼らは、その後どうなったんですか? そんなにひどくやられたのに、大丈夫なんでしょうか」
「さあ…ね。分からない。直規達が引っ張っていったから……」

腫れた顔を撫でながら智はそう言った。思いついたように智は、二人に、ちょっと傷口を洗ってくるから、と言い置いて部屋の外にある共同洗面台に向かった。その途中、安代と奈々の二人が小声で話しているのが聞こえてきた。

「あんた、何、やっちゃったの?」
「ううん」
「じゃあ何、どこまでやったのよ」
「キスだけだよ」
「本当に?」

智は、顔を洗いながら、気まずいな、と思った。これじゃあ安代は、まるで娘の部屋に様子を見にきたおせっかいなお母さんだ。どんな顔をして部屋に戻ればいいんだろう……。智は、何となく微笑みながら部屋に戻った。かなり引きつった微笑み方だったろうが、顔がこんなだからそう大して気付かれないだろう、と、心の中で自虐的にそんなことを考えたりもした。
部屋の電気をつけた。外から帰ってくると、思っていた以上に部屋の中は暗かった。

「智さん、あたし達、ちょっと部屋に戻りますね。明日、アーグラーに向けて出発するんで、色々予定立てたりしないといけないし。また後で晩ごはんでも食べに行きましょう。私達、呼びに来ますから」

そう言うと安代は、奈々を促して部屋の外に出た。奈々は、名残惜しそうに智を見つめながら、安代に従った。智は、猛烈に奈々を抱きしめたかったが、安代の鋭い視線がまるで我が子を守る母ライオンのように智を威嚇していたので、とてもそんなことをする勇気はなかった。

「じゃあ、また夜に……」

智は、そう言って二人を見送った。

さわやかな香り

奈々はまだ泣いていた。奈々の髪からは女の匂いが漂ってくる。女と擦れ違った時に残される、あの香りだ。シャンプーというか、化粧品というか、香水というかそんなのが混ざったような、さわやかな香りだ。智は、そっと奈々の髪を撫でた。

しばらくすると奈々は、ようやく落ち着きを取り戻し智から体を離した。奈々の眼鏡は涙で曇っており、それに気が付くと奈々は、眼鏡を外してTシャツの裾で恥ずかしそうに濡れたレンズを拭き取った。眼鏡を外した奈々の目は、思っていたよりも大きかった。それは、愛くるしい、きれいな瞳だった。眼鏡をかけ直すと奈々は、ようやく変形した智の顔に気が付いて、心配そうに智に尋ねた。

「大丈夫ですか? 痛くないですか?」

奈々は、智の腫れた頬をそっと撫でた。

「ああ、やっぱりちょっと痛むけど、大丈夫。そんなにひどくはないみたい。頭はまだフラフラするけどね」
「痛いに決まってますよね。やだ、私ったら何聞いてるんだろ。ごめんなさい、智さん。私が智さんの心配しなくちゃいけないのに、私ったら取り乱してしまって。こんなに腫れていますよ。病院行かなくても大丈夫ですか?」
「ああ、いいよ、いいよ、これぐらい。放っとけばそのうち治るから。それより病院行かなくちゃいけないのは、あの二人の方だよ」

智は、心配する奈々を制してそう言った。

「それはそうかも知れないですけど……」

奈々は智の頬を撫でている。ふいに智は奈々のことをとても愛おしく感じた。そして、彼女の体をゆっくりと抱きしめた。奈々は、そのまま智に身を任せ智の胸に顔を埋めた。

「本当に好き。大好き……」

智の胸にしがみつきながら奈々はそう言った。智も、そう思った。奈々のことを愛している、と思った。

奈々の体を強く抱いた。奈々の華奢な体が、智の体に無防備に包まれている。このまま力の限り抱きしめて、粉々に砕いてしまいたい、そんな加虐的な欲求がふいに智を襲う。智は、奈々の背中を撫で回した。奈々の痩せた背中の曲線に、ブラジャーの作る凹凸をたまに感じる。奈々は、智の手の動きに敏感に反応して顔を上げた。智は、そのまま唇を求めた。奈々の唇に触れた時、切れた口の中が少し痛んだ。しかしそんなことは気にならない。智は激しく奈々の舌を吸った。

するとその時、再び扉をノックする音がした。さすがに二人は驚いて飛び上がった。そして黙って扉を見つめる。

「智さぁん。すいませぇん。いらっしゃいませんかぁ?」

智の顔を見て奈々が、安代姉さんだ、と小声で言った。二人は、乱れた衣服を整えると改めて座り直した。

「ああ、いるよ、ちょっと待って」

そう言いながら智は扉を開けた。扉の外は、予想外に明るく眩しかった。部屋の中に猛烈な日光が差し込んだ。思わず智は目を細めた。

返り血

「何だよ、こんな奴」

直規は、ぼそっとそう言うと、うずくまっているヤスの腹部を大きく蹴り上げた。ヤスの体は、絞り出されるような呻き声と共に二つに折れ、仰向けに転がった。ヤスは泣いているようだった。直規は、チッと舌打ちすると、ヤスに唾を吐きかけた。そして智に近寄って、智の顔を覗き込んだ。

「サトシ、大丈夫かよ?」

久しぶりに見る直規の顔は、大分日に焼けているようだった。それにスキンヘッドに近いぐらい髪を刈り込んでおり、顔中に返り血を浴びていた。直規に喋りかけようとすると急に顔のあちこちが痛みだし、智は何も話すことができなかった。頬の辺りに触れてみると、左目の下の辺がパンパンに腫れている。どうやらその腫れが目を塞いで視界を遮っているらしい。直規の顔がぼやけて見える。

「ああ、こんなにやられちまって。ひでえよな、全く。久しぶりに会ったっていうのによ」 智の顔を撫でながら直規はそう言った。

「直規くん、こいつらどうする?」

心路が言った。

「目ぇ覚ますまでその辺に転がしとけばいいだろ。それよりその女の子だよ。大丈夫か?」 奈々は、口を押さえたまま怯えて震えている。奈々の肩に手を置いて、心路が優しく話しかける。

「大丈夫? 怪我してない?」

奈々は、泣きながら小刻みに何度も頷いた。心路は、智に近寄って声をかけた。

「智、話せるか?」

智は、ようやく体を起こして服に着いた泥や砂を払った。顔は痛むが何とか話はできるようだ。

「ああ、何とか大丈夫。ハハ、心路、直規、久しぶり」

智は心路と抱き合った。直規も智の側に来て智の体を抱きしめた。智は、思い出したように奈々を見ると近寄って、手を取った。奈々は、身を強張らせながら智の顔を見つめていたが、ふいに、取り乱したように泣きながら智に抱きついた。智は、どうしていいか分からないまま少しの間うろたえていたが、そのまま両手を奈々の背中にそっと回した。

直規と心路は、二人のその様子を眺めながら、智、後でまた会いに来るわ、と言った。そして二人でヤスとゲンを部屋の外へ引きずり出した。

「こいつらのことは俺らに任せといてくれ。智は、その子、ちゃんと見ておいてやれよ。俺らもここに泊まってるんだ。探したぜ、智のこと。レセプションで聞いたらこの部屋だっていうから、来てみたらこんなことになってるだろ? 驚いて俺は何か言おうとしたんだけど、その前に心路の奴がそいつ蹴り上げててさ、ハハハ。じゃあ、俺ら一階の部屋だから、後でまた来てくれよ」

泣いている奈々を抱きながら智は大きく頷いた。直規はヤスを、心路はゲンを引きずりながら、部屋の外へと消えていった。扉を閉める時に直規は、奈々と智の顔とを見比べながら、智に向かって意味ありげにウィンクをした。智は微笑んでそれに答えた。

ぼやける視界

ゲンの拳が、智の頬骨にめり込む。ゲンの拳の圧力と、リノリウムの固い床で頭を挟まれ、視界が揺れるのを智は感じた。痛さはあまり感じない。ただ、衝撃が、脳に直接響いてくる。何回かそれが繰り返されると、しだいに意識が遠のいていった。奈々の甲高い悲鳴が頭の中で反響しながら響いている……。

もう意識を保つ努力をするのを放棄する寸前に、智は衝撃から解放された。ぼやける視界でゲンを見ると、ゲンは、腹を押さえてうずくまっている。もう一度良く見てみると、誰かがゲンの腹部を蹴り上げている。その度にゲンの体は宙に浮き、うぇっ、うぇっ、という、奇妙な音を発している。

「お前、何してやがんだよ! 立てよ、コラ!」

その男は、うずくまるゲンの髪を掴み無理矢理立たせると、思いっきり拳でぶん殴った。鈍い音と共にゲンはふっ飛んで部屋の隅で頭をぶつけた。男は、少し顔をしかめて殴った方の手の平をぶらぶらと振りながら、座り込むゲンの顔を二三回蹴り上げた。ゲンの頭が垂直に上を向く。もうゲンは完全に伸びている。

「オラ、寝てんじゃねぇよ、お前」

男は、静かにそう言うと、ゲンの襟首を両手で持って再び立ち上がらせた。そして、ぐったりとしているゲンの顔をめがけて、思いっきり自分の額をめり込ませた。骨と肉のぶつかり合う重々しい音とともに、ゲンは完全に崩れ落ちた。

良く見ると、もう一人いる。もう一人の男は、ヤスの胸ぐらを掴んで頬に平手打ちを喰らわせている。一発殴るごとに、パーンという大きな音がして、ヤスの顔は殴られた方の反対側へ大きく吹き飛ぶ。吹き飛ぶと、今度はそちら側からもう一度平手打ちが飛んでくる。それがだんだんだんだん速くなっていき、その内に、ヤスの鼻からは鼻血がボタボタボタボタ流れ始める。それでも男は、殴るのを止めることはなく、そのまま何発も何発も平手で打ち続けた。ゲンの頭を足で踏みつけながら、それを見ていたもう一方の男がその男に向かって声をかけた。

「直規くん、もう止めときなよ。死んじゃうよ、そいつ」

智は、ハッとして、その男の顔をよく見返した。心路だった。そして殴り続けているその男はまさしく、直規であった。

直規は、心路に声をかけられた後もヤスに数発平手をお見舞いした。そして最後の一発は、一際大きな音がした。ヤスは、それが顎に入ったらしく、閉じない顎を押さえたままうつ伏せに床に倒れ込んだ。鼻からの出血が、尋常ではない。

身につけたこと

思いもよらない突然の問いかけに、智は、思わず声が裏返ってしまった。

「谷部さんがね、言ってました。智はいい奴だって。ああいう奴は今どき珍しいって。私、谷部さんがそうやって言うのを聞いて、智さんって、一体どんな人なんだろうな、ってずっと思ってたんです。デリーに来たら会えるかな、ってずっと期待してたんです。そしたら着いたその日の内に出会えちゃって、しかも、私の想像してた通りの人で、私、もう一目で智さんに夢中になっちゃったんです。でも、会った途端にあの二人のせいであんなことになっちゃって……。だから今日は、絶対に智さんと一緒にいたかったんです。明日には私達アーグラーだし、今日会えなかったらもうずっと会えないと思って……」

奈々は、そこまで言うと自分の手を智の手に絡めた。智には、もう、何が何だか訳が分からなかった。頭の中が真っ白になっている。奈々は、そのまま両手を智の背中に回していった。そして、焦点の合わない瞳で智の瞳を覗き込む。しばらくそのままの状態で二人は見つめ合っていた。すると奈々は、囁くように、智さん、と言って唇を近づける。智は、夢でも見ているかのように、そのまま彼女の唇を受け止めた。奈々の唇は、冷たく濡れていた。頭上で回る扇風機が、重なった二人の髪の毛を揺らす。ほつれた奈々の髪が、智の鼻先をくすぐる。

奈々の息遣いが荒くなっていくのが分かる。智は奈々の唇を吸った。奈々は呻き声を洩らす。智は、左手の手の平を奈々の右の乳房に伸ばし、そのまま軽く包みこむ。ブラジャーのレース越しに、柔らかな女の乳房の弾力が確かに伝わってくる。奈々は、一瞬身を固くしたが、抵抗することなくそのまま智に身を委ねた。荒い吐息と共に、奈々の舌が智の唇を割って侵入してくる。唾液と唾液の混ざり合うねっとりとした音が、扇風機の回る音によって掻き消される。二人の汗と汗が混ざり合う、と、その時、突然部屋の扉をけたたましくノックする音が響きわたった。二人は、驚いて反射的に体を放した。扉の向こうから大きな声が智を呼びかける。

「智さん、智さん、何やってんですか? ちょっと開けて下さいよ! 智さん!」

智は、一気に夢から冷めたのだが現在の状況がまるで呑み込めていない。自分の周りで何が起っているのかが分からない。奈々は、ただただ呆然としている。

「智さん、入りますよ!」

そう言いながら勢い良く扉を開けたのは、ヤスだった。その後ろにはゲンもいる。ゲンは、顔を真っ赤にしながら物凄い形相で智を睨みつけている。

「おい、おい、おい。一体、何をしてるんですか? やることだけは、いっちょまえなんですね。長く旅をしていて身につけたことってのは、こういうことだったんですか……」 ヤスが何を言っているのか、智には全く理解できなかった。ただ、自分に対して何か批判的なことを言っているということは、何となく分かった。そして智は、今までの人生でそうしてきたように、再び卑屈なおべっか笑いを浮かべて、何とか自分に対する非難を逸らそうとした。するとゲンが、一体、何笑ってんだよ! と、いきなり智に飛びかかってきた。隣にいた奈々は、きゃあ、と言って口を押さえて立ち上がる。ゲンは、物凄い力で智を押さえ込み、智の顔面に向かって拳を降り下ろした。

態度が大きくなって

ゲスト・ハウスのレセプションの前で、ゲンに出会った。奈々と一緒にいる智は、嫌な所で会ったなと思った。すると案の定ゲンは、二人が一緒にいるのを訝しみながら、よお、奈々、何やってんだよ、と言った。奈々は、別に、と言ってスタスタとゲンの横を通り過ぎた。ゲンは、チッと舌打ちをして、智の顔を睨みつけた。智は、笑ってごまかしながらその横を通り過ぎた。

「あの人達、ちょっと失礼ですよね」

奈々は言った。

「ああ、まあね」

何となく頷きながら智はそれに答える。

「最初に会った時はあんな風じゃなかったのに、みんなでマリファナを吸ったあの時から、いきなり態度が大きくなって。私の顔見る度にあんな調子なんです。もう、いい加減にして欲しいですよ。智さんに対しても、凄くひどい言い方とかしてたじゃないですか。だから私、もうあんまり関わらないようにしてるんです」

智は、奈々が自分に味方してくれるのは素直に嬉しいと思ったが、彼らに対して何も言い返せないでいる自分が、ひどく情けなかった。彼らを奈々達から遠ざけられないでいる自分自身が、とてももどかしかった。

二人は智の部屋に着いた。智は、扉にかかっている南京錠に鍵を差し込む。そして扉を開く前に、もう一度、奈々に手を出さないことを自分自身に言い聞かせた。そして大きく深呼吸をすると、ゆっくりと扉を開いた。

「どうぞ。部屋、汚れてて悪いけど……」

奈々は、部屋に入ると周りを見回した。

「わあ、私達の部屋に比べると、大分小さいですね」
「まあ、ね。あそこはベッドも二つあるし。でも、一人だったらこれで十分だよ」

頷きながら奈々は部屋の中を見回している。

「あっ、そういえば、奈々ちゃん達は、谷部さんに聞いてあの部屋にしたんだよね?」

部屋を見ていた奈々は笑顔で振り返りながら言った。

「そうでっす! 谷部さんに聞いたんでっす! 谷部さんが、まだ空いてるだろうから行ってみな、って言ってたので。来てみたら、実際空いてたんです。ハハハ」

そう言うと奈々は、勢い良く智の隣に腰かけた。そしてしばらく智の方を見つめると、俯いたまま何も話さなくなった。

静かな時間がしばらく続いた。相変わらず窓からは直射日光が強烈に差し込み、そのコントラストが部屋の暗さを強調する。遠くから、街の喧噪がかすかに聞こえる、ゆったりと、落ち着いた午後だった。

「智さん、奈々のこと、嫌いですか?」

唐突に奈々はそう言った。黒縁眼鏡の奥から、濡れた瞳がじっと智を見つめている。

「えっ?」

ガンガーに昇る朝日

奈々は、言葉では表しきれないもどかしさを全身で表現しながら、何とか必死にその素晴らしさを智に伝えようとしていた。

「ああ、俺もガンガーに昇る朝日は見たよ。確かに凄いよね。あんな景色は初めてだった」 智は、そう言いながらも奈々程には感動できていない自分に気が付いて、少し暗い気分になった。そして、もう一度その光景を見てみたいと、強く思った。

「そうですよね! あんなことが日常的に毎日繰り返されているなんて……。そんな風に思ったら、自分があれこれ思い悩んでいることなんて本当にちっぽけなことのように思えてきたんです。もっと楽しく生きよう、って思ったんです!」

奈々は自分よりもずっと先を行っているな、と智は思った。自分は、奈々の言葉を借りれば、ちっぽけなことであれこれ思い悩んでいる状態なのだ。そこからずっと抜け出せないでもがき苦しんでいる。それは、旅を始めて一年たった今も変わることはない。

「そっかあ。奈々ちゃん、それは凄くいいことだと思うよ。だって、日本にいる若い子達って皆そんな風に思い悩んでいる訳でしょ。そしてそこからずっと一生抜け出せないままの人だっている訳だ。いや、殆どの人がそうなのかもしれない。そして、自分からも他人からも、目を背け続けていく内に、何にも感じなくなって……。でも奈々ちゃんは、そんな自分を変えようと、リスクを背負って自分自身で旅に出た訳だ。そして、今までの自分を変えてしまうような何かを手に入れて……。そんなこと、誰にでもできるようなことじゃない。だから、それって凄く貴重で素晴らしいことだと思うんだ」

智がそう言うと、奈々は照れくさそうに微笑んだ。そして、はにかみながら、ありがとうございます、と言った。

しばらくして智が部屋に帰ろうとすると、奈々は、もう少しお話ししませんか? と智を引き止めた。しかし智は、干しっ放しで忘れていた洗濯物をどうしても片づけてしまいたかったのでそれを断って帰ろうとすると、奈々は、じゃあ、お部屋にお邪魔してもいいですか、と言う。別に断る理由もないので、智はそれを承諾した。しかし、いざ部屋に向かって歩き始めると、急に幸恵とのことが思い出された。

――― あんな状況にだけはならないように注意しなければならない。せっかく彼女は、インドまで来て自分にとっての真実を発見し、人生が変わるような経験を得られたんだ。それを俺がブチ壊すような真似だけは、絶対に避けなければ ―――   

奈々は、智のそんな心の内など全く知る由もなく、笑顔で元気に歩いていく ―――